「きいーー! 一体全体、どういうことですのッ?!
冀州。
黄河の北である河北という広大で肥沃な地の中、鄴という街においてその声は響き渡った。
古の戦国時代に西門豹という人物がいたことでも有名で、彼が成したこの地域に流れ込む漳河流域の灌漑は大事業となって、今日の鄴の農業を支えていた。
そんな街での――そこを支配するために建てられた城での声に、二人の少女が反応した。
「ちょ、ちょっと落ち着いて下さい、麗羽さま~」
「そーそー、斗詩の言うとおり。今ここで何を言っても意味無いっすよー」
「お黙りなさい、猪々子さんッ! このわたくしを差し置いて――宦官から洛陽を救ったこのわたくしを差し置いて、何で董卓さんが洛陽で踏ん反り返っているんですのッ?!」
「何でって……だって、なあ斗詩」
「うぅ……麗羽さま、洛陽の人たち無視で宦官ばっかり攻撃してたし」
「ぶっちゃけ、無関係な洛陽の民にも結構な迷惑かけてたしな。しかもその後、放っぱらかしだったし……そりゃ、洛陽にはいられないっしょ」
「何か言いまして、斗詩さんッ、猪々子さんッ!?」
鋭い目つきで視線を飛ばす麗羽と呼ばれる少女――袁紹は、ふるふると横に首をふる二人の少女から視線を外して、くるくると大いに巻かれた髪へと顔を埋めるようにして思考へとふける。
事実、あの行動は――何進の命に従って洛陽へと入り、混乱に乗じて宦官を討ったことは間違いでは無かったはずである。
あの一連によって中央が地方に向ける注意は途端に弱まることになり、結果として袁紹の勢力を肥大させたことは、如何に自分は思慮深いと常々思っている袁紹本人でさえ認めるところであった。
自らの才能が怖い、などと思ったこともあるが、この乱世においてはそれも必要なものであると自分を言い聞かせていると自分では思っていた。
なのに、である。
あれだけ洛陽の民を苦しめていた宦官を廃したにもかかわらず、洛陽の民からはおろか、漢王朝からの使いが来ないのは一体どういうことなのか。
袁紹の予想であれば、洛陽を宦官から解放し、さらにははなただ不本意ではあるが何進の後継として大将軍に任命される、と当然のように思っていたのだ。
それが、いつまで経っても洛陽からの使いが来ることはなかった。
あまつさえ、自らがいたであろう場所に董卓なる少女がいるのは一体如何なることなのか。
「斗詩さん、猪々子さん、洛陽に攻め入りますわよッ! 董卓さんに、身分の違いというものを教えて差し上げなさい」
「え……ええぇぇッ?! れ、麗羽さま、本気ですかっ?!」
「あちゃー……姫、それはさすがにまずいんじゃ」
「……? 何でですの?」
「れ、麗羽さま、今、洛陽を攻めて董卓さんと戦ったら、必然的に漢王朝に喧嘩を売っちゃうことになっちゃうんですよ!? そうなったら朝敵にされて、回りの諸侯から一斉に攻められちゃいます!」
「んー、さすがに今のあたい達じゃ、それに敵わないから、姫の言うこともちょっと無理じゃないっすかね」
「むきーー! だったら一体どうしろと言うんですのッ!?」
今こうしている間にも、洛陽では董卓がその権力を振るっていることだろう。
贅沢の限りを尽くし、酒池肉林が如くの饗宴を繰り返し、漢王朝を意のままに操る。
酒池肉林に興味は無いが、それでもその権力を董卓が持つよりは自分が持つことのほうがいいに決まっているのだ。
だが、洛陽に攻めて無理矢理に、という方法は腹心であり親友でもある二人の少女に否定されてしまった。
となると、どうやって、という疑問を袁紹は抱くことになるのだが。
そんな疑問も、一人の少女の進言によって解決することになる。
「……連合、ですって?」
「はい。袁紹様は洛陽に攻め入り董卓を廃してその跡を引き継ぎ時代の実力者となりたい。ですが、それを成そうとすると朝敵という汚名を被ることになり、ひいては袁家の存亡に関わることになります。……しかし、それは袁家のみので事を起こした時の話。董卓が洛陽で暴虐を強い、洛陽の民が暴政に喘いでいるゆえに洛陽解放のために軍を挙げる。その名目をもって連合を結成すれば、漢王朝が何と言えど、衆目からすれば我々は朝敵ではなくなるでしょう」
