「いやはや……中々に凄い光景だな」
辺り一面――視界のほぼ全てを埋め尽くすほどの人の塊に、俺は空いた口をそのままに自然と呟いていた。
一種感動すらするその光景に知らず緊張していたのか、力を入れすぎて強張っていた掌を開いたり閉じたりして解していく。
「……どうやら、連合軍はこちらを確認したようですね」
「おや……稟ちゃんの言うとおりみたいですねー。こちらを警戒してか、進軍が遅くなりましたよ」
そんな俺の両隣で、『郭』の旗を掲げる郭嘉と、『程』の旗を掲げる程昱が冷静に連合軍を分析していた。
彼女達の言葉に促されて連合軍を見れば、その言うとおりのようで、こちらを警戒し窺いながら徐々に距離を詰めてきているのが確認出来た。
その連合軍の行動に、ひとまず安堵する。
警戒などせずに遮二無二に攻め寄せられていればどうすることも出来なかったが、こちらを警戒することによってその進軍速度が低下することは、防衛するこちらにとっては大変有り難いものである。
準備する時間が潤沢にあったなら罠の一つ二つ仕掛けておくことも可能であったのだろうが、さしたる時間が無かった今回に至っては、こういった罠をちらつかせることによって警戒させるぐらいしか手は無かったのである。
とりあえずの初手の成功に、俺は人知れず安堵の溜息を吐いた。
「おやおやー……緊張してるのですか、お兄さんはー?」
「そりゃまあ……今回は、こちらの倍とかいう話ではないですからね。程昱殿の言うとおり――」
「おいおい、兄ちゃんよ。まさか、終わりまで言わせる気じゃねえだろうな?」
「――風の言うとおり、緊張してるよ。……ありがとう、宝譿」
「おやおや、宝譿にお礼とはー……お兄さんも中々に面白い人ですねー」
「……敵を前にして、いやに落ち着いていますね、貴殿らは」
そんな俺を緊張していると見てか――事実その通りなのだが、そんな俺に対して程昱が声をかけてくる。
最近聞きなれた間延びした声にはどこか気を使うような色も混じっており、それが少し嬉しくて彼女の相棒である宝譿――程昱の頭上にある人形へと、返事を返す。
日輪をモチーフにしたと言うその人形は、見た目で言えば酷く手作り感が溢れており子供が作ったもののように見えた。
程昱が改名したその由来は自らが日輪を支えている夢を見たため、とされているが、まさか程立の上に日輪の宝譿をおいて程昱としたのか、とも疑ったものだ。
とりあえずあれだ、それはともかくとして、ただの人形のはずの宝彗が何故だか器用に動きまわっていたりするのがよく理解出来ないのだが、気にしたら負けかなと思うので触れないでおくことに決めた。
時間もないことだし、と誰にでもなく言い訳する。
ともかく。
待ち構えていた連合軍が来た以上、このままのんびりしているわけにもいかない。
とはいっても、二十万の連合軍に対し、こちらは精鋭をかき集めたとはいえ五千ほどなのである。
如何にこちらを警戒させることに成功したとはいえ、その圧倒的な戦力差は先の黄巾賊との戦いなど児戯にも等しいと思えるものであって、意図もせず笑いたくなるぐらい凄まじいものであるのだ。
これだけの戦力差であるのだから、取れる手などは自然と限られてくる。
「では……そろそろ、こちらも動きましょうかねー」
「そうですね……これ以上近づかれては、こちらも動けなくなりますから……では一刀殿、よろしくお願いします」
「……分かった、行ってくるよ」
ともなればその限られた手を取るためにも先手を取らなければ、と俺は自分を奮い立たせて馬を前へと進ませる。
それに合わせて周りにいた兵達が開いた道を開き、俺はなるべく緊張を顔に出すことなく前へ前へと進んでいった。
いよいよをもって、俺の前には兵がいなくなった――言うなれば、俺が一番前へと出て、眼前に連合軍を控えた時。
目の前に広がる二十万もの連合軍を前にして、俺は静かに口を開いた。
二十万の軍勢を相手に、五千の兵が取れる手段を行うため――
「……連合軍に告げるッ!」
――即ち、逃げるために。
**
「十中八九、罠でしょう」
董卓軍にどういう意図があるのか。
そう尋ねた曹操に対し、荀彧はそうきっぱりと告げた。
連合軍二十万に対し、前方に布陣する董卓軍は五千ほど。
普通に考えれば、連合軍の数に飲み込まれることは必至であり、それだけの数を前へと出すぐらいなら汜水関において防衛のための兵力とするのが常道である。
五千の兵力がどれだけの効果を持つかは現時点では分からないが、堅固と謳われる汜水関のことだ、それだけの兵力でも十分に機能するだろう。
