エレン・ヴォクスホールは立ち尽くす。
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。
王国の悲願、魔道の心臓、エクス・インフェリスのリビルドは完全と言って良かった。何もかもが上手く行った。
帝国の魔道技術を結集し出来上がったそれは完璧に起動を果たした。感極まり涙を流すエレンと臣下達。
これで長きに渡る仮初の時を経て、真なる繁栄の日々に戻れるのだ、今日はなんと素晴らしき日か──しかし。
あれが出た。あの黒い手が現れた。無数の黒き手の群れが沸きあがる。
歓声が狂声に変わる。恐怖が場を支配する。誰も彼もが逃げ惑う最中ただ立ち尽くすエレン。
彼女の横を通り抜け次々と黒い手が逃げる者を掴み、エクス・インフェリスの下、地獄へと続くホールへと引きずり込む。
溢れ出した黒い手の群体は、大穴を囲う高き堤防すら乗り越えて近隣の町へと押し寄せる。
そして大通りから路地裏から家々から巻き起こる阿鼻叫喚。しかしエレンは立っていた、立ったま意識を失くしていた。
そして、再び彼女が意識を取り戻すと──そこには。
「なぜですか!何故わたくしめに罰をお与え下さらないのですか!」
翌日、玉座の下、母である女王の足元で床に額をこすり付けエレンは叫ぶ。
「顔をお上げなさい愛しい娘よ。そなたの責は我が責、過ぎた過ちは問いませぬ」
それよりも、と玉座を立ち、エレンの前に身を屈め、聖母の如き笑みで女王は優しく囁く。
「千の民は残念でしたが、あなたが無事で良しとせねば」
その慈愛に満ちた残酷な言葉は、彼女を決定的に追い詰めた。
「女王!」
頭を上げエレンは叫ぶ。
「千人の犠牲など捨て置けといわれますか女王!臣民あっての王家、それを守るのが帝国、そうではありませぬか母様!
何たる冷酷なんたる非情、それが王を継ぐ者の勤めと言われるのなら私は王位などいりませぬ!私は!私はッ!」
涙を流し、額を固い床に打ち据える娘。その姿を見下ろす女王の目は冷たく。
「今は身を癒しなさいエレン。その話はまた後で──ね?」
しかし、その口元に浮かぶ笑みは、奈落の穴のように深かった。
狼の娘・滅日の銃
第十一話 - ジェヴォーダンの獣 -
暗闇の中、唯一の女王は笑う。
「さて、どう転びますことやら」
民を想う故に行ったリビルドがあのような結末になるとは、彼女は思いもしなかっただろう。直前まで成功を盲信していた筈だ。
歓喜から絶望へ。自分の見立てに狂いがなければ、エレンはきっと。それを想うとアメリアは愉快で仕方が無い。
「エクス・インフェリス──ねえ?」
かつて王国の黎明期を支え、繁栄をもたらしたライン制御の要、魔道の心臓と称されたもの。
暴れ川たるラインを抑え、絶え間なく流れるべく設置された制御器。
力の源泉、ホールに設置され、流量を制御し力を効率的かつ安定して供給すべく創られたもの。
ポンプにして循環器にして制御器、魔道帝国の心臓──エクス・インフェリス。
「あと、リバーサル・シフトとか」
エクス・インフェリスが突如消失した事により引き起こされた悲劇。ライン反転現象。
東から西へ、カナメからヴォクスホールへ。源泉から奈落に。噴出から吸入に転じたホールに飲み込まれていくもの達。
王国臣民の約半数が犠牲になった忌まわしき事件。
──魔道の帝国よ。借り物の力でおごる事なかれ。
その影で暗躍したとされる伝説の客人、黒髪の魔女コクーン。
「──警告?そんな訳無いでしょう?」
リバーサル・シフトを転機に突如性質を変えたライン。
力の安定、再び繁栄を謳歌する王国。
「あの存在は本来の流れを戻したに過ぎません」
虚空を眺め女王は囁く。
太陽は東から昇り西に落ちるもの。それが自然の運行というもの。ラインも同じ。