「でもさー、董卓を倒しても結局は連合の勝利ってことになって、姫の手柄にはならないんじゃね? そしたら、あまり意味無い気がするんだけど……」
「故に、袁紹様が連合の発起人となってその主権を握るのです。さすれば、連合が董卓に勝利したとて、主権をもって洛陽へと入ればそれに異を唱える者もおりますまい。もしいたとしても、洛陽で得た兵力によってその意見ごと押しつぶしてしまえば……」
「で、でも、もし連合を発起したとして、それだけ都合よく諸侯が集まるとは――」
「集まるでしょう、必ず」
慌てたように発言する斗詩と呼ばれる少女――顔良の言葉に、連合の進言をしてきた少女はにやりと笑って自信溢れる言葉を放った。
蒼銀の髪を軽く揺らす様は何処か鋭利であったが、その雰囲気と相まってか、その言葉は袁紹にとって酷く甘く聞こえることとなった。
確かに少女の言うことは一理ある。
三公四世を輩出した名門である袁家の威光であれば、いかに漢王朝に弓引く形となりうる戦いであっても、それに従うものは後を絶たないだろう。
それこそ、大陸中の諸侯が従ってもおかしくはないはずである。
ならば。
そう考えた袁紹の行動は迅速であった。
反対を唱えなくなった顔良と猪々子と呼ばれる少女――文醜に、出陣に向けての軍の準備を命じ。
文官に反董卓連合の檄文に関することを命じ。
進言してきた少女は、将として任命し一隊を率いるようにと命じた。
一兵卒からの異例の抜擢ではあったが、それも袁紹の命であれば逆らう者はおらず、多くは滞りなく進むこととなった。
そして。
一通りの指示が済み、万事問題無いとしたとき、袁紹はふと少女の名を知らないことに気づき、そしてその名を問いかけた。
普段であればそのようなこと気にも留めないのだが、まあ役に立った者の名を知っておくことも必要か、と不意に思ってのものだったが。
一度気になったものは知らなければ気が悪い、とのことであった。
張恰(ちょうこう)、字は儁乂。
それが少女の名前であった。
**
「何だこれはッ……一体どういう事だッ!?」
忍が手に入れた書簡を揚奉から見せられた翌日、俺はそれを賈駆へと見せた。
それを見せずにいてもどのみち彼女の耳には入ることであるし、そもそも俺一人で現状を打破出来る程度では無くなってきているのである。
初めのうちこそどうにかしてその結成を遅らせるかその口実を与えないようにしよう、と思いつく限りの手で奮闘していた俺であったが、結局のところはそれを行うのが人であるがためか、どうすることも出来なかった。
となってくると、俺一人が意固地になって出来る対応にも限度が出てくると思ってのことだったのだが。
賈駆が董卓軍の主要な面々を招集して始められた軍議の始まりは、華雄の怒鳴り声から始まったのである。
「見た通りのまま、洛陽に暴政を敷く悪逆を討つべし、という檄文。さしずめ、反董卓連合軍の決起文ってとこかしら?」
「そのようなことは分かっているッ、詠! 私が言っているのは何故このような文なのだ、ということだ! これでは、月がまるで……」
「まるでも何も、向こうは――これの発起人である袁紹は、明らかにこちらをそう謳って軍を発しようとしているわ。その目的が、この檄文に書いてあることなのか、はたまた別のことなのかは分からないけどね」
ふん、と忌々しげに一度鼻を鳴らした賈駆は、憤る華雄から視線を外して、もう一度書簡へと視線を落とした。
それにつられて、俺も視線を落とす。
既にその書体も内容も暗記してしまう程に目を通したものであるが、それでもその内容には気を引かれるものがあった。
元々、俺の知る歴史の上でも反董卓連合軍は結成された。
その発起人が今回のように袁紹なのか、或いはまた別の人物――曹操やら橋瑁という人物だったという説もあるが、そこはまあ置いておこう。
