日課となった、訓練は終った。
「咲夜さま、お疲れ様でございました」
観衆の中の代表格たる長老が仰々しく放たった言葉に対して小さく一礼だけすると、私―――咲夜は背を向けて歩き始めた。
素っ気ないとは自分でも思う。
だが、訓練後で汗をかいたので、早く帰って汗を流したい。
長老の他にも通りがかりで、何人もの人々が声をかけてくる。
大した返事はしない、そんな反応でさえも人は喜んでいる。
その様子を見て、戸惑っていたのも最初の頃だけだ。
今は、人々が喜ぶ様子をどこか冷めた心で見ている自分がいる。
そんな自分が現れてきたのは、人々の反応が何を示しているか分かった頃だろう。
最初の頃は、町の人達と仲良くしようとした。
だが、そのことは町の人々を戸惑わせた。
そして逆に今のような訓練や素っ気ない人形のような反応が喜ばれる。
町の人々は直接言葉にはしなかったが、端々であること分からせようとしていた。
『神託者に感情は必要ない……ただ我々を鬼から守ることだけを考えていろ』
これは自分が感じたことだし、実際はここまでの感情を抱いてはいないかもしれない。
それでも、私が感じたような感情を抱いているのも事実だろう。
別に私が格別に嫌われているわけではない。
ただ、町の人たちは私を信仰の対象にしたがっている。
要するに、町の人たちは私のことを『人の形をした神』と捕らえたがっているのだ。
それ故に、人のような行動をとって欲しくはないのだろう。
それが分かってから、自分の感情が高ぶることはなくなった。
一見すれば、自分はこの町に必要とされているのだろう。慕われているのだろう。
だが、この町の人たちが必要としているのは『咲夜』という少女ではなく、『神託者・咲夜』なのだ。
そこまで考えたところで、思考を止める。
どうやら目的の場所に着いたようだ。
咲夜が見つめる先には屋敷と呼んでも差し支えないほどの大きさの一軒の家があった。
町にやって来てから与えられた、一人で暮らすには大きすぎるこの屋敷、これが私の暮らす場所だった。
入口の扉を開ける。
木製の扉がわずかに軋む音を響かせる。
でも、それだけだ。
明かりもついてない屋内、自分以外には誰もいない屋敷の中は静まりかえっていた。
そんな光景にも、もう慣れた。
すぐに出て行くので、明かりも着けずに着替えを取って、屋敷の中を通り抜ける。
そのまま、裏口をから外へと出て行く。
そこには、澄んだ水が流れる川があった。
いつもの水浴び場所だ。
川の近くの木に着替えをかけると、特に躊躇うこともなく衣服を脱ぐ。
覗こうと思えば覗ける状況、年頃の娘ならば警戒するなり躊躇うなりするのだろう。
だが、気にしたのも初めのうちだけ……今となっては、自分には警戒などする必要はないことがよく分かった。
「そもそも、人でない女の子を覗こうとは誰も思わないよね……」
思わず漏らした独り言に、自嘲の笑みを僅かにだけ浮かべ、咲夜は裸体を水へと浸した。
◇ ◇ ◇
訓練で熱を持った身体に、当たる水が心地よい。
緩い流れの中、咲夜は仰向けに浮かんでいた。
時折、流されないように場所を修正する。
だが、動きなどそのくらいでどこまでも静かな時間が流れている。
咲夜の考えた通り、その場を見ている者などいなかった。
だが、仮に存在したとしたら、咲夜の存在を知っていようといまいと、まるで女神の水浴びを見ているような錯覚を覚えたに違いない。
それほどまでに、美しい光景だった。
やがて、咲夜は視線を空から自分の身体へと向ける。
娘としてはそこそこ膨らんでいるのであろう胸、その胸元には生まれながらに刻まれた印があった。
黒い十字の傷……自分を神託者だと証明する字架だ。
十字架を見つめ、咲夜は自らの過去へと思いを馳せた。
◇ ◇ ◇
物心がついた頃には、父も母も既にいなかった。
そんな私を育ててくれたのは、年老いた祖母だった。