西から東、ヴォクスホールからカナメ、それ自体が異常だったのですよ、と。
「そういうことなのですよ、エレン」
アメリアは暗闇の中で目を閉じ、目蓋の裏に遠い過去の情景を呼び覚ます。
「──そこは魔女達が暮らす隠れ里でもありました」
彼女は語る。誰も居ない暗闇の中、誰に聞かすでも無く、その伝承をとうとうと語る。
「──魔女、と言いましても空を飛ぶわけでも人を鼠に変える訳でもありません。
多少勘が良くて明日の天気が解かったり、占いが良く当たるくらいのもので、つつましくも穏やかに──」
その伝承の通り、かつてここは異能達が隠れ住む地だった。
その力を持つ故に常に迫害され、時に利用され、やがて追い詰められ。かろうじて生き残った者達は安寧を求めさすらう。
そして逃げこんだ最後の地がここだった。名も無き禁忌の地。
不思議な事にこの場所は異能達の力を弱め、ごく普通のヒトとして生活を送る事が出来た。
一方で異能の力を持たぬものは衰弱し命を落す、そういう場所だった。彼等は気付いた。この場所は力を吸い取るのだと。
この安寧はひと時に過ぎず、いつか自身の力が絶えた時、この身も朽ちてしまうのだと。
けれど誰一人離れる者は居なかった。つまり彼等はここで暮らすしかなかったのだ。
「──しかしある日、正真正銘本物の魔女が里に舞い降りました」
黒髪の魔女コクーン。遠き東の地より来訪した審神者。彼女を巡る三つの伝承。
ひとつ、地獄へと続く大穴を空け、多くの命を奪った悪魔。
ひとつ。大穴を使い侵略者の軍団を消し、王国の危機を救った英雄。
ひとつ。魔道の心臓エクス・インフェリスを奪い、リバーサル・シフトを巻き起こした元凶。
「──全ては後付けの話なのですよ、エレン」
信じ難い真実を受け止めるために後に作り出された伝承なのです、と女王は微笑む。
今となっては彼女以外誰も知らない真実。コクーンとは一体何であるのか。
アメリアは知っている。コクーンがラインと共にやってきた事を。
否、あの存在はラインそのものだと言う事を、そして。
「つまり──エクス・インフェリスなど、元々存在しなかったのです」
暗闇の中で女王は笑う。さも楽しそうに愉悦に浸り、口の端々を歪ませて。
「迂闊に手を出すから〈あれ〉が出たのです」
〈あれ〉──黒い手。
「あれはコクーンの黒髪。ホールに触れる者を奈落へと引き摺り込む防御機構」
黒い手は恐怖を喰う。あらかた食い尽くした後、抜け殻を吐き捨てる。
黒い手に人を構成する根源のひとつである恐怖を喰われた者は人の形を失いやがて異形となり果てる。
「エレン、羨ましいわ。意識が飛ぶ刹那、貴女は何を見たの?」
あれは人が容易くライン、それも源泉であるホールに触れぬよう意図的に付加された防御機能、
つまり白血球のような物なのだとアメリアは確信する。
何故ならあれはヒトの恐怖にしか反応しないからだ。
あの時エレンが難を逃れたのは、その黒い手を見た瞬間意識がシャットダウンするよう、
あらかじめアメリアによって暗示をかけられていたからに過ぎない。
「極上の恐怖を味わえましたか?嗚呼、わたしは貴女が羨ましい」
エレンは知っていたのだろうか。
この女は、恐怖の女王と揶揄されるアメリアは常に恐怖を渇望しているという事を。
恐怖?そう、恐怖だ。全ては恐怖なのだ。この女は恐怖を好むのだ。
「お前はどうでしたか?──〈C・E〉」
その瞬間、暗闇から手が伸びる。
伸びた手の先に黒い刺。その切先がアメリアの片目を貫く。同時に別の刺が暗闇より湧き出て彼女の喉元を裂く。
飛び散る血飛沫は眼前の暗闇に跳ね返り、それは返り血を浴びた黒いヒトガタを浮かび上がらせた。