だが、その歴史において時の栄華を誇った董卓は檄文の通りに激しい暴政を敷いていたということであり、それを討つということはあながち間違いでは無かったと言えたのだ。
だが、今俺の隣にいる董卓は、暴政どころか圧政と言われるようなことすらしていない。
逆に、財を得て自らを富ませるためにと今は亡き何進と宦官によって跳ね上げられていた税を無理の無い程度にまで抑え、さらには洛陽での騒乱によって失われた家屋や田畑の再建費用を国庫を開いたりして補ったりしたのである。
善政、とも言えるような政をしておきながら悪逆だと言われるのは何故だ、と悩む俺に、董卓とは反対側に座る陳宮が口を開いた。
「……今回の件――詠の言葉を借りれば反董卓連合軍決起ですが、何も檄文の通りに義憤に駆られて、というばかりではないのです。皇帝は献帝に変わったばかりで献帝自身もまだ幼い。ともすれば、その後見にという者が参加することもあるのです」
「更に言えば――と言うよりはこれが一番多いと思うんだけど、ボク達が洛陽にいることが気にくわない、っていうのもあるんでしょうね。元々、涼州の一太守でしかなかった月が、偶然にも次代皇帝を保護して権力を得る。権力のことしか頭にない奴からしてみれば、そりゃ頭にも来るわよ」
「なるほど……やからこそ、月の変わりにその座に就こう、ってのが出てくるわけやな」
ほんまにしょうもない奴らやで。
賈駆の言葉に納得がいったかのように頷く張遼のその言葉に、なるほど、と俺は深く頷いた。
確かに、陳宮や賈駆の言うとおり権力を求める者が多く参戦することは間違いないだろう。
恐らく袁紹もそうであろうとはその人となりを調べていた韓暹の言ではあるが、彼の人物が名門である袁家ということも含めて見れば、それに取り入ろうとする者もいることだろう。
さらに言えば、檄文を真に受ける者、混乱の中のし上がろうとする者、周囲に流される者など、多くの諸侯がこの戦いに参加するのだと思う。
皇帝のいる洛陽に攻め入ることは朝敵にも成りうることだが、檄文によって大義名分を得ていることは大きな要因だろう。
さらには、その檄文を民にまで広めたことによって、参加しないものは英雄にあらず、という風聞を流される状況を作られたのであれば、これからのことを考えると参加しないほうが不利なのだ。
ともすれば。
これらを見据える諸侯が反董卓連軍に参加するのは、半ば当然のようなものであった。
「……詠ちゃん。今回の戦い、戦うことなく話し合いで解決することは出来る?」
「……月、さすがにそれは無理よ。連中も悪逆と謳った以上、その首を――少なくとも、その死を求めて軍を動かしてくるわ。そんな中で、話し合いで解決出来るなんてボクは思えない。下手をすれば、その場で殺されるかもしれないのよ。……ボクは、月を死なせたくない、だから反対だわ」
「……それに、もし月殿が言う通りに話し合いで解決――洛陽から董卓軍が撤退したとしても、結局のところ、洛陽は権力争いの中に放り込まれることになるのです。そんな中、先の騒乱の復興を董卓軍が支援したにも関わらず、新たな権力者がそれを成さないとすれば、洛陽の民は董卓軍を求めるですよ。そうなってくると、先の先を取らんとするその権力者に討たれることになるのであれば、今戦ったとしてもさして変わりはないのですよ」
そうして。
権力という無形のものを求めての連合軍であれば、それを差し出すことで戦いを止めることが出来ないか、と董卓が考えるのも当然であると言えた。
なるほど、確かに権力を宙へと放り投げることが出来れば、董卓軍としては戦わなくて済むだろう。
だが。
それは洛陽の民を見捨てることになる。
先の騒乱からの傷跡も癒えぬままに新たな騒乱へと巻き込まれ、兵へと徴集されて、一時を凌いだとしてもまた新たな騒乱に巻き込まれる。
そうなってしまえば、洛陽が元の歴史通りに荒廃に塗れた地になることは容易に想像出来てしまうのだ。
