それは、突然であった。
汜水関へと向けて撤退していく董卓軍。
当初、二十万の連合軍に対して五千の兵で迎え撃とうとしたことこそ驚愕ではあったが、結局兵力差を鑑みてか、董卓軍は言いたいことだけを言って撤退していった――この時点ではただそれだけだと思われていた。
だが、撤退していく董卓軍を追撃するためにと先行した袁術配下の梁綱と梁剛が、董卓軍が撤退の時間稼ぎのために立てたと思われた木枠と木の板に取り付いた時に、その判断は間違いであったとして。
木の板を叩き壊し、木枠を強引に押し倒して突き進んだ向こう、撤退していたとされた董卓軍が待ち構えていたのである。
そして。
董卓軍を一気に押しつぶさんとした勢いの梁兄弟の軍勢を、道を塞ぐように立てられた木の板の向こうで待ち構えていた董卓軍は、一斉にあるものを突き出していた。
「ありゃー……痛そうね、あれ」
「ああ……董卓軍も中々に惨いことをする……。まさか――」
「――木を尖らせて突き出すなんて、ねぇ……。しかも、ご丁寧に先を荒らしてるから抜いたとしても簡単には傷塞がらないわよ、あれ」
痛そうに視線と顔を歪ませる孫策の言葉に頷く代わりに、周喩は視線を先へと――罠に陥った梁兄弟の軍勢だったものへと向けた。
阿鼻叫喚。
そこは、そう表すのが正しいほどに壮絶な光景であった。
脇腹から背までを貫かれた者、太いものに当たったのか肉皮一枚以外をそぎ取られた右腕の者、先頭で走っていた梁兄弟は一段と大きいものに当たったのか頭部の中心をそれぞれ貫かれていた。
一撃を与えることに成功した董卓軍はすでになく、彼らが残していった太さや長さが様々なものであったそれら――木枠を構築した木材の余りにて作られた木槍とでも言うべきそれは、その要因によって様々な被害をもたらしていた。
まず第一に人的被害。
連合軍二十万の中で袁術の軍勢が占める割合は三万ほどである。
梁兄弟が率いていたのはそれぞれ二千ほどで合わせて四千と、五千の董卓軍を追撃するぶんとしては十分であると言えた。
だが、その四千の部隊もその指揮官を失い、その半数近くが追撃の勢いのままに罠に嵌められたのだ。
実質に罠にかかったのは千と少しほどだろうが、急停止した勢いで怪我をした者も少なくは無い。
実に半数以上もの戦闘不能者が出てしまっては壊滅といっても差し支えもなく、彼らを救護する者もいれれば結構な数の兵が前線に出ることは無くなったのである。
さらには、連合軍全体の精神的被害は計り知れないものがあった。
二十万のうちの四千、なるほど、数字にしてみればさしたる被害とは言えそうもないものだ。
だが、董卓軍を追撃するために集中していた連合軍の意識は、その先頭を走っていた部隊が受けた壊滅的被害をまともに受けることになったのだ。
不揃いにされた木槍の先端によって、木槍の刺さった傷口はぐずぐずに侵し激痛を与えられ、応急処置をしようにもずたずたに切り裂かれた肌や筋肉はは絶えず血を流し、それらの者の絶叫と悲鳴に連合軍の多くが二の足を踏むこととなっていた。
次にああなるのは自分達ではないのか、と。
「董卓軍からしてみれば、初撃を与えることには成功、といったところかしらね」
「そうだな……こちらとしてはまんまと嵌められた形になるが。木材で槍としたのも、事を成し遂げた後に捨て置くためと……そこまで予想しての策ともなれば、中々に凄いと言わざるを得ない。寒気すら覚えるわ」
「まあ、袁術ちゃんの軍なんだから、私達としてはあまり痛まないんだけどね。それでも……うん、冥琳の言うとおり私も凄いと思うわ。二十万もいるんだから、罠じゃないと考えるのがいる考えるのは分かるけど、緒戦でそれを逆手に取るとは思わないわよ。それこそ、ここ一番にしたほうが効果は大きいでしょうに」
確かに、だ。
孫策の言うとおり、確かに策というのは機を見る必要がある。
