無限の水が、無限の空間を覆い尽くしていた。
どこから来るかも分からない淡い光が、水以外何もない空間を暗い青色に染め上げる。
上下左右も存在しない、確実に現実ではない世界。
そこに、どこからともなく、半透明のゲル状の物体が、球状になった状態で現れた。
「見つけたぞ」
それがプルプルと震えると同時に、その世界に声が響いた。
数拍置いて、それの傍に突然強い光が現れた。
その光が弱まるにつれ、その光の中央に、徐々に人の形が見え始める。
やがてある程度光がおさまると、そこには白いワンピースを着た一人の女性が佇んでいた。
しかし、背中に広がる大きな純白の翼と、人間から畏怖される先の尖った長い耳を見れば、彼女が人間ではない事は明らかだった。
「そうですか、見つかりましたか。7年ですから、思ったよりは早かった、と言ったところでしょうか」
腰まで伸ばしたブロンドの髪を揺らしてほほ笑む。
その姿は、この世の全てが息を飲むほど美しく、全ての知性ある生物が平伏してしまいそうなほどの神々しさを備えていた。
彼女が現れるとともに、水と淡い光だけだった空間が強い光で照らされ、綺麗なスカイブルーとなったその世界を、真っ白な羽根が漂い始める。
「……貴様の“世界”は未だに慣れぬ」
ゲル状の物質が震えながらそう言った後、グニョグニョと形を変えて、目の前の女性の姿になり向き合った。
「私だって、水に満たされたあなたの“世界”にはまだ慣れません。結局の所、精霊同士の精神世界を繋げることに慣れる事など無いのでしょう」
先程目の前の女性に変化したゲル状の物質――水の精霊は、自分と彼女の精神世界が干渉しあう事によって出来上がった世界をぐるりと見渡した。
自分と今の彼女が対話するにはこの方法しかないとは言え、あまりこの感覚は好きではない。
「見つかった“移ろいし者”はどこにいましたか?」
女性が笑顔で水精霊に問う。
「我との盟約の一員だった。今は他に盟約を交わした単なる物と暮らしている」
「まあ。それほど身近にいたのですか。数奇な巡り合わせですね。しかしそれならば、見つかるまで7年もかかったのはむしろ長かった気が……」
その女性は手を口元に当てて驚いた後、首を傾げてそう言った。
「“時”が来るまでに間に合えば問題無かろう。魂の落とす先をこの大陸に限定するだけでも難儀なのだ。それ以上を求めるな。それに、我もそれ程近くに居るとは思わなかったのでな」
「灯台下暗し、と言う事ですね」
「……何だそれは?」
「“あちら側”の慣用句で、手近の事情は返って気付きにくい、という意味です」
「そうか…まぁいい。奴に接触した際、我の一部を吸収させた。これで奴がどこに居ようと常に把握できる」
「そうですか。これで一安心ですね」
そう言うと女性は翼をゆっくりと揺らして、ほっと一息ついてから再び笑い、言葉を続けた。
「それで、“移ろいし者”には何か教えましたか?」
「我が転生させたとは言っておいた。“時”が来るまで死ぬなともな」
それを聞いた女性が不思議そうに首を傾げた。
「正確には“転生”ではなく、“憑依”ではありませんか?」
「本来ならば、あの単なる者は“移ろいし者”としなければ、生まれてすぐに命を落としていた。ならば転生と言っても違いはあるまい」
「たまたま魂を植え込んだ子が、そうだっただけなのでしょう?」
「あぁ、ただの偶然だ」
それから少しの間沈黙が続いた。
水と光と羽根の、幻想的な空間が無音に包まれる。
その後、思い出したように女性が口を開いた。
「そう言えば、その“移ろいし者”は男性ですか? それとも女性ですか?」
「両魂とも男だ」
女性は「そうですか」と呟くと、眉根を寄せ悲しそうな顔になり目を伏せた。
「……やはり、彼を犠牲にしなければならないのでしょうか」
その長い耳も心なしか下へさがり作られた表情はしかし、美しさが損なわれる事は全くない。
「心苦しい、とでも言うつもりか」
「……」
女性は水精霊の言葉に答えず沈黙する。
それを見た水精霊が再び声を発した。
「片方の魂は記憶を失い、輪廻の輪に組み込まれるはずだった者。もう一つの魂は、脆弱でまともな生を受けずに死に行くはずだった者だ。いずれ生贄となる運命でも、貴様の言う罪悪感とやらは薄れるのではないか? “大いなる意志”よ」
「……馬鹿な事を言わないでください。損得の問題ではないのですよ?」
“大いなる意志”と呼ばれた女性は、水精霊の言葉にその形の良い眉を顰めたが、目の前の精霊が悪気があって言っているのではない事は分かっていたので、それだけにとどめた
「ヒトの心、と言うやつか。我には解せぬな。そのような物を理解している精霊など貴様くらいのものだ」
