「────ク。ルーク。起きて、ルーク」
「うっ……」
肌を舐める冷たい空気の流れ。頬にあたる青臭い草の感触。
茫洋とした意識が焦点を合わせ、促されるまま身体を起こす。
「──気がついたのね、よかった」
すぐ目の前で微笑む美人さんが居りました。
「…………っ」
俺は二の句も告げられぬまま、呆然とその笑顔に魅入る。
そんな俺の無防備な反応をいったい誰が責められようか!
いや、誰も責められんと俺は断言しますよ!!
……というか、どっかで見た顔だな。
いまだ霞がかった意識のままじっと彼女を見据える。
すると、姉ちゃんはすぐに微笑を消して、どこか作った様な無表情になった。むぅ、残念。
視線を相手の顔から全身に移す。流れるような長髪にスリット入った黒服。細身ながら鍛えられた四肢は軍人のそれだ。
ついで胸部に、信じられん程たわわに実った果実が二つばかり、視界に入、る……ん?
「って、うぉっ! 暗殺者のチチの姉ちゃんかよ!」
一瞬で蘇る直前の記憶。師に刃を向ける襲撃者の姿。思わず仰け反り、逆手にブリッジ。
ゴキブリの如くしゃかしゃか両手を動かして盛大に相手と距離を取る。
「暗殺者の父……?」
俺のちょいとばかり錯乱した発言に、姉ちゃんは意味がわからないと小首を傾げた。
ぐっ、やばい。なんか、かわいいかも。クールな美貌の中に垣間見える可憐さ。屋敷では見ないタイプだな。
「って、いやいやいやいや……こいつは暗殺者だ! 血迷うなよ、俺」
スキルすけべぇが発動しかけるのを、必死に言い聞かせて抑える。姉ちゃんは俺の名前を知ってる様だが、おそらく予め屋敷について調査していたんだろう。屋敷での出来事を思い返す限り、標的は師匠のようだったが、俺もそうじゃないとは限らんのだ。
半ば錯乱気味に頭をブンブンふりながら自問自答していると、不意に右足が軋んだような音を上げた。ついで訪れる激痛。
「って、いてててて……っ!」
な、なんだこの激痛っ!?
「待って、急に動かないで。……怪我は? どこか痛むところは?」
「うっ……だ、大丈夫だ。それより……」
こちらの状態を気づかう彼女を制し、改めて俺はぐるりと周囲に視線を巡らせる。
虫の鳴き声が響く。なんだか綺麗な草原に俺達ポツンと二人きり。明らかに屋敷以外の場所ですよ。
「ここって、いったいどこよ?」
「さぁ……わからないわ。かなりの勢いで飛ばされたけど……プラネットストームに巻き込まれたのかと思ったぐらい……」
後半はよく聞き取れなかったが、どうやらこの姉ちゃんも、正確に状況を把握してる訳ではない様子。どうも今回の事態はイレギュラーっぽい。
それに、冷静になってよくよく考えてみたら、俺を殺るつもりなら、気を失ってる間に殺られてたな。
多少気分が落ちつくのを感じて、ようやく俺は、まず尋ねて当然の疑問を口に出す。
「しかし、一体なにが起きたんだ……? それに姉ちゃん。あんた一体……?」
「私はティア。どうやら私とあなたの間で超震動がおきたようね」
深刻そうに額を押さえながら返された言葉は、意味のわからんものでした。
「ちょうしんどう? なんだそりゃ」
「同位体による共鳴現象よ。あなたも第七音素術士だったのね。うかつだったわ。だから王家によって匿われていたのね」
勝手に推論を展開しながら、ずいっと俺の方に詰め寄って来る姉ちゃん。
なんだか良い匂いが髪から届き、俺の鼻孔をくすぐる。複雑な色合いを宿した瞳が俺を見据える。手を伸ばせばすぐにでも触れられそうな位置に、姉ちゃんの身体があった。
こ、この距離はまずい!
