「ぐうっ……あああああぁぁッ!?」
トスン、と。
空気を――その状況をも引き裂くように飛来してきた矢は、自らにのし掛かっていた男の右目へと吸い込まれるのを、趙雲は半ば呆然としながら見つめていた。
地面に押し倒されている体勢では見ることは能わぬが、もしかしたら先に逃した者達がこちらの窮地を知ってとって返してくれたのでは、と思うがすぐさまにそれを否定する。
続けて二射、三射と続けられるのであればそれも期待出来るであろうが、それも十、数十を超える数になれば、どだい無理な話となる。
それと同時に馬蹄の音が地面を伝わって聞こえてきたのならば、そこから紡がれる解は一つしかない。
「ふふ……どこのどなたかは知らんが、実にいい頃合いだ。まるで見ていたようでもあるが……今それを考えるのも詮無きこと、か」
援軍。
その事実が、先ほどまで萎れかけていた胆に再び活力を漲らせるのを、趙雲はぞくりと背筋を振るわせながら受け入れた。
乙女の危機に駆けつける、まるで古くからの大衆受けする伝承のようであったが、いざその渦中になってみると実に心躍るようである。
そのようなことがあって自然に沸き上がる笑みを抑えることも出来ず、趙雲は降り続ける矢に呆然とする男を蹴り飛ばして立ち上がった。
それを見ていたのか、ピタリと止んだ矢の雨に合わせるかのように、趙雲は槍を一薙ぎして周りの男達をも吹き飛ばす。
一振りによって男達の腕やら脚を切りつけ、その痛みで男達が呻いた隙をついて二振り目によってその首を刎ねる。
そうして窮地を脱したのを見計らって周囲を警戒した頃には、虚を突かれた敵軍はそちらばかりに意識を取られて、先ほどまで迫っていたこちらのことなど意識にないようであった。
視線を変えて敵軍を攻めている軍を見れば、その多く――と言うよりはその全てが騎兵であり、その練度からしても相当な軍であると理解出来た。
「ふむ……中々によくまとまっているようだな。涼州の馬騰か董卓か、はたしてどちらなのか……」
精強と謳われる涼州騎兵を主力とする西涼の馬騰の軍か、はたまた優れた武官を揃え騎兵のみならず歩兵弓兵どれを取っても練度が高いと言われる董卓軍か。
洛陽からの援軍はほぼ無い、と助けた二人組の女性に言われていたことから、おそらくはそのどちらかだろうと当たりを付けた趙雲は、こちらへと駆け寄ってくる一騎の騎馬を見つけた。
「おおい、無事――だったみたいだな。大丈夫だったか?」
「うむ、そちらの援護のおかげで大事ない。感謝する」
「いいってことよ。ああそうだ、私の名は馬超。とりあえず、騎馬隊の指揮を任されてるよ」
「我が名は趙子龍と申す。それよりも、馬超……ということは西涼の馬騰殿の軍が我々を援護した、と考えて相違ないのかな?」
「いや、西涼の軍じゃないんだけど……まあ、その辺はご主人様に聞いた方が早いかもな」
「……ご主人様?」
「あっ、いやこっちの話だッ。……まずは部隊と合流しよう、付いてきてくれ」
とりあえずは先に逃がした者達と合流するのが先か、と考えていた趙雲はこちらへと近づいてくる騎馬を警戒したが、その騎馬が女性であり、かつこちらを心配する風な口ぶりにそれを若干緩めた。
見た目だけならば見目麗しい少女であるのだが、その手に持つ十文字槍と馬を駆る技術がただ者ではないことを教えている。
いずれ名のある武人か、そう予想していた趙雲の勘は当たっており、少女は自らを馬超と名乗ったのである。
馬超と言えば、西涼の馬騰の娘であり、名の知れた武人でもある。
その人が騎馬隊を率いているということは、こちらを救ってくれた軍は西涼のものかと思っていたのだが、馬超の口ぶりからどうにも違うらしい。
厄介な事情でもあるのかとも思ったのだが、馬超がついた溜息から察するに、どうにも面倒な――趙雲からすれば、実に楽しそうな事情であるようだ。
目的地である安定に向かうにしろ洛陽に戻るにしろ、少しは楽しみが出来たやもしれぬ、と趙雲はまだ見ぬご主人様と出会うのを楽しみだと感じていた。
そうして。
数は劣るにしろ勢いと練度で勝っている馬超が率いていた隊は、難なくこちらを追撃していた部隊を撃退した。
前方へ出て敵を攪乱する隊と騎射によってそれを援護する隊。
それぞれに連携を取りながら、まるで盤上で行われる遊戯の如くに敵を討ち取っていく様から、部隊の指揮官の力量が分かるというものだ。
