……未来を観測し確定する預言。負傷が完治した状態を観測し確定する治癒。こうした一連の譜術の発現過程から、第七音素の司る力とは『未だ存在しえぬ事象の観測と確定』であることがわかる。すなわち、第七音素の力とは『あまた存在する可能性を観測された一本の流れに確定する』ことに他ならない。しかし、この結論は、同時に一つの示唆を含んでいないだろうか? 第七音素とは『他の可能性を切り捨てる力』であるという……
──『音素概論による第七音素の考察とその展望』──
【赤毛少年、疾走す】
「へへっ。この俺が捕まるかってぇーの」
俺は俊敏な動作で屋敷の塀を乗り越えると、後を追う執事連中をものの見事に振り切った。
「ホントにいいのかねぇ……」
俺の後に続いたガイが、胃の辺りをしきりに押さえながら顔をしかめた。
「いいのいいの。ガイだって知ってんだろ? ファブレ家嫡男、衝撃の事実、お忍びで外遊か……とかいう噂」
「うっ……確かにそんな噂が流れてるよなぁ……」
「あれだな、やっぱ事後承諾、あるいは既成事実を作る、とかいうんだったけか? 一度作っちまった前例は滅多なことじゃ突き崩せねぇーってことだな」
「うーん。微妙に用途が違う言葉もまじってるような気もするが……もうどうしょうもないのは確かだよな……」
がくりとうなだれると、なぜかガイのやつは俺に恨めしそうな視線を向けてきやがった。まったく失礼なやつだ。けどな、俺は全てを覆す言葉を知ってるんだぜ?
「やっぱこれも、お前の教育のタマモノってやつなんじゃねぇーの?」
「うう……どっちかっていうと、アダンテさんと、ギンナルさんの影響が根深いと俺は思う。いや思いたい」
ひたすら胃の辺りを押さえながら、苦痛に耐えるようにガイは呻いた。
……確かに、あの二人に影響受けてるってのは否定しないけどな。
「まあいいや。今日もとっとと連中のとこに行くぜ」
「わかりましたよ、坊ちゃん」
俺とガイはすたこらさっさと下街目掛け、貴族たちが屋敷を構える区画を駆け抜けていく。
初めて俺が屋敷の外へ出てから、既に二年という月日が流れていた……
【不良神官、絶叫す】
僕は神に仕える神官です。聖職を預かるものとして、これまでの人生キヨクタダシク生きてきました。……そこ、嘘とか言わない。ともあれ、そんな僕にも忍耐の限界とか言うものはあるわけで、結局なにが言いたいかといいますと。
「お前ら──帰れっ!」
目の前でくつろぎまくった様子で、勝手に部屋に上がり込んでやがったガキ共を僕は威圧した。
「ん、なんだおっさんか」
「ど、どうも。お邪魔してます」
ガイはどこか恐縮したように頭を下げたが、ルークのやつは顔をこっちに向けただけで、挨拶すらもしやがらねぇ。なにやらソファーの上に寝ころんで、ひたすら何かを口に運んでいる。
「ってか! てめぇが食ってやがるのは、僕が先月から予約してやっと手に入れたエンゲーブ印の果物セットじゃねぇーか!! あ、ああ、僕の給料三カ月分の贅沢が、裕福な親に甘やかされて育ったくそガキの腹の中に、消えていく……」
最後の一口をこれみよがしにゆっくり頬張ると、ルークは感想を述べた。
「ああうまかった。でも、屋敷で喰うもんの方がうまいな」
「る、ルークのアホっ~!」
ぶちっ。
はい。僕はブチ切れました。子供とは言っても、教育的指導は必要なのです。そうです。これは愛のムチなのです。
「る、るる、ルーク! あ、謝れって! アダンテさん、なんか釘バット取り出して、あ、やばいやばいって、バット振り上げてるよ!!」
僕は振りかぶったバットを振り降ろすことに躊躇いなどおぼえません。そうです。このとき僕は純粋な殺意とはすなわち、食い物の恨みであることを悟ったのでした。
そのとき、室内を涼やかな風が駆け抜けた。
バットが先端から切り落とされて、ボトリと床に落ちる。
「アダンテ。気持ちはわかるが、そのぐらいにしておけ。所詮、子供のしたことだろう?」
俺の後に続いていたギンちゃんの存在を忘れてた。ギンちゃんはどうしょうもない程底抜けの良いやつなんだが、子供に超絶甘いっていう欠点がありやがるんだ。僕がお仕置きなんざしようとしたら、止めるのはわかりきっていたことだった。
くそぅっ……公爵家に絶対請求書送ってやるぜ! 三割り増しぐらいでなっ!!
