「あれ? おかしいな……」
しん。
静まりかえった廊下に立ちつくして、俺は周りをきょろきょろと見渡しながらぽつりと呟く。
その動作と、夏を目前に控えていながらも何処かひんやりとした夜風によって酔いを醒ましながら、俺は目の前の厠、そこにいる筈だった人物――厠へと席を立った韓遂を探して、来た道を戻ることにした。
「ふうむ……どこか入れ違いにでもなったのか? ……あるいは、韓遂殿がどこかふらふらしているとか……」
宴が開かれている広間から厠までは、特に迷うことのない一本道である。
韓遂に厠の場所を聞かれた際にも言ったが、広間を出て真っ直ぐ進み、突き当たりを右に曲がればすぐに見えてくる筈なのだ。
であれば、厠自体にはいなくともその途上であれば姿を見つけることなど容易いものだと思っていたのだが。
「いよいよをもって何処に行かれたのか……まさか、左には行ってないだろうな」
その姿が見えない以上、韓遂と手下八部の話をしようと思っていた俺としては、些か拍子抜けに近いものがあった。
もしやすれば、と思って右ではなく左へ行ってはみたものの、その途上と周囲にも韓遂の姿が見えることは無く、俺はいよいよ途方に暮れていた――。
――そこで、俺はふとあることに気付く。
「あれ……そういえば、月も厠だった筈……」
そういえば、と賈駆と話をしていた時を思い出す。
厠では無いか、というのは俺が独自解釈として導いた解であったのだが、あの時の賈駆の反応からすればそれも正解であったのだろう。
であるならば、韓遂の姿は置いておいたとしても、董卓の姿は見えてもおかしくはない筈なのだが。
もしや董卓も酔って道を間違えたか。
そんな考えが即座に脳裏へと浮かぶが、先の様子ではそれは未だ早いだろう。
何より、彼女は自制が良く効く方である。
酔えはせども、酔い潰れてしまったり前後不覚になるほど酔うことはまず無いだろうと言えた。
そもそもとして、彼女が人前でそこまで酔うような人物にはとても思えない。
そんな彼女の姿が見えない――そして韓遂の姿も見えない。
そして。
韓遂の配下、手下八部が洛陽にいない。
これらの事実を冷静に、そして早急に並べていくと、不意に背筋に言いしれぬ悪寒が走る。
それを待っていたかのように――。
――カタリ。
人もいない闇夜に包まれた廊下に面する部屋の中から、微かな音が聞こえた。
「……」
風か。
声に出さずに出した問いは、しかしてすぐさまに掻き消される。
この部屋――これらの廊下に面している部屋は、西涼の軍兵が寝るための寝台を運び出した後に、きちんと施錠されている筈である。
施錠とは言ってもきちんとされているのは窓ぐらいなものであり、扉などは簡単な支え棒で自然に開かないようにしていただけなのだが――と。
そんな折に、俺は一つの部屋の前にて足を止めた。
「鍵が……」
鍵――支え棒――が開いている、その部屋。
自然に外れたのかもしれない、と頭の中で考えてみても、心のどこかでは有り得ないと思ってしまうその光景に、知らず手に力がこもる。
もしやすれば韓遂がつい部屋を覗き込んだだけか。
もしやすれば酔いを醒ますためにと董卓が部屋に入ってみただけか。
――あるいは、何かしらの用件によって二人がこの部屋にいるのか。
韓遂は男、董卓は女である。
男と女という性別だけを考えるのであれば男女が一部屋に集う理由などは数えるほどしか無いであろうが、それも韓遂と董卓であるかもしれないと思えば疑問に思える――いや、そういう関係である可能性もあるにはあるのだが、それを考慮するのはズクリと不思議と胸が痛くなると共に、この場で考える事ではないので止めておくことにしよう。
それはともかく。
「……韓遂殿、おられるのですか?」
微かに聞こえた音を頼りにしてみれば、その近くにて部屋の鍵が外されている。
そして韓遂と董卓の姿が見えない。
それらの全てを繋ぎ合わせることは短慮であろうが、しかしてこれ以上の可能性を考えることも難しいであろう。
そう思った俺は、とりあえず始めの探し人である韓遂の名を声に乗せた。
「……ッ?!」
そしてその声に反応してか、部屋の中からは人の気配。
やはりここにいたのか。