だからこそ、不可解な董卓軍の布陣に荀彧は断言したのである――罠である、と。
「ふむ……考えられる策としては?」
「第一に伏兵が考えられますが、細作の報告では、この先の道は一本道で潜める地が少ないとのことですので、伏兵ではないでしょう。少なくとも、汜水関まではありえないと思われます」
「そう……」
「華琳様、如何なさいますか?」
そして、伏兵では無いだろう、との荀彧の言葉に、曹操はふと思考を回転させる。
今回の連合軍――対董卓軍での戦いにおいて、義は明らかに董卓軍にあった。
決起の檄文にこそ、悪逆と謳われ洛陽の街に暴政を敷いている、とあったが、実際に洛陽の街へと赴いた身としてはそれを疑わざるを得ないものであったのだ。
さらには、自分達が洛陽を去った後にそういった暴政を敷いたのかと怪しんで洛陽に潜ませていた細作の報告からでも、そのような事実は発見されなかった。
それどころか、何進が大将軍として洛陽に駐屯し、軍を維持するためという名目で苛烈なほどに税を搾り取っていた頃からみれば善政と言ってもいいほどである、と報告を受けたのであれば、自らが持つ情報と合わせても信じるに足るものであったのである。
しかし、連合軍は結成された。
その大部分は袁紹のように洛陽で得られる権力を求めてであろうが、それ以外の目的をもって参加した者達も多くいることだろう。
時勢に取り残されないように、檄文を真に受けて義憤に燃える者――そして、自らのように天下に覇を唱える前哨として各諸侯の力を見極めようとする者など。
義は董卓にあると理解しながらも、反董卓連合に参加したのはそれを成すためではなかったのか。
そこまでに思考が至った時、曹操はにやりと口端を歪ませた。
「天下に覇を唱えんとするこの曹孟徳が、罠に臆する訳にもいかないでしょう」
「……では?」
「ええ……桂花、兵を纏めている季衣と流流に牙門旗を掲げるように伝えて頂戴、あの子達ならそれで理解するでしょう。加えて、一応、麗羽と紅瞬に出ることを」
「はッ」
「秋蘭は季衣と流流から兵を受け、編成を急いで頂戴。もし罠があるのだとすれば、出来るだけ後手に回りたくないわ」
「心得ました」
「華琳様ッ、私はどうすればよろしいでしょうかッ!?」
そして、自らの臣へと指示を飛ばしていく曹操へと、夏候惇が指示を仰いでくる。
妹である夏候淵のみならず、曹操を巡る恋敵とする荀彧までもが指示をもらっているのだから、自らも指示をもらえる筈と思ってのことなど、曹操としては即座に理解出来るものなのだが。
まるで犬のよう――閨の中では雌犬のようなのであながち間違いではないのだが、それでも、飼い主に尻尾を振る犬のような夏候惇に、曹操はぞくりと背筋が震えた。
今度、そういった玩具を作ってみようかしら。
犬耳と尻尾のような玩具で遊んでみるのも悪くない――そう戦場には似つかわしくない思考を走らせようとしていた曹操であったが、しかしそれも、ある声が聞こえたことによって現実へと引き戻されることになる。
洛陽で聞いた――自らの誘いを断ったその声は、声高々に響いたのであった。
「……連合軍に告げるッ!」
**
「己らが欲を果たさんがために皇帝のおわす洛陽へと大軍をもって迫るその所業、貴様らの手によって悪逆と謳われた我が主、董仲頴の業よりも深いものであるッ! そも、自らの私利私欲のために軍を発するなど、君としてあるまじき行為である、恥を知るがいいッ!」
「……何あれ?」
「連合軍の批判、だろうな……。しかし、中々に痛快だな……恥を知れ、と言われてるわよ、雪蓮?」
「あはは、まああながち間違ってはいないんだし、別に好きなだけ言わせておけばいいんじゃないかしら――」
「――あのようなことを言われて、笑って認めるわけにはいかないでしょう、姉様ッ!?」
機を見る。
それが、孫家の長として下した孫策の判断だった。
先代である孫堅亡き後に袁術の客将に――配下扱いに甘んじてきた孫家であったが、黄巾賊討伐の頃から、徐々にではあるがその勢力を伸ばしていた。
意気と勢力を削ぐためにと各地へ散らされていた孫家の将達とも連絡を密にし始めており、この董卓軍との戦いが終結した折には、いつでも蜂起出来るようにとしていくつもりであったのだ。
故に、いくら孫策と言えど、五千の董卓軍が罠に誘い込むための餌であろうと食い破る、という考えには至りはしなかったのである。
