<前書き>
Fateのアフターストーリーです。
但し、<第六次聖杯戦争>といった類の話ではありません。
クロスでもありません。
オリジナルキャラは物語の構成上多々出ますし、設定も独自のものがあるかと思いますがご容赦願います。
しかしながら、Fateにおける一つのルート後を想定した話として書かせて頂きました。
中編を予定しております。
楽しんで読んで頂ければ幸いです。
Ⅰ
この橋から見える景色が好きだ。
ここから、感じる風が好きだ。
だから、こんなにも寒いというのに、つい立ち止まって海面に散らばった宝石の輝きのような光の乱舞を何となく眺めていた。
空は、蒼と橙が淡く重なって、その色を映した点々とした雲が、複雑な模様のように浮かんでいる。
潮を含んだ風は、冷たく打ちつけてくるけど不思議と嫌じゃなかった。
それは、何時だって郷愁を誘う香りに思えるから。
でも、まあ………浸ってないで早く帰らないと。
寒いし。
お腹も減ってるし。
へとへとだし。
学校から私の家まで、残る道程は今の私からしたら気が遠くなるような距離だ。
砂でも詰まってるんじゃないかと思う重い足を何とか言う事聞かせて、歩みを再開させた。
今日も散々に、黒豹にいびられたせいだった。
あれは、どう考えても楽しんでるようにしか見えないし虐待行為として訴えられても仕方ないと個人的には思うのだけど。
何しろ、遅れた秒数毎に走り込みの本数が増えていくのだ。
当然、そうなれば悪循環になるのは見えているわけで、何時まで経っても消えないノルマに心が折られる。
で、体はもうやけくそに動く、壊れた機械みたくなる。
倒れる者多数。
それなのに、あの顧問のことを本気で悪く言う人は我が陸上部には皆無だし、私を含めて辞めた者が居ないというのが不思議なところだ。
どんな人望なんだそれって、本気で考えたこともある。
結局、人にとって良くも悪くも反復されるものに慣らされてしまうというのが一番効果的なのかもというのがその時に出した結論だった。
それで何で私が、こんな最悪な状態の中で歩いているかというと……簡単に言ってしまえば自分がやってしまった大ポカのせいだ。
昨日、母親にクリーニングに出すからと言われて、いつも着ているコートを渡した時にポケットの中身を出したまでは良かった。
だが、それを机に置きっ放しにしてあった事に気がついたのは登校時に遅刻ぎりぎりのバスに乗る寸前だった。
その際は何とか小銭をかき集めて、さらにたまたま近くに居た以前にお金を貸していた友人から強行に徴収することで事なきを得た。
しかし、これで私の貯蔵は本当に尽きてしまった。
「なに? 歩いて帰るだと? ふむ……その強情さは見ようによっては賞賛に値するが、少しくらいは周囲に借りを作らないと狭量だととられかねないと思うがね、天谷」
同じ部活の、我が親友にして永遠の仇敵はそんな事を帰り際に言った。
あいつは気がついていたのだろう。
私が、財布を含めた一切合切を忘れて今日一日飲み物すら買えない底辺に居たことを。
だって、眼鏡の奥の涼しげな目が誂うように笑っていた。
その女子だと思えない、尊大で時代掛かった口調はいつもの事なので気にしなかった。
何でも母親譲りなのだそうな。
それでもちょっとは腹が立って、大きなお世話だと言ってやったら今度は本当に笑いやがった。
まあ……言っていることは正しいことなのだろうし、心が狭いのも事実なのだろうが。
私が、借りを作らない信条を持っていることも知っているだろうし。
「それだったら……こう、さり気無く助けてくれりゃあいいのにさ。全く、あいつも根っこの部分では意地が悪いよ」
嘆息混じりに、自分でも身勝手だなと思う愚痴を呟いたのはかなり疲れてるせいなのだろう。
だから、本当なら素通りすれば良かったと後になって思ったこの出会いも、きっと疲れてたせいに違いない。
基本的に、この歩道橋は人通りが滅多に無い。
結構長大な橋であるので、渡るなら一段高所にある隣接する車道をバスなど利用して渡るのが普通だ。
あと風が強いので、この寒い時期にはあまり評判がよろしくないのだ。
その為、前方に佇む長身の人影に必要以上に内心びくっとなった。
だって、不審すぎる。
こんな何もない所に寒風吹きすさぶ夕暮れの中で、海の方を見て微動だにせず立っているのだから。
………自分だってそれと似たようなことをやっていたのだが、それはさておいて。
黒い皮のジャケットを着て、褪せた色のジーンズにごついブーツというその組み合わせは似合ってただけに怖かった。
何と言うか、背がとても高いのもそうなのだが、肩幅が広く筋骨隆々というその体格はとてもじゃないが日本人には見えなかったのだ。
確かに外国の人がこの辺は多いからそれは良いのだが、問題はここが人気の無い場所って事で、そこでこんな大男が前に立っていたら、そりゃ怖いと思う。
ほら、私だって一応は女の子なわけだし。
幸い、何やら放心したように海の方を眺めているので、ここはなるべく不自然な感じにならないように通りすぎるのが得策……だっていうのに、
「あの、何見てるんですか?」
何て、気がついたら声をかけてしまったのは不覚では言い訳がつかないと思う。
「え?」
あ、驚いてる。
こちらに向いた顔は、予想に反して体格や服装に似合わない穏やかで無防備な感じだった。
ちょっと、国籍不明な雰囲気だが日本語は通じるみたいだ。
「あ、すいません、邪魔しちゃって。いや、こ、ここって寒いですし、別段何も無いですし、その海の方ずっと眺めてたから気になって。な、なんか、ごめんなさい。変なヤツでしたね、私」
「ああ。いや、そんな事はない。ただ、ここの景色が綺麗だったからちょっと感慨に耽ってしまっただけでね。さぞかし、君にも怪しく見えただろうに気遣って声までかけてもらえるとは思わなかった」
「あ、怪しいなんて、そんな……」
「いやいや。周りからも忠告は受けてるし気配りもしてるつもりだったが、少し怖がらせてしまったようだ。すまない」
苦笑しながらも恐縮したように、詫びられてしまった。
流暢な日本語で、黒髪黒目、顔立ちも本当に良く良く見てみると日本人みたいなのだが、それでも何だかやっぱりそうでもないような。
それは、地肌が日に焼けているなどと生半可には言えないほど浅黒く、仕草が日本人離れしているせいか?