そうして安堵しようとしていた俺の耳に、予想だにしていなかった声が届く。
「助けてッ、一刀さんッ!」
その後は、半ば反射的であった。
腰に構えてあった剣を抜き放ち、扉を蹴破って部屋の中に入ってみれば。
「……月ッ!?」
「おっと……それ以上近づかないでもらおうか、御遣い殿」
微かに脳裏と胸中によぎった男と女の甘い空気や雰囲気などどこにも無く。
韓遂が、董卓を羽交い締めにしていたのであった。
**
「ふあぁぁぁぁ……むにゃむにゃ」
洛陽より遥か西に位置する街であり、董卓の始まりの街でもある涼州が石城。
董卓の元の根拠地であるということ、董卓軍が勢力とする最西であるということも踏まえて、彼の街には長安以西を任されている董卓軍重鎮である李確が治世していた。
元々、石城は董家が長く治めていたこともあって、そこに長く仕えてきた李確からしてみれば、その統治にさほど苦労することは無かった。
そして。
さほど苦労することの無い日々において、反董卓連合軍との戦いの折に同盟を解消することとなり、そしてその戦いが終結した後に再び同盟を――服属という事実はさておいて――結ぶこととなった西涼方面を見張るという仕事は、否応無しに暇を消化する仕事となったのである。
李確直属の軍と言えば、董卓軍でも最精と呼ばれるほどに良く練られている兵である。
暇を持て余すことこそすれど、そのような仕事であっても気の緩みは微塵も無い。
事実、パチリと弾ける火に照らされている兵は、大きな欠伸こそすれど、その視線は注意深く城壁の上から闇夜を見つめていた。
「おい、ちゃんと目を覚ましてこいよ」
「いや、そんなこと言われてもなあ。こう静かで真っ暗だと、寝ずの番も大変じゃねえ?」
「寝ずの番が大変なことは認めてやるが、それとお前が眠たげなことはまったくの別だ。……もっとも、西涼連合が再び同盟相手と成った今、この石城を狙おうとするのは賊の類か五胡ぐらいなもので、それも最近は無いがな」
「おまけに、近場の賊共は李確様の名前を恐ろしがって近づきやしないし、五胡に至っては西涼の騎馬が勝ちまくって防いでるとくりゃあ、全くもって怖いもんは無しだな」
「いや、そうは言うがな。一度気を緩めてしまえば、それは軍を脅かす禍根と成りうるのだぞ。お前はそれを分かっているのか?」
「分かってる、分かってるって。ったく、お前はいつもそうやって難しいことばかり……ん? なんだ、ありゃあ?」
「おい、話を……む……人影、か? おまけに足音も……結構な数がいるな」
だからこそだろう。
無駄口と思わしき声を互いに上げながらも闇夜へと注意を飛ばしていた見張りの兵にとって、それはあまりにも目立ち過ぎた。
人の動く気配。
闇夜で揺らめく多くの影。
多くの脚で鳴らされているであろう足音。
それらの存在に、ひしり、と見張りの兵達が纏う空気が変わる。
それは先まで話をしていた二人だけではなく、城壁の上から各々見張っていた兵達も同様であった。
ある者は防衛のためにと弓矢を番え。
ある者は休んでいる兵を起こしに行き。
ある者は指揮官への伝令に走り。
ある者は動き近づく存在に注意を飛ばした。
「……賊徒、か?」
「さあて、どうだろうなあ……。賊なら一気に攻めてきてもおかしくはないんだろうが、そんな気配も無しとくりゃあ、不気味で不気味で仕方がねえな」
「……馬の嘶きも聞こえるな」
「とすりゃあ、五胡か?」
「――ちょっと待て。一人、進み出てくるみたいだ」
近場に根を張る賊軍がもしやすれば攻め寄せてきたのでは、とそれはまず無いのではないか、と兵の一人は思う。
ここ石城は、元々董卓の先代から董家が統治する街である。
しかし、董家が統治する以前はあまりにも酷いものであったと、古くからこの街に住む人は言う。
五胡に対する西涼連合の本拠は遠く、かといって洛陽は元より長安ですら近いと言える距離では無い。
そんな地理上にあり、さらには西方からの商隊を狙う賊徒によって、石城は常に賊徒からの脅威にさらされていたと言っても過言では無かった。
李確や徐栄、董家先代の奥方といった武将達がいたにはいたが、元々さほど重要視されていなかった石城には必要最低限の兵しか徴用することは許されず、自衛しかままならなかったと言っていい。