少女の如き華奢な姿、けれど全身は硬き殻に覆われ、表皮から鋭い無数の刺を生やし、それらは女王の血で赤黒く染まって行く。
「お前は本当に上出来です」
片目を貫かれ、喉元を裂かれてもなお悠然と微笑む女王。
「今日まで調教した甲斐がありました」
その時、〈C・E〉の体を纏う無数の刺が突如切先を伸ばし女王の全身を貫く。
串刺しにされたアメリアはなおも笑みを絶やさない。
〈C・E〉の縫い込まれた口元が歪む。同時に突き刺した無数の刺が煽動し、次の瞬間、女王の身体が微塵に爆ぜる。
飛び散る肉片、ぼたぼたと暗闇に降り注ぐ紅い雨。浴びた血を拭おうともせず足元に散らばった肉塊を見下ろす刺人形。
「お前くらいのものです。わたくしにこの様な真似が出来るのは」
耳元で囁かれたその声に〈C・E〉は微動だにせず立ち尽くす。
「ですが」
ぼう、ぼう、ぼう、と浴びた返り血が輝き──燃え上がる。
勢いを増した火は業火となりて〈C・E〉を包み込む。
四散した肉塊も炎を上げ、燃え尽きる刹那〈C・E〉を包む業火に吸い込まれ、
なおも勢いを増した火柱は炎龍の如く渦を巻き黒きヒトガタを縛り上げ、そして。
「ちと戯れが過ぎますよ」
不意に炎が掻き消えれば、少女人形の胸元から伸びる長い腕。〈C・E〉を背中から抱き締める女王がそこに居た。
何事も無かったかのように、口元には相変わらずの微笑。
「まあ、こんなところでしょうか」
無表情の人形、縫い合わされた口の中、作り物の奥歯がギリッ、と軋む。
もし人形が言葉を発したのならこう言ったかも知れない──また殺せなかった、と。
「お前は極上の獣ですよ。愛しい子」
人形の中に居る物は、かつてジェヴォーダンの獣と呼ばれていた。
その名は十八世紀中盤、フランス旧ジェヴォーダン地方に現れた魔獣を差す。
狼に似た姿で、百人以上の人間を殺戮したと伝えられている。
牛などの家畜を狙わず主に女子供を選んで襲い、通常の捕食動物ならば足や喉を狙う筈が、
その獣に襲われた者達は一様に頭部を砕かれるか噛み千切られていたという。
その正体はオオカミか、ハイエナか、犬と狼の混種ハイブリッドウルフか、現在でも説は分かれている。
だが当時、ヴォクスホール女王だけはその行為の意味に気付いた。
獣は何故頭部を襲うのか。頭部には脳がある。脳は感情を発する。
感情の中で最も本能的で強いものは何か?それは恐怖だ。つまり頭部とは恐怖の源泉。あの獣はそれを喰うのだ、と。
「お前は、元を辿ればあの黒い手、その一柱ですからね」
コクーンがリバーサル・シフトを起こしたあの日。
排出から吸入へと反転したホールから湧き出た黒い手は数多くの臣民を捕らえ喰い散らかした。
しかしその中で一柱、とびきり貪欲なものが居た。
喰っても喰っても満たされないそれはひたすら獲物を追い求め、穴の中に戻ろうともせずいつしかラインから抜けこの地から消えた。
当然誰もがそれを忘れていた、しかし。
長き時を経て、遠き地ジェヴォーダンでそれは捕獲された。奇しくもヴォクスホールの手によって。
最初はそれをあの黒い手だとは女王以外誰も気付かなかった。
恐怖を喰う何かがいるらしい、ならば罠を。と精巧な一体の少女と見紛う人形を用意し森の中に放置した。
魔道技術を用い作られた人形は、頭部に人の脳に似た核を仕込み、大脳辺縁系扁桃体を模した部位より擬似的に恐怖を発生させ、
その人形はさながら狂った少女のように一晩中森の中を駆け回る。
翌朝、その人形は捕獲された。
人形の傍らには若い女が倒れていたという。しかし女の頭部には大きな傷跡があった。
恐らく──と捕獲を担当したヴォクスホール高官は語る。
被害者全ての遺体を検分しておりませんので推測に過ぎないのですが、
