曇り一つない朝の陽光が差し込むモンモランシ邸の一室、窓から入り込む光と鳥のさえずりに一人の少年が目を覚ました。
寝転がったまま首だけ動かしてテーブルの上に目を向けると、そこには鞘に入れられたままの一振りの剣。
それを確認すると、グラムはまだ眠そうな翠緑色の瞳をニマーッと更に細めた。
あれからヴァリエール邸を発って二日、昨夜帰ってくるとこの杖剣が家に届いていたのだ。
すぐに杖の契約をすると、もう遅かったのですぐに寝てしまったが、今日からこれを使っての修行が始まる。
既にフラン街で剣の指南書は仕入れてあった。
治療活動などをしながら、空いた時間で自分を鍛えていこうとグラムは思った。
そろそろ起き上がろうと思い、グラムは体に力を入れてみたが、
「あれ?」
体がうまく動かない事に気が付いた。
それに、なんだか柔らかくて暖かい物が自分に密着しているような……。
グラムは不審に思って、自分を覆っていたシーツをめくって見ると、そこには、
「すぅー、すぅー」
グラムの胴体をガッチリとホールドして寝息を立てているモンモランシーがいた。
なんでモンモランシーが俺のベッドに?
今までこんな事が全くなかった訳ではないが、昨夜雷は鳴ってなかったはずだ。
それ以前に雨も降っていなかった。
「んー、にゅぅー」
「うわっ!」
そうやってグラムが呑気に考え事をしていると、モンモランシーが体のホールドをそのままにグラムの胸に頬ずりをしてきた。
くすぐったくてたまらずに身をよじったが、グラムの力ではモンモランシーの拘束から逃れる事ができない。
あぁ、妹に力負けするなんて、絶対に体を鍛えよう。
しょうもない事で久々にささやかな男のプライドを傷つけられたグラムは、人知れず心の中で決意した。
いや、今はそんな事よりも、
「ちょ、モンモランシー、起きて、お願いだから!」
「ん……んぅー?」
グラムはモンモランシーの背中を叩いて起こそうとした。
モンモランシーが妙な唸り声をあげて、ゆっくりと瞼を開く。
「ふわぁ~、おはようお兄様」
あくびを噛み殺しながら、モンモランシーがそう言った。
しかしまだグラムは抱き枕状態である。
「おはよう、モンモランシー。あと、腕を離してくれると嬉しいなー」
「ふぇ?……あっ!」
そこでようやく覚醒してきたモンモランシーが、今までグラムを抱き締めていた事に気付き、慌てて拘束を解いた。
やっと動けるようになったグラムは身を起こし、伸びをする。
「うー…ん、ふぅ。ところで、何でモンモランシーが僕のベッドに?」
わずかに顔を赤くしながら身を起こしたモンモランシーに、グラムが問いかける。
するとモンモランシーは言い難そうに少し俯いた。
「えと、お兄様が、その、ルイズと仲良さそうだったから……」
そこで言葉が切れる。
だが7年間彼女と一緒に生きてきたグラムは、それだけで大体の事情を理解した。
ヴァリエール邸から帰る前、モンモランシーの言う通りグラムはルイズと親しげに話をしたりしていたのだ。
もちろん、アンリエッタとモンモランシーも交えて。
まぁ、その前に一度素を出して話し合ったことだし、前より仲が深まった感じはあった。
それを敏感に感じ取ったモンモランシーが、自分がルイズに取られやしないかと不安になって、それを払拭するために潜り込んできたのだろう、とグラムは考えた。
「僕がルイズに取られちゃうとでも思った?」
一応グラムはモンモランシーに聞いてみた。
すると、モンモランシーは顔を更に赤らめてわずかに頷いた。
ここは喜ぶべきか、モンモランシーの将来を心配するべきか、グラムは少し判断に迷った。
後々の為に、少し兄離れさせておいた方が良いかも知れない。
「大丈夫だよ。ルイズとはそんなんじゃないし、例えそうなっても遠くには行かないから」
取りあえず今はそう言ってモンモランシーの頭を撫でてやる。
それから顔を洗ったりする為に、ベッドから降りて床に足を付けた。