そんな状況を、董家先代――董卓の父は変えて見せた。
賊徒を取り締まり、王朝に願い兵を増やし、民から志願兵を募り、石城のみならず周辺地域の治安を向上させることに成功したのである。
むろん、それまでやりたい放題であった賊徒を取り締るのであるから、その手腕は苛烈と言っていいほどであった。
さらには、反董卓連合軍が洛陽へ攻め寄せようとした際に、その混乱に乗じて石城を襲撃しようとした賊軍があったのだが。
その折には石城へと赴任していた李確によって、これらはその尽くが討たれることとなる。
その苛烈さはまるで先代のようであった、とは古くからの兵の言葉だ。
そのように数度に続けて苛烈に散々に打ちのめされた賊徒らは、それからというもの、石城の軍を恐れて近づかなくなっていたのである。
そんな折に、まさかの石城に近づく多勢の気配。
賊軍であるかもと思われたがどうにも様子が違う、ならば五胡の軍勢か。
そう身構えようとした見張りの兵達は、しかして、それから進み出た者の声によってそれを程よく緩め、それを主である李確に伝えるためにと再び伝令を走らせた。
曰く。
我らは西涼連合において韓遂直属の軍兵であるが、西涼騎馬の雄姿を見せるために先に進んだ主に合流しようと進んでいるところである。
先に進むが真ではあるのだが、董卓軍重鎮である李稚然殿に礼を交わし、適うならば兵糧の補給をしたい。
指揮官、楊秋より。
「――西涼連合の楊秋殿か……」
「はい。我が主は心より腰を曲げてお願いしたいと申しております。李確殿を始め董卓軍の皆様方には、先の戦による傷が癒えぬこともありましょうが、重ねてお願い出来ましたらと……」
「ふうむ……」
そうして訪れた西涼連合からの使者を前にして、李確はふと息をついた。
時間は明け方、既に日が昇り始めようかという頃合いである。
となれば、西涼からは駆け通しでも昨夜より前に出たということになるのだが、目の前にてこちらの返答を待つ使者には疲れの顔色はどうにも見えない。
馬と共に生まれ生きてきた者達の成せる業なのか。
さてそれは置いておくとして。
現在の状況を確認してみようか、と李確は先ほどまで仕事で酷使して疲れ切っている脳を再び働かせる。
董卓軍は、西涼連合軍と反董卓連合軍との戦いにおいて解消されていた同盟を再び締結――その内実が降伏、服属、良く言えば合流――することとなる。
そのおかげもあってか李確の仕事はそれまでより格段に増えることとなるのだが、それに加えて、その先触れとして西涼連合の雄でありまとめ役を務める馬騰、その娘である馬鉄と従姉である馬岱が洛陽へと赴いたことも、仕事の増加に拍車をかけていた。
ともあれ、色々――北郷が絡んだ――なことがあってそれらの人物は無事に劉協や董卓の下に辿り着くこととなり、同盟は再び結ばれることとなった。
そして、締結の詳細を詰めるために馬騰は先の二人に加えて、娘である馬超と馬休を連れて行き、その傍らには馬騰に双ぶ雄である韓遂がいたという。
劉協は馬騰と韓遂の同盟締結を心から喜び、董卓はその気持ちに応えるために宴を開くという――現状、この時をもって動いているのがここである。
洛陽は祝賀に包まれ、西涼の韓遂麾下の兵がその祝いを述べに窺い、そのついでとして補給をさせて欲しい、と。
なるほど、確かに事柄を並べてみればそれは至極当然のことであると思えてくる。
だが。
「……少々聞きたいことがあるのじゃが、よろしいかな?」
「はっ。なんなりと」
「うむ。儂の聞くところによると、韓遂殿――いや、西涼の方々はいらぬ混乱と喧噪を洛陽に持たぬようにと兵の数を厳選したとある。しかし、ぬしらは三千の兵をもって韓遂殿に合流しようとなされる……その食い違いが、ちと疑問での」
「ああ、そのようなことでしたか。何、簡単なことでありますよ。西涼が主、韓遂が洛陽の方々に西涼の武勇とそこにある品々をご覧にいれたいと願ってのことであります」
「ふむ……西涼の武勇とは、精強と謳われる騎馬ということで相違は無いか?」
「如何にも」
確かに、使者の言うことも一理ある。
西涼の武勇を洛陽の民に見せるということは、それ即ち、そこを実質的に支配する董卓軍に見せるということである。