もし時系列ごとに遺体を並べその傷口を見比べればある事実が判明する事でしょう。
傷口に着いた歯型と照らし合わせれば一体一体が連鎖している、と。
つまり加害者は前の被害者なのではないでしょうか。彼らに寄生した何らかの宿主が体を操り、次の寄生先を襲わせる。
その目的は──恐怖の摂取。
そのような事を想像出来る学者や医師が、かの国や地元に居るとは到底考えられません。端から狼の仕業だと決めておるようですからね。
それを妄信と責めるつもりは毛頭ございません。おかげで我々は貴重な素体、その宿主を手に入れる事が出来たのですから。
そして高官は、うやうやしく女王の前で棺桶を開ける。その中には動きを封じられてもなお痙攣を繰り返す人形。
それを手で示し、こう告げる。
その宿主は、この人形の中におります。
中の存在が喰らったもの、それが消化されるのでは無く蓄積されるのなら、これから私達は何を見るでしょう。
それが楽しみでなりません──翌月この高官は、発狂したという。
「わたくしが憎いですか?〈C・E〉」
ぞぶり。背中より生えた棘がアメリアを再び貫くも彼女はその手を離さない。
「憎みなさい。でなければ精製の意味がありません」
微笑むアメリアの脳裏に浮かぶ光景。
幼き娘を我が胸に抱き、心躍らせ地下へと降りる。
大穴より王宮地下へと引かれたバイパスの先端、そこで自ら手を下し行なったジェヴォーダンの精製。
──ほら御覧なさい。あれが獣ですよ。
分厚いガラス窓の向こうにあの少女。少女の形を模した自動人形。
バイパスへと続く重い扉の前で鎖に繋がれ力なくうなだれる姿は背徳的で、隠微で、胸の高鳴りさえ感じた。
──さあ、バイパスを開きますよ。
重い扉が轟音と共に開かれる。溢れ出る光の奔流。一瞬のホワイトアウト。
視覚が戻れば先ほどまではいかないまでも光は泉の如くこんこんと周囲を照らし、
あの少女人形はいつのまにか鎖を解かれ、その場に伏せたまま身じろぎひとつせず。
──あれが、黒い手です。
娘に促し視線を送れば光の泉、その淵から次々と沸き出でる無数の黒い手。
それが少女人形の傍らに寄り、その未だ動かぬ肢体を舐めるように撫で上げる。
──良く御覧なさい。黒い手が獣を襲います。
そして、黒い手のひらが大きく開く。そこには口があった。口からは鋭い牙が生えていた。
それを肢体につき立てた瞬間、突如扉が閉められる。
光の泉が消え、根元から切り離された黒い手は一瞬行き場を無くしたかのように少女人形から牙を離す。
その時、突然跳ね上がる肢体。
──あの獣はね、ジェヴォーダンという場所で見つけたの。
その姿はまさしく獣だった。獣としか例え様が無かった。あの身じろぎもせず壊れた人形の如き姿は既に無い。
二本の腕と二本の足を地に付けバネ巻くように力を貯め不意に跳躍、扉の閉じた箱の中を縦横無尽に駆け巡り、獲物目掛け着地する。
そのまま黒い手を、四足の如く腕と足の指で掴み口元に運び、引き千切り噛み砕きそして喰らう。
その姿を目にし微笑むアメリア。もう人形ではない、この中に封じたものは少女のヒトガタを遂に己の身体としたのだ。
その姿は獰猛な魂を宿す一匹の野獣だった。
──ジェヴォーダンの獣はね、女子供しか襲わなかったの。何故だと思う?
その獣はかつて恐怖を喰っていた。恐怖を糧としていた。
──それはね、とても美味しいから。その恐怖は、原色だから。
しかし今は、その身を守るために黒い手を食う。
──でも今食べるものはこれしかないの。だからしょうがないわよね?
その時、鼻先をつん、とした匂いがかすめる。
元を辿ればその匂いは、分厚いガラス窓の向こう側から漂っているのが感じられた。
──ああ凄い!さしもの黒い手も獣の前ではただの餌!怖い!恐いわ!