どうでもいいが、少し気障で女たらしの印象も受けたりして。
「あ、謝らないでください。怪しくて怖がってたなら、声なんてかけませんよ」
本当は、そのものずばり思っていたのだが、見抜かれたのも気まずくて心にも無い否定をした。
自分でも、声を掛けたのは何故だろうって不思議には思う。
何となく、寂しそうだったから?
「ふむ……それは少し問題だな。このような、人気が無い寂しい場所で私のような男に無防備に声をかけるなどというのは無用心にも程がある。特に、君くらいの年齢でそれではとても危険だ。君は穂群原の生徒かね?」
「あ、はい。そうです」
「新都の方に家があるのだろうが、何故バスを使わなかったのかね? 気まぐれの散歩にしても、このような時間に君のような女の子がするのはあまり感心しないな。見たところ、だいぶ疲労もしているようだし……どういう教育をしているのだ、近頃は。全く」
「えーっと。それには、ちょっと事情が……」
何故、自分は呆れたように説教などされてるのだろう?
それについての、事情も説明などしたくもないし、このような形になるとは、と見ず知らずの男に声を掛けた事に激しく後悔した。
その……別の方向で。
「まあ、事情については詮索すまい。しかし、そうだな……」
「?」
その人は、思案した顔をすると欄干に立てかけられてあった物に視線を向けた。
実は、私も気になってはいた。
だいぶ型が古くて、原型がほとんど残ってない程にカスタマイズされてるように見えるがあれはビアンキだ。
大切に使っているのだろうなというのが、何となくよく分かる。
こう見えて、私は自転車なんかに興味がある女の子だったりする。
「よし。乗りたまえ」
「え!?」
「ステップは取り付けたばかりだが、耐用については問題ないはずだ。送っていこう」
「あ、えっと………す、すみません。それは幾ら何でも悪いというか……見ず知らずの人にそういうのは、どうかと思うのですが……」
何を言っているのだろう、この人は?
今、少し話したばかりの人間である私に、いきなりそれは無いのではないだろうか?
さっきは、何か正論めいた事を説教されたけど、この人も何か問題があるように思う。
確かに、先に声掛けたのは私だけど、ナンパされているような気分にもなってきた。
「あの……やっぱり悪いからいいです。それに、その、借りとか作るのは苦手というか……」
「借り? なるほど……ならば、先程君に無用な警戒をさせて心因的に負担を掛けたことに対する詫びが一つ。私が、これから新都に向かう用があるためにそのついでに過ぎないことが一つ。あと、この自転車には近々乗せる予定の子が居てね。ステップの耐用試験に付き合ってもらえると有り難い。勿論、そのリスクは君が負うこととなる。さらに、私は穂群原のOBだ。あそこには、縁がある者もまだいるし、君のような女の子を放っておいては私自身の寝覚めが悪いというのが一つ。というわけで、君はこれを借りと思う必要は全く無い。納得いったかね?」
「あ………う……?」
「ふむ。しかし確かに、今会ったばかりの怪しい男の申し出に警戒するのは当然だな。では、家まででなく駅まで送るに変えよう。あの辺は、人も多いし滅多なことも無いかと思うが」
「あ、いや。そんな事、思ってないですってば! あー、その……じゃあ、お願いします!」
立板に水の如き勢いで言われて、しばし思考停止してしまい気がついたら自分も勢いで返事していた。
なんというか───この人、よくまあ口が回るな。
声も錆を含んだ良い声だし、そういう喋る商売の人だろうか?
呆然としていると、既にその人は自転車に跨って準備万端といった感じになっていた。
「乗り方は分かるかね? そのステップに足を乗せて……申し訳ないが立ったままの姿勢になる」
「はい、大丈夫です」
「では、背中にでも肩にでも手を掛けたまえ。なるべく、安全運転にはするが落ちぬようにな」
ステップに乗って──カバン持つのがちょっと大変だな、これ──さて、どこに掴まろうかってとこで手が止まった。
わー、凄く広い背中だと見惚れてしまったからだった。
逞しいし、頼り甲斐があるし、背中で語ってるぜという雰囲気なのだ。
思わず抱きつきたくなってしまったのを何とか堪えて、肩に掴まる。
少し、恥ずかしい。
「では行くか。と、その前に契約だというのに一つ大事なことを確認し忘れていたな」
「はい?」
「君の名前を聞いておこう。契約における最も重要な交換だ」
契約って……何だか、大袈裟なことを言う人だな。
これが契約って言うなら、街でよく見かける女の子に声かけている男連中は契約を迫ってるってことだろうか?
「天谷です。天谷理沙っていいます」
「天谷理沙くんか……では、理沙くんと。私は三社という。数字の三に、社は…神社の社だな。名は堺市の堺に人と書いて堺人だ。さて、ここに契約は成立した」
それがまるで厳かで重大な事のように一度頷くと、三社さんはペダルを踏み込んだ。
呆気に取られていた私は突然の加速に、つんのめりそうになる。
……危なかった。
腕が首に巻き付いて絞め殺しちゃうところでした。
横風を物ともせず、凄い勢いで景色が後ろに流れて行く。
私は、最初こそ少し怖くて身体を固くしていたが、その加速感と受ける風が段々と気持ち良く感じ始めていた。
でも、ここ一応歩道ですから、こんなスピードで自転車走らせるのはどうかと思いますよ?
