「はぁ……特務師団長が戻って来ると」
飯を運ぶ手を止めて、アダンテ・カンタビレは自らの同僚が告げた言葉の意味を考える。
特務師団長と言うと、確か六神将の一人だったはずだ。
オラクルの中でも、個人で一個師団すら相手取れるとさえ言われる超絶的な戦闘能力を誇る六神将。
さすがに言い過ぎの部分もあるとは思うが、それでも特務師団長がその一人に数えられるような人物なら、一流の戦闘者であることに間違いはないだろう。
現状、六神将の全てを師団長が勤めているわけだが、自分がそこに加わる可能性は皆無だろうなとカンタビレは考える。
なぜなら、自分は身体能力がものすごく凡庸だ。さらに言えば戦闘経験も数えるほどに微少。音素の扱いなら一流と自負するが、アリエッタのような超一流には決して届かない。
そんな自分とは違って、変態的戦闘能力を誇る六神将の一人である目の前の同僚──黒獅子ラルゴに視線を据えつつ、凡人カンタビレは話の流れが掴めず首を捻る。
ここはオラクル本部に作られた宿舎の一画、食堂の設置された場所だ。周囲には何人ものオラクルの兵士達がくつろいでいる様子が目に入る。
カンタビレ達もその例に漏れず、食事を取りながら最近の出来事について話を交わしている内に、出た話題がそれだった訳だが……。
「それで、いきなりまた何でこの話題なんだ?」
「お前はまだアッシュと顔を合わせた事はなかったろう? だから知らせておこうと思ったまでだ」
特に深い意味は無いと答えるラルゴに、カンタビレは納得して、止めていた手の動きを再会する。
「なるほどね。まあ、律儀な性格してるよな、ラルゴの旦那も。しかし特務師団長か……もう今更って感じがしないでもないがなぁ」
カンタビレがダアトに着任してから既に一年近い月日が流れている。今更自己紹介などと言われても、あまりピンと来ないというのが正直な所だ。
「確かにな。アッシュは長期任務でダアトを離れていたわけだから、今更とお前が思う気持ちは俺もわからんでもない」
苦笑を浮かべ、ラルゴはコーヒーを啜る。通り名の通りブラックなのかなぁと思うだろうが、意外と思うこと無かれ、ラルゴは甘党のようだ。砂糖をガバガバと入れながら、熱いコーヒーを一口で飲み干す。
「ん……そう言えば、実験は成功したらしいな」
ふと思い出したといった感じで、ラルゴが先日行ったパッセージリングにおける実験を話題に出した。
「……まあ、そうだな」
少し声を落として、カンタビレはそれに応じる。
確かに実験は成功した。ローレライの鍵は地上にサルベージされ、カンタビレの研究は一応の区切りを見せたことになる。
鍵そのものは、実験時に自分の率いていたチームが引き続き分析を行っている。カンタビレ自身も、自分が任されていた実験部分が終了したとは言っても、時折顔を見せて分析内容を眼にするぐらいのことはしている。
なかなか解析が進まないと愚痴を零されたりもしたが、実験が一応の区切りをみせた以上、カンタビレも師団長としての仕事をこれまでのように放って置く事はできなくなった。これまでほったらかしにしていた分仕事を覚えるのが忙しく、以前のように研究にかかりきりという訳には行かなくなっている。
それでも解析データそのものは蓄積されていき、鍵が本物であると証明するには十分すぎる程のデーターが、既に集まっているのが現状だ。
だが、一向に教団内部に向けて、ローレライの鍵が発見されたと公表される気配は無い。
……教団の権威を高めるべく、鍵を抽出したという自分の推測は間違っていたということだろうか?
