七年前のことだ。
目がものを見るものだと理解し、口が言葉を発するものだと理解し、自分に向けられる感情をただ受け止めるしかなかった、かつての記憶。
部屋のなかで虚ろに天井を見上げる俺の周囲に、大勢のニンゲンの気配を感じる。
周囲を取り囲む見慣れないオトナの群れが、意味も取れぬささやき声を交わしあう。
誰も俺と視線を合わせようとしない。誰も俺に言葉をかけようとしない。誰も彼もがただ一方的に嘆き、その悲しみをぶつけて来る。
目でものを見ることができず、口で言葉を発することもできず、自分の感情を伝える術すら持たなかった、かつての記憶。
たった、七年前のことだ。
Tales of the Abyss
~家族ジャングル~
「これは……」
「あの一撃の中を……生き残ったのね」
鳴き声に引き寄せられ、イオンとティアが目を見開いて巣の中に視線を注ぐ。
「女王様の子供ですの」
「なるほど。女王の忘れ形見ですか」
ミュウがどこか哀しげに耳を垂らし、大佐が興味深そうに巣の中を覗き込む。
「……」
そして俺は無言のまま、巣の中で啼くライガの子供と見つめあう。互いの視線は強く絡み合い、瞬きすらせずに、ただ顔を合わせ続ける。
視線を合わせている間、俺は無言のまま問い続けていた。
一緒に来るか?
俺の意志が通じているのかはわからない。それでも、俺はこいつに対してケジメをとらなければならなかった。それはこいつが当然のように受けるはずだった親からの愛情を奪った者として当然の責務であり、なにより俺が俺である為に、譲れない一線だった。
ライガの子供はその間、俺の瞳を不思議そうに見つめ返していた。
しばらくすると、ライガの子供は卵の殻を踏み越え、よろよろとした足どりながらも、俺の下へと必死に近づこうとする。鳴き声の種類も、それまでの親を探し求めるような哀しげなものから、親に甘えるようなものへと変わり、俺に向けて鳴き始めた。
「……そうか」
俺は巣の中に手を伸ばし、ライガの子供を抱き上げる。特に抵抗するでも無く、ライガの子供も俺のされるがままに任せていた。ただ他者の温もりを感じたことに安心したのか、これまでのように鳴くのを止めた。
「ルーク。あなた……どうするつもり?」
なぜ、殺さない。
言葉の裏に秘められた詰問に、俺は毅然と顔を上げる。
「決めたぜ。こいつは、俺が連れていく」
注がれる視線を見つめ返し、俺はいっそ清々しいまでにきっぱりと宣言する。
「今この瞬間から、こいつは、俺の家族だ」
本気なのか。
その場にいた誰もがその顔に疑問を浮かべた。
確かに今の俺は、正気じゃありえねぇぐらいに、ぶっ飛んだ考えをしているんだろう。俺自身も魔物の子供を引き取るだなんて話を他人から聞かされたら、それこそ狂気の沙汰かと笑い飛ばしただろう。
だが、今の俺はそんな狂気の沙汰を冒すぐらいには、頭の配線がブチ切れているようだ。
「こいつのおふくろさんや兄弟連中を殺したのは、俺達だ」
俺は他の誰でもなく、イオンと視線を合わせる。イオンの顔色が明らかに青ざめる。
「ルーク。僕は……」
「だけどよ。仮に俺達が森に来ないで、放っておかれた全ての卵が孵化していたとしてもだ。ライガの大群にエンゲーブが襲われるような事態になったら、そんときは軍が動いただろうよ」
イオンから、まさにその軍人にあたる大佐に視線を動かして、確認する。
その通りですね、と大佐はあまり興味なさそうに、事も無げに肩を竦めて見せた。
「なら、こいつ一匹にしろ生き残った今の状況は、そう悪いもんじゃねぇ」
一匹ならどうとでもなるからな、と自分でも悪人じみた言葉を付け加える。
「それでも、さすがにこのまま一匹で放って置かれたら生き延びられねぇだろうし、誰かが面倒見てやる必要がある。しかしよ、そんな酔狂なことするような馬鹿が、居ると思うか?」
当然、誰も俺の問い掛けには応えない。