「ちょー、ちょーっと黙ってくれ!」
慌てて距離を離す。だが、動揺が収まり切らず、口から出るのは狼狽しきった叫び声でしかなかった。いや、むしろ落ち着け俺。
「……と、ともかく、あんたが何言ってんのか、こっちはさっぱりだっ!」
「…………」
突然相手は口を閉じた。俺は気押されて更に一歩引く。美人は黙ってるだけでも迫力があるなぁとどうでもいい事が頭に浮かぶ。
「うっ、なんとか言えよ」
「黙れって言ったかと思えばなんとか言え、とはね」
「ぐっ……」
相手の正論に、俺は言葉に詰まった。やはり男は女に口では勝てないようだ。
「ともかく、話は追々しましょう」
あなた何も知らないみたいだから、ここで話をするのは時間の無駄だと思う。そう肩を竦めて話を締める姉ちゃんに、その通りだなぁと納得する。俺って自他共に認める馬鹿だしな。難しいことはわかりませんよ。
「んじゃ、このあとはどうすんだ?」
「あなたをバチカルの屋敷まで送って行くわ」
姉ちゃんの言葉に、一瞬呆気にとられた。真意を伺う様に相手の瞳を見据えるも、わかるのはどこまでも強い自責の念と、俺に対する巻き込んでしまったという申し訳なさでしかなかった。
……なんつぅーか、暗殺者のくせして妙に義理堅いというか、甘いやつだな。それとも標的以外は巻き込まないとかいう、プロ意識の賜物かね?
どっちにしろ、あんま悪い奴じゃなさそうだがな。
しみじみと頷いていると、姉ちゃんはこっちの挙動に不可解そうな視線を送っていた。とりあえず返答が先か。
「ま、わかったぜ、迷惑かけるとは思うが、とりあえず道案内よろしく頼むわ、えーと、ティア」
「ええ。必ず送り届けるわ」
硬い表情でいやに力強く頷くティアに、なんだかなぁと思いながら、とりあえず当面の問題を尋ねてみる。
「しかし、どうやって屋敷に向かうんだ? ここがどこか、あんたもわからねぇんだろ?」
「向こうに海が見えるでしょう」
ティアが俺の背後を指し示した。ん、確かそっちは空しかなかったような? 疑問に思いながら背後を振り返る。
夜の深い闇の中、月明かりを反射して輝く水のうねりがあった。一定の感覚で聞こえてくる音が、うねりが寄せては返す度に、耳に心地よく響く。これが、噂に聞く波の音なんだろうか。
「あれが……海なのか」
他人がすぐ側に居るのも気にならず、俺は初めて見る海に───魅入られた。
屋敷をたまに抜け出すことはあったが、さすがに港付近は危険だと散々言い聞かされていたため、近寄ったことすらない。俺の行動範囲はあくまでも、屋敷と城下の一定範囲に限られていた。それに、たかがデカイだけの水溜まりと馬鹿にして、わざわざ危険を冒してまで見に行こうなどとは思わなかった。
そんな、地平の彼方まで続く、でかいだけの水溜まりが、今、俺の目の前にある。
それが、こんなにも印象深いもんだとは、思わなかった。
「……とりあえず、この渓谷を抜けて海岸線を目指しましょう。街道に出られれば辻馬車もあるだろうし、帰る方法も見つかるはずだわ」
「抜ける……抜けるって、どうすれば海に出られるんだ?」
海を見つめたまま、耳に届くティアの言葉にも、どこか茫洋とした意識のまま応じる。
「耳を澄ませて。波の音とは別に、流れる水の音がするわ。川があるのよ。川沿いを下っていけば海に出られるはずよ」
「……へえ、そういうモンなのか」
そういうものよ。応じるティアの言葉も、どこか遠くに感じる。
しばらくの間、俺は海に見入られたまま、動けなかった。
結局、俺の意識が海から戻るまで、ティアはなにも言おうとはせず、静かに俺の側で佇んでいた。こいつは屋敷に襲撃を仕掛けた相手だ。俺が王都から一度も外に出たことがないって情報も、その事情まではわからずとも、調査済だった可能性は十分考えられた。
「……行きましょう」
「わ、わかってるっつーの!」
素知らぬ顔で静かに促すティアに、我に返った俺は急激に沸き起こる気恥ずかしさに動揺しまくりの答えを返すのだった。