例えば奇襲などにおいても、広く障害物のない所で行われても大した戦果が見込めないし、下手をすれば返り討ちにあう可能性すらあるのだ。
ともすれば、まずは軍同士が相対、或いは戦闘を開始し、注意を引きつけておいてからか、混乱させてから、というのが奇襲においての機になる。
今回、董卓軍が行った策というのは目隠しをしておいての待ち伏せ――しかも、突出する者達がいると想定の上でのことだった。
だが、と周喩は思う。
自分ならば、一当てした後に敗走を演出し、功を焦り勢い余った軍勢相手に策を弄した方が効果的であったのではないか、と。
今回の連合軍結成において、董卓軍が取れる手段は多種多様なものがあった。
皇帝を保護した関係を用いて連合軍を朝敵とすることも出来たし、防備に向かない洛陽から関中の肥沃な地と堅固な関のある長安への撤退或いは遷都も考えられるし、何より、堅固と謳われる汜水関と虎牢関に籠もりきることも出来た。
なのに、董卓軍はそれらを成さなかった。
それはつまり、それを成さずともよいという自信と勝機があるからではないのか、そう周喩は考えていた。
つまり、である。
董卓軍にとって、この策を弄する機は緒戦こそが正しかったのではないか、と。
「なるほど……冥琳の言うとおり、その可能性もあるわね。その場合、これから董卓軍が取る策は何が考えられる?」
「推測でしか物事を言えないが……要所要所で足止めをしつつ汜水関に退き、そこで籠城だろうな。私ならそうする――いや、堅実にいくのならば初めから籠もるが」
「ふむ……では、公瑾よ。董卓軍は、ここから先も何かしらの策を弄しておる……そう言う訳じゃな?」
「そうです、祭殿……最悪、同じ策を弄している可能性すらあるのです。ここからは二十万という数的有利を一時置き、慎重に軍を進めていくしか――」
「――よしっ、ならば黄蓋隊は先行するぞ! 罠があると安心しきっておる董卓軍の尻に噛み付くのだッ、罠があれば食い破れッ、我らが武威、董卓軍へと思い知らしめるのだッ!」
となってくると、ここからの道筋は慎重に進まねばならない。
如何に連合軍が二十万という大軍とはいえ、ここから汜水関、そして虎牢関へと抜ける道がそれほどに広くないことを考えると大軍という優位性はそれほど生きてこなくなる。
であれば、先行し壊滅した梁兄弟の後ろに付いていた孫家の軍は少し後ろへと下がり、功を立てるための機を窺うべきである。
そう下知を下すようにと孫策へ伝えようとしていたというのに。
はっはっはっ、と何故だか実に楽しそうに自らの部隊を纏めて去っていく祭――黄蓋に、周喩は知らず痛む頭を抑えていた。
「……あの方は、私の言うことを理解しているのか?」
「ま、まあまあ……祭だって冥琳の言うことを無視しているとかじゃないと思うわよ……多分。それに祭だもの。袁術ちゃんの軍と違って、罠があることが分かったんだから闇雲には突っ込まないと思うわよ?」
「……まあ、そうだな。……仕方あるまい、祭殿だけを突出させる訳にもいかぬし、何やら曹操の陣も動き始めているみたいだし、私達も進みましょうか、雪蓮」
「そうこなくっちゃ! 行くわよッ、我らが孫家の誇り、董卓へと見せつけるのだッ!」
そして。
先行した黄蓋の部隊だけを進ませるわけにもいかず、曹操の軍勢の動きと孫策の承諾もあってか、壊滅した梁兄弟の軍勢を救援していた袁術軍の脇を通りながら停止していた連合軍の動きが再開したのを――その背後から董卓軍が来ないかと、周喩は視線を向けていた。
どうする、そう考えていた連合軍が進もうとするこの瞬間。
意識が前にいくこの瞬間こそ、奇襲に最適な機である――周喩はそう思っていた。
奇襲を恐れていればいつまでも前に進むことは能わず、連合軍の――自分達の本懐を遂げることは出来ぬと思い口に出すことは無かったが、それでも進み始めた連合軍に対して奇襲するためにと董卓軍が現れることもなく、周喩は知らずのうちに溜息をついていた。