あと、安全運転はどうしたのでしょうか?
そんな突っ込みを入れたいところだったけど、風鳴りがうるさかったし、あっという間にあれ程遠かった新都の街並みがぐんぐん近づいてきたので黙ることにした。
───これが、私がこれまでに知り得る中ではぶっちぎり一番、並び立つ者無しな変人の三社堺人さんとの初めての出会いであった。
まさか、この時はこの人と生涯に渡って縁があるなんて事になるとは思いも寄らなかった。
結局、家の近くまで送ってもらってしまった。
私の家は、十年ほど前に出来た新興住宅街にある。
ここは、建売住宅として全て販売され最初から完成された区画として始まったので清潔感がある街並みなのだが、似たような家が一杯あるので迷い易いと評判だった。
かく言う私も、時々迷うから外から見たらその評価は当然だろうと思う。
日はすっかり沈み、家々から漏れる明かりが陰影を浮き彫りにしている。
影絵のようなこの光景の中に、私の家もある。
街灯が照らす真下辺りで私は立ち止まり、隣で自転車を曳いている三社さんに向き直った。
「この辺りで大丈夫です。本当にありがとうございました」
「礼は不要だ。言ったように、君はこれを借りに感じる必要はない。等価交換はこの世の一つの原則であり、私は私で得るものがあったのだからな」
「とうか……こうかん?」
「簡単に言えば、『情けは人の為ならず』をもっと卑近で即物的にしたようなものだ」
「はあ……」
分かるようで、分からないような。
何だか、喋り方が時代掛かってる為に一々言ってることが難解に聞こえる。
関係ないけど、親友の氷室と三社さんが喋ったら驚くほど噛み合うような気がした。
「それにしても……この辺りはあまり近寄らなかったが、大した変わり様だな」
「? そうですか? 最初からこんな感じだと思いますけど?」
「ああ、そうか……知らないかもしれんが、この辺りは昔は広い公園があった場所でね。遠目から見かけたときは、本当に驚いたよ」
「あ、聞いたことあります。よく知りませんが、ずっと手付かずで放置されてたみたいですね。広い土地なのに」
かなり昔に大火事があって、その後しばらく更地のまま放置されたとか何とか……。
大火事にの前にも、この辺りは住宅地でそれで人が大勢亡くなったそうだ。
何故か当時の記録はあまり残ってないらしいが、怨念が強くて手が付けられなかったなんていう眉唾ものの噂もあった。
じゃあそれは、今は解消されたということか。
特に、変な噂も聞かないし。
「まあ、無駄に土地を遊ばせるよりは、ここも街の一部として人の営みがあったほうが余程健全だろうな。昔を知る人間としては、しみじみとしてしまうがね」
「あは。何か、随分年寄り臭いこと言いますね三社さんって。そんな歳でもなさそうなのに」
同じような事を、お父さんも言っていた。
人って、自分より年下にだとすぐこういう事言いたがるよなぁ、と常々不思議に思っていた。
「ふむ。世辞として言ってくれているのだろうが……恐らく理沙くんと比べればかなり離れている筈だ」
「え? 失礼ですけど、お幾つなんですか?」
「そろそろ不惑が見えてきてるな」
「ふわく?」
聞いたことが無い。
イメージしたのは、曖昧なお菓子。
三社さんは、少し困ったように頭を掻いていた。
「この言い回しは知らぬか……『四十にして惑わず』という隣国の思想家の言葉だ」
「ああ。四十ですか……って、ええぇえ!?」
う……そ? 嘘!? せ、せいぜい二十代前半のお兄さんと思った……だって、幾ら何でもお父さんと同じくらいのおじさんには見えないし。
恐るべし、現代のアンチエイジング……遂に、ここまでの技術に到達していようとは。
───あれ? でも、この三社さんが極端に童顔なだけか?
うちのお父さん、普通におじさんだし。
あ、何だかこの人、とても不本意そうな顔してますよ?
ちょっと、拗ねてる子供みたいで可愛いかも。
「…………む。他の国々では、色々と化物呼ばわりされて、東洋人だから若く見えるのは当然と納得していたのだが……同国人から驚かれると流石にショックだな」
「あ、あ……でも、若く見えるって良いことじゃないですか! ほら! 三社さんの場合、別に子供っぽく見えるとかじゃなくて、ちょっと素敵なお兄さんくらいにしか見えませんよ? 大丈夫ですよ、だから! 自転車乗せてもらってた時も、何かこう……こんな私たちを見て! みたいに思ってて少し気分良かったというか、なんというか。いや、えーっと……あはは」
さっき会ったばかりの人に、私は何を必死になって言っているのだろう。
だって、本当に落ち込んでいるようにも見えたし、そんな表情されたら誰でも何か言いたくなりますって。
あー、恥ずかしいなあ、もう。
ここは、笑って誤魔化すの一択だ。
笑え、笑うしかないぞ私。
「なるほど………君は本当に良い娘みたいだな。まあ、折角のフォローは素直に受け取っておくこととしよう。ありがとう」
「あ…………えーっと、ほらトウカコウカン? それですよ、ええ。そりゃもう、凄いトウカコウカン。あはは、それじゃ!」
やばいです、グダグダです。
多分、今の自分、鏡で見られません。
その笑顔は、反則だってば三社さん。
確かに化物だと、異国の彼を知る人々に全面的に賛同したい。
何しろ、今の笑顔は同級生の男の子くらいにしか見えなかった……。
気まずくて、自分の身体の事も忘れて駆け出した。
だけど、すぐに目の前に広がった光景に足が止まった。
「─────────────は!?」
赤い、赤い、赤い。
みんな、燃えてる。
空が、赤く染まって、嫌な匂いがそこら中に充満している。
意味がわからない。
意味がわからない。
意味がわからない。
何で? どうして? ここどこ?
私の家は?