その行動は、要らぬ反感を抱く可能性もあるが、同盟を結ぶ双方にとって言えば主導権を握る握らないといった扱いになっていくことだろう。
そして、降伏服属といった面から見て取れば、西涼連合内において馬騰と韓遂の主張合戦とも言えることになるのだ。
特に、韓遂はこの同盟に関していえば馬騰の後手に回っている感は否めない。
娘を人質同然で洛陽に置いていたのとは訳が違うのだから、それを焦って独断に走ろうとしたのでは無いか、という結論を李確は出そうとした。
――しかし、本当にそれだけであろうか。
確かに、西涼連合は同盟の相手であるからして、自身の立場で疑念を抱くということは要らぬ混乱を生じさせてしまうということを李確は承知しているし、ここは快く使者の言い分通りに補給を認めるべきなのだろう。
だが、同盟相手とはいえ、同盟の締結とそれに伴う布告はまだ成されてはいない。
いや、実際には成されているのかもしれないが、それは董卓軍の勢力に確固たる真実として広められている訳では無いし、事実、洛陽以西の守備を任されている者とすれば洛陽からの通達が無い状態で向こうの言い分を鵜呑みにする訳にもいかないのである。
さらには、使者が持っている――その腰に掲げているのも、疑念を深める要因となっていた。
「時に使者殿よ、その腰に掲げているのは……」
「は……何のことでございましょうか?」
「特に隠さずともよかろうて。足の動き、音、気配……使者殿、お主、剣を腰に掲げておろう?」
「……は」
剣。
片刃、両刃、長短様々なものがあるであろうが、目の前の使者が部屋に入ってからの動き、足音と共に微かに届いた金属の音、その気配から察するに、恐らくはそれほど普通のものより少し短いものであると思われた。
使者――とりわけ文官といった者達はゆったりとした衣服を好む傾向にあるが、これは相手から必要以上の警戒を抱かれないためである。
そのゆったりとした衣服に隠すように掲げられた剣が、李確の疑念の正体であった。
もとより、文官が剣を携えていたとしても李確とすればさして珍しいものではない。
洛陽の漢王朝皇帝である劉協と顔合わせをした時などは、その傍らに控えていた李需は懐剣を忍ばせていたし、北郷にしたってその懐には先を尖らせた鉄の棒を忍ばせている。
武人と呼ばれる者達は己の獲物に誇りを持つが、そういった人種でないならば暗器とも呼べる獲物を持つ人がいることを、李確は理解していた。
そもそもとして、北郷が取り立てた忍なる諜報機関はこういった獲物の取扱に優れているのだから、その理解も当然のことである。
だが――いや、だからこその疑念である。
李需にしろ北郷にしろ、そういった獲物を持つ根底にあるのは身を守るためである。
それは彼女らの立場からすれば当然のことであるし、忍の者達にしても武人にしても身を守り敵を討つためのものだ。
自身にしても、いつ何ときとも気の抜けない立場にいるからこそ、今ここでもなお剣を携えている。
だが、目の前の使者はそうではない。
同盟を結び、その同盟という信頼の下に街での補給を請うているのに、その腰にあるのは敵と対するもの。
疑念――不信感を抱くなという方がおかしい。
「ふむ……兵はおるか?」
「はっ……指示があればいつでも」
「少し待て……使者殿が敵だとはまだ決まっておらぬ」
疑念を抱けば、それは総じて警戒となる。
自身の傍らに控えていた副官へと小声を飛ばした李確は、顎に手を当てて使者を見やる。
見たところ、使者は武芸に精通している様子は無い。
それは剣を持っていると分かる動き方からの推測ではあるが、恐らくは外れていないだろう。
使者の中には武芸に精通し生半可な武人より強い猛者もいたりするが、目の前の使者はそのような人物ではなさそうである。
であるならば、どういった要件をもって剣を持つのか。
先の言葉で言うのなら、敵と相対する時に、であるが、それは使者がこちらを敵と見なした――すなわち、使者がこちらの敵であるという可能性が浮かんでくるのだ。
だが、未だ使者は口を開かずのため、敵と断言するのはまだ早い。
そもそも、使者の口から出た名は楊秋――西涼連合軍の中でも馬騰に双んで壁を成す重鎮の、その軍師的立ち位置にいる片腕である。