退化した翼の様なものが生えた背中を撫でると、ライガの子供は気持ちよさそうに喉を鳴らす。俺はそんなライガの様子に微笑むと、ついで唇をつり上げ周囲を睥睨する。
「そうだ。居ない。そんな馬鹿は他に居ない。それこそ、底抜けの馬鹿である俺ぐらいのもんだ。だから俺が育てる。それ以外にどうしょうもない。なら、俺はそうするだけだ」
簡単な話だろ? 嘲笑う俺に、ティアが硬い表情で問い詰める。
「あなたは……本気でそんなことができると思ってるの?」
「思ってる」
刹那の逡巡もなく頷き返し、俺は真っ正面からアイスブルーの瞳を射抜く。
「なにせ俺は甘いからな。胸焼けするほどの甘ったるさで、せいぜいこいつを包んでやるさ」
「──私はっ!」
当てつけるような俺の言葉に、ティアが俺の方に一歩詰め寄る。
立ち上る怒気が目に見えるようだが、俺とてここで引く気はない。
ライガの子供が人を好む? それがどうした。人間だって肉は喰うんだ。肉が欲しいなら、獣の肉を用意してやればいい。魔物を引き取るなんて非常識だ? 非常識で結構。俺に常識を求める方が間違っていると返してやるよ。
睨み合いの裏で展開される思考の鍔迫り合いに、二人の間を険悪な空気がただよい始める。今にも罵り合いの口火が切られようかという、そのとき。
ぱんぱん、と手を打ち鳴らす音が周囲に響き、俺達二人ははっと息を飲む。
「はいはい。とりあえず、ルークさんがライガの子供を引き取るということで一件落着。お二人とも言い足りないことはあるでしょうが、その辺りのことは、後ほど時間のあるときにでもお願いしますねぇ」
絶妙なタイミングで割って入った大佐が、にこやかに告げる。
人を食ったような言葉に、熱くなっていた俺達も、なんだか馬鹿らしくなってきた。
「あー……まあ、そういうことだ。これからもっと迷惑かけることになっちまうとは思うが……すまねぇな、ティア」
いつものような調子に戻って頭を下げる俺を、ティアはしばし黙り込んだまま睨んでいたが、最後には硬い表情を崩して、ため息をつく。
「ふぅ……どうなっても知らないわよ」
二人の間に弛緩したような空気が流れかける。
「でも、これだけは覚えておいて……」
誤魔化しは許さないと、俺の双眸をティアの不思議な色を宿した瞳が射抜く。
「そのライガの子供が人を襲うようになったら、そのときは……」
「ああ、俺が始末をつける。……といっても、そんな奴には俺が絶対にさせないがな」
にやりと悪党の顔で笑う俺に、ティアが俺にも聞こえないような声音で微かに囁いた。
「……本当に……優しいのね」
「ん? なんか言ったか?」
「いえ……なんでもないわ」
寂しそうに微笑むティアの様子が気にならなかったと言えば嘘になるが、なにはともあれ彼女も認めてくれたようなので、俺は安心した。
腕の中で目を閉じる女王の忘れ形見を撫で上げながら、不意に俺は自分の両手が塞がっているという物騒この上ない状況に気付く。
どうしたものかと考えて、ひとまず仔ライガを頭の上に乗せることに決めた。
「よっと……あ、すまねぇ」
突然持ち上げられたことにビクリと身体を震わして、仔ライガは随分と驚いた様子だった。だが頭の上に乗せてやると、すぐに俺の無駄に長い髪の感触が気にいったのか、自分の居心地いいように形を整え、再び寝息を立て始める。
うっ、なんていうか、女の子とはまた一味違ったグッと来るものがあるというか。ともかく、
『か、かわいい……』
「ん?」
「……」
一瞬俺以外の声が重なって聞こえた気がしたが、気のせいか。
ともあれ、微笑ましい寝息を立てる子ライガにとろける俺達を余所に、イオンが気まずそうな様子で大佐に歩み寄るのが見える。
「……ジェイド。すみません。勝手なことをして」
「あなたらしくありませんね。悪いことと知っていてこのような振る舞いをなさるのは」
「チーグルは始祖ユリアと共にローレライ教団の礎、彼らの不始末は僕が責任を負わなくてはと……」