足が震える。
逃げなきゃって思ってるのに、動いてくれない。
気が狂ったように叫べばいいのか、泣けばいいのかも選べない。
女の人の悲鳴が聞こえる。
子供が泣く声が聞こえる。
助けなきゃって、思った。
何だか良く分からないけど、自分がどうなったかも良く分からないけど助けなきゃ。
でも、誰を? どこで? どんな風に?
何も思いつかない。
何で、私は何もできないんだろう?
どうして、身体が動かないんだろう?
何も、だんだん感じなくなってるのは何でだろう?
この、目の前の黒いのは───
「おい! どうした!」
あれ? 三社さんがこっち見てる……
凄く怖い顔だ。
だけど、何故かとても安心した。
「…………あ。えっと、肩痛いです」
両肩を掴まれながら、顔を覗き込まれていた。
本人は力を入れて無いつもりかもしれないけど、結構痛い。
あと、そんなに顔が近いと、ちょっと恥ずかしいです。
「……ああ、すまない。いきなり、硬直して前に倒れそうになっていたのでね。咄嗟とは言え、失礼した。立てるかね?」
掴む力だけ緩めて、丁寧に身体を起こしてくれた。
少し何でか足が震えてたけど、大丈夫。
立ってられる。
「大丈夫です、すいません。ちょっと立ち眩みですかね……疲れているみたいです、私」
あははと無理に笑って、頬を掻いた。
いや、そんな真剣な顔で心配そうに見られたら困ってしまうのです。
「そうか……やはり、家の前まで送っていこう」
「あ、いや! ほんと、いいです。ほら、あそこ。見えてますから、私の家。ね?」
我が家を指す。
門灯が、オレンジに光ってるのがそうだ。
それは、いつになく自分をほっとさせた。
「………君は、持病とかあるのかね?」
「え? 無いです。風邪も滅多にひかないですよ? こんなの初めてで、自分でもちょっとびっくりです」
「今日どこかで頭を強く打った覚えは?」
「それも、無いです。大丈夫ですよ。ほんと」
あ、いや、心配してくれてるのは嬉しいんですけど、そこまで真剣な顔されると不安になるんですが……。
それに、今のを説明しろってのが無茶な話で。
何だったんだろ、今の。
最近見たホラー映画とかより十倍は怖かったって印象があったけど、もう記憶がぼやけてきた。
私の特技の一つに、本当に嫌なことは都合良くすぐ忘れられるっていうのがある。
これは中々に、自分でも得している才能だと思う。
「念の為、明日必ず病院に行きたまえ。どんな事でもそうだが、自分で自分の事を分かっていないというのが一番致命的だぞ」
「や、やだなぁ……脅かさないでくださいよ。そういうの趣味悪いですよ?」
病院なんて、もう何年も行ってない。
無病息災、健康第一。
下手な病気など、気合があれば寄り付かない。
ウチの家族は、今時珍しい根性論の人達で構成されているのでした。
両親共にそうだし、私も含めてみんな頑丈だからなぁ……。
「脅しではない。私もそういう経験があるから言っているのだ。とにかく、一度行って何もなければそれでいい。それとも怖いのかね?」
「………む。挑発しようってつもりですね? そういうの慣れてますからその手には乗りません!」
そう、その手の論法には散々乗せられてるような気もするけど本当に慣れている。
我が仇敵の存在がある故。
「ほう? これを挑発に感じると? そうだな……確かに人間苦手なものが一つや二つはある。それを克服するかどうかは本人次第なわけだが、あえて逃げ続けるというのも選択の一つだしな。逃げ続けて無事なら勝ちだし、それが元で手痛い目に会ったら負けというわけだ。まあ、大抵負けることが多いのだから世の中儘ならないがね。これが心労の元になっていることは多々あるようだ。そんな事で長い間、精神的負担を抱えるならば元の要因こそ断ってしまえば良いというのにな。しかしそれでも逃避するというのは……人間は理屈通りに動けぬという証左だ。誰でも経験があることだろうから、責めるのも確かに酷と言えるかもしれんな。いや、本当に申し訳なかった」
「……………あの、それって私が病院怖いって前提で話してますよね? 要するに………『そんな事も怖いのかね。ま、仕方ない。所詮君はその程度なんだな、ふはは』とかいう意味ですよね?」
「受け取り方は、人それぞれだと思うがね」
うわー……何という、こう癇に障る嫌味っぽい顔で笑うかな。
少し背が高いからって、そう見下すような感じされると腹が立つんですけど。
そういう、腰に手を当てた姿勢とか頭の角度とか一人で研究してたりします? ねぇ?