実験直後、胸を過った総長への疑念は消える気配を見せず、むしろますます膨らんで行くばかりだ。
響奏器。惑星譜術の触媒。パッセージリング。鍵の抽出。
自らに与えられた権限の下、これまで行ってきた研究の裏に隠された意味を探るべく、カンタビレは資料を改めていった。
調べれば調べるほど、不可解な点が目につく鍵の抽出という目的。ただ鍵を抽出するだけなら、必要のない研究指示。自分にはまるで用途の掴めない、平行して行われていた無数の研究事項。
そして、鍵の抽出時に観測された第七音素。
「……どうかしたか、カンタビレ?」
ラルゴの呼び掛けに、カンタビレは我に返る。
怪訝そうにこちらを見据える巨漢に向けて、カンタビレは誤魔化すように笑ってみせた。
「いや、ちょっと考え事をな」
「まあ……お前が上の空になる事はいつもの事だが、さすがに食事中ぐらいは思考を止めるのだな」
やや呆れたように言ってくるラルゴに、ヘラヘラと笑みを浮かべ応じながら、内心では別の事を考える。
どういった理由があるのかは知らないが、ラルゴが総長に絶対の忠誠を誓っているのは確実だ。気のいい相手だと思うが、それでも自分の疑念を洩らすことはできない。
「いったい何を考えていたのだ?」
「ん……惑星譜術の触媒と、純粋な響奏器との間に存在する違いについてとか」
「存在する違いか」
「ああ。ケイオスハートとローレライの鍵は色々な部分で違いが多いぜ。実際に見比べてみれば一目瞭然なんだが、ありゃ、使用目的からして異なってそうだな」
受け取った解析データから見ても、それは明らかだった。そもそもローレライの鍵はその構成元素からして、第七音素のみによって形成されている。正に第七音素に特化した集合意識体を使役する触媒なのだ。
これに対して、惑星譜術の触媒は奇妙の一言に尽きる。
ローレライの鍵の解析データと比較するとわかるのだが、どうやら惑星譜術の触媒にはもともと定められた明確な属性と言うものが存在しないようなのだ。
「どの属性の集合意識体であっても使役できるように作られているのかもしれない……そこら辺が、第七音素一点特化型のローレライの鍵との一番の相違点だろうな」
「ほぉう? 属性が定まっていないのか。だが、それにしては、あの杖は第一音素を異様なまでに引き寄せていたように感じたがな」
顎先を撫でながら杖の存在を思い返すラルゴに、カンタビレもそこがわからないと顔をしかめる。
「そう……何故、ケイオスハートは第一音素を引き寄せていたのか? それがわからない……どういうことだ……まるで既に何かが取り込まれて……」
ぶつぶつと呟きながら、再び思考に沈み始めたカンタビレを眼にして、ラルゴが苦笑を浮かべる。
「まあ、俺としてはそうした小難しい事柄はさっぱりだが、頑張るのだな」
「おいおい、人事だなぁ、ラルゴの旦那よ」
「結局は人事だからな。──さて、俺はもう行くぞ」
肩をすくめて立ち上がったラルゴに、カンタビレは薄情者めと投げやりに言葉を投げる。
「ともかく、特務師団長が帰還したら、そのうち総長から紹介されるだろう。
……心構えだけは、しておくといい」
「はいはい、了解。そんじゃまたな、ラルゴの旦那」
「……ああ、またな」
投げやりにヒタヒラと手を振るカンタビレに、ラルゴが顔を背けたまま、片手を上げて別れを告げるのだった。
* * *
教団のトップは導師イオンだ。
実質的教団運営の責任者に大詠師モース。
そして、軍事的指揮を執る者に、主席総長ヴァン・グランツの名前が来る。
以上が教団内部におけるおおまかな権力分布図の基だ。
基本的に軍事力をヴァンが完全に掌握し、モースは一般的な事務を司る信者を統制する。導師イオンはそんな二人の上に立つ教団最高権力者と呼ばれている。
だが、如何せん年齢や能力的なものから言っても、導師イオンは上に挙げた二人には到底届かない。
また、導師イオンは改革派と呼ばれる者たちの中心人物でもあるそうだ。スコアを人々が生きる上で与えられた、選択肢の一つとして考える……それが改革派と呼ばれる集団だ。
これに対して、スコアを絶対と考える大詠師モースや主席総長ヴァン・グランツなどと言った、従来の教団の方針に従う者達を保守派と呼ぶらしい。
では、そうした権力分布を踏まえた上で、肝心の自らが所属する第六師団の人員はどの派閥に属すのか?