そして、戦うことを嫌う董卓なれど、それは意に介さぬものであるのだ。
故に。
董卓はそれまで揺れ動いていた瞳を――戦わずに矛先を治める手立てが無いかと回転させていた思考をゆっくりと落ち着かせて、前を向いた。
その瞳に、迷いは無かった。
「戦うことは嫌いです……でも、戦わないと生き残れないなら――大切な人達や民のみなさんを守れないのなら、頑張るしか無いと思います……。だから、皆さんの力を私に貸してください!」
「当然よ、月。くく、軍師の腕が鳴るわね。鬼謀神算、とくと披露してみせるわ」
「……みんな守る。月も恋も、みんな負けない」
「恋殿が戦うというのであれば、恋殿一の家臣であるねねが戦わない筈がないのです! 存分に智を振るわせてもらうのですよ!」
「我が武、その全てをもって敵を打ち倒してくれるわ!」
「強いやつと戦えるんなら、なんでもええけど……まっ、やったろうやないけ!」
「すぐに石城安定の父上と稚然様に使者を送ります。まあ、前回は稚然様でしたので、此度は父上が来るのだと言って聞かなそうですが……」
「ふむ……ならば、俺は武具などの備蓄を確認してくるか。陽菜、お前は洛陽の防備の確認を頼む」
「了解だよ、子夫。ん~、忙しくなってきたぞー!」
ならばこそ。
董卓を主と――彼女の下に集う面々にも迷いは無かった。
自らが誇る武を、智を、その能力を遺憾なく発揮出来る戦場に赴くということに。
そして、自らが主である少女の願いに応えるということに。
そしてそれは、当然の如く俺も同じであって。
にわかに活気立つみんなへと視線を移しながら、俺は静かに呟いていた。
「守ってみせる――守りきってみせるさ。大切な人達も、大切な場所も何もかも……今度こそ」
「さて……そうと決まれば細かいこともさっさと決めていきましょう。時間が惜しいわ」
そうして、各々が自らの覚悟を新たに確かめた後に、賈駆が切り出した言葉でざわめいていた空気が引き締まる。
牛輔と李粛が戦に関わる物資や武具の確認へ、徐晃が戦巧者であり董卓軍の重鎮でもある李確と徐栄へ使者を出すために部屋を出るのを見届けた後、連合軍とどう相対するかを早急に話し合おうとする賈駆が口を開く。
「まず、基本方針だけど――」
「――待ってくれ、その前に一つだけ」
そして、それに続く賈駆の言葉を待っていた視線は、唐突にそれを遮った俺へと向けられることとなるのだが。
えーと皆さん……連合軍と戦う覚悟を決めたのはいいんですけど、ちょっと目が血走ってて怖いですよ。
特に華雄さん、その今にも襲いかかってきそうな目で睨まないでください、とてつもなく怖いです。
とまあ、そんな暢気なことを考えながらも恐怖に怯えて背筋を強張らしていた俺であったが、一体何を言うのか、という視線に答えるべく口を開いた。
「翠――馬超殿、それに趙雲殿と程立殿、郭嘉殿は明日までに出立の準備を済ませ、洛陽から出て行って貰いたい」
「……な、何でだよ、何でなんだよ、ご主人様ッ!? あ、あたしは確かにがさつで乱暴で可愛くないかもしんないけどさ、邪魔だから出て行けなんて言うことないだろッ?! あたしだって、みんなやご主人様と一緒に――」
「――どうどう、落ち付け、落ち付けって、翠。誰も邪魔だから出て行けなんて言ってないだろ?」
「じゃあ何でッ!?」
そして案の定と言うか何と言うか、俺の言葉に――洛陽から出ろ、という言葉に真っ先に反応したのは馬超であった。
猪突とも呼べるほどに真っ直ぐな彼女のことだ、俺が放った言葉の奥も考えずに何事もなく受け取るだろうとは思っていたのだが、馬超の行動はまさしく予想通りとも言えるもので、簡単に予想できるほどに行動の読める彼女の将としての未来に、少々不安な影が見え隠れするのは気のせいだろうか、なんて思ってしまう。
この真っ直ぐさが彼女の長所であり好ましい部分ではあるのだが、すぐさまに短所に直結されるのも些か問題ではある。