非情なりし復讐の誓いをあげる僕を余所に、ルークがギンちゃんにはきちんと挨拶をしてやがるのが見えた。このくそガキめっ!
「ギンナルじゃん! 久しぶりだよな」
「どうも、ギンナルさん」
「うむ。二人とも、久しぶりだな」
ばさりと黒マントを翻しながら部屋に入ったギンちゃんは、部屋中に転がっているガラクタをかき分けて、座るスペースを作り出した。……別に僕は掃除が嫌いなわけじゃない。暇がないだけだ。
「ユシアの姉ちゃんとドンブルは居ねぇーの?」
「二人はちょっと故郷に帰省中だ。一人でいるのも暇なので、アダンテのところに寄ってみた」
「そっか。そんで肝心の話だけどさ、そろそろ俺も漆黒の牙に入隊させてくれる気になったかよ、ギンナル~」
ルークのアホがまたとんでもないことを言ってやがる。
「う、うむ。そのうちな……」
「へへへっ」
貴族専門の窃盗集団、漆黒の牙に入隊希望をするキムラスカ王国の大貴族、ファブレ家のバカ嫡男ルーク。ここじゃなきゃ、絶対見れねぇ光景だよな。
ルークの残した最高級果物詰め合わせセットの残骸を、指でほじくって未練たらしく舐めとりながら、僕は生暖かい視線を二人に向けた。
同じように一歩引いた位置に居るガイは、顔を引きつらせて、胃の辺りを押さえている。
「うんうん、わかるぜ、ガイ。こんなバカの世話役になるなんて、きっついだろう? まったくどこの誰に似やがったのか。こんな風にした奴を見かけたら、僕がぶん殴ってやるぜ」
「は、ははは。あなたにだけは、無理だと思いますよ」
乾いた声を上げたガイが、なぜか僕の顔を見返しながら冷や汗を拭った。はて、いったいどういうことやら。
「ところで、おっさんよ。今日は無駄にダベリに来たわけじゃねぇーんだよ」
「あん? どういうことだ? 勿体ぶってねぇで要点を言えよ、要点。それじゃ僕にはまったく伝わらんぜ」
「ちっ……わかったよ。なんでもヴァン師匠がまたこっちに来ててさ、今度またおっさんと話したいってさ。屋敷で伝えといてくれって言われた」
なに? 総長が? 僕は久しぶりに会うことになる、騎士団のトップからの言葉に少し動揺した。
「なんで僕なんかと騎士団トップの人間が話したがるんだ?」
「知らねぇーよ」
「……一度本気で沈んでみるか?」
「うっ……なんでも、おっさんが研究してることについて、いろいろ聞きたいんだってさ」
「ふ~ん。教団の人間にしては、珍しいやつだな」
初めてルークが街へ降りてきたとき、総長とは少し話す機会があった。あれから何度か世間話程度は重ねていたが、それでも僕の研究について知りたいと言われたのは初めてだ。ダアトじゃ僕の研究はある意味有名だから、帰省中に僕の名前でも聞いたのかね。
「アダンテさんは、なんの研究してるんですか?」
話の流れで興味を抱いて尋ねてくるガイに、僕は苦笑を浮かべた。
「まあ、あれだよ。少なくとも、教団の人間なら絶対に研究しないようなことは確かだな」
僕の言葉にガイが首を捻る。ルークは最初から興味がない。ギンちゃんだけは僕の研究内容を知っているからか、どこか痛ましげに顔を伏せた。
気を使わせちまったかなぁ……。
「ともかく、用件は聞いたんだ。とっと帰りやがれ、くそガキどもがっ!!」
ここ二年間の間に、もはや何度響いたかもわからぬ怒声が、今日も今日とて教団の宿舎に響きわたるのであった。
【天然姫様、訝しむ】
怪しいのです。
申し遅れました。私はキムラスカ王家に属するもの、ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアと言うものです。
なにが怪しいのかと言えば、ここ最近、私の婚約者であるルークの様子が奇怪しいのです。
四年ほど前にマルクトに誘拐されたショックで、ルークはそれ以前の記憶を無くしてしまいました。それ以来、更なる襲撃を嫌ったお父様と叔父様の考えから、彼は屋敷の中から一歩も外にでることができない生活を強いられてきました。
少し話がずれましたね。ともかく、そんな理由から、ルークは屋敷から出ることができないはずなのです。
ところが、ここ最近ルークの下を訪れても、なかなか彼に面会させてくれないことが多いのです。いったいどういうことでしょう?