「気にしすぎ、か……?」
悪いことというのは、総じて続きがちになるものである。
罠にしても同じことが言え、一度罠にかかったのなら、それを想定して第二第三の罠を仕掛けてこその策であると周喩は考えていたのだが。
それこそ、進まんと意識を前にした連合軍の背後を奇襲部隊が突き、混乱している連合軍に向けて先に撤退していった董卓軍五千が――もし汜水関に籠もっている兵まで連れて引き返して来たのなら、それこそ連合軍は壊滅的打撃を負ったかもしれないというのに。
そもそも気にしすぎなのかもしれない、と周喩は頭を振った。
自らが優秀だと自惚れることはないが、皇帝を保護するという優位性に目をつけ洛陽に駐屯し、そして今また勝機を持って連合軍に相反する董卓軍において、自らと同じだけの知謀を持つ士がいてもおかしくはないと思っていた。
もしそうともなれば先を読む方が有利に立てるのだが、しかして、自らが考えつく策で来ない以上それも杞憂であったか、と周喩は先を急ぐことに決めた。
**
「こりゃこりゃ……ここまで当たると気持ち悪いねえ。大将の――いや、二人の軍師様の言うとおりになってるじゃないか」
連合軍を――逃げる董卓軍五千を追うにつれて、徐々に長く伸び始めた連合軍を眼下に収めながら、楊奉はぞくりと背筋を振るわせながら呟いた。
眼下、とは言っても楊奉がいるのは連合軍の集結地から汜水関に向かう途上、崖の一画であり、そこには若干崖肌を崩して作られた数人が潜り込めるような空間があった。
楊奉が大将と呼ぶ青年に仕えだした頃――北郷一刀が諜報機関『忍』を設立した当初の頃に、洛陽周辺から司隷の地図を作成する任と同時進行で命じられて作ったその空間だが、なるほど、今回のような時のために作らせたのか、と楊奉は感心していた。
能力があっても――あるからこそ人のために、と頑張るのが面倒な者達が集った白波賊の中において、そういった場所を見つけ出す者や崖を削る技術を持つ者は数人いる。
それを北郷が知っていたとは思えないが、それでも、彼が求める任を無事果たした結果がこれならば、どれだけ先を見てのことなのかと楊奉は思っていた。
「しっかし……やっぱり二十万ともなると多いな。……疑う訳じゃねえが、本当にこんな策で勝つことが出来ると思うか、貴白(きはく、楊奉の真名)?」
「何だい興建、あんた、大将を疑ってんのかい?」
「いや、そういうわけじゃねえけどよ……今いち信用ならない女共の策にそのまま乗っても大丈夫なのか、と思ってな。聞く所によると、あいつらは旅をしていたって言うじゃねえか。どこで連合と繋がってるかなんて分からねえぜ?」
「そりゃあそうだけどさ……大将が信じるって決めたんだ。私達もそれを信じなきゃ駄目だろ」
自身の隣でぽつりと呟いた韓暹の言葉に、なるほど、と楊奉は頷いた。
確かに、これから行う策で勝てるかどうか、と問われれば疑わしいのは確かだ。
それに加えて、当初の起案が北郷であるのも関わらず、その細部を詰めたのはそれまで見聞を広めるためにと旅をして、今回の戦において客将として北郷の下にいる郭嘉と程昱という少女達なのだから、韓暹の言葉も当然である。
だからと言って、北郷を信じられない理由にはなりはしないのだが。
自分達は雇われた側であるとする楊奉にとって、よっぽどの限りでないのであれば、その指示に従うことに否は無かった。
「まあ……そうだな。どっちにしろ、ここまで来たからには今更後には引けない、か……」
「そうそう。……ってな訳で、そろそろ行こうかねえ。ぼちぼち頃合いだろうし」
そう言葉を放って、楊奉は隣の韓暹から再び眼下へと視線を移した。
事前に組んでいた――軍が動くと目立つという理由から、忍が組んでいた木枠の陣地を連合軍が慎重深く突き進んでいた。