改めて確認を取ってみたところ、カンタビレはその結果に驚いた。
なんと第六師団は改革派に属する人間が多数を占めているようなのだ。実質的に保守派の幹部に当たるヴァンの子飼いとも言えるような自分が、よくもまあ、師団長になれたものだとカンタビレは呆れ果てた。
しかし同時に、カンタビレはこうも考える。
ある意味では、改革派にとっても都合がいい人事だったのかもしれない、と。派閥のトップに、敵対陣営子飼いの人間を据える事を認める代わりに、未だ力の弱い改革派がある程度自由に動くのを黙認させる……そう言った取り決めが裏でなされていたのかもしれない。
「……なんともキナ臭い限りだがな」
師団長としての仕事を終え、自らの部下から聞き出した話をつらつらと思い返しながら、カンタビレは一人通路を歩く。
現状、自分は総長の思惑から外れた行動を取りつつある。
今後もそうした方針の下に動くつもりなら、それなりの覚悟を決める必要があった。
「……停戦条約の立役者、前導師エベノスか」
派閥の話しが出た際、第六師団の人間から渡された資料を見返す。
記されている内容は、とくにこれといって珍しいものではない。自分が本部に居ない間、教団内部で行われた活動に関する報告と、ここ十数年の間にオラクル騎士団が動員された際の記録だ。
資料には国境紛争時において、戦場に送られたオラクルの存在が記されていた。任務内容は戦場の攪乱と、紛争の拡大──明確にそう記されている訳ではないが、下された指示の内容を要約すると、そうとる以外に無いもの──だった。
「戦争勃発時は煽っておいて、ホドが崩落すると同時に掌返したように停戦に向けて動く……か」
一見理解できない行動だったが、カンタビレには一つ思い当たるものがあった。
──世界の流れを詠み上げし、スコアの存在。
教団にとって絶対的な理。そこに詠まれていた事象ならば、この不可解な行動にも筋が通る。
「……改革派の主張は、そういう事なのか?」
──スコアとは、数ある選択肢の内の一つに過ぎない。
単なる権力闘争上のスローガンではなく本気で言っているのだとしたら、自分が彼らに接触を持つ意味もあるかもしれない。
「……上手いこと改革派の連中に、誘導されてるような気がしないでもねぇんだがな……」
彼等としても改革派で唯一の軍閥に当たる、第六師団の師団長を勤める人間を、可能な限り自らの派閥に引き入れて置きたいということなのだろう。ああも気前良く、国境紛争時の秘匿資料を渡してきたことからも、それは明らかだ。
「まあ、それもいいさ」
だがカンタビレとしても、総長に自らの動きを知られぬまま情報を探ろうとした際に、頼れるような相手は対立陣営に当たる彼ら以外に思いつかなかった。
「接触を待つしかねぇか……」
かつて書庫で、カンタビレは時折言葉を交わす相手がいた。
本人に確認を取ってはいないが、おそらくあの少年が導師だろう。
現状、保守派子飼いの人間である所の自分が改革派に接触を求めたところで、周囲に無用な緊張と警戒心を呼び起こすのが落ちだろう。なら、非公式に接触する以外に無い。
第六師団の人間経由なら、ある程度直接的な付き合いがある分、それなりの渡りを付けてくれるかもしれないが、より上位の人間と接触できるなら、その方がこちらとしても話しが早い。
「どうなることやらな……」
カンタビレはあまりの先行きの見えなさに、一人ため息を洩らす。
日が落ちかけた夕焼け色に染まった光が、窓から差し込みオラクル本部の通路を染め上げる。
士官部屋のある区画に向かうべく、曲がり角を曲がる。
──視界に飛び込む鮮烈な赤。
すぐ目の前、今にもぶつかりそうな距離に、他人の頭があった。
「ぐおっ!?」
「ちっ──!」
相手が避けようと身を捻る。だが、身体能力的に劣るカンタビレの動きを予測し切れなかったのか、こちらの身を引いた方向に相手も動く。
結局、避けきれずに両者は衝突した。
「っててて……」
傷む腰を摩りながら、カンタビレは呻く。
「……曲がり角ぐらい、前を確認して歩くんだな」