私、気になって仕方がありません。
ある日お付きのメイドの一人にそのようなことを洩らしたところ、彼女は気の毒そうに私を見据えました。
「姫様、知らなかったんですか?」
「なんのことです?」
「ファブレ家のルーク様が、ちょくちょくお忍びで外遊してるって噂、かなり有名になってますよ」
そのとき私が受けた衝撃がどれほどのものだったか、とても言葉では言い表せないでしょう。
ともあれ、私は事の真偽を確かめるべく、街へと繰り出すことに決めたのです。
幸いなことに、ここ最近、私の着手した港の開拓事業や療養所の増設などといった一連の事業を切っ掛けにして、街に暮らす人々との間にコネクションができました。
彼らと交渉を進めるうちに、城から離れて歩くことにもちょうど慣れてきたところなのです。
私はよく赤毛の若様が目撃されるという場所の一つに赴きました。今日はパン屋さんと呼ばれる食料品店の前に向かいます。
毎日メイドが伝えてくれるルーク目撃情報はとてもありがたいのですが、哀しいことに、今までは行き違いが多く、遭遇にまで至っていないのが現状です。
今日こそ捕まえて見せますわ!
拳を握り、私は張り込みと呼ばれるものを今日も続けるのでした。
【赤毛少年、外遊す】
俺は今日も今日とて、街へと出向く。
ここ最近は執事連中も諦め気味で、塀の上で手を振る俺に、疲れきった表情で手を振り返してきたりする。
「ああ──!! なんだか良心の呵責がすさまじい勢いで蓄積していく……!」
まあ、それに比例するようにして、ガイの胃痛も悪化していってるようだけどな。
「ともかく、さっさと行こうぜ。おっさんのとこには師匠が来てるはずだから、先に皆のとこ寄ってからだな」
「うーん……わ、わかった。しかし、ナタリア様は放っといていいのか?」
胃の辺りを押さえながらも、言うべきことは言う構えを崩さないガイ。
「あぁ……まあ、そのうち飽きるだろ。ナタリアは街の連中にも好かれてるみたいだし、どうにかなるなんてことはないだろうしな」
「まあ、そっち方面に関しては俺も心配しちゃいないけどな。それよりも、アレ、きっとお前がどこに行ってるのか気になってる証拠だぞ。きちんと会って言っておいた方がいいんじゃないか?」
ガイのもっともな忠告に、さすがの俺も唸ってしまう。
正直、俺はナタリアが苦手だ。ある程度意識がしっかりしてから、これまで何度か会ったことがあるが、その際あいつが随分と『俺』のことを心配してくれていたのはわかった。
しかし、である。
どうも俺にやたらと記憶を取り戻させたがる傾向がナタリアにはある。あんま記憶無くしたことで損したような事がないもんだから、俺としては非常に扱いに困る相手だ。
ガイのように一から俺と付き合ってくれた相手が、今更記憶をどうこう言うような事がない分、余計に対応に困っちまうのである。
「まあ、そのうちあいつも諦めるだろ。確か、今日はパン屋の前に張り込んでるだったか?」
「あ、ああ。姫さん付きのメイドが言うには、そうらしい」
「よし、今日はルートBで向かうぜ」
「ナタリア様もお可哀相に……」
わざとらしい動作で、ガイが目尻を拭う。
情報をリークしてるお前が言えた義理じゃないと思うけどな……。
俺は半眼でガイを一瞥した。
ともあれ、俺たちは見事にナタリアの張り込みポイントを避ける道筋を通って、皆の下に向かった。
「よっ! みんな」
門を潜りながら皆に声をかけると、庭で遊んでいた連中が一斉に顔を上げる。
「ルーク兄ちゃん!」
「ルークの兄貴だーっ!」
「ルークさんですか」
「ルーク兄様だ……」
「げげっ、ルークかよ」
連中が一斉に声を上げて、俺の近くに駆け寄ってくる。
「へへへ。今日も来たぜ」
ここ二年の間に大分親交を深めたおかげで、最初は人見知りしてた年少組のやつらも随分と俺に懐いてくれるようになった。
二年前は屋敷の中が全てだった。