どのような罠が待ち構えているにしろ兵を消耗するのは当然のことであって、待ち受ける独立の機運のためにも、このようなことで兵を失する訳にはいかないと考えてのことであった。
そして。
こちらを挑発せんとばかりに声高々に放たれた言葉――遠くからでは確信出来るものではないが、北郷からの連合軍への批難に孫策自身もあと少しまで迫った独立の機運を考えてか、長として自重してくれたとばかりに周喩は喜んでいたのだが。
それに意を唱えたのが、孫策の妹――孫権であった。
「他の諸侯はいざ知らず、我ら孫家もあのように罵られて、笑って認めるなどと……姉様は一体どういうおつもりですかッ!?」
「でも蓮華? 北郷の――あそこでつらつらと批難を並べているあの男の言い分も確かなものだとは思わない? 言い方は何にせよ、私達も自分達のために軍を発したんだし」
「で、ですがッ、あそこまで言わせっぱなしにしたままでは――」
「――落ち着き下さい、蓮華様。戦を先だって、相手の士気を下げるために罵詈雑言を並べるのは間違いではありません。既に戦は始まり先手は相手に取られた、として切り替えねば、次手をも相手に取られてしまいます。相手の言い分を真に受け血の上ったままでは、三の手も取られてしまうでしょう。それだけは、何としてでも避けねばなりません」
「くッ……ふぅ、済まない冥琳、少し落ち着いた」
孫堅の血を継いだのは孫策であるが、孫家の血を継いだのは孫権である。
そういう噂が軍中を流れているのを周喩は知っていたが、それと同時に、その噂についてなるほどとも思う。
孫堅はその真名――陽蓮の名の通りに、陽のような人物であった。
明るく朗らかな部分は孫策に瓜二つであるが、二人揃ってそれを否定していた所なども似ていたと言える。
そして、少々堅苦しいながらも孫家の将来を担うものとして王らしくあろうとする孫権は、武家としての孫家の血を受け継いでいると言っても過言ではなかった。
孫堅の明るく朗らかで、そして戦場においては苛烈なその姿勢を孫策が継いだのだとすれば。
孫堅の王たらんとするその気風、そして意志は孫権が受け継いだと言えた。
「……それで如何なさいますか、姉様? あの男が姉様が洛陽で会ったとする北郷であるとして、私達はどう動くのでしょうか?」
「んー……突撃?」
「却下だ、馬鹿者め。罠があると分かって進むは愚の極みよ。少なくとも、その中身が分かるまでは――」
であるからこそ。
孫堅の跡を継ぐ孫策と、次代の孫家を担う孫権を輝かせるために自らがいるのだとした周喩は、しかして孫策が放った提案――というか、言葉に即座に反対した。
そもそも、罠があると分かっていて進むというのは如何なるものか。
孫家の軍師としてそれを認める訳にはいかない周喩であったが、それでも、誰かが罠にかからなければ動きようもないことを理解していた。
どれほどの罠が待ち受けているかは知れないが、最悪のことを考えればその罠を排除しないことには進みようが無いのだ。
どう動くべきか。
そう思案していた周喩であったが、視界の端に唐突に動き始めたものがあって、不意に意識をそちらへと飛ばした。
白地に紫の『梁』の旗と、黒地に白の『梁』の旗。
それらが風に靡かせながらその速度を上げつつ北郷の元へ――董卓軍の元へと駆けていくではないか。
確か、袁術麾下の梁綱(りょうこう)と梁剛(りょうごう)の兄弟であったか。
自らを袁家一の武勇と知略を誇る猛者である、と何やら吹聴していたことは覚えているのだが、如何せん、その言葉に能力が見合っていないことだけしか覚えていなかった。
そもそも、罠と知っていながら突き進まんとするのは将としてどうなのだろうか、とも思ったのだが、その指示をしたのが彼の二将なのか、はたまた袁術なのかは知らないが、そのどちらにしても詮無きことか、と周喩は考えることにした。
今考えるべきことは、董卓軍の布陣を罠だとして動きが停滞しかけていた連合軍が、彼の者達によって動き始めた今、どのように孫家は動くのか、そのことだけであろう。
幸いにも、袁術の軍は孫家の軍の横に位置していたこともあり、今だ彼らが動き始めたことに気付いているのは自分達だけである。
そして、こう言ってはなんだが、彼らが罠を食い破るにしろ罠に落ちるにしろ、それは孫家としても大変に有り難いことであった。
ここで無理をする訳にもいかない、かといって名を上げられるのであれば後のことを考えて上げておきたい。
そんな思惑をもってすれば、今の状況は孫家にとって好機であると言ってもよかった。