こんな雰囲気出せる人だとは、さっきまで思いも寄らなかった。
ちょっと殴りたいかも。
「分かりましたよ! 行けばいいんでしょ、もう!」
「そうかね? 無理はしなくてもいいと思うが」
「行きますって! じゃあ、本当にありがとうございました!!」
『た』の部分を強く強調して、勢い良く頭を下げ今度こそ歩幅も大きく帰路に着く。
自分の家の前まで辿り着いて、ちょっと気になり振り返ったら街灯の下で三社さんがこちらを見てた。
あ、心配してずっと見ててくれたんだなというのが何となくすぐに分かった。
「────え? 三社さんって結婚してたんですか!?」
あ、危ない、危ない。
盛大にむせて、紅茶ハザードな大惨事を起こすとこでした。
ここのは、とんでもなく高いからそんな勿体無いことは出来無い。
それはそれは素晴らしくも上品なティーセットが運ばれてきたときは、割ったりとかしたらえらい目にあうなぁ……と軽く遠い目したくらいに。
「…………そんなに驚くところかね? そこ」
随分と、余裕持って香りを楽しむような顔で紅茶を飲んでいらっしゃる。
だけど、何となく分かった。
ちょっと照れてるな、この人。
「え? ───あ、いやいや……ゼンゼン、ヘンジャナイデスヨ?」
「………いいから、言いたいことがあるなら言いたまえ。怒らないから」
そういう『にっこり』みたいな微笑浮かべて、怒らないとか言う人の事は全面的に信用出来ないのです。
経験上からの概算では、大体三倍から五倍の報復が待っているのを知っているから。
「いや、何て言うか若々しく見えるじゃないですか、三社さんって。だから、年齢を感じさせないくらいやりたい事やって自由に生きてきたのかなー、とか。別に、そういう人多いですから悪いことじゃないと思うんですけど」
結構な大人の男の人に、私みたいな小娘がこんな事言うの失礼とは思うけど、結局は正直な感想を。
一応、聞き流してもらえるように、愛想笑い全開で。
さてどんな反応が来るかって、ちょっとビクビクしてたけど。
だけど、意外なことに
「…………ふむ、なるほど。よく見ているのだな、理沙くんは」
何だか、溜息混じりの苦笑をしながら三社さんは納得したような顔で頷いていた。
少しだけ、その姿が迷子で途方に暮れている子供のように見えて切なくなったのは不思議だった。
昨日に引き続いて、このどこがどうとは言えない奇妙な人である三社さんと、こうして差し向かいで紅茶なんぞ飲んでるのは良く分からない経緯がある。
偶然……じゃあ無いよな、あれは。
とりあえず今日の私は、これまで一切休まなかった部活を休んで病院に行く決意をしていた。
顧問の黒豹にその旨を伝えると、妙な目付きで私を見回して
「男か?」
と聞いてきたが、全否定しておいた。
何で、仮にも顧問がそんな事を楽しそうに言うかな。
もし本当にそうだったとしても、休ませてくれたのだろうか?
「見たところ、至って元気そうだが……どういう風の吹き回しだね? 確か記憶しているところでは『ちょっとした事で、すぐ病院に行く奴なんか軟弱者でしかない』とか言ってた気がするのだがな、天谷は」
「んー……事情があってね。約束しちゃったのよ」
既に、トレーニングウェアに着替えている氷室が不審げな顔で尋ねてきたのに、私は面度臭そうに手を振って答えた。
「病院に行く……約束? 何だ、それは? 産婦人科でも行くのか?」
「行くか、馬鹿!! 相変わらず飛躍しすぎだっての! ちょっとこっちに来なさい!!」
この表面的には浮世離れしてそうで、思いのほか実は詮索好きな友人の誤解を解く為に、私は彼女の髪を引っ張って引き寄せる。
痛そうな顔で、睨むようにこっちを見たけど構うものか。
ワケの分からないこと言ったアンタが悪い。
「昨日なんだけど、帰りに変な人に会ってさ。それで───」
一応、簡単だが要点を外さないように事情を説明する。
こいつにはちゃんと分からせておかないと、後々になって酷い目に遭うのは経験済みだ。
知らないことに対して意味不明な妄想を始めるという奇癖があるのだ、我が親友は。
が、話してやれば察しはいい。
「なるほど……そんな助けてもらったとは云え、昨日会ったばかりの人間との事でも一々意地を張るのは実に天谷らしい。だがその御仁も、なかなかに出来た人物だな。早速に天谷の人間性を見抜いて御するとは……ただ者ではなさそうだ」
「ただ者では……うん、ないだろうなあ。私、あんたみたいな喋り方する人ってあんたの家族以外では初めて見たよ。まあ、また会うことも無さそうなんだけどね」
「知と理性を重んじる性格か……もしくは何か必要に迫られて己を守る為に装っているかどちらかであろうな」
氷室は、何か感じ入るところがあったのかしみじみという風に腕を組んだ。
そういう仕草って、昨日の三社さんと重なるな、やっぱり。
少し違うけど。
「なによ、それ? もしかして、あんたがそうなの?」
「さあて、どうかな? そうとも言えるし、そうでないとも言える」
独特の片唇を歪めるような笑いを浮かべる。
そんな意味深な風に見せかけられたってそれ自体が罠でしょうに、あんたの場合
喜び勇んで馬鹿にしようものなら、容赦無く追い詰めてくるのがこいつの常套手段だ。
その犠牲者筆頭が私だ。
腹立つ事に。
「はいはい………ま、そういう訳なんで部活頑張って」
「ああ、今日も虐待に甘んじるとしよう。しかし、天谷は確かにこの際徹底的に診てもらった方がいいかもしれんな。この所、少し無理し過ぎだ。スポーツ選手にとって自己の管理も重要だと言うのには異論無かろう?」
「まあね。別に病院とか全否定してるわけじゃないし、ちゃんと身体には気を使ってるから。それに、うちのマネージャー優秀じゃない。滅多なことは無いと思うけど」
「違いない。我が陸上部は、代々マネージャーには恵まれているのだそうだ。あの顧問によるとな」
氷室の視線の先に、ポニーテール揺らしながら小柄な娘がパタパタと忙しそうに走り回っている。
彼女がふーがちゃん、時と場合に拠っては風河さん、さらにまかり間違うと風河様へと進化する陸上部の守り神兼アイドルだ。
その優秀さは、折り紙付き。
部員の為に陰日向無く働くだけでなく、スポーツマッサージの名手でもあり、いつもニコニコとどんな時でも笑顔を絶やさない存在だけで癒しとなる清涼剤。
これだけでも有り難い存在なのに、彼女にはほとんど超能力かとも思える眼力がある。
本人たちさえ意識してない、ちょっとした身体の不調や違和感を言い当ててしまうのだ、恐ろしいことに。
それで、何人かの期待の選手が潰れずに済んだから、彼女には部全体として足を向けて寝れないのだ。
のほほんとした口調のおっとりした感じの娘だが、怒らすと一番怖い。
彼女を怒らすことで、部員全員が顧問の黒豹含めて半泣きとなるなんてとんでもない出来事があり、陸上部ヒエラルキーにおいて満場一致で頂点と認められた経歴を持つ。