今では屋敷の外にも、世界は広がっている。
こんな毎日が、いつまでも続けば良いんだけどなぁ……。
最近の俺は気付くと、いつもそんなことばかり考えているのであった。
【不良神官、相対す】
「お久しぶりすっね、総長。こんなあばら屋で、すまねぇとは僕も思うんですけど、まあ我慢して下さい」
「構わん。今更気を使うお前でもあるまい」
散らかりまくった部屋にやってきたヴァン総長に、僕は適当に場所を切り開いて座るよう促す。大抵の相手はこの部屋の惨状を目にすると顔をしかめるのだが、総長は肝が座っているようで、眉一つ動かさなかった。
「ところで、僕の研究が詳しく知りたいとか言う話でしたっけ?」
「そうだ。ダアトに帰ってから驚いたぞ。アダンテの名前では知られていなかったが、お前のフルネームは向こうではかなり有名なようだ。知り合いの詠師にお前の名を尋ねたところ、仰天されたぞ」
ああ、だろうな。確かに教団の連中にしてみれば、僕の名前は鬼門に等しいだろう。そんなものがオラクル騎士団主席総長なんかの口から飛び出るなんて考えもしなかっただろうしね。
「まあ、それを知った上で僕なんかのところを尋ねる総長もかなりの変わりもんですけどね」
「ふっ……違いない」
「とりあえず、どうします? 一応わかり易い資料とかは昨日のうちにまとめときましたよ。見るんなら、勝手にどうぞ。実は僕昨日あんま寝てないんですよ。だから、ちょっと寝てきますわ。見終わったら、呼んで下さい」
「わかった」
ずしりと積み重なった資料を指し示し、僕は総長に背を向ける。
無礼なやつだと思われただろうが、今更上の人間のご機嫌を伺うような立場でもないし、どうでもいいってのが本音だ。
「これは……」
資料を目にした総長がなにやら驚愕したように呻き、ついで表情を喜悦に歪めるのが視界に映る。しかし僕はそんなことよりも訪れた生理的な欲求に従い、寝室へと引っ込むのであった。
【天然姫様、遭遇す】
私、泣いてなんかいませんわ。
夕陽が空を彩り始める時刻になりました。今日もルークは一向に現れません。パン屋のおじさまが私に気付いて、お昼ご飯をご馳走してくれたのは、お城の皆には秘密ですわね。
とにかく、私は今日も何ら収穫を得られぬまま、お城に帰ることになりました。
とぼとぼと街の整備された道を歩いていると、どこか近くで、よく聞き知った声が耳に届いたような気がしました。
「いったい誰の声かしら?」
幸いなことに、まだ少しだけ時間はあります。興味を引かれるまま声のした方向へと歩き、私は通路を右に曲がって大通りに出ました。
そこはローレライ教団の王都在住の方々が暮らす住居がある通りでした。
ふと目線を上げると、少しくすんだ色合いをした真紅の長髪が視界に飛び込んで来ました。
「ルークですの!?」
私が驚いて思わず上げた声に、彼はこちらに気付いて、顔をしかめるのがわかりました。まったく、意地悪な人です。
「げげっ、ナタリア! やばい、なんでか知らねぇーけど、ここがばれたぞガイ!」
「あーあ。やっぱりな。だからいつまでも隠し通せるはずがないって俺は言っただろ」
「そんな説教はどうでもいいっつーの。それより、早いとこずらかるぞ」
「やれやれ。まだ逃げるのか? いいかげん話してやれよ」
「馬鹿言うな。俺の心のオアシスになんで天敵をわざわざ招き入れなきゃいけねぇーんだよ」
そう。そういうことでしたの……。
私のことを無視して、奉公人のガイと話続けるルークに、私もさすがに我慢の限界ですわ。
「ルーク!! 待ちなさい! 絶対に逃がしませんわよ!!」
逃げるルークと追いかける私の姿に、街を行き交う人々がきょとんと目を見開いていましたけど、今の私に周囲の視線を気にするような余裕はありませんでした。
この日を境に、街の人々の間に、一つの笑い話が語られるようになった。
曰く、逃げるは赤毛の王子さま、追うはお城の姫さま。普通なら、逆だよな?