すると、
「ん? なんだこれ?」
グラムは足の裏の違和感に気付き、戸惑った。
床の微細な振動が何となく解るのだ。
足先にもっと意識を集中させてみると、何人ものメイドがあちらへこちら
へと移動しているのが感じ取れた。
更に、床の厚さと強度まで。
その時グラムは、過去に読んだ魔法書の一節を思い出した。
曰く、メイジは得意な系統の熟練度が上がっていくと、その系統に応じて特殊な体質を手に入れていくらしい。
『土』メイジは物の厚さや強度、振動を感知し、熟練するにつれてその感度も上がっていくとも書いてあった。
という事は、やはり自分の『土』としての熟練度が上がったという事で間違いないだろう。
魔法が使えるようになってからは、ほぼ毎日精神力が切れるまで魔法を使いまくってきていたのだ。
治療活動の日は勿論、それ以外の時は“錬金”や“アースハンド”などの『土』魔法を限界まで練習していた。
そろそろこういうのが解るようになっても、おかしくはない。
「あれ? お兄様、私、なんだか変だよ」
後ろから声をかけられたグラムが振り向くと、モンモランシーは両手の平を上にして、不思議そうに中空を見つめていた。
「変? 僕じゃなくて、モンモランシーが?」
「うん。空気の中の水が、どれくらいあるか分かるっていうか……」
どうやらモンモランシーも、『水』メイジとしての体質を手に入れたらしい。
双子揃って同時と言うのは何か理由があるのか? とグラムは疑問に思いつつ、顔を洗って朝食に向かう事にした。
グラムが朝食の席で家族にそのことを報告すると、伯爵夫妻もフレイも驚いていた。
「まぁまぁ。もうそれが解るようになったのね。7歳でもうラインになっちゃうなんて、二人とも凄いわ」
「え? 僕達ラインになったんですか、母様?」
「えぇ、それが解るのはラインになってからだもの。私も物の振動を感じ取るのは得意なのよ。多分グラムもそうなるわ」
その後伯爵は「さすが私の子供だ」などと言って笑い、学院入学を控えたフレイは、自分よりも4年も早くラインに辿りつかれた事に若干凹んでいた。
朝食を食べ終わったグラムは、早速試しに中庭に出てみた。
目を瞑り、足元に全神経を集中する。
するとどうだろう。
屋敷の周りの木々が風に撫でられ、ざわざわと揺れる振動、小さな動物が草を踏みしめる振動、屋敷内で働く使用人達が床を歩く振動などを感じ、分類する事ができた。
まだ方向などは解らないが、これだけで十分役に立つ。
意識しなければこういった事は感じ取れないので、慣れてしまえば普段は気にならないだろう。
いい能力を手に入れた物だ。
これを伸ばしていけば、見えなくても敵の気配が分かったりするかも知れない。
あぁ、そういえばラインにも昇格したんだった。魔法も試してみなければ。
剣術を覚えようとした矢先、一気にやる事が増えたグラムであった。
しかし、それでも優先すべきは杖剣だ。
グラムは一度自分の部屋に戻ると、剣術の指南書と杖剣を取り出して再び中庭に出た。
杖剣と一緒に普通の杖も懐に入れる。
ブリミル教の教義上、同時に複数の杖を持ち歩く事はあまり好ましくないらしい。
しかし、あくまで好ましくないだけだ。
何か罰が下る訳でもないので、信仰心のほとんど無いグラムは普通に持ち歩く事にしていた。
指南書を開いてみる。
やはり、基礎は体力づくりと、筋トレと素振りらしい。
やっぱそうなるよなー、と思いつつ、グラムは鞘から杖剣を抜いた。
7歳児でも持てるように、小振りに作られた白い両刃の剣。
自分の体では重く感じるそれを正面に構えると、振り上げと振り降ろしを繰り返して素振りを始めた。
取りあえず指南書に書いてある事を再現するようにしているが、これで合っているのかは正直分からなかった。
やはり誰か指導者が必要だろうか、とグラムは思いつつ、何にせよ体を鍛える為には悪くないだろうと素振りを続けた。