その名が出、その旗も確認されたことからまさしく本物なのだろうが、しかして、どうにも疑念を抱いてしまえばそれも実に疑わしい。
「……楊秋殿が野心に炎を灯したか……或いは……韓遂殿、か?」
となれば、どれが真実で、誰が言っていることが偽りなのかが重要となってくる。
使者がただ自己防衛のために剣を持っているのか、はたまた敵と対するために剣を持っているのか、その場合の使者の敵とは誰になるのか、そして楊秋――韓遂の立場は。
或るいは別の誰かか。
声に出さずに口の中だけで転がされた言葉――それを脳裏に染み込ませる前に、使者が零した言葉が李確へと届く。
「……もはや……これまでッ!」
「ッ……使者殿を包囲せよ、逃がすなッ」
もはや。
そう零した使者が取った行動は、文官が好んで頭に被る帽子のようなものを空中へと投げることであった。
すわ何事か、と身構えようとした李確ではあったが、それに意識が向きそうになれば使者にとってそれが目的――注意を逸らしての逃亡であると即座に理解する。
即座に理解してしまえば後はそれに倣わないようすれば良いと、李確は帽子のようなものへと周囲の副官や武官の意識がそちらへと向かう前に声を荒げた。
李確直属の中でも、その精鋭たる武官達がこの場にいるのだから、李確の声を受けた彼らの行動は早かった。
帽子のようなものに飛びそうになる意識を即座に収束、李確の言葉に意識するよりも早く反応した武官達は、駆けだそうとする使者の前のみならず左右と背後を固めた後に、手に持つ槍を構えたり、腰の剣を抜き放った。
「ぐっ……おのれ……」
「使者殿が何をもってこちらに敵意を示しているのかは分からんが、こうなってしまえばそれを明らかにせねば、儂の身ならず、董家も漢王朝も危ういのでな……悪いことは言わん、すぐに口を割ればその身の安全は保障しようぞ」
「……お主らが漢王朝の名を口にするのか」
「ん、何じゃ?」
「……」
「……やれやれ、だんまりか」
つい先ほどまでの態度から一変した、不快さと敵意とをかき混ぜたような視線に臆することも無く、李確は使者からの視線を受け止める。
その視線に、使者が敵であるとした李確は、であるならば使者を動かした人物を探ろうと思考を働かせる。
楊秋か韓遂か、或いは――西涼連合軍か。
ぶるり、と背筋が震えるのを李確は確かに感じた。
楊秋だけがこちらの敵ならば街の外でこちらの返答を待つ軍勢を撃破すれば良い。
韓遂が敵であるならばどれだけの勢力かは分からないにしろ、洛陽にいる面々であれば遅れは取らないだろう。
だが、これが西涼連合軍自体が行った行動だとしたら。
数度しか目にしていないが、馬騰もその娘達も腹に一物を抱えるような細かい芸当は難しいであろう。
しかし、それすらもこの行動のためであったと思えばそれも疑わしきものとなる。
となれば、洛陽に西涼連合軍の代表ともいえる二人、その娘達がいる現状は如何に危険なものであるのか。
むろん、その考えが外れていればとは思うが、戦乱の最中、事態が悪い方にばかり流れていく現実を知っている李確からすれば考えすぎないにこしたことはない。
であるからこそ、幾つかの真実を知っているであろう使者を捕えようと指示を下そうとした李確であったが、その使者が腰に隠してあった剣を抜いたことにより自身はもとより、周囲に緊張が走った。
「もはやここまで……こうも囲まれてしまえば、指揮官を討つことも叶わぬか」
「……やはり敵であったか。悪いことは言わん、剣を捨てて投降せよ。このような状況で何するものもあるまいぞ」
「……いや、だからこそ出来ることもある」
その緊張は、次にまた違う緊張へと変わる。
使者が持った剣は、その矛先をくるりと変えた――使者自身の喉元へと狙いを定めて。
そして。
「くくく……漢王朝に、栄光あれぇぇッ!」
李確が止める間も――口を開く間も無く、使者はその剣を勢いよく自らの喉へと突き立てた。
ごふりっ、と。
血塊とも空気ともとれるものが血を零す使者の口からもれたかと思うと、使者はその振動のままに床へと倒れた。
そのまま数度、びくりびくりと数度痙攣しつつ血塊を零した使者は、その身体から既に力を抜いていた。
そして。