床に激突した自分に向け、僅かに身をよろめかせただけの相手は、呆れたように言葉を掛けた。
「すまねぇな、兄ちゃん」
所構わず思考に耽る自分の悪癖に、苦笑しながらカンタビレは起き上がる。
顔を上げた先に存在したのは──かつて見慣れた姿だった。
目にした相手の顔が、カンタビレは信じられなかった。
「……ルーク、なの、か?」
「!?」
思わず洩らした言葉に、相手もまた驚愕に目を見開く。
だが、その表情に言いようの無い違和感を覚える。
何かが、この相手は違う。
「お前、いったい……誰だ?」
「ちっ……テメェこそ何者だっ!? 俺は貴様なんぞ知らねぇ! 答えろっ!!」
胸ぐらを掴み上げられながら、カンタビレは告げられた言葉を、ただ呆然と耳にした。
* * *
扉を開け放ち、カンタビレはその部屋に足を踏み入れる。
「……騒がしいぞ、アダンテ」
机に向かったまま静かに問いかけた相手に、カンタビレは怒声を上げる。
「総長、あんた何を考えてやがるっ! フォミクリーに手を出しただとっ!?」
「……なるほど。アッシュに会ったか」
視線を手元の書類に落としたまま、ヴァン・グランツは未だ顔も上げない。
「答えろっ! 総長っ!!」
「ふむ……仕方ない。言いたい事があるならば、聞くだけは聞いてやろう」
顔を上げたかと思えば、ヴァン・グランツは何一つ動揺の浮かばぬ瞳でこちらを射抜く。苛立ちが胸を焦がすのを感じながら、カンタビレはそれを押さえ込み、問いかける。
「……生体フォミクリーの使用は禁止されたはずだ。なによりも道義的に問題ありとして、バルフォア博士が絶対の禁忌に指定し封印したはずだ」
押し殺した声で、自らの知る限りの事を口にするカンタビレに、ヴァン・グランツはただ一言を返す。
「──それがどうした?」
「っ! 本気で言ってやがるのかっ!?」
机越しに伸ばしかけた拳を、渾身の自制心を込めて必死に抑える。
「総長、あんたはルークの師匠じゃ無かったのかよ!? それがどうしただとっ!?」
激昂するカンタビレに対して、しかしヴァン・グランツは動じない。
「それで言いたい事は全てか? なら、私は仕事が忙しいのだがな」
「……あんたはっ!」
肩で息をしながら、カンタビレは今にも飛び掛りそうになるのを必死に押さえ、目の前の相手を睨み据える。
「ふむ。お前の反応はある程度見越していた。それ故に、アッシュと会わせるにも、こうして間を置いた訳だが……これ程の反応があるとは、少し意外だったな」
やれやれと肩を竦めて見せると、ヴァンは哀れむような視線をカンタビレに向ける。
「──バチカルから逃げ出したお前が、今更何を気にかける必要がある、《異端》のカンタビレよ」
「……っ……っ」
切り返された言葉に、カンタビレは拳を握り締め、反射的に叫び返すのを必死に耐える。
「それにしても……最近、何かと動いているそうだな?」
相手の切り札にひたすら動揺するカンタビレを尻目に、相手は眉一つ動かさぬまま、その先を続ける。
「私の知る限り、お前が動きだしたのは実験を終えた後からの事のように感じるのだが、相違ないか?」
「……」
黙して応えないカンタビレに、さして気に留めた様子も見せぬまま、ヴァンは推測を続ける。
「どうやら私の目的に関して、疑念を抱いているようだが……確かに頃合いか」
閉じていた瞼を開き、ヴァンがこちらを正面から見据える。
「スコアというものを、お前はどう考える?」
突然の問い掛けに、カンタビレは不可解さを覚えながらも、問われるままに答えていた。
「……事象の流れを観測し、詠み取った流れを無数の詩篇に変換して伝える譜術」
「そうだな……一般的にはそう言われている」
相手のまとう空気が、一変する。
「だが、それはスコアの一面のみを捉え、歪めて伝えられたものに過ぎない」
気押されるカンタビレに、ヴァン・グランツは淡々と問いかける。
「ホド戦争を覚えているか?」
脳裏を過ぎるのは、改革派から渡された資料の存在。