だが、数分もすれば息が切れて続かなくなる。
荒い息をついて、グラムはその場に座り込んだ。
「はぁ、はぁ、あー、やっぱり小さい頃からもっと外で体を動かすべきだったか」
傍から見ればまだ十分小さいグラムはそう呟いた。
しかしボヤいても始まらない。グラムはある程度体力が回復すると立ち上がり、素振りを再開した。
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数日後の昼頃、グラムはモンモランシーと一緒に護衛を従え、フラン街の入口前に立っていた。
無論、治療活動のためである。
「この街も久しぶりだね、お兄様」
隣に立つモンモランシーがそう言う。
「確かにね。大体3週間くらいか」
即位記念パーティーから初めての治療活動だ。
その前は他の街に出ていて、ここにはしばらく来ていなかった。
他の街に行った時は「ここにも“癒しの双子”が来なさったぞ!」などと騒がれ奉られ大変だったが。
「治せる人が倍になったんだし、今まで来れなかった分もたくさん治すわよ」
あの後分かったのだが、驚いた事にグラムは水系統もラインに上がっていた。
3日に1回はフラン街や、他の街にも出て限界まで治療活動をしていたのだから、別におかしい事ではなかった。
生憎、モンモランシーのように空気中の水分量が解るようになったりはしなかったが、治療できる人の数が2倍に増えた事は単純に好ましかった。
フラン街に入っていくと、グラム達に気付いた住人達が「グラム様とモンモランシー様が来たぞー!」などと言って、大声で騒いで歓迎された。
治療活動で具体的に何をやるかと言えば、ただ住人達に囲まれながら街を一通り回って、怪我人がいたら適宜それを診ていくだけだ。
とは言っても、街を回り切る前にいつも精神力が切れてしまうのだが。
今回もいつもと同じように、見慣れた街を巡回しながら、そこに住む人達と話をしたり、“治癒”をかけたりしていく。
道中モンモランシーが色々な人にラインになった事を自慢していたが、平民達に魔法の事が分かるはずもなく、曖昧に「おめでとうございます」と返されるだけで終わっていた。
怪我を治してもらった人が二人にお礼を言い、それにモンモランシーは満面の笑顔で返す。
こうやって治療をした後に感謝されるのが本当に嬉しいらしい。
この二年で、モンモランシーの平民に対する差別意識は、ほとんど無くなっていた。
それを見たグラムは、嬉しそうに微笑んで、思わずモンモランシーの頭を撫でた。
「お、お兄様、いきなりどうしたの?」
人の往来の真中でいきなり頭を撫でられたモンモランシーは、戸惑いと照れを混同させてグラムに尋ねてきた。
それにグラムは「別に」と笑顔で答えると、さっさと次の怪我人の下へ行ってしまうのだった。
そうこうしている内に治療活動が終了。
二人がラインになっても、街を回り切る事ができなかった。
さすがは領内最大の街といった所か。
住人達に見送られながら、馬車に乗って帰路につく
そのまましばらく揺られて、すぐにモンモランシ邸に到着した。
馬車から降りて屋敷に入ると、一人のメイドが何か紙を持って二人の下に歩いてきた。
「グラム様、モンモランシー様、ルイズ様より手紙が届いております」
「ルイズから?」
グラムが聞き返す。
そういえば、こっちからも手紙を送ると約束していたが、帰ったら色々あって忘れてしまっていた。
グラムはメイドから手紙を受け取り、その場で開いて読んでみた。
どうやら、カトレアの快復記念に、姉妹三人でトリスタニアに出掛けに行ったらしい。
その時の様子が事細かに手紙に書かれていた。
隣で読んでいたモンモランシーが「楽しそうだね」と言い、グラムがそれに頷く。
『虚無』の担い手という立場上、辛い事が全くない訳ではないだろうが、こう言った楽しい事があるに越した事はなかった。