そんな錬磨の部隊を前にしてか、敵軍の多くは戦場に散る前に逃げ出したこともあり、彼らが統率の取れていない――それこそ寄せ集めだということが見て取れた。
洛陽から発した軍。
寄せ集められた兵達。
そして彼らが追っていた二人の女性。
趙雲の中で、徐々にではあるが今回の追撃の全容が形作られていった。
「さっ、着いたぞ」
そして、趙雲が本格的に思考へ沈もうとする直前。
唐突に聞こえた馬超の声に顔を上げれば、既に残敵掃討や周囲の警戒に割いた以外の兵がその場に集っていた。
ざっと見て二百ほど。
その全てが騎馬であるらしいということから、周囲に放っている数も含めれば総数は三、四百ほどか、と大体の当たりを付けていた趙雲は、ふと見慣れぬ旗を見つけた。
牙旗、または牙門旗とも呼ばれるそれは、軍を率いる将が己の居場所、また敵軍に対して武威を示すという意味で用いられることが多い。
そのため、必然的にそれはよく見られることとなり、有名なものになれば民の間でもその噂が流布されるものなのだが。
情報通を名乗る趙雲でも、その旗に見覚えは無かった。
端を黄色で彩った白地の布。
その中央、円の中に緑色の龍のような模様の中心にある、『十』の一文字。
その牙門旗が、戦場の中において高々と風ではためいていた。
**
「さて……」
そう呟いた俺は、目の前にいる五人へと視線を走らした。
その全員が女性であり、見目麗しいというかぶっちゃけ美人で可愛い人ばかりなので少々失礼かとも思ったのだが、先ほどには襲われそうになった人もいるみたいなのでその安否の確認も兼ねているのだ――と誰に対してでもなく言い訳しておく。
ぐるりと見渡しても大きな傷があるようでもなく、また衣服が特別乱れている人もいるようでもないのでそこだけは安堵した。
砂煙を確認した董卓軍は、それが洛陽方面からのものということもあり、偵察隊を出そうという決断へと至った。
何進大将軍から洛陽への呼び出しを受けた直後に、その目的地から迫る何かしらの問題とあって、その対応を間違える訳にはいかないという賈駆の判断である。
もしこれが何かしらの勢力の罠であり、覆せないほどの大軍勢がこちらを潰すために動いているのだとすれば、敵軍がこちらを捕捉する前に地の利のある領地へと帰還し、対策を練らなければいけないのだ。
故に、偵察隊という名目ながらも、いざという時に敵軍と一戦して壁と成りうるだけの戦力を、捻出しなければならないのであるが。
あろうことか、賈駆はその偵察隊の大将――指揮官を俺に任せると言ってきたのである。
元々、将軍の一人としてそれに行かなければならないか、と思ってはいたのだが、まさか先だって言われた一軍を任せられる将軍になってくれ、と言う言葉を早速実践する機会が訪れてしまったのである。
董卓と賈駆が本隊を取り纏め、俺が前線で指揮をして各判断を下す。
言葉だけでは簡単そうなことなのに、いざしてみれば難解極まるその判断を、董卓軍軍師である賈駆は俺へと迫ったのであった。
とは言うものの。
敵軍の可能性がある勢力の規模も分からない以上、一応の名目であった偵察は本目的でもある。
その規模を確認し、もしこちらの脅威となりながらも撃滅出来うるのであれば安全に領地へ帰還するためにも一戦を辞さない、その意図を忘れる訳にはいかないのだ。
故に。
偵察を主目的とし、かといっていざという時には壁として機能するだけの戦力がいる偵察隊において、賈駆の、無理はない程度に、という有り難い言葉と共に選抜された将は、俺を筆頭に馬超、呂布、張遼、牛輔、李粛という、下手をすればこれだけの面子で一軍が編成出来るんじゃね、と言わんばかりの面々であった。
預けられた兵は、騎兵ばかりで三百。
これをそれぞれ俺と馬超、呂布と牛輔、張遼と李粛という三つの部隊で割る形となった。
呂布が率いる隊には追撃している軍を攻め立てよ、と。
張遼が率いる隊には追撃してくる軍の攪乱、及びその撤退先の確認を。
そして俺が率いることになっている隊は、馬超にその半数を預けて追撃されている人達の救援を、ということになった。
まあ、結果としてだけ見ればこちらの損害は特になく、助けた人達にも大きな怪我もなさそうであった。
一応の安全と状況の確認として、牛輔と李粛がそれぞれ五十騎ずつほどを連れて洛陽の様子を確認に行っているぐらいだが、これも問題があればすぐに戻ってくるようにと厳命しているので大丈夫だろう。
そうして一応の安全を確保出来たとした俺達は、先ほど助けた五人の女性を前にした。
敵軍に対して一人で