どうすればそれを直せるか、などと先ほどまでとは全く関係の無いことに思考を使い始めていた俺の意図を察したのか、なるほど、と小さく呟いた賈駆が口を開いた。
「……翠、こいつはね、連合軍にあんたが――西涼が狙われないようにって言ってるのよ」
「は、はぁ? 一体どういうことだよ?」
「……西涼連合の筆頭である馬騰の娘がへっぽこ北郷の下で武勇を振るったとなると、連合からしてみれば、西涼が董卓軍の下に付いたのだと見るようになるのです。ともすれば、董卓軍を討った後、その矛先が西涼にまで及ぶことは明白なのですよ。こいつは、そうならないようにすると言っているのです」
「……勝つつもりやー言うても、勝てるかどうか分からん以上、同盟の相手のことを考えて最悪のこと考えるちゅーわけやな。中々に軍師っぽいことやっとるやんけ、一刀」
「まあ、負けるつもりも無いがな」
陳宮の言った通り、今現在で言えば俺の――董卓の臣である俺の客将としている馬超が、連合相手に武を振るったりすれば、いざ董卓軍が敗れた際には西涼にまで影響が及ぶ可能性があるのである。
関係無い、間違いだ、と断固として主張することも出来るだろうが、元々の結成の目的が権力である連合軍において、その主張が通るかどうかは怪しいものである――話を聞くかどうかすら怪しいのだ。
そんな最悪の状況を考えれば、馬超がこのまま董卓軍に留まるのは大変に危険なことであり、今俺が切り出さなくとも馬騰やその軍師である馬鉄であれば思いつくことであり、すぐさまに返還の使者を出してくることは目に見えていた。
故に、俺から切り出した訳なのだが。
ふと静かに――それでいて何故か迫力満点に呟かれた言葉に、俺は内心たじろいだ。
「……ご主人様は、西涼のことを思って帰れって言ったのか?」
「ま、まあ、そうなるかな……。たださっきも言ったけど、決して邪魔だと思った訳じゃないぞ」
「……そっか。……あたしがご主人様を斬りそうになったこと、あれはもういいのか?」
「あー……そんなこともあったっけなあ。まあ、その分は働いてもらっただろうし、特に問題は無いと思うよ。次からは気をつけておくし」
そうして。
俺の言葉を受けてしばし考える素振りを見せた馬超であったが、それでも俺の言葉に納得してくれたのか、小さく一度だけ頷いた。
そして、席から立ち上がった馬超は、董卓の方へと向き直った。
「……西涼連合が雄、馬寿成が娘、馬孟起、本日この時をもって董卓軍客将の身から西涼へと帰還させて頂く。……共に戦えぬことは残念であるが、貴軍の健闘を西涼から祈らせて貰おう」
「……はい。大したもてなしも働き場も用意出来ませんでしたが、貴殿が当家に残されたこと、大変有り難く受け取らせてもらいます。……お元気で、翠さん」
「ああ、月も元気でな。それに詠も、みんなも。……死なないよな、ご主人様?」
「……うん、当然。とりあえず……元気でな、翠」
「ああ……じゃあ、またな」
武人馬超では無く、俺の副官としていた翠としてでもなく、西涼の名代として挨拶をした馬超は、若干名残惜しそうに部屋を出て行った。
その背中だけではどんな思いであるのかは読み取れなかったが、それでも董卓軍から離れることが名残惜しいと思ってくれているのだろうか、と思うと俺は少し嬉しかった。
そこでだらだらと名残惜しまないところなんかは実に彼女らしいと微笑ましく、そんな彼女がいなくなるということに少しばかり寂しいと思ってしまったりもするのだが、まあ仕方のないことだろう。
生き残れば――反董卓連合軍に勝利することが出来れば、再び会うことが出来るだろう。
そんな不確かな予想に確信めいた予感を抱きつつ、俺は閉じられた扉を見つめていた。
そして。
馬超を見送った俺は、趙雲達へと視線を向ける。
馬超のように西涼のような地域まるごとのことを交えない分、趙雲達のことについては完全に私心のようなものがあるのだが。
そんな俺が考えていることに気付いているのか、まるで甘いと言われているような視線を賈駆から感じつつ、俺は口を開いた。