『あなた達も、ルイズを支えてくれるかも知れないって思ったから』
カトレアの言葉を思い出す。
ルイズに直接会えない内は、こうやって文通する位しかルイズを支える術はないだろう。
「よし、それじゃあ、返事を書こうか」
「うん」
ならばすぐに返してやるのがグラムにできる最善だった。
グラムはモンモランシーと話しながら、ラインになった事や、今日行った治療活動などを書き連ね、モンモランシ家の伝書鳩にその手紙を託し、ヴァリエール家に向けて放った。
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「え?」
翌朝、朝食が終わった時に自らの父に言われた言葉に、グラムは思わず素っ頓狂な声をあげた。
「今、何と仰いました?」
取りあえずグラムは、自分の聞き間違いか確認する為にそう言った。
「だから、今日は水精霊に、お前達二人を盟約の一員として認めてもらう為の儀式を行うと言ったのだ」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
「という事は、今日水精霊と面会すると。父様も含めて」
「その通りだ。本当は領地開拓の際にやってしまおうと思っていたのだがな、お前も知っている通り色々と計画が狂ったのだ。ようやく落ち着いてきたので今日やろうと思ってな」
厳かに頷く伯爵を見て、グラムは固まったまま冷や汗を垂れ流し始めた。
(おいおいおいおいおい! お家没落危機から脱したと安心してたら思わぬ危険イベントが潜んでたよ!?)
もし伯爵が水精霊と面会した際に怒らせてしまったら、おそらく原作通りこの家は交渉役から外されてしまう。
開拓が失敗して借金を背負うよりかはマシだろうが、交渉役から落とされるとこの家にとってそれなりの痛手になる。
最も大きいのが、新しい交渉役になった家に、ラグドリアン湖に面する領地を取られてしまう事だ。
それにはフラン街も入っている。
つまりあの街が他の貴族の領地になるという事だ。
当然、そんな所に頻繁に治療活動に出る事などできない。
「えーと、それって絶対にやらなくちゃいけない…ですよね?」
「当たり前だ」
一縷の望みをかけて聞いてみたが、返ってきたのは予想通りの短い答えだった。
グラムは誰にも分からないようにため息をついた。
こうなれば自分の父親が、水精霊を怒らせないように祈るしかない。
あぁ、無いとは思うがモンモランシーの言動にも気を配らなければ。
グラムがそう考えている間にも時間は過ぎていき、昼食の後、伯爵とグラムとモンモランシーはラグドリアン湖畔まで馬車で来ていた。
三人は湖の水際に立って、伯爵が二人の前に出た。
「お兄様、大丈夫? 顔色が悪いよ?」
モンモランシーが、顔色が心労で悪くなっているグラムの顔を心配そうに覗き込んだ。
「う、うん、大丈夫。ちょっと緊張しているだけ」
グラムは笑って返したが、実の所前に立つ自分の父親が気が気ではない。
伯爵は自分の手を持参したナイフで切りつけて、その血を湖に垂らすと、杖を取り出して手の傷を治した。
「水の精霊よ。我との盟約の下にその姿を現したまえ」
そう言うと伯爵は何かの呪文を唱え出した。
しばらくそのまま伯爵の声が響いていたが、やがて伯爵の前の水がボコボコと盛り上がり出した。
それは伯爵と同じ位の高さまで上がると、しばらくグニャグニャと形を変えた後、透明な伯爵の姿になった。
それも裸の。あまり見栄えがいい物ではない。
「何用だ、単なる物よ。我は忙しい。貴様達の相手をしている時間はない」
水精霊がフルフルと震えてそう言葉を発した。
何となく不機嫌そうな声に、グラムは背中に冷や汗を流す。
どこかで聞いた事のある声だなとか、精霊に時間なんて概念があったっけとか、色々と思う所はあったが、今はそれどころじゃなかった。
時間はないとハッキリ言われているのだ。
自分の父親が引き下がってくれる事をグラムは願った。