目を見開き爛々と眼光を湛え、我を忘れつい嬌声を上げる。
恐怖を、もっと恐怖を。我はこの身体と引き換えに恐怖を亡くした。故に恐怖を欲す。極上の恐怖を、原色の恐怖を。
嗚呼、我を恐れさせておくれ愛しき獣。その為ならば何度でも何万回でも黒い手を食わせてやる。
お前にはもう恐怖は食わせない。恐怖を与えるものを食わせてやる。我に恐怖を与える為に。
「よくぞここまで育ちましたね」
ぼう、と女王を貫く棘が燃え上がる。一瞬で灼熱と化した棘は、消し炭となり崩れ落ちた。
「憎みなさい、そして、もっとわたくしを恐がらせて?ねえ?」
その獣は幾万にも渡る精製を経て、やがて地上に上がり女王の傍に控える事を許される。
しかしその眼には、明らかに憎悪の光が見て取れた。そして視線は常に女王へ注がれていた。
既にあれはジェヴォーダンの獣では無くなっていた。かつて黒い手の一柱、その本質でさえ消え失せた。
既に獣は、恐怖を喰らうものではなく、恐怖を与えるもの、それを喰らう物へと変貌を遂げたのだ。
誰かが言う──女王の番犬?とんでもない!あれは女王を喰らうべく虎視眈々と狙う眼だ。
何の事は無い、あれは番犬として傍らに置いたのでは無い、つまりは調教だったのだ。
女王は恐怖を与え放つもの。その喉笛に噛み付き喰らうようあの獣を傍らに置き、目の前に餌をちらつかせ、飢えさせ、調教していたのだ。
女王はこの獣に、いつの日か自分より極上の餌を喰わせるべく〈C・E〉の名を与えたのだ。
Eとは即ちEATER──喰らうもの。ならばCは──言わずもかな。
「更に美味なる餌をお前に。それが約束ですものね──〈C・E〉」
こくり、と人形は頷いた。
■
絶望に打ちひしがれ、悔恨に押し潰され、遂に彼女は決意する。
その夜、エレンは独り、王宮地下に秘される魔道師団保管庫の扉を開けた。
鼻を突く異臭、明かりを灯せば、広大なヤード狭しと置き捨てられた異形達。
あの時、彼らは完全には呑まれてはいなかった。伝承の通り大穴の回りに敷き詰められた骸の山。
そう、最初は確かに骸だった、しかしそれはやがて立ち上がる。
そして口々から苦しい、痛いと言葉を発しその身体は、徐々にではあるが人の形を失いつつあった。
彼らを前に施術師たちは首を振る。もう、どうにもなりません、と。
そして彼女は服を脱ぐ。剣を手に一糸纏わぬその肢体を異形達の前にさらけだし、語る。
「許せとは言わぬ。異形に成り果てた者どもよ」
かつて人であった者達に彼女は告げる──許しは乞わぬ。ゆえに抗いはせぬ。
我を食うがいい。この身を喰らい現世復帰の糧とせよ。信じずとも良い。だが聞くが良い。
「我はお前たちを、いえ、私は未だあなたたちを──愛しておりますよ」
そして彼女は、剣先を己の喉元に突立てる。一息に力をこめようとしたその時。
──姫! 姫様! 姫さま! ひめさまぁ!
その時、エレンの足元で響き出す彼女を呼ぶ声、声、声。
──姫、御願い申し上げます、せめて御身のお手で、なにとぞ、何卒!。
──姫様、慈愛溢れる我らが姫様、せめて貴女のお手で、ああ姫様!
──姫さま、後生ですじゃ、お頼みもうす、お頼みもうす!
──ひめさまぁ、くるしいよ、ひめさまぁ……。
かろうじて人の心を保っていた彼らは、エレンの足元にすがりつき懇願する。
彼女は何も言わず、ただ頷いて剣を降ろし、その切っ先をさくり、さくりと異形達の心臓に刺して行く。
丁寧に優しく、苦しまぬように鋭く。一突きごとに彼女の頬を伝う涙、こぼれ落ちる涙、涙、涙。千回の後、それは全て枯れた。
胸を突かれた異形達は、うやうやしくエレンの手に口付けた後、次々と彼女の影の中へ消えて行く。
彼らもまた、彼女を心から愛していた。己の胸に剣刺す時、流した涙は忘れない。
同時に悔やむ。あの時、最愛のはずの姫、それを置き逃げ出した己の愚かさに。
そして願う。今一度の機会を、次こそは盾となる。姫を守る剣となる。
そして喜ぶ──その時が来た、と。
やがて一人残された彼女。枯れ果てた涙の筋を拭いもせず、エレン・ヴォクスホールは誓う。
──ならば共に、一千の従者よ。千人の犠牲は、万人を生かす為に。
翌朝、接見の席で女王に彼女は告げた。
「御願い致したき議がございます」
アメリア・ヴォクスホールはエレンを一目見て、口元から微笑みを消す。
「言え」
玉座より冷厳に告げる女王。
「私にVの号をお刻み下さい」