その使者の身体から痙攣が抜けると、それはもはや動くことは無かった。
「……城門を閉じ、兵を配置せよ。伝令を安定、長安、洛陽に送るとともに、周囲に斥候を放て」
ぴくりとも動かなくなった使者の骸を配下の兵に確認させ、その死が確かなものとした李確は、傍らにいた副官に指示を飛ばす。
周囲は使者が自害したという事実に初めこそ茫然としていたが、それも李確の指示を受ければ即座に打ち消される。
指示に従うためにと慌ただしくなってきた周囲に混じり、副官の声が李確へと届く。
「使者――いえ、敵はどこになるでしょうか?」
「ふむ……恐らくはじゃが、韓遂殿では無いかと思うておる」
「楊秋殿の独断――或いは、西涼とはお考えにならないので?」
「うむ。……楊秋殿だけという可能性も考えることは出来るが、兵からの報告にあった数ではここを落とせるとは思えまい。使者殿の言に嵌ればそれも可能かもしれぬが、それでも、精鋭たる西涼騎馬を主とした編成でさえも難しかろうて。となれば、伏兵がおる。伏兵がおれば、楊秋殿の手勢だけではあるまい。韓遂殿でなければ、それらを動かせぬだろうと思ったまでよ」
「西涼でないと考えた理由は?」
「知れたこと。西涼が敵ならばこのような回りくどい手は使わぬと思うたまで。兵力と練兵の差を考えれば、瞬く間に石城は精鋭騎馬隊に飲み込まれていただろうよ」
となりで納得した副官から視線を外し、彼が用意していた見張りの兵からの報告を簡単にまとめたものへと移す。
城外に現れた軍勢、三千ほど。
昇る旗は『楊』の字、ただ一つ。
その威容、騎馬、旗の名から西涼連合が将、楊秋と考えられる。
ざっと目を通して、なるほど、と李確は思う。
今現在に石城にある兵は二千ほどである。
これは、元々董卓が洛陽に移る石城にいたころからの最古参に近い兵であり、その錬度は洛陽の兵より遥かに上なものがある。
故に董卓軍勢力地の最西を守る兵力としているのだが、それを知らぬ西涼ではないだろう。
それを三千ほどの兵で落とせるなどと、微塵にも考えていないだろうし、考えていないからこそ使者という名の罠を用いたのだろうと、李確は予想した。
開門と偽って内部へと招き入れたところを奇襲、という案がちらほらと出始めるが、李確はそれを一蹴する。
使者が自害した――するほどであるということは、恐らくではあるがこちらの反応をある程度予想してのことであろう。
使者が拒否されれば石城をおいて安定を攻め、開門すれば石城を攻める。
使者が出てこなければ害されたか元より予定であったかもしれない自害をしたとして、こちらに敵を定めることと、三千という二千で蹴散らせるほどと思われる兵力に討って出てもらうための布石であると考えられた。
となれば、揚秋が繰りだそうとしている策は自ずと限られる筈である。
恐らくは、石城を視認できる距離で千から二千ほどの騎馬が待機しており、討ってでたところを逆撃して討つつもりであろう。
韓遂が直属の兵を全て動かしていたのならばそれのさらに数倍にもなるだろうが、それだけの兵力を動かすのであれば、ここまで遠回りなことをしなくてもいい。
石城は比較的防備の薄い街であるから、それだけの兵力を一気に投入すればどうにでもなるのだ。
石城をまず勢力下において、そこを拠点に勢力を広げていくという軍略を取らない以上、その数はたかが知れている。
故に、李確は今回において動いている敵方――韓遂の兵力に大体の当たりをつけていた。
「一万……いや、一万五千ほどであろうな……。伝令が無事に届けばよいのじゃがな」
おおよそ無理であろうと思われる言葉を口にした李確であるが、今は目の前のことであると頭を振る。
一万五千のうち五千ほどが石城に目を光らせているのであれば、当然石城の後に攻めるであろう安定には一万の兵がおり、その動向に目を光らせていることは容易に想像出来る。
もしやすれば、安定は放っておいて長安に一万の軍勢が向かってるかもしれないのだ。
となれば、万全を期するためには当然の如くにこちらの動きを警戒していることだろう。
危急を知らせるために伝令をと指示は出したが、これが届くかどうかなどは、まさしく運であると言ってよかった。