「そうはいかない。私の子供達をお前の盟約の一員として認めてもらいたい」
それを聞いてグラムはもう半分色々と諦めた。
水精霊は、伯爵の形をとった顔をグラムとモンモランシーに向けた。
「それはそこの二人の事か? ―――ほう、なるほど…」
「あの、水精霊様、どうしても駄目ならばまた日を改めても構わないのですが」
自分達を見てまたプルプルと震える水精霊に、グラムはおずおずとそう言った。
「いや、今我のすべき事は終わった。貴様達を盟約の一員とする儀式を始めよう」
しかし水精霊は態度を一変してそんな事を言い出した。
「え? いいんですか?」
「構わぬ、始めるぞ」
そう言われたグラムとモンモランシーは、慌てて懐からナイフを取り出した。
手順は伯爵から聞いている。
まず二人はそのナイフで指先をわずかに切った。
指先から少しだけ血が滲み出てきて、モンモランシーが痛そうな顔をする。
次にしゃがんで、その手をラグドリアン湖の水に浸した。
すると、水に溶け込み始めた二人の血が、水精霊に吸い込まれていく。
「っ!?」
その時、グラムは自分の指先から何かが入り込んでくるような感じがした。
それに驚いて体をビクリと震わせてしまう。
「お兄様、どうしたの?」
声をかけられ、グラムはモンモランシーの方を向いた。
モンモランシーは何ともなさそうだった。
今の感覚は自分にだけ起きたのだろうか。
取りあえず、グラムは「大丈夫」と言って、再び水精霊に向き直った。
水精霊の中に取り込まれた血液が、徐々に薄くなって消えていく。
「これで儀式は完了した。貴様達を我との盟約の一員として認めよう」
「協力に感謝する」
やがて血が完全に消えた時に言った水精霊の言葉に、伯爵がそう返した。
それを聞くと、水精霊はまたゴポゴポと湖の中に溶け込んでいった。
それを見届けたグラムはどっと肩の力を抜いた。
よかった。どうにか水精霊を怒らせずに済んだ。
同時に指先が痛んだ。先程切りつけた傷がまだ塞がっていない。
杖を取り出して指へ“治癒”をかけようとしたが、その前にモンモランシーがグラムの手を取って、呪文を唱えてその指を治療し始めた。
「モンモランシー?」
「お兄様の怪我は、全部私が治す」
モンモランシーが、指の傷を見つめながらそう言った。
あっという間に傷は治り、グラムが「ありがとう」とお礼を言うと、モンモランシーはにっこりとほほ笑んだ。
そこに伯爵から「帰るぞ」と言われ、グラムとモンモランシーは伯爵の後ろに付いて歩き出した。
その後グラム達は屋敷まで戻ってきた。
グラムは、これから魔法の練習でもしようかと思いながら、玄関口まで到着する。
「あっ」
そこで、グラムは一つ大事な事を思い出した。
いきなり水精霊と会うという事で忘れてしまっていたが、あの精霊には将来アンドバリの指輪が奪われる可能性を伝えておく必要がある。
あれがクロムウェルの手に落ちなければ、死体のウェールズが利用される事もないだろうし、それ以前にアルビオンが滅びずに済む可能性も出てくる。
今のハルケギニアはグラムにも予測不可能だったが、注意しておくに越した事はなかった。
いきなり声を上げた自分を不審に思う伯爵とモンモランシーに「何でもない」と言うと、グラムは再び屋敷を出て、誰にも気付かれないように元来た道を辿ってラグドリアン湖に向かった。
道を一直線に進むと、その内にラグドリアン湖の水際が見えてくる。
そう言えば、どうすれば水精霊に出て来てもらえるか分からない事に、今更ながらグラムは気が付いた。
しかし、その心配は杞憂に終わったらしい。
グラムが湖に近づくと、湖の水が盛り上がって水精霊が現れたのだ。
それにグラムが驚いている間に、水精霊がグラムの姿になって話してきた。
「何用だ、“移ろいし者”よ」
そう言われたグラムは首を傾げた。
“移ろいし者”とは何だ? 単なる物じゃないのか?