「……趙雲殿達も、ご説明が必要ですか?」
「……いえ、結構ですよ、北郷殿。貴殿が、私達のことを――後々の仕官のことを考えてくれてそう言ってくれているのだということには気付いておりますから」
俺の言葉に答えた郭嘉の声色は、先ほどの馬超とは対極的に酷く落ち着いたものであり、知らず俺は身体を強張らせる。
悪逆と言われている董卓の客将であった、という噂が立つと後々に彼女達が求める主に仕官する際において、何かと不具合が生じるかもしれないと思ってのことだったのだが。
彼女の声が、視線が、その思考がこちらの意図が本当にそれだけなのか、その裏に何かあるのではないか、と探っているようで気が気で無かった。
さすが俺の知る歴史では曹操の懐刀と呼べる郭奉考である。
俺の意図を汲み取ってなおその裏を読もうとするのには恐れ入るが、それでも少しは信じてくれてもいいのに、と思ってしまうのは仕方のないことだと思いたい。
「くく……ふふふ……はっはっはっは!」
しかし、そんな郭嘉の視線も唐突に響いた笑い声――趙雲の声によってなりを潜めることになる。
訝しげに向けられる視線を気にするふうでもなく、趙雲は口を開いた。
「稟よ、怪しむのは分かるのだが、北郷殿がそのような腹芸が出来ようがなかろう。先の馬超のでもあのようであったのだ、先ほどお主が言った理由が正解であろうよ」
「まあ、お兄さんが隠し事の出来るような人ではないのは、ここ数日で分かり切ってることですしー。稟ちゃんの危惧しているようなことは起こらないかとー」
「むむ……ちなみに程立殿、郭嘉殿が危惧していることとは一体?」
「お兄さんには日常茶飯事でしょうけど、まあ風達に洛陽を出ろと言っておきながら、その実、軍の監視下から外れた後にその権力を使って風や稟ちゃん達の肢体を存分に楽しむこと――」
「――そんなことしないよッ?! ってか日常茶飯事とか何それッ、そんなことしたこと無いのにッ!?」
「……北郷、貴様、月から預けられた権力を用いて、そのようなことを……」
「しょ、葉由殿、そのようなことは決して――ヒィッ、どこから金剛爆斧を取り出したんですかッ?! ちょ、ちょっと、程立殿、誤解を解いて――」
「……ぐう」
「――寝るなぁぁぁぁッ!? 寝るな寝ないでお願いだからぁぁッ?!」
「おおう……お兄さん、こんな人の目がある所で風を襲おうとするとは、中々やりますねー」
朗らかに笑う趙雲と少しばかりの問答を広げる郭嘉から視線を外し、彼女が危惧することとは一体何なのかを程立へと問いかける俺なのだが。
彼女から帰ってきた答えは遙か斜め上をいくもので――いや、なんとなーくそんなことを言われそうな予感というかこれまでで学んだ予測とでもいうものをしていたのだが、いやまさかこのような場所でそのようなことを言われるものとも思えなかった俺は、些か過敏に反応してしまったらしい。
それを聞いてしまった――否、わざと聞こえるような声を出した程立の思惑通りに釣れた華雄に、彼女の愛用の武器でもある金剛爆斧を首に突きつけられてしまう。
それをなんとかくぐり抜けて程立に訂正を促せば、何故だか襲っていると言われる始末で。
墓穴とか泥沼とか、そんなのに嵌り込んでいる感覚に、俺は襲われていた。
「……北郷殿が私達を森の奥まで誘い込んで寂れた小屋に押し込めてそこで自らのあらん限りの欲望をさらけ出してでも逆らったらその権力によって何処までも辱めるとしてついにはその艶やかな肌に……うぷっ」
「はーい、稟ちゃん、とんとんしましょうねー。華雄さんも、今のは風の冗談ですのでー、その辺にしておかないとお兄さん死んじゃいますよー?」
「む……程立がそう言うのなら、まあよかろう。しかし北郷、もしそんなことをしでかしてみろ、その首、即座に宙を舞うぞ?」
だが、その感覚も今にも首を落とさんと構えられた刃を前には霧散してしまう。