私には優しかったが人嫌いだったらしい祖母は山奥に住み、食料の調達など必要最低限なこと以外は、人との関わりを持たなかった。
そんな祖母に育てられたゆえに、私も祖母意外の人と会うことはほとんどなかった。
それで人嫌いにならなかったのが不思議なくらいだ。
だが、祖母との暮らしも数年で終わった。
別段大きな事件があったわけではなく、寿命だった……祖母は眠るように安らかに亡くなった。
それから、私は町に下りた。
私ひとりで山の中に住み続けても意味がないと思ったし、正直町に住むことに憧れも抱いていた。
そして……祖母が全く気にしていなかった私の体質が、異常なことであったことを知る。
即ち、生まれつき胸元に存在した十字の傷と、『再生』と呼ばれる神威の能力が。
神威の能力を知られ、神託者として奉られるまでに時間はかからなかった。
それから、私は……
◇ ◇ ◇
その時、現実へと思考が戻る。
いや、正しく言うならば戻された。
肌に何かが当たった。
ゆっくりと身体を起き上がらせてぶつかった物の正体を確認する。
咲夜を現実に引き戻したもの、それは……
「桃?」
プカッ、プカッ、プカッ、
そんな擬音語が聞こえそうな動きで、川の上流から一つまた一つといくつも潰れて歪になった桃が流れてくる。
ちょうど川の真ん中にいたので、大体の桃が私に当たる。
特に痛くもなんともないので避ける必要もない。
ただ、こんなこと初めてなのでちょっと戸惑う。
上流に桃の木でもあるのか一つや、二つの普通の桃が流れてきたことはある。
だが潰れた桃が、ここまでの数となると初めてだ。
数だけなら地震でも起こったなら分かるが、最近は地震なんて起こっていない。
一体何が起こったのだろうか?そう考えたときだった。
「なっ!」
思わず、声を上げた。
川の上流、桃の流れるその流れの先には……桃がなっていたらしい太い枝と、その上に目を閉じて横たわる一人の少年だった。
見たところ自分と同じくらいの年齢だろう。
黒一色で統一された服装に胸元にはロケットがかかっている。
生きているかもと思い、少年の横たわる枝へと近づく。
流れていきそうな枝を掴み、引きよせて少年の容態を見る。
どうやら呼吸をしているようだし、問題はなさそうだ。
ホッ、と息を撫で下ろす。
それから、岸に連れていこうと枝を引っ張っていく。そのときだった。
モゾリッ、
少年が僅かに身じろぎをすると、ゆっくりと顔を上げて瞳を開く。
そして、見詰め合ったのは紅。
初めて見た紅の瞳が、何故か印象に残った……
まだ、ちゃんと意識が覚醒していないらしく虚ろな瞳で私を見つめている。
「美夜白……?」
ぼんやりと寝ぼけたような声でつぶやく少年。
朦朧とした意識の中で、勘違いをしたのだろう。
でも、こんな状態で名前が出てくるとは、その美夜白という人はこの少年にとってよほど大切な人なのだろう。
やがて、意識がはっきりとしてきたらしく瞳に生気が戻ってくる。
ただ、それと同時に何故だか少年の顔が真っ赤に染まっている。
そこでようやく、今まで自分が何をしていたか、そして自分の今の格好を思いだした。
「えっ!!!」
「あっ!!!」
完全に覚醒した少年の驚愕の声と、咲夜の焦りの声が重なり。
続けて、
「キャアアァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
バッシイィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ………!
という、悲鳴と何かを引っぱたいたような音が響いた……
***
前回に引き続き、主人公の出番が少ないですねぇ……
というか、いまだに名前さえ明らかになっていない主人公ってどうなんでしょうw
でも、次回ではようやく主人公の名前が明らかになりますよ~。
6/6 火輪さんの指摘を受けて、改行等の形式を変更しました。