「あれもまた、ユリアの詠み上げたプラネットスコアにより確定されし事象の流れ。ローレライ教団は預言の成就をなにより望み、ホドの崩落を見過ごしたのだ。世界の存続を望むあまり、イレギュラーが発生することを何よりも恐れる愚者の群れ……それがローレライ教団の真実の姿だ」
狂気を宿した瞳が、まっすぐに、正面から、カンタビレを射抜く。
「この世界はスコアに支配されているのだよ、カンタビレ」
机から身を持ち上げ、ヴァン・グランツは両の腕を掲げ上げる。
「私はユリアの残せしスコアに反乱する。全ての預言の源となりしローレライを討ち滅ぼし、この世界を革新する。アッシュの存在は、来るべき戦乱の時に、重要な切り札となり得る存在。故に、フォミクリーという技術を用い、私は聖なる焔の光を確保した」
踏み出された足が、一歩こちら側に近づく。
「私はスコアが──憎い」
据えられた視線が逸らされる事は無い。
「スコアを信望する哀れな民衆が憎い」
踏み出された足が、また一歩こちら側に近づく。
「スコアを崇める愚かしき信者が憎い」
澄み切った瞳には澱みなど一切存在せず、苛烈なまでの輝きを放つ。
「スコアを成り立たせ許容する、この世界そのものが──憎い」
圧倒的な鬼気が室内を席巻する。
「かつてユリアによって詠まれし預言は、2000年に渡りこの世界を支配し、腐敗させた」
何一つ、言葉を返せないカンタビレ。
手を伸ばせばすぐにでも相手に触れられる距離に立ち、ヴァンは言い含めるようにして、決定的な言葉を放つ。
「一ついい事を教えよう。一年前の事件──あれもまた、スコアに詠まれていた事象の流れの内にあった」
「……………え?」
言葉が理解できない。
ナニヲイッテイルンダ、コイツハ?
「お前とて、少しは疑念を抱いたのではないか? あの日に至るまで、何一つ官警の目を引くことの無かった漆黒の牙が、何故あれ程まで執拗に、国軍の追跡を受けることになったのか」
名の知られた存在でありながら、まるで手配を受ける様子の無かった漆黒の牙。
「それはあの日を持って、そうなるべく、議会に働きかけた存在があったからだ。
すべてを預言の流れるまま受け止め、煽動する存在──ローレライ教団の介入がな」
その終焉が定められていたからこそ、その日に至るまで、誰からも害される事が無かった。
目の前の相手が告げたのは、そういうことだ。
カンタビレは目を見開いて、ただ告げられた言葉を耳にする。
「カンタビレ、お前もまた同じはずだ。お前から全てを奪いしスコアを……憎め」
ヴァン・グランツはカンタビレの耳元に、囁き語る。
「スコアに詠まれるまま世界を動かす教団を憎め……」
紡がれた言葉が否応も無く甘美な誘惑となって、カンタビレの耳に届く。
「スコアの存在を許容するこの世界を憎め……」
僅かに身を引いて、代わりに差し出された腕が、あの日のように、目の前に差し出される。
「──さすれば、私はお前を真の意味で同胞として、迎え入れよう」
ヴァン・グランツはカンタビレに、もはや目を背ける事など許されないと宣告した。
「だが……僕は……」
告げられた言葉に、カンタビレはただ立ち尽くすことしかできない。そうしたカンタビレの様子を確認すると、ヴァン・グランツはあっさりとこちらに背を向ける。
「……私の手を取るかどうかは、お前が決めろ。いつでも我が部屋を訪ねるがいい」
ヴァン・グランツはそう言い残し、この場を去った。
残されたカンタビレは告げられた言葉の衝撃に、ただ立ち尽くす。
未だ処理しきれない、告げられた教団の真相の中、ただ一つだけ理解できたことがあった。
つまり、自分は馬鹿のように、ギンナルを殺した相手に対して、これまで仕えていたわけだ。
そんな愚かしいまでの事実を、今頃になってようやく認識できた。
ただ──それだけのことだった。
* * *
自らに与えられた執務室に、カンタビレはいつのまにか帰っていた。
思考が上手く回らない。
告げられた言葉だけが、延々と頭の中に木霊する。
──一年前の事態は、預言に詠まれていた。
──死ぬべきものすら、預言により決定づけられる。
──この世界を憎め、カンタビレよ。