告げる彼女は既に慈悲深き姫では無かった。焦燥に歪む瞳は既に消え失せた。
「王位を捨て覇権を欲すか」
「否」
「ならば如何する」
枯れ果てた涙腺、女王すら射抜く視線。打ち立ての鋼の如き眼光を湛え彼女は告げる。
「これより私は影へと下がり、千の弔いの為万の敵を討ち果たす所存、何卒」
凛と見上げる顔に宿る血塗れの意志。
そして足元に蠢く深い影を認め、満足げに頷く女王。
その刹那、一陣の風と共に玉座より姿が消え、羽根のようにふわりとエレンの眼前に舞い降りるアメリア。見れば手に一振りの宝剣。
ひゅんと風を切り切先が消え、目も止まらぬ速さでエレンの着衣、その胸元を切り裂き、露わとなった胸の谷間に、剣の先で一文字刻む。
その文字の形──V(ヴィー)。
■
「これにて──仕上げは完了」
暗闇の中で女王アメリアは微笑む。
千の犠牲でVが手に入るなら安いものだと。
「本来ならばあの男に渡し、大きな混乱をと想いましたが」
混乱を。秩序の為の混乱を。ひとえに全て安寧の為に。ヴォクスホールはその為に存在する。
混乱が大きければ大きいほど、後にもたらされる秩序は揺ぎ無きものとなる。
ヴォクスホールとドリフターが拮抗出来うるのならば、その緊張は秩序を腐らせぬ為の良き流れを生む。
「残念ですが。仕方ないわよね?」
〈青〉副団長よりの報告──かの者の意志、揺ぎ無き。
さもあらん、と女王は想う。そうでなくては、とアメリアは笑う。
元より承知。ならば滅ぶが良い老いた狼よ。喰われるが良いあの娘に。
そうでなくてはならぬのだ。これより起こる混沌と混乱、その為にお前にギフトを贈り、今日まで生かし続けてきたのだから。
「ですがまあ、これはこれで良しですわね」
自分が持つVの号をエレンに渡した事で、彼女はエレン・V・ヴォクスホールとなった。
女王執行権すら併せ持つV──魔道師団軍団長は、この先、歪んだ権力を大いに行使してくれる事だろう。
あの優しさ、民への想い。その大義名分は彼女を縛る鎖となってその身を削り、傷付け、大いに熟成を進めるだろう。
ともすれば自分では到底出来うる筈も無かったカナメへの侵攻すら行うかも知れない。
その意味を考えず、黒き魔女コクーンの喉元に切先を突き付けるかも知れない。
自分には出来ない。出来得るものか。あの存在の正体を知る自分にはとても。
「嗚呼、愛しき常世の君。あなた様はなんと恐ろしいのでしょう」
唯一の女王アメリア・ヴォクスホールは惚けた顔で、遠き地に座す絶対無比なる存在を想う。
「あなた様のために、極上の贈り物を用意してございます」
パン、と彼女が手を打ち鳴らした瞬間、暗闇に光が灯る。
一斉に点灯する照明、そして明らかになる全貌。
王宮地下に秘される広大なヤードに居並ぶ鋼を纏う数万の兵。
魔道師団。一騎当千を現実に遂行するひとでなしのレギオン。
物言わぬ戦いの犬共。果てさえ見えぬヤードを埋め尽くし身じろぎ一つせず居並ぶ兵達。
彼等は勅命無くして動かない。纏う鎧は単に身を守るだけで無く、ラインからの供給を受ける動力源でもあるのだ。
故にあの中に潜むものどもはその時まで目覚めない。勅命が下り、鎧に仕込まれた転送バイパスが開き、
供給が開始され魔道機関に火が灯り、アクチュエーターが解放されたその時、一騎当千の兵と化す。
それまではひたすら眠る。まだ人であった頃の夢を見ながら。
誰が知ろう。その中に居る者達こそ、リバーサル・シフトの犠牲者、抜け殻の異形に成り果てたかつての王国臣民であるなどと。
女王はただ一人、王宮地下の魔道師団本拠地、その広大なヤードを一望する謁見所に立ち、
勅命と言う名の鎖に繋がれた化物達、物言わぬ軍団を冷厳に見下ろす。
「我が愛しき常世の君。これらに匹敵するものをお贈り致します」
すう、とアメリアが手を伸ばした瞬間、ヤードの中空に浮かび上がるホログラム。
映し出されたものは黒き巨大な塊だった。その中央にあの獣〈C・E〉の顔があった。
「〈C・E〉──コクーン・イーター。あなた様を喰らうその為だけに作り出したモノです」
ぞるり、ぞるり、と黒き塊が蠢く。それは黒い手だった。
人形に纏わりつくものは、黒い手の群れだった。それは──人形の四肢より生えていた。
「数万回あなた様の黒髪を喰らい、遂にこの日を迎えました」
お気に入り頂けると嬉しいですわ、とアメリア・ヴォクスホールは微笑む。
──ねえ行っちゃうの?