当の本人たちからしてみれば、至極笑えない小話だったそうな。
【赤毛少年、逃走す】
どうにかナタリアを振り切って、屋敷まで逃げ帰った俺たちは荒くなった呼吸を整える。
「ぜぇっ……ぜぇっ……なんとか……逃げきれたか……」
「る、ルーク……まさか、これを今後も続けるつもりじゃないよな……?」
「うっ……」
屋敷の前で力尽きたガイが、地面に転がったまま呻いた言葉に、俺も返す言葉が見つからない。
さすがに、これを毎日続けるのはきつすぎる。
「あ、あれだな。しょうがないから、今後は街に降りる頻度を減らして、あいつとの遭遇に備えよう」
「……無駄な努力だと思うけど……」
「うっさい! いいんだよ! そう決めた」
「さいですか……」
力尽きたガイをその場に残し、俺は一足先に屋敷の中に入る。
出迎えたメイド達に手を上げて答えてやりながら、正面玄関から堂々と帰ってきた俺を奥の方から恨めしげに見やる執事連中にも手をふってやる。
「あ、そういえば、師匠ってこっちに来てるはずだよな? 屋敷には来たか?」
「いええ。ヴァン謡将はどうやら、本日は教団の宿舎の方にお泊まりになるようです。屋敷にはいらしておりません」
「そっか……」
アダンテのおっさんと話したいことがあるって言ってたけど、よっぽどいっぱい話したいことがあるのかね。
首を傾げて考え込むが、当然俺みたいなやつに師匠の考えがわかるはずもなく、もやもやした気持ちを抱えたまま、俺はその日を過ごした。
【不良神官、驚愕す】
……ん? カーテン越しに届いた朝日が目に眩しいぜ。
僕は起き上がって、微妙な鈍痛を訴える節々をポキポキ鳴らしながら背を伸ばす。
「ふぁああ。よく寝たぜ。……なんか忘れてるような気がするけど、思い出せないなら大したことねぇーか」
僕は顔を洗うべく寝室から出て、リビングを通過しようとしたところで、凍りつく。
「すばらしい……」
なぜか、オラクル騎士団主席総長が、積み重ねられた資料の横にいやがりますよ。
「そ、そそ、総長! なんでまたあんた、まだ家に居やがるんですか!?」
「む? ああ……どうやら徹夜をしてしまったようだな。すまない」
「いや、なんだか微妙に論点が食い違ってるような気がしてしょうがねぇーんですけど……」
「細かいことだ。気にするでない」
「そ、そっすか?」
すっげー納得できなかったけど、それ以上触れても意味がないと判断して、会話を打ち切る。
「ともかく、ちょっと待ってて下さい。身形整えてくるんで、適当に読み直してて下さい」
「わかった」
さすがに寝起きの顔をさらすわけにもいかないので、僕は慌てて準備をすませると、僕みたいな不良神官の作った研究資料を徹夜で読み明かした総長の前に駆け戻る。
「──っと、お待たせしました」
「いや、気にすることはない。私が勝手に読みふけっていただけなのだからな」
鷹揚に頷く仕種に、ああ彼は人を指揮する立場の人間なんだなぁと改めて思い知らされる。
「それで、どんな感じでした?」
「すばらしい。これまで研究されていた音素が司る現象領域の明確な定義付け。加えて、第七音素研究の過程をシュレー博士の思考実験の考察を中心に、コペンハーゲン派の考えからまとめ上げ、第七音素の司る力を《観測》と《確定》という既存の次元からさらに踏み込んだ、新たなる領域へと展開している」
静かな口調ながらも、確かな感情の昂りを感じさせる総長の言葉は続く。
「第七音素が司る力の本質は《消滅》に他ならない──このような結論を、ここまで理論的にまとめあげたレポートは初めて目にしたぞ」
ああ、そうなのである。僕はかつて、そんなとんでも論を主張するダアトの研究者だった。