「……」
教団に属しながら、自身の信仰心が薄れていた事は自覚していた。
それでも、カンタビレはローレライを信仰していたのだ。
全てが、覆る言葉だった。
改めて、ヴァン・グランツに告げられた言葉の意味をアダンテ・カンタビレは考える。
一年前、あまりにも突然告げられた討伐令。スコアに詠み上げられていた死の真相。全ての影で蠢いていたローレライ教団の存在。
だが、それは同時にもう一つの意味を持つ。
オラクル騎士団主席総長――ヴァン・グランツ謡将が、それを知らなかったはずがないのだ。
あそこまで言われて気づかぬ程、自分とて馬鹿ではない。
つまりは彼もまた、全てを知っていながらギンナルを見殺しにした者達の一人だということになる。なればこそ、ヴァンはあのタインミグで、自分をダアトへと誘い、断られるや否や、さして拘るでも無く──あの日が訪れるのを待った。
ギシリと、握り締められた拳が音を立てる。食いしばられた歯があまりの力に、軋しんだ音を上げる。
……今、考えるべきはそんなことではない。冷静に心を静め、考えろ。
カンタビレは自らに言い聞かせ、一旦途絶えた思考の先を続けて辿る。
「……何故それを今になって、この僕に告げた?」
これまでのように利用するつもりなら、真相を知らせずにただ指示を下すこれまでのやり方でもよかったはずだ。自らの立場が不利になるようなことを、何故、総長は自ら告げた?
そう……何故今になって、それを告げる必要が出た? それがわからない。
総長とて、あの事態の裏に教団が動いてたことを示せば、当時バチカルに居た教団上位者たるヴァン・グランツが、事態に何も関わっていなかったはずが無い事に、カンタビレが思い至ることぐらいは見越しているはずだ。
それと知りながら、自分に真実を告げたヴァンの真意は、いったいどこにある?
「何か……理由があるのか?」
事の起こりは、アッシュの存在をカンタビレが知ったことだ。
フォミクリーの利用を知られたからか?
──いや違う。いずれアッシュの存在が知られる事は、総長も予測していた。
頃合という言葉の示すものは何だ?
──いずれ告げる必要がある事柄であり、総長にとって今回の事態も想定の内だったということだ。
禁忌とされるフォミクリーを用いて、同位体を作り出してまで、アッシュの存在を求めたのは何故だ?
──利用価値があるからだろう。スコアの詠み上げし事象の流れに対抗するなら、重要な転機をもたらし得る存在を事前に確保する意味は存在する。
スコアに支配された世界を革新するとはどういう意味だ?
──……これに関しては、何一つしてわからない。ただ言えるのは、自らの行ってきた研究内容が何か深いかかわりを持つと言うことのみ。
「……結局のところ、そこに話しは行き着く訳か」
スコアからの解放が、いったい何を意味するのか。
それが見えてこない。
解放を目指すとして、いったい何をすると言うのか。
それがわからない。
現状で判断できることは、ただ一つ。
ヴァン・グランツは、未だアダンテ・カンタビレに利用価値を見出している。
響奏器とパッセージリンクの同調実験。惑星譜術の触媒の分析。地殻から抽出された鍵の分析。
これまで行われてきた研究など生温いと感じるような、さらに深い暗部へと自分を誘うべく、ヴァンは過去の真相をカンタビレに告げ、自らの抱く志向と同調させるべく、あのような言葉を告げたのだろう。
「……」
一年前の事件の真相。それはもういい。スコアに詠まれた事象。その裏で動いていた奴らに気づかなかったのは、自分が間抜けだったから。ただそれだけの事だ。それを知ったヴァン・グランツがその動きをどう利用したところで、カンタビレが思うことは何も無い。今はそれでいい。
ただ言えるのは、今後も総長に従うならば、更に深い闇へ足を踏み込む覚悟が必要であり、見返りとして与えられるのは、馬鹿らしい復讐心を満たすための手段と、対象の一人である相手の懐に入り込む権利を得る事ができるという、ただそれだけの事だ。
なら、それを知った自分は、どう動くのか?