あの娘は全く自覚がないみたいだけど。
私は、何人かの親しい部員に挨拶して学校を出た。
だいたい反応は、予想通り驚かれた顔だったし、あからさまに心配気な顔されたりもした。
これだから、病院とか行くの嫌だったんだよなあ……。
今日は、財布を忘れるなどという大ポカはしてなかったのでバス停に向かう。
と、そこに周囲から浮きまくっているいつ通報されてもおかしくなさそうな、不審者一人。
いや、昨日とそれ程変わらない格好だから慣れればどうって事ないでしょうが、サングラス掛けただけで怪しさが段違いですね。
「………何やってるんですか? 三社さん」
「何って、バスを待っているだけだが」
「ああ……そりゃそうですねー」
バス停ではバスを待つ以外、そりゃ無いわけである。
でも、そんな当たり前のことを忘れさせる程の違和感って凄いですね。
「ところで、理沙くんは今日はこれから病院に行くのかね?」
「ええ、まあ。特に連絡とかしてないんですけど、結構前に行った病院でも行こうかと」
「それは頂けないな。昨今の病院で事前連絡も無しに行くというのは、かなりの時間浪費になる。ふむ……やはり手を打っておいて正解か。新都の中央病院で良かったかね?」
「はあ? ええ……そこに行くつもりでしたが」
そろそろ、同じくバスを待っている下校途中の帰宅部連中の遠巻きに見る視線が気になってきた。
やあ、まあ、こんな堅気じゃなさそうで国籍も曖昧っぽい大男と同じ学校の生徒が話してたら奇妙な空気になるわけで。
明日、変な噂になってなきゃいいなあ……。
「よし、ならば丁度良い。理沙くんの予約をちゃんと入れておいたから、次に来るバスに乗れば間に合うはずだ」
え? 今なんと?
予約を入れておいた……?
「えーっと……三社さん? 何で?」
「ああ、気にすることはない。昨日私が焚き付けた様なものだからな、その責任を果たそうとした次第だ。幸い、あそこには少しコネもあって顔が利く。余計なことだとは思ったが、念の為だ。勿論、断ってもいいが別の病院でも必ず行きたまえ」
「あー、いや……なんと答えていいのやら。どうせそこに行くつもりでしたから、ありがたいはありがたいんですけど」
何だろう、この人。
私専任の秘書か何かだろうか?
流石に、呆気に取られた。
「そういえば、君は借りを作るのが嫌いなのだったな。では、病院の後に少し付き合ってくれれば良い。私も、新都に行く予定があってね。一人でお茶というのも味気ないと思ってたところだ」
「はあ……」
話しているうちに、独特の甲高いモーター音と共にバスがやってきた。
それを聞きながら、私はおずおずと頷いていた。
頭の中に言いようの無い不審が押し寄せているのだが、こんな昨日たまたま会った小娘に付きまとって何かこの人に得することがあるのだろうか?
それともそういう趣味の人……?
見た目実は結構格好良いから悪い気分じゃないけど、あまり自分を過大評価しても危険だぞ。
それとも、こう、犯罪の片棒を担がせようとしているとか。
何か氷室のことをとやかく言えない妄想をバスに乗っている間に加速させていたが、他愛もない話を隣の三社さんとしてるうちに段々とそういう意識も薄れてきた。
波長はどうも合うみたいだこの人。
そう、思えたのは少し嬉しかった。
病院では結構時間がかかったが、異常なし、健康間違いなしのお墨付きを貰って待ち合わせのアンティークな雰囲気の喫茶店で三社さんと合流した。
もう紅茶を頼んで飲んでいた三社さんに結果を報告すると、少し嬉しそうに微笑んだのを見れたから得した気分だった。
早速座って、メニュー開いたら四桁の数字しか並んで無かったのには固まったけど。
とりあえずお薦めを頼んで、その間に色々お互いのことを話したりした。
三社さんは、昔は冬木に住んでいたが、やりたい事があって若い時にすぐに海外に出て勉強を始めたそうだ。
やりたい事というのが、何だったのかは
『まあ、愚者の夢みたいなものだな』
とか何とか皮肉な口調で仰られるから軽く流した。
あまり聞いて欲しくもなさそうだったし。
何でも、ずっと海外に居て故郷であるここに帰ってきたのは一年前ぐらいなのだそうだ。
その後に、冗談半分で私に気があるからここまでしてくれたのでしょうか? みたいなこと聞いたら不意を打たれた様な顔してから苦笑してすげ無く否定された。
そこまであっさり否定しなくても……少しくらいは慌ててくださいよ、傷つくなぁ。
で、結婚してるという事実を聞き出せたわけだ。
微妙な空気になったけど。
「あー、その奥さんってどんな人なんですか? やっぱり綺麗な人なんでしょうね、きっと」
「ああ。それは間違いない。私は今まで、彼女程に優雅で鮮やかな美しい女性を見たことは無いね」
臆面も無く言い切りました、この人。
やっぱり海外生活が長いから、そういうところ日本人とは感覚が違うのだろうか。
こっちが赤面するですよ、そんな顔されたら。
日本人は謙譲の美徳と言うものがですね……。
でも奥さんは、幸せだろうなあ。
「どんな風に知りあったんですか? あ、あと、結婚するときのプロポーズの話とか聞いて良いですかね?」
「知りあったのは、まあ、同じ学校の同級生だったというだけなんだがね。それで付き合い始めて……一緒に海外に出て勉強を始めたのだ。もっとも、彼女は優秀で私などはただの付き添いに過ぎなかったから御零れに預かってたという方が適切か。だが、その内に私にはどうしても捨てられない目標があったので彼女と別れることにしたのだ」
「ほ、ほほう」
なかなかにドラマを感じさせるじゃありませんか。
ご多分に漏れず、私とてこの手の話は同世代の女の子と同じように大好物だったします。
男は目的のために女を捨て、やがて運命の元に巡り合い二人は再会する。
うーん、ベタだけど外せない黄金のパターンだなあ。
「それで長い間音信も途絶えて……後で聞いたら探し回られてたようだが。見つかってからが凄かった。あの一ヶ月は生きた心地がしなかったと言っても過言ではない」
「………生きた心地がしなかった?」
「うむ。何重にも複雑に入り組んだ罠の数々、爆撃にも等しい弾幕の中で生死を分かつ決断をしたこと数え切れず、彼女は師匠でもあったので手の内を読まれることがほとんどだったのだな。私の方も、彼女が手の内を読んでくることを前提で細心の行動を心掛けていた。彼女には最近は少し治ってきたが、どうしても出てしまう悪癖があってね。それで助かったこともあった。が、やはり地力が違うというのが覆し難くあってな。向こうは協力者も多かった。その内にこちらの貯蔵も尽きかけて剣折れ膝も落ち……」
「あ、あの……プロポーズの話なんですよね?」
いつからこんな、バイオレンス・スペクタクルになったのだろうか?