であるからこそ、李確はなるほどと一人納得していた副官――忍から派遣されていた石城諜報部隊の長へと加えて指示を出した。
「先に指示を下した伝令とは別に、主らからそれぞれの街に伝令を頼みたい」
「承知に。人数は如何ほどに?」
「任せる。……金子に糸目はつけん、伝えが届けば何人でも構わん」
「それはそれは、随分と払いのいい……後々、賈駆殿や北郷殿から苦言を貰うのでは無いですか?」
「それは仕方が無かろう。出世払いというやつじゃ」
「これ以上出世のしようがないでしょうに」
違いない、と笑う李確に一度頭を下げた副官は、後にこちらを振り返ることなく喧騒に包まれた部屋へ去って行った。
この部屋の警護を秘密裏に担当していた忍者達に指示を与えに行ったのであろうが、自身にとってもそれをどうこう詮索する余裕は無いと李確は気を引き締める。
まずは民を落ち着けつつ、兵の気を引き締めることとするか。
そうして、李確は次第に大きくなりつつあった喧騒を収めるために口を開いたのであった。
**
「……李稚然(りちぜん、李確の姓と字)はこちらの思惑に気付いたようだな」
朝日が冷え込む闇夜を切り裂きながら僅かな温もりを与えてくるのを感じつつ、楊秋は感嘆した声を上げる。
常であれば日が昇れば開けられる筈の街を守る門が閉じられていく光景は、揚秋の言葉が真であると認識させるに等しいものであったのだ。
「さて……気付かれた、となるとこの兵力では石城を落とすことなど出来んか……。もっとも、それもこちらの手筈通りではあるのだが……李稚然がそれにどこまで勘づいているのか、どのような手を打ってくるのか……実に楽しみだ」
揚秋の言葉が真であるのなら、それはすなわち自身が考えて実現しようとしていた策の不発を意味するのだが、それに固執することなく、気にすることもなく彼は言葉を紡ぎ、思考を働かせる。
「両脇に控えていた伏兵部隊に伝令。こちらの第一の策は見破られた、よって我らはこれより石城の攻囲へと移る故、これに合流するようにと伝えよ。加えて伝令。安定を捉えている侯選殿、長安を目指す梁興に董卓軍の伝令や動向に注意しつつこれを攻めよ、とな」
「はっ!」
策が見破られてしまうことは半ば予想していた。
何せ、石城に駐屯し、そこから長安に至る防衛網を敷いているのは他ならぬ董卓軍の重鎮、李確なのだ。
董卓の先代が石城太守へと就く以前に、それより前の太守が放り出していた政軍を戦友である徐栄と共に纏め上げ、後に董卓が飛躍する礎を築いていた人物。
洛陽から遠く、西涼からも遠い地理における石城において、漢王朝でも評価を受けていた人物が、今こうして自らに対しているのだ。
策を見破られることも、元より通じるなどと揚秋は微塵も思ってなどはいなかった。
故に。
第一の策が破られたのならば、第二の策を披露すれば良いだけのこと――否、むしろ第二の策こそが本命であるなどと、さすがの李確といえども見破ることは出来まいて。
そう頭を振った揚秋は、僅かに口端を釣り上げながら、遠くにて城門が全て閉じられた石城を見ていた。
「さて……戦にてこうも胸が高鳴るは不謹慎ではあるのだがな、こうも軍略を講じられるのであればそれも致し方のないことか。だが……」
李確はこちらの思惑通りに動いた。
これより様々な手を打ってこの状況を打開しようとするだろうが、此度の行軍において招集された軍兵は西涼韓遂軍の中でも精鋭と呼べる者達である。
倍程度の軍勢を蹴散らせる兵を李確は育てているであろうが、それでもそれは難しいであろう。
なれば時間がかかる、それこそが策の肝要なのだが。
しかして、揚秋の脳裏にふと走る名が僅かな不安を落とす。
「天の御遣い、か……。反董卓連合軍との戦いにおける功労者ではあるが、さて……どのように動くのか……」
不安――いや、或いは昂揚か。
言いしれぬ感情を胸中に抱きながら、揚秋は石城を眺め、再び口端を釣り上げた。
**
洛陽にて董卓に牙を剥いた韓遂。
西涼にて石城から安定、長安へ牙を剥かんとした揚秋――韓遂配下の手下八部達。
それに抗するは、涼州石城が李確と、洛陽が北郷。
董卓軍における新古の将達は、時を同じくして再び戦へとその身を預けていく。
後の世に、西涼韓遂の乱と称されるそれは、静かに幕を開けた。