「そのために能力を使いましたね? 医者から止められていたでしょう?」
「……すみません」
「しかも民間人を巻き込んだ」
どうもお説教が俺達の件にまで飛び火したようだ。
最初は特に口も挟まず大佐の説教を聞いていた俺だったが、さすがに黙っていられなくなって口を開く。
「俺達のことなら巻き込んだとは言えねぇよ。イオンとは森で偶然会ったんだからな。イオンも素直に謝ってることだし、いつまでもネチネチ言ってねぇで許してやれよ、ロンゲの大佐」
「おや。巻き込まれたことを愚痴ると思っていたのですが、意外ですねぇ」
大佐がわざとらしい動作で目を見開くが、ついで俺が頭の上に乗せる女王の子供を見て、どこか納得したような顔になって頷く。
「まあ時間もありませんし、これぐらいにしておきましょうか」
「親書が届いたのですね?」
「そういうことです。さあ、とにかく森を出ましょう」
なにを話しているのかはわからなかったが、ともかく森から出ることになった。
ぞろぞろ歩き出す俺達に、ミュウが慌てて俺達の正面に駆け込む。
「駄目ですの。長老に報告するですの」
耳をくるくる回しながら訴えるミュウに、ジェイドが眼鏡を押し上げる。
「……チーグルが人間の言葉を?」
「ソーサラーリングの力です。それよりジェイド。一度チーグルの住み処へ寄ってもらえませんか?」
一瞬考え込むような間が開いたが、すぐにジェイドも頷いた。
「わかりました。ですが、あまり時間がないことをお忘れにならないで下さい」
言い含ませる大佐に、イオンも真剣な表情で頷く。
……時間がない、か。
さっきから二人の会話を聞いてると、その単語が頻繁に上がる。導師程の人物があんなに少人数で移動してるのは、そこらへんに答えがありそうだ。
しかし、なぜ導師が行方不明なんて、ガセネタが流れてんだろうな。師匠が呼び戻されたことから考えても、教団上層部にまで浸透してるようだし。いったいなにを警戒しているんだ、こいつらは?
なんともなしに俺が考え込んでいると、イオンが俺の隣に寄って来る。
「ルーク。さっきはありがとう。そして、あなたの決断に敬意を……。あと少しだけ、おつきあい下さい」
どこまでも律儀なイオンに、俺は苦笑が浮かぶ。俺みたいなチンピラにそんな言葉はもったいないが、それでも言われて悪い気はしない。
「ま、乗りかかった船だ。最後まで付き合うさ」
イオンもそれに微笑を返してくれた。
洞窟を去る直前、最後に一度だけ俺は背後を振り返る。
洞窟の中心付近に残された黒い染みを見据え、道半ばで逝った女王の冥福を祈る。
頭の上で身を捩る女王の子供が、そうした俺の行為が偽善にすぎないと責めたてるかのように、どこか物哀しい啼き声を上げた。
* * *
長老に事態の報告を終えた俺達は、森の出口に向かった。
長老に感謝の言葉を述べられたイオンは、しかし俺が頭の上に乗せる女王の忘れ形見の存在に、複雑な表情を浮かべていた。
そして話がどう転んだのかいまだによくわからんが、なぜかミュウが俺についていくことになった。
ライガ達が森を追われた原因がそもそもミュウの悪戯に吐いた炎にあると判断して、長老は森から一年の間ミュウを追放すると宣言した。そして、なぜかその間、俺に仕えろなどと言ってきたのだ。
正直、女王の子供だけで手が一杯だと断ったんだが、結局押し切られてしまった。
なんでも命の恩人である俺の役に立ちたいんだそうだ。そんなことしたか? と本気で首を傾げる俺だったが、ミュウは何度も何度も俺についていきたいと頼んできた。
決め手となったのは、ミュウが女王の忘れ形見のお世話もしたいと告げたことだ。
……さすがに、今回の事態の原因として、考えさせられるものがあったんだろうな。
ともかく、ミュウは俺について来ることになった。がんばりますの、と小さい身体に気合たっぷりの様子で、俺の助けになろうと意気込んでいる。
正直あんま役に立ちそうにないがな!