笑顔の奥で、遠き日の情景が浮かび上がる。去り行く彼女の裾を掴む小さなこの手。
──帰らねばお前たちの身を危うくする。
幼子の声に彼女は答えた。黒髪の魔女の声は相変わらず抑揚が無く、やはり無表情。
──おねがいきいて黒い魔女さま。
──お前は何を願う。
──わたしあなたになりたい。
──お前は失うぞ。
──なにをうしなうの?いいよ、わたしにはなにもないもの。
その幼子は孤児だった。光を放たぬ暗い瞳をした金髪の小さな娘がそこに居た。
それは娘の意志だったのか、この地にあの存在を留まらせようと懇願するもの達が差し出した贄だったのか今となっては誰も知らない。
しかし娘の瞳の中には確かに虚無が宿っていた。
──お前の名は?
──アメリア。
そうか、良い名だ。黒髪の魔女は薄く微笑む。そして娘の額に手を置き、囁く。
──ならば見るがいい。お前に理解出来るなら。
その瞬間、娘の視界が闇に落ちる。
気が付けばあたり一面の黒。しかし目を凝らせば小さな光が無数に見えた。
やがて光の一つが徐々に近付き、突如視界の全てを覆う。光ではなかった。光を反射し輝く青いものだった。
その青はきっと海、そして所々に緑、その緑が急速に迫る。違う、これは今まさに自分が堕ちて──暗転。
眼を開けた時、頭上に青空が広がっていた。遠くより取り囲むは深き山々。自分は広い原野その只中に一人立っていた。
足元に黒い岩。この身体を高く飛ばし自分の居た場所を宙より眺める。
いくつもの山々が崩れ去り出現した平地、その中心に巨大な黒い──暗転。
そして活動を始める。
要岩から発した金色の線は天に昇り緩やかな放物線を描いて遠き地に落ち地の中を巡り再び岩にたどり着く。
やがて安定を遂げ金色は失せ透明な力の奔流となって循環を開始する。ラインの完成。
やがてヒトと呼ばれるキャストが生まれ──暗転。
長い眠りから覚めた時、地にはキャストが溢れていた。
メンテナンスも兼ねラインの落ちる遠き地へ降り立つ。そこのキャスト達はラインの力を受け変容しつつあった。
今後の影響を考えガス抜きを行う。バイパスを開ける。安定した。では帰ろう。留まり続けてはラインの運行に支障を来たす。
そのとき服の裾を掴む小さき手、幼き娘。瞳に虚無を宿した自分──
──ではお前にラインの管理を委任する。
眼を開ければ草原の只中に娘は一人立っていた。黒髪の魔女は、既にいない。
──しかしゆめゆめ驕るなかれ。私はいつも見ているぞ。
けれど耳元で囁かれた彼女の声に娘は頷く。そして気付く。この身に何かが宿った事に。
──ありがとう!黒い魔女さま!このお礼はッ!
澄み切った青空に向け娘は叫ぶ。頭上から降り注ぐ彼女の声。
──たまにで良い、美味なる馳走を届けてくれ、では。
遠き声は、空の彼方に消えた。
「ああ、常世の君、我が愛しき黒い魔女さま。これで終わりではありません。我が娘も晴れてこちらへ堕ちました。
いずれ熟成し、美味となったその時あなたの元へお贈りします。ああ、とわにお慕い申しますコクーン。全てはあなたへのギフト!」
あの狼の娘でさえも、と女王は微笑んだ。
■狼の娘・滅日の銃
■第十一話/ジェヴォーダンの獣■了
■次回■第十ニ話「おとうさんだいすき」
※おまけェ
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