僕のやってる研究とは音素解明学。なかでも第七音素関連に対象を絞っている。より詳しく話すと、さらに馬鹿げた話に行き着くのだが、そちらは話がややこしくなるだけなんで、今は省略する。
ともかく、未来を司る希望の象徴たる第七音素の集合意識体を崇めるのがローレライ教団の基本的な考えである。
そんな中で、僕の提唱した考えは異端以外の何ものでもない。第七音素が消滅なんていう絶望的に不吉な力を司るなんて提唱に、教団の研究者はこぞって僕を弾劾した。そしてひとしきり罵倒し終わると、ちょっとお前引っ込んでろとばかりに、キムラスカ王国の一駐在武官として学会から追放を言い渡した。
僕は異端の考えを保持する教団の人間なのである。
「これは前々から考えていたことだが、今回の件で確信に至った。アダンテよ、お前に折入って尋ねたいことがある。心を落ち着けて、聞いて欲しい」
いつものように、異端に対する罵倒が始まるんだろうか。少しげんなりしながら、僕はいつでも耳に指が突っ込めるように準備する。
しかし、次の瞬間耳に飛び込んだ言葉は、僕の予想だにしないものだった。
「我が直属の部下として、ダアトへ来ないか?」
「…………へ?」
告げられた言葉の意味が理解できません。このおっさん、今、僕になんていいました?
「えっと……耳がつまってたのか? すんません。なんか、ダアトがどうとか聞こえたような気がしたんですが?」
「そうだ。我が部下として、ダアトへ来ないか? アダンテよ」
瞬間、総長の気配が変化する。
引きずり込まれるような強烈なカリスマを放ちながら、総長は僕に向けて手を伸ばす。
「我が手を掴め……お前はこのような場所で埋もれているような人間ではない。私と共に来るのだ」
そうあることがまるで当然のように、総長は僕に向かって共に来いと促す。
あの神託の盾騎士団、主席総長ヴァン・グランツ謡将が、僕みたいな奴を必要だと告げる。この有り得ない勧誘に、少しも心動かされれないような奴はいないだろう。
当然僕もその例に漏れず、ふらふらと灯に引き寄せられる羽虫のように、総長へ手を伸ばす。
指先が相手の手を取ろうかという、そのとき。
「──アダンテ。少し上がらせて貰ってもいいだろうか?」
突如響いた第三者の声に、僕は我に帰る。今、自分はなにをしようとしていた?
「む。すまない、取り込み中だったようだな。出直そう」
「──待ってくれ、ギンちゃん」
総長を目にした瞬間、身を翻しかけたギンちゃんを呼び止めて、僕は総長に改めて向き直る。
「総長、僕みたいな不良神官を部下に誘ってくれたことは……とってもありがたく、思っています」
これは本心からの言葉だった。かつて異端の研究者として弾劾されて以来、僕の周囲に居た教団の知人は次々と僕から距離を取った。当然の選択だろうと、僕も思う。異端者と好んで付き合いたがるような物好きは、教団には居ない。僕は彼らの選択を妥当なものだと判断し、納得しようと努めた。
しかし、周囲の反応を納得すると同時に、僕の中で、ローレライに対する信仰心は急激に薄れて行った。さすがに信仰心が無くなるようなことはなかったが、それでもかつてのようにただ愚直なまでにスコアを信望するような真似は、僕には到底できなくなっていた。
続いて、教団の人間から自分の方からも積極的に距離を取るようになった。相手が自分を拒絶しているというに、近づこうとしても虚しいだけだったからだ。
出世などもはや縁遠いものであり、僕はこの王都に骨を埋めることになるのだろうと、静かな諦めと共に現状を受け入れた。
だが、今目の前に立つ男は、そんな僕みたいな奴に、お前が必要だと告げる。
こんなところで埋もれているような人材ではないと、訴える。
こんな言葉をかけられて、受け入れない道理はない……はずだった。
「しかし──その申し出は、受けられません」