語る三社さんも、何だか遥か彼方見ちゃってるし。
なるほど、その殺伐さは三社さんの見た目にお似合いです。
愛にも色んな形があるのだ……よ?
「そうだな。まあ、最終的には捕まって虜囚となった上でお互いの気持を確かめ合ったわけだ。今から考えれば、意地など張らずに最初からこうしておけば良かったと思えるほど拍子抜けするものだったんだがね」
「へ、へー……何か凄いですけど、後悔してるんですか?」
「うん? 意地を張った事をかね? それとも彼女と一緒になったことを? どちらだったとしてもそれは無い。色々と周囲に迷惑もかけてきたのだが、必要だった事だと思っている」
やけに清々と、こちらが羨ましくなるくらい自信ありげに三社さんは混じりけなしの笑顔で言った。
それは、問答無用で、ああこの人は今幸せなんだなと分かる表情だった。
店を出ると、なかなかに趣深い情景となっていた。
夕日と夜の丁度狭間に居る中で、街灯や建物の光がそこかしこで輝き始めたばかりというか。
人々は帰路を急ぐのか、それともどこかに立ち寄りそこで時を費やすのか迷っている独特の空気。
自分は、なんだか今日は大変充実したような気分だった。
隣に歩く三社さんは、歩き方でさえ流れるような格好良さ。
こういう大人の男の人って、貴重だろうなぁ最近じゃ。
このまま別れて、またいつ会えるか分からないなんてのは考えただけで喪失感がある。
ここはやはり、ちゃんとお友達になってもらおう。
かなり変人だけど、自分の人生に間違いなく潤いは与えてくれる人物と見込んだ。
「あ、今日は駅の前まででいいです。ありがとうございます。とても、楽しかったです」
「そうかね? よく面白味が無いと言われてきたから不安だったが……それは良かった。まあ、何にしろ今後も身体には気をつけたまえ。確か高跳びの選手だったようだが、言うまでもなくスポーツ選手にとって体調管理も重要だからな」
「ああ。同じ事を友人にも言われました。えっと、それでですね。こう、こういうのも縁なんでこのまま、はい、さよならというのも味気ないと思いまして………」
私は、手首のPADを三社さんに差し出した。
こういうこと自分からはあまりしたことが無いから、結構な勇気が必要だった。
「うん? 何かね?」
「あの……PDのフォローをですね」
「PD? ああ、なるほど。しかし私の携帯でそれが出来るのかね?」
……………ケータイ?
あ、そうかこの人すっかり忘れてたけど、お父さんと同じくらいのおじさんだったよ!
うわ!? 何だろう、あの大きいゴテゴテした黒いの。
かなり年代物だぞ、あれ……
大体、PADの事をケータイ何て言うのお父さん以外で久しぶりに聞いたよ。
で、出来るのかなぁ……?
「あ、えーっと、解除してもらって、少し見せてもらってもいいですか?」
「ああ。構わない。どうぞ」
結構抵抗あることだろうに、あっさり渡してくれた。
むむむ…これは……出来ないっぽい。
「だめ……みたいですね。あの、何年前からこれを? PADとかは持ってないんですか?」
「ああ……何というか、これは主に妻との連絡で使うのだが、彼女がこの手の物が信じられないくらい苦手でね。携帯辺りを最近ようやく使いこなせるようになってきたと自慢してきたくらいだ。PADといったか……それなど渡したら所持してから十分程度で粉々にされるのが目に見える。進歩した技術というのはもはや魔法にしか見えないというが……まさに最近は本当にそう思える。それに、それと似たようなものを使ったことあるが、DEYEだったか? 視覚に直接映像が映るなど私にも抵抗があるな」
苦笑しながら、処置なしだと言うように肩を竦めた。
凄い奥さんだなぁ……何か色々と。
三社さんが言うようなことを、お父さんからも聞いた。
お母さんは平気っぽいけど。
DEYEの調整なんて慣れればすぐに出来るのに。
私の勇気は空振りに終わったようだ。
「私からすれば、そんな小さな映像でよくもまあ、色々出来るなあって思うんですけどね……残念だなあ」
「何故かね? 電話番号じゃだめなのかね」
「…………あ! そ、そうですね」
そうだった。
直接話した方が良いじゃないですか。
せっかく、三社さんは声も良いし、その方がお得だ。
盲点だった。
「あ、えっと……じゃあ、良いですかね?」
「構わんよ。確かに、三社堺人として縁があったというのは有り難いことだからな。任せるとしよう」
重々しく、何か条約でも締結するかのように頷く三社さん。
まあ、それはいいとして……っと。
私は、あまり使ったことがない機能だから苦戦したが何とか電話番号の交換に成功した。
「これで良し! ありがとうございました。その、たまーに、お話ししてもらってもいいですかね?」
「ふむ? 電話でかね? 困ったことがあったら何時でも掛けてきたまえ。状況次第では、すぐに駆けつけることとしよう」
三社さんは、何故かそれがとても喜ばしいことのように微笑んだ。
あの……流石にそういう言い方をされると照れます
大体、綺麗な奥さんがいるんですから、こんな小娘にかまけすぎるのもですね───
照れ隠しに、何となく上の方を見てたら、不審なものが視界に入った。
この新都で一番高い建物である、センタービル。
その一番上なんて私の視力が幾ら良くたって見えっこないっていうのに───
───塔の上には、赤い魔法使いが居て街を見下ろしていた。
───何を探しているのだろう? その目は敵を見つけ出すみたいな物騒なもののように感じ
───やがて……彼女はしばらくこちらを睨んだ後、ふと影と消えた。
───その姿は、私が見た誰よりも洗練された美しさを持ち優雅さに溢れ、気高いものだった。
「─────────え?」
浮遊したような感覚。
自分が何処に居たのか、一瞬分からなくなる。
でも、何だろう、嫌な感じはあまりしない。
「………どうしたのかね?」
三社さんが、不思議そうに自分を見ている。
どうやら私は、呆としたような顔でもしていたらしい。
恥ずかしくなって、慌てて意識を取り戻し弁明した。
「その……ちょっと変なものが見えて。ビルの上に、赤いコート着たすっごい美人の女の子が居た……ような。でも普通あんな高い所見えたりしないのにな……夢?」
「……………なに!?」
三社さんは声を鋭くし、サングラスを素早く取ってビルを見上げた。
いや……流石に見えないと思いますよ?