自分が転生者である事と関係があるのだろうか。
しかし、今はそれよりもアンドバリの指輪についての事が優先だ。
「あなたに伝えたい事があって来ました」
「それは何だ?」
「数年の内に、あなたの秘宝であるアンドバリの指輪が、何者かに盗まれる可能性があります。信じてもらう術はありませんが、できれば用心してくださるようお願いします」
グラムがそう言うと、水精霊はしばらくグニャグニャとその姿を変えていたが、やがてグラムの姿に戻ると声を発した。
「ほう、我の秘宝を狙う単なる者がいる、か。まぁ、未来を知る貴様が言うのだから信じるとしよう」
それを聞いたグラムの瞳が見開かれた。
「な、なぜ僕が未来を知っていると分かったのですか?」
やっとそれだけ口にしたが、次に返ってきた言葉は、グラムを更に驚愕させる物だった。
「当たり前だ。わざわざ未来を知る者を“こちら側”に引き寄せたのだ。知っていてもらわなければ困る」
今、この精霊は何と言った?
この精霊が俺を“こちら側”に引き寄せた?
「あんたが俺をこの世界に転生させたのか!?」
グラムが思わず大声でそう叫んだが、目の前の精霊は飄々として言葉を紡ぐ。
「これ程近くにいたとはな。逆に見つけ出すのが遅れてしまったぞ」
こいつが俺をこの世界に?
なぜ? 何のために?
見つけ出すのが遅れた? 俺を探していたのか?
グラムの頭の中でいくつもの疑問が渦巻いていく。
そして思い出した。目の前の精霊の声、どこかで聞いた事があると思ったが……
「……俺が死ぬ直前に聞こえた声はあんたのか?」
「ほう、覚えていたか」
『ほう、魂は悪くない。それに“知っている”な。器になりえる存在として合格だ。これにするとしよう』
今でもはっきりと覚えている。
時々ふと思い出しては、幻聴かどうか悩んでいた声。
あれが目の前の精霊が言った物だとすると、どういう事になる?
こいつは、死にそうになった人間から“悪くない魂”を選び出し、尚且つ“何かを知っている者”、おそらくこの世界の未来を知っている者を、“何かの器になりえる存在”としてこの世界に転生させた?
「“知っている”ってのはこの世界の未来の事か!? “器”ってのは何の事なんだ!?」
自分の中で立てた推測の不明瞭な部分を、疑問にして目の前の精霊にぶつける。
「あぁ、貴様はこの世界の未来を知っていた。だから“こちら側”にその魂を引き寄せた。もっとも、ただ生存率が上がるだろうと言うだけの理由だがな。しかし貴様に死なれては困る。“器”に関しては教える訳にはいかない」
俺が死なれたら困る? “器”とする必要があるからか?
この精霊は“器”と言う物に関して教える気はないらしい。
だが、自分がその“器”とやらになるために生まれてきたのはほぼ確実だろう。
「……俺がラノベの世界に転生したのには何か理由があったって事か」
「ラノベ? それは何の事だ、“移ろいし者”よ?」
「小説の事だ」
「ほう、小説か。なるほど、奴はそのようにして“あちら側”に“こちら側”の未来を知らしめたか」
「え? おい、ちょっと待て、それは一体どういう事だ!?」
グラムが必死に問いかけようとするが、水精霊はそれには答えず、ボコボコと再び湖に沈んでいく。
「これ以上貴様と話す事はない。“時”が来るまで死ぬなよ、“移ろいし者”よ」
最後にそう言葉を残して、水精霊は水の中に消えた。
「何なんだよ、一体……」
他に誰もいなくなった湖畔で、グラムは一人そう呟いた。