木枠と木板で構築された壁を取り外していくが、待ち構えていた迎撃が無かったからか、連合軍は少しばかり驚いては先に逃げていく董卓軍を追撃していた。
そうして追撃を重ねて、徐々に徐々に――言うなれば、龍が如く長大になろうとその体勢を縦へと延ばしていく連合軍に、楊奉はにやりと口端を歪ませた。
「それじゃあ、あたしは後ろ。興建は真ん中辺りでいいかい?」
「おう、それでいいぜ」
「目標のぶつを見つけたら合図があるまで待機……勝手に突っ走るんじゃないよ?」
「こっちの台詞だ。貴白こそ、強そうな奴がいたからといって喧嘩ふっかけんじゃねえぞ?」
「ははっ、重々承知してるよ。……じゃあ、行こうかねえ」
その言葉に、韓暹やその周辺にいた数人が一斉に空間から外へと出て、連合軍を目指して駆けていく。
それまで光が少なかったために気にすることも無かったが、いざ日の光の下へと出てみると、韓暹達は――彼らが身に纏う金色の鎧は実に目立っていた。
ただ、それが連合軍を前に――追撃して隊列などが崩れている連合軍を前にすれば、その程でも無いのだが。
混乱ほどでないにしろ、追撃に次ぐ追撃によってその隊列が長く伸びたことによって、連合軍の中では様々な色が混ざり合っていた。
それこそ、金色や自らが身に纏う黒色のように。
「……本当に、どこまで予測しているのやら」
そう呟いて、楊奉は腰に括り付けてある拳大の壷へと視線を投げる。
微かな水音を響かせたそれにしばし視線をやった後、楊奉は韓暹と同じように日の光の下へ――連合軍の中へと自らの身を投げ出していた。
**
「……明らかにおかしいです」
「何がおかしいのだ、朱里よ? 董卓軍が迎撃に出たのも初戦の一戦きりで、後は初めと同じように木枠と木の板を立てつつ逃げていただけではないか。確たる策を弄せずに逃げることこそ不気味とは思うが、さほどそこまで気にすることもないと思うのだが……」
そう呟いた諸葛亮とそれに反応した関羽の言葉に、彼女の主である劉備は微かに反応しつつ眼前へと視線を向けた。
汜水関。
洛陽へ迫る道筋において、虎牢関と文字通り双璧を成す堅固な関であり、反董卓連合軍においてはこれもまた文字通り最初の関門と言える関が、目の前にあった。
さほど広くない――とはいっても人の往来程度なら十分な広さであって、二十万もの連合軍が展開するには窮屈なぐらいに狭い程度であるが、それでも、それだけの道幅を塞ぐように立てられたその関は、十分に脅威である。
その間を道と成す両側の崖は到底人が登れるような角度ではなく、汜水関を押し通ろうと思えば正面から押し進むしか方法はないのだ。
攻め難く、守り易し。
それが、汜水関の評価であった。
「最初こそ罠がありましたが、それからは董卓軍は壁を築くだけでただひたすらに逃げていました。ですが、逃げるだけなら壁を築く必要はありませんし、壁を築きたいのであれば逃げる必要はありません。事前に築いておけばいいのですから」
「それは、まあ、朱里の言うとおりだが……初めの罠で打ち勝つつもりだったのではないか? いくら我々連合軍が二十万とは言え、このような地形においてはさほど大軍を動かせまい。董卓軍はそう思ってこそ、五千という小勢で迎え撃とうとしたが、そうは出来なかった……そうは考えられないか?」
「あ、愛紗さんの言うことも、一理あると思います……で、ですが、それだと逃げることには繋がりません」
「む……」
であるからこそ、その堅固な汜水関に籠もりきるという策を取らずに打って出た董卓軍に、劉備を支える二人の軍師や義姉妹の関羽だけでなく、連合軍全体が困惑しているようであった。
耳を澄ませばざわめきが聞こえる辺り、それも間違いではないだろう。
それだけ、董卓軍の思惑が計り知れないようである。
自身の臣である諸葛亮と庖統もまた困惑しているようであり、董卓軍の真意が見えないことに不安を隠せないでいるようであった。