はっきりと、誤解を許さぬ言葉で否定の意を返した僕に、総長がしばしの沈黙を挟み、口を開く。
「……理由は、話して貰えるのか?」
わずかな表情の揺らぎも見せない総長に、僕は頭をかきむしり、少しの照れくささを感じながら、その理由を言葉にする。
「この申し出が、僕がこの街にとばされた頃にされていたなら、それこそあっさりと頷いてたでしょうね。あの頃の僕は、この街が大して好きではありませんでしたから。……いや、むしろ憎んでいたかな?」
ダアトと異なり、スコアを道具のように利用する貴族達。一部の特権階級のみが莫大な寄付金と引き換えに、スコアを詠まれる教団のシステム。すべてダアトに居たころの自分にとっては思いも寄らなかった状況であり、なによりも許せない行為だった。
「でも、今は違います。この街も、そう悪くないと思っています。友人と呼べるような存在も、できちまいましたしね」
言いながらギンちゃんの顔を見上げると、僕の言ってる相手が自分だと気付いてか、ギンちゃんが顔をしかめた。照れてやがるのかね。まあ、かくいう僕もちょっとこっ恥ずかしいけどな。
ギンちゃんからはじまって、院長や副院長、孤児院の奴ら、ルークにガイ、いろんなやつらと、僕はこの街で出会ってしまったのだ。結ばれた絆は、もはや取り消せない。
「だから──総長の申し出は受けられません」
そう言葉を締め括り、僕は総長からの反応を待つ。
そうか、と短くつぶやくと、総長はギンちゃんに視線を向け、目を細める。
「貴殿がギンナル殿か。アダンテからよく耳にしている。……良い友を、お持ちだな」
「あまり認めたくはないことだが……俺も、そう思う」
「ふっ。アダンテの事は惜しいと思うが、貴殿に免じて、ひとまず諦めることにしよう」
ギンちゃんの肩を軽く叩くと、総長はもう一度僕を振り返る。
「決心は硬いようだな」
「ええ。ほんと……すいませんでした」
この出会いが、かつてのダアトでなされていたら、話は違ったかもしれない。異端と蔑まれ、逃げ出したあのときに、総長のような人間と出会えていたら……そんな考えがどうしても打ち消せずに、僕は何度も総長に向けて頭を下げる。
「顔を上げるのだ、アダンテよ。自らの意志をもって未来を掴み取ろうとする人間を、私は尊敬している。お前が気に病む必要など、なにもないのだ。だが、もしもこれから先、お前の気が変わるようなことがあれば、いつでも私の下を尋ねて欲しい。どれほど時間が経とうと、私はお前を迎え入れよう」
あくまでも、僕を必要としているという姿勢は崩さずに、いつまでも待っていると総長は言い含めた。
「――さらばだ、アダンテよ」
最後の最後まで、その懐のでかさを見せつけると、総長はこの部屋から去った。
去り際に、総長の視線がギンちゃんを一瞥する。向けられた視線に、どこか暗いものが浮かんだような気がしたが、僕は特に気にするでもなく、総長を見送った。
どこまでもあっぱれな漢ぶりだったよなぁ……。
感心しながら総長の去って行った背中を見据えていると、ギンちゃんが少しバツが悪そうに問いかける。
「どうにも話が掴めないままだったが……随分といい誘いのように聞こえたぞ。本当に、よかったのか?」
僕に心配そうな視線を向けるギンちゃんに、僕は笑いかけてやる。
「がーはっはっはっ! まあ、友に代わるような対価はありねぇーってことだな」
「な、な、な」
僕の正直な思いの吐露に、しかしギンちゃんは上擦った声を何度も上げた。
「照れるな照れるな」
「照れとらんわ~っ!」
いつものように、僕はギンちゃんとの掛け合いを通して、この得難き日常の心地よさを実感する。
……思い返してみれば、この日がある意味では一つの転機だったんだろう。
僕たちの世界は……──緩やかに、軋みをあげる。