頭の中で結構ひどいこと考えながら歩いているうちに、とうとう森の出口が見えて来る。
「ん? あの子おまえの護衛役じゃないか?」
「はい、アニスですね」
こちらに向かって元気よく手を振る不気味人形少女ことアニスの姿があった。
そう言えば大佐とヒソヒソ話してたところまで居たのは覚えているが、そっから後は居なくなってたっけな。別行動してたのか。
「お帰りなさ~い」
イオンの下に嬉しそうに駆け寄って来るアニスに、俺はロの字ではないが、なんだか微笑ましくなる。
そんなアニスの後から、無骨な鎧の擦れあう音が無数に響く。どうもジェイドの部下達が一緒のようだ。イオン達も無事合流できたようだし、そろそろ別れ時かね。
しかし、これから女王の子供をどう育てたもんか。大いに悩みどころだ。魔物なんざ育てたことないが、どっかに育成本とか売ってねぇーかなぁ。それに屋敷の連中はビビルだろうな。こんな小さくても魔物だし、チーグルみたいに聖獣扱いもされてないからなぁ。
ま、バチカルの悪ガキどもは、むしろライガの方に喜びそうだがな。
そんな呑気なことを考えていると、不意に肌が突き刺す様な気迫──殺気が全身を貫く。
『……なっ!』
現れた十数人にも及ぶ軍人達は、突然俺とティアを包囲すると、一斉に武器を構えた。
「──ご苦労様でした、アニス。タルタロスは?」
「ちゃんと森の前に来てますよぅ。大佐が大急ぎでって言うから特急で頑張っちゃいました」
取り囲まれた俺達を余所に、あくまでも大佐とアニスはこれまでと同じような調子で掛け合いを演じている。
「大佐、あんた……どういうつもりだ?」
「そこの二人を捕らえなさい。正体不明の第七音素を放出していたのは、彼らです」
静かながら有無を言わせぬ口調で指示を出された兵隊どもが、俺達二人ににじり寄る。
「ジェイド! 二人に乱暴なことは……」
「ご安心下さい。何も殺そうという訳ではありませんから」
にっこり笑って、大佐は続けた。
「……二人が暴れなければ」
最後の一言で凄味を増した大佐の眼力に、女王を一撃で葬った譜術が思い起こされる。
あの一撃は、やばい。
額に冷や汗が浮かぶ。あの術が放たれた瞬間感じた威圧感は、ヴァン師匠クラスだった。そんなこいつに俺が勝てるとは思えんし、なにより部下の軍人どもが周囲に居やがるのだ。
俺とティアは互いの顔を見合わせると、互いの認識を確認し合った。
この悪魔に、抵抗は無意味。
両手を上げて大人しく拘束される俺達に、帝国の悪魔は聞き分けのいい園児を褒めるような口調で告げた。
「いい子ですね。――連行せよ」
半ばだまし討ちのような拘束に、普段の俺だったら後先考えずに抗ったんだろうな。しかし、今の俺はそんな無謀に身をまかせようだなことは到底考えられない。
連行されながら、ティア、女王の子供、ついでにミュウを順に見やり、ため息をつく。
ひとりじゃないってのは、やっかいなもんだよなぁ……ガイ。
当然、あいつがこの場に居るはずもなく。
呼び声は虚しく、木立の中へと消えた。