華雄の膂力であれば、その体勢からでもほんの少しだけ力を入れれば俺の首など落とすことは容易いのであろうが、それも、いきなり顔を真っ赤にして鼻血を出した郭嘉を介抱している程立の言葉によって音もなく引かれることになった。
首に冷たい感触がしている間は、本当に生きた心地がしなかった。
そうして。
華雄の言葉に音もなく頷く俺を見ていた趙雲が、にやりと口端を歪めながら口を開いた。
「ふむ……では、北郷殿――いや、一刀殿とでも呼ばせてもらうが、これからもよろしくお願いするとしよう」
「あ、はい、分かりまし……は?」
「なに、いずれ仕えるに値する主を捜すことも大事ではあるが、このような大戦において蚊帳の外というのも何とも面白くない、と思いましてな。ならば、より多く戦う機会がある董家にいる方が幾分か面白いかと」
「では風もですかねー。我が知謀、ご覧になれ……とでもしておいて下さいー」
「……まあ、このような大戦において知勇を振るえる機会というのもそうそうはないでしょうから、このまま客将として世話になってもよい、ということですよ、北郷殿。……無論、邪魔だということであればやぶさかではありませんが」
コクコク、と頷いた姿勢のまま趙雲の言葉に反応した俺であったが、その意味が頭の中に入っていくと同時に、随分と間の抜けた声が口から漏れ出ることとなった。
そんな俺にもう一度にやりと笑った趙雲は、これから訪れるであろうその機会に若干瞳を輝かせながら、その理由を語ってくれた。
ようするには、自分も混ぜろ、と。
これだけ大きな戦いともなると、多くの英傑豪傑の類が集まることは必至であるのに、その中に自分が加わっていないのが実に面白くない、と趙雲はそう言ったのである。
そして、それは程立と郭嘉も同じであるみたいで、自らの知謀を振るうのも悪くはない、と言ってくれていた。
勿論、この反董卓連合をやり過ごすまでではあろうが、それでも、俺が知る中でも有数の英雄達が共に戦ってくれるというのであれば、これほど頼もしいことはない。
何より、将は多いほうがいい。
何しろ、相手は連合軍である、俺の知る歴史であれば曹操に限らず孫策や劉備の軍勢も交じっているのであれば、きっとその配下にいる将は後の世に名を残すほどの英雄達であろう。
ともすれば、こちらの将が相手不足と言う訳でもないが、それでも相手のことを思うと数は出来るだけ多いほうがいい。
特に、知謀の士ともなれば賈駆と陳宮しかしないのが現状であるのだから、今このときだけでも力を貸してくれるのは非常に有り難いものがあった。
賈駆に視線を向けると、彼女も同じことを考えていたのかこちらを向いていた視線とかち合うこととなり、その頷きと共に董卓へと視線を移す。
そして、董卓もまた頷いてくれたことによって許可を得た俺は、彼女達に向けて頭を下げつつ言葉を放った。
「趙雲殿、郭嘉殿、程立殿……その武勇、そして知略を、これからもどうかお貸し願いたい」
そうして。
俺の言葉を受けて、趙雲はにやりと笑い、郭嘉は仕方がないといったふうに息を吐きながら、俺の言葉に返してくれた。
「趙子龍、確かに承った。ついては、これからは字である子龍と呼び捨てで構わんよ。……どことなくむず痒い故な」
「同じく郭奉考、その願い、確かに。……そうですね、私も星と同じで、字である奉考で構いません。こちらも一刀殿、と呼ばせてもらいますから」
では私は一刀と呼ばせてもらうとしよう。
そんなことを言いながら俺の願いを承諾してくれた趙雲と郭嘉に感謝しつつ、しかし承諾の言葉を発しない程立にふと不安になる。
先ほどは共に戦ってくれるという意味ともとれる言葉を聞かせてはくれたのだが、もしかしたらこの短い間に何かしらの粗相で気が変わってしまったのだろうか。
そんなふうに不安になっていた俺であったが、次いで程立が発した言葉に――彼女の宣言とも取れる言葉に、驚愕することとなる。
「姓は程、名は立――でしたのですが、今日この時をもって昱とするのです。字は仲徳……そして、真名は風なのですよ。お兄さん、これからよろしくですー」