それを孫策も感じていたのか、はたまた勘なのかは知らないが、ふと合った視線に頷く彼女を見るに、同じ気持ちであると周喩は確信した。
であるからこそ。
「袁術の軍に続き、私達も行くわよッ! 蓮華、後曲の部隊を纏めなさいッ! 冥琳ッ!」
「分かっているわよ、雪蓮! 全軍、我らが武勇、この戦にかけよッ! 進めい!」
孫策の言葉に、一も二もなく応えていたのである。
**
「ふはははッ、董卓軍、何するものぞッ! 見よ剛、我らが武威に、奴ら戟を合わせるでもなく逃げ惑っておるわ!」
「それも当然……もともと、二十万に五千の兵で立ち向かおうとするのが異常というもの。であれば、奴らの狙いはこちらに考えるにさせて時間を稼ぐことにある。連合軍は大軍ゆえに兵糧の減りも早いからな。ならば、そのような陳腐な策に付き合う義理も無かろうて。一気呵成に叩き潰してしまえばよいのだよ」
先陣をかける梁綱の言葉に、梁剛は冷静に努めて状況を分析していた。
董卓軍の連合軍への非難の際、自分達兄弟は各諸侯に先んじて攻めへと移った。
非難されることに我慢出来なかったというのも理由の一つだが、一番の理由は董卓軍がわざわざこちらを非難して挑発したことにあった。
なぜ、二十万に対して五千の小勢によって挑発を行ったのか。
もし連合軍が董卓軍を攻めるに至れば、その壊滅は必至であったと言っていい。
では何故。
そこまで思考が及んだ時、梁剛の脳裏にふと思いつくものがあった。
攻めてくれば罠がある。
そう思わせることこそが董卓軍の狙いだとしたら。
二十万で五千の兵を叩き潰すことは容易い。
その心理にのっとって董卓軍を攻撃した場合、もし罠に嵌められでもすれば、連合軍が被る被害は無視出来ないものになるかもしれないのだ。
事実、連合軍の諸侯達は罠を恐れてただでさえ遅滞し始めていた進軍を停止しかけていた。
それこそが――罠があると思わせておいてその実罠などなく、連合軍に無駄な時を過ごさせるための策だとすれば。
その結論に達した時、梁剛はすぐさまに兄である梁綱へと進言し、董卓軍への攻撃を開始した。
そして、梁剛の推測が事実であるかのように、董卓軍は戦おうともせずに撤退を始めたのであった。
ここまで来れば、最早董卓軍の策を見破ったも当然、とばかりに梁剛は梁綱へと追撃の手を締めるようにと進言した。
このままの勢いでいけば、汜水関まで達することが出来るかもしれない、そのまま陥落させることも叶うのでは。
そうして梁綱と梁剛は、先を競うように馬の速度を上げていく。
それに引っ張られるように彼らの部隊も速度を増していき、連合軍全体もその動きに取り残されないようにと速度を上げていった。
もうしばしで、撤退していく董卓軍の殿が弓の射程範囲に入ることだろう。
二十万もの連合軍全体が布陣できるような幅のない一本道とはいえ、自分達兄弟が率いる軍勢は合わせて四千弱。
数こそ劣っているものの、自分達の能力と勢いがあれば董卓軍五千など一蹴出来るとばかりに、思っていた。
そして。
その殿を視界の先に収めた時、董卓軍が木枠によって組まれていた柵の向こうへと消えていくのが見えた。
消えていく、とはいっても、立てられていた木枠に沿うように木の板が立てられたために、その姿を確認出来なくなっただけなのだが。
「ふん……壁を築いたか」
「がっはっはっは! 例え壁を築こうとも、あのような木の板でどうしようと言うのだッ!? 所詮は小賢しい時間稼ぎに過ぎぬわッ!」
少しばかりの壁を築いて、撤退の時間を稼ぐつもりか。
殿を少しばかり犠牲にするつもりであろうその策を即座に看破した、そう思った梁剛は、部隊の兵へと指示を飛ばしながら自らも兄と共に一斉にその即席の防壁へと突撃していった。
五千の殿であるならば、恐らく千に満たないほどか。
自分達が率いる軍勢の敵ではないわ、そう思いながら馬を操り一気に壁へと迫る梁綱と。
洛陽にて権勢を誇った董卓といえどこの程度か、このまま洛陽へと迫り諸侯を――主である袁術をも凌ぐ勢力を築くことも可能かもしれない。
そうこれからの自分達が歩むべき道を見ていたとされる梁剛は、董卓軍の殿を叩き潰して追撃を再開するためにと、数百の兵らと木枠と木の板を取り外すためにそれへと近づいていき――
「ぬ……?」
「ぐ……?」
――べきり、と木枠を取り外した向こう、数多もの黒い何かが視界全体を多い尽くすとともに、その意識もまた、何にも気付かぬままに黒い闇の深淵へと葬られていた。