このまま相手の示した提案に乗るのか、それとも抗うべく動き出すのか。
「…………」
時計が針を刻み、鐘が鳴り響く。
深夜を告げる鐘の音を耳にしながら、カンタビレは無言のまま立ち上がる。
部屋の片隅に置かれていたものを持ち上げ、カンタビレは自らに与えられた部屋を後にした。
* * *
時刻は深夜。
未だ音素灯の明かりを漏らすヴァン・グランツの執務室に、訪れる影があった。
開け放たれた扉に、部屋の主はさして驚いた様子も無く顔を上げる。
「来たか……――だが、申し出を受けると言った様子でもないな」
「……あんたに少し聞きたい事があってな、総長」
静かに答えるカンタビレに、ヴァンが壮絶な笑みを浮かべる。
「随分と落ち着いたようだな。かつての覇気が戻っているのがわかるぞ、アダンテ」
「……さてな」
相手の挑発を交わし、自らのベースを維持する。
この目の前の相手に飲まれずに、自身を保てとカンタビレは自らに言い聞かせる。
「聞きたい事とは何だ? 折角だ、答えてやろう」
「ありがたい事だな……まあ、だが、ただ一方的に答えを聞かせて貰うだけってのも不公平だとは想わないか?」
「ほう? 不公平か」
予想外の返しだったのか、ヴァン・グランツが意外そうに片眉を上げる。相手の更なる反応を待つでも無く、カンタビレは自らの片手で持ち込んだものを示す。
「──ゲームをしないか?」
持ち込んだチェス盤を掲げて見せる。
「勝負が続く間、僕は自分の手番で質問を尋ねる。総長は自分の手番でそれに答えてくれればいい」
「ふっ……面白い趣向だが、私がそれに応じるメリットはあるのか?」
実際面白そうに問いかける相手に、カンタビレは口の端を吊り上げる。
「試合を受けてくれるなら──バチカルでギンナルを殺すべく指揮を取っただろう、あんたに対する憎悪を一時的に飲み込もうじゃないか。単なるオラクル上位者の命令とわりきって、今後も馬鹿のように利用されてやることを誓おう、主席総長ヴァン・グランツ」
告げられた言葉に、ヴァンが愉快そうに眉根を上げる。
「ふっ……その誓いをお前が守るという保証は?」
「それに関してはお互いさまだ。総長が質問に正しく答える保証は無いだろ?」
「確かに、その通りだな。事の真偽を判断するのもまた、ゲームの内ということか」
「そうだ。ああ……それと答えられない質問には答えられないと言ってくれて結構だ」
質問に相手が答えるかどうかは重要でない。発せられた質問に、相手がどう反応するか。それが重要だった。
ヴァンもまたカンタビレの意図を見抜きながらも、愉快そうに笑みを深める。
「──よかろう。余興もたまには必要だ」
「正直に感謝するよ。その余裕が、ぜひとも僕にも欲しいもんだな」
執務室の一画に設けられた応接スペースに、二人は移動する。
チェス盤を据え置き、対面に向かい合う。
「では、始めよう。先手は譲ってやろう、カンタビレ」
「……そりゃまたどうも。ありがたく頂戴しとこうじゃないか」
あまりにも余裕と言った態度だが、カンタビレはそれも当然と考える。先程からの言葉通り、ヴァンにとって、こんなものは余興と割り切って楽しめる程度の、明らかな茶番に過ぎないのだろう。
だが、それだけで終わるつもりなど、カンタビレには毛頭無かった。このゲーム中で、必ずこの相手から、決定的な事柄を引きずり出して見せる。
試合に臨む二人の胸中は対照的ながらも、チェス盤に向ける表情はどちらも真剣なものだ。そこには何一つとして、この勝負に手心加える余地など存在しない。
「――行くぜ」
盤上に並べられた駒に、カンタビレの手が伸ばされた。