「そうでなければ、過去にエルフ達を導く事などできませんでしたから。……いえ、あの時はまだ完全には解っていませんでしたね。数千年間色々な人の世を眺めてきて、ようやく理解する事ができました。ところで、あなたの口ぶりからして、“移ろいし者”の魂は正常に混ざり合っていると思ってよいのでしょうか?」
「あぁ、一つの魂として形成している。もっとも、片方の魂が虚弱だったために、我が引き寄せた魂がそれを完全に取り込んでしまっているがな」
「……計画は順調に進んでいますね」
大いなる意志はまた目を伏せた。
しかし、それに対し水精霊は突き放したような声色で言う。
「割り切れ。さもなくば世が滅ぶと貴様自身が予知したのだ。それを一人の人間と二つの魂で止められる。安い物だ」
「ですから、損得の問題ではないのです。……分かっています。私も始祖ブリミルとの盟約を果たす為に六千年間も力を溜めてきたのですから」
「……分かっているならばいい。貴様の力の補填は間に合いそうか?」
「えぇ、まだ“時”が来るまで十年以上ありますし、私の方はあと数年で完了します。ようやく何もできない日々から脱する事ができそうです」
彼女がそう言うと、水精霊はまるで笑っているかのようにプルプルと震えた。
「何もできないと言う割には、随分と大それた事をしたではないか。“あちら側”に貴様の分身を送り込むなどと。“あちら側”の秩序が壊れたらどうするつもりだったのだ」
「あら、もしかして“移ろいし者”から聞きましたか? 大丈夫です。私の分身には人間以上の力を与えてはいませんから。それ以前に、彼は自分が普通の人間だと思っているでしょう。私は、私が予知した“記憶”を彼に送り込んで、そして小説を書くように思考を操作しただけなのですから。“あちら側”の秩序が乱れる事はありません。もっとも、それが発端でちょっとした社会現象が起きてしまいましたけどね。問題はその小説をどうアドリブで完結させるかです。私の記憶は破滅の記憶ですから」
彼女は、まるでお茶目な悪戯がバレた時の子供のように笑いながらそう言ってから、今度は少し悲しそうに言葉を続けた。
それから「さて、」と言って、彼女はまた全てを包み込むかのような笑顔を浮かべた。
「もう話す事もありませんね。またこうして話す時までお元気で」
「……待て」
自分に背を向けて消え行こうとした大いなる意志を、水精霊は呼びとめた。
彼女が「何でしょうか」と言って振り返る。
「“奴”の存在により、“こちら側”が“本来進むべき道”からどれだけ外れているか一応調べるぞ」
その言葉に、彼女は少し驚きつつ口を開いた。
「しかし、世界の狭間にいる今の私では、それを詠む事などできません。その世界へ繋がる媒体がない限りは――」
そこまで言って、彼女は水精霊の言わんとする事に気付いて口を閉じ、真剣な顔をした。
「あぁ、我が媒体となり力を貸す」
「そう言う事でしたら、私は構いません」
そう言うと彼女は水精霊の前まで行き、「手を合わせてください」と言って右手を差し出した。
水精霊もそれに右手を合わせる。
それを確認した大いなる意志は目を閉じると、背中の翼を悠然と、大きく広げた。
それと同時に、彼女の翼と、辺りを漂っていた羽根が薄く光り出し、その空間を更に明るくする。
それからしばらくして、大いなる意志の表情が険しくなった。
「これは……!」
「どうした?」
「かなり大きな“ズレ”が生じています。それも一人の人間ができる範囲では最大級の物が。私達が一人の人間をあの世界に送るだけで、これ程正史から離れるなんて……!」
「何か問題はあるのか?」
水精霊の問いかけに、大いなる意志は首を横に振った。
「分かりません。この世界が、形は違えど本来の道を進むのか、それとも全く違う道を進むのか……」
「貴様が予知する事はできぬのか?」
「今そのような事をすれば、“時”が来るまでに力が足りなくなってしまうかも知れません」
「……そうか。ならば奴に与えた保険が、いずれ役に立つかもな」
「少なくとも、未来が大なり小なり変わるでしょう。……“大災厄”の未来も無くなってしまえばいいのに」
彼女は最後に、わずかな憎しみを込めて呟いた。
「有り得ぬ事だ」
水精霊の短い返答に、彼女は「そうですね」と返してから、目を開いて水精霊から離れた。
「他にやり残している事はありますか?」
「いや、ない」
「そうですか。今はより良い未来になる事を祈るしかありませんね。私もいつかそちらへ伺う事もあるかも知れません。それでは、ごきげんよう」
そう言うと大いなる意志は、先程現れた時のように眩い光に包まれ、それが薄れると共に消えていった。
それと同時に、空間を支配していた強い光と純白の羽根が消える
「……道を違える可能性もある、か。死ぬんじゃないぞ」
再び水と淡い光で覆い尽くされた世界で、水精霊がぽつりと呟いた。