「んー……ここまで案内してくれた、ってことはないかな?」
「はあ……。桃香様……いくら董卓軍といえど、さすがにそこまでは愚かでないでしょう。誘い込んだ先に罠があるのならともかく、ただ案内しただけというのは――」
「――……あながち間違いじゃない、かも」
「えっ? た、たよちゃん、それはどういう……?」
そして。
劉備の言葉を関羽が否定しようとするが、それに待ったをかける少女がいた。
黒く――ただひたすらに黒い宝玉のような髪は肩に届くまではなく、その緩やかな形とそれに隠れる闇夜の如く黒く輝く瞳と合わさって、ふと幼い印象を抱く。
女性らしく曲線を描くその身躯も、少女ということもあってか、未だ成長途中かのように微々たるものであった。
物静かに――それでいて鈴のように凜と発せられた声は、ざわめきにある連合軍の中にあっても、酷く耳に染みこんだ。
「……洛陽の南から攻めるのは遠いけど、大軍が展開するには十分広い。だから、狭いこっちに案内しても不思議じゃない。……それに、何か仕掛けるならこっちの方が有利」
「むむ……しかしだな、たよ。事実、董卓軍は緒戦こそ罠を仕掛けたものの、それからは仕掛けていないのだぞ。たよの気のせい、ということではないのか?」
その関羽の言葉に、たよと呼ばれる少女――田豫はふるふると首を横に振って応えた。
「……多分、これからだと思う。……先手は取れたし、十分に主導権は握れた。わたしなら、ここで仕掛ける。……桃香お姉さん」
「ん、何かな、たよちゃん?」
「……すぐに動けるように兵を纏めて。何かあったら危険。……朱里お姉さん、雛里お姉さん、ちょっといい?」
「うん、たよちゃん。済みません、桃香様……少し向こうで話してきます。行こう、雛里ちゃん、たよちゃん」
そうして。
てくてくと歩いていく諸葛亮と庖統の後ろを、これまたとことこといった感じで付いていく田豫に可愛らしさを感じつつ、劉備は隣の関羽へと視線を向けた。
「……すっごいねえ、たよちゃん。あんなに小さいのに、朱里ちゃん達と変わらないぐらいにすっごいよねえ」
「ええ……憲和(簡雍の字)殿が謀略の士と言ったのも頷けます。初めは何を言っているのかと思いましたが……」
「ああ……いきなりだったもんね、憲和さん」
その関羽の言葉に、劉備は連合軍に参加するために公孫賛と共に幽州を発った時のことを思い出した。
諸葛亮は知略の士、庖統は軍略の士、ならば田豫は謀略の士である。
異民族や新たに参加表明をなす義勇兵を募るためにと幽州に残ることになった簡雍は、見送りの儀において劉備にそう言ったのである。
それが突然のことだったので、劉備もその隣にいた関羽も些か驚きを隠すことは出来なかったが、それでも、その真剣な言葉は頷くに値するものであった。
元々、田豫は劉備が決起当初に募った義勇兵の一人であった。
身躯が大きくないことから兵にするには、となった結果、簡雍の補佐という形で参加することになったのだが、その簡雍からそう言われてしまえば、その能力を疑うことは愚かであろう。
事実、黄巾賊と相対した時は情報の重要性を諸葛亮達よりも重要視しており、当時兵数の少ない軍の中では貴重であった騎馬兵を斥候として多方へ放つなどして、その勝利に一役買ったりしたのだ。
最早、劉備の軍勢の中で田豫の能力を疑う者はいないのである。
その田豫が、これから何かが起こると言う。
その事実に、劉備は知らず背筋を振るわせていた。
「では桃香様、私は兵を纏めてまいります。鈴々がどこかにいる筈ですから、朱里達が帰ってきたら共に話を聞いておいて下さい」
「あっ、うん、分かったよ、愛紗ちゃん」
そうして。
関羽を見送った後、劉備は再び汜水関へと視線を向けた。
『程』、『郭』、『華』、『牛』、そして『十』
色とりどりのそれらの旗が汜水関の上で翻るのを、劉備は何とも言えない感情を胸に見つめていた。