じゃあ、何で私が見えたのかって訊かれれば、さあ? って言うしか無いけど。
「…………何も、居ないようだが」
「そりゃ、見えませんよ。あのビルの屋上ですよ?」
「ふむ……君にはそれが見えたと?」
「う、うーん? 見えたというか何というか……」
私は当たり前のように返答に困った。
でも、病院でも異常なしって言われたし、別に何か身体の不調だからとかじゃあ無いと思うけど。
もしかして、超能力にでも目覚めたのだろうか?
………昔、そういうの試したことがあります。
誰でもやると思うのだけど、聞いてみると意外と私の周囲ではやってないという意見多数。
授業中に、ペンを睨みつけて動かそうとしたり、誰かの考えを読もうとしてずっと集中して唸っていたこととか……。
分かったのは、私には皆目その方面の素質が無いということだけだった。
いいじゃないか、試すだけ試したって!
「気になるかね?」
「まあ、それなりには───」
「じゃあ、行ってみることとしようか、あそこに」
「……へ? あそこ行けるんですか?」
「ああ。少し階段を登るかもしれんが。どうするかね?」
何だか、私の良く分からない白昼夢じみたものにとても積極的だ。
何がそんなに三社さんの琴線に触れたのだろうか?
随分、鋭い目になっていて表情が怖かった。
でも………三社さんともっと長く居れそうだし、二人であんな高いところから夜景とか見るというのはなかなか良いと思うのだ。
「行きます」
私は、不埒な考えを悟られないように、なるべく真剣な声を装って答えた。
私は、自分の考えが非常に甘いものだと知った。
とんでもなく、寒かったのだここは。
これだけ高いところなんだから、そりゃあ風も強かろうってものである。
あまり行ったことも無かったが、学校の屋上なんてものじゃない。
これじゃあ、風が煩くて話すのもままならない。
「やはり……何も無いようだな」
三社さんは、屋上に着くなり私を守るように寄り添って周囲を油断なく見回した。
おかげで、風は大分遮られてるのだろうが、それでも限界があるし結構辛い。
「あの……やっぱり、何かの間違いだと思いますから。とにかく帰りましょう、もう」
「まあ……そうか。誰も居ない様だし違和感も感じないな」
心持ち声を大きくした私の言葉に、少し不可解そうに三社さんは首を傾げた。
何やら、納得いっていない御様子。
私は、三社さんが風などまるで感じていないように悠々と歩きまわる中で、少し震えながら付いて行くしか無かった。
いやはや、やっぱり奥さんいる男の人に不穏な考えなど持つものでは無い。
きっちり報いを受けましたよ、ははは。
「ねー、流石にこれ以上はキツイですー」
「ああ、申し訳ない。そうだな……じゃあ、最後に理沙くんは何かここでも見えたりするかね?」
………そんな、ちょっと霊感ある人に尋ねるようにされても困るのです。
自慢じゃあありませんが、生まれてこの方そっち方面の経験などございません。
冬木って、結構そういうスポットがあるらしいけど、まるっきり縁がない。
でもまあ……一応私の言葉でここまで来てくれたのだし、義理を果たす意味でもぐるりと一回り見て───
───屋上の端に赤い女の子が、悠然と立っている。
───その娘は、この世の全てに挑むような輝きを持つ蒼い瞳でこちらを冷たく睨んでいた。
───やがて、こちらに興味を無くしたのだろう。
───振り返ることなど思いも寄らない潔さで、背を向けて輝き始めた夜景にダイブ。
───私は、思わず『待って!』と叫んでいた。
───だって、こんな所から落ちたらどう考えたって助からない。
───だけど、それはすぐに思い違いだったと気が付く。
───あのような瞳を持つものが、自殺などする筈が無いのだ。
───その娘の傍らに、守護者のように現れた紅の衣装を纏った騎士。
───その人は、どういうわけか三社さんにそっくりで、だけど全然違って……ああ、髪が白いのか。
───でも、それだけじゃ絶対ないような……
「理沙くん!!」
三社さんが、切羽詰ったような声で叫んでいた。
あ、大丈夫ですよ、心配しなくても。
きっと、あの女の子は最後まで負けずに戦い抜くと思います。
あれは、そういう娘です、間違いなく。
何を言っているのかね、君は? とか苦笑されるんだろうな、多分。
そんな、脈絡の無い思考の後に私の世界は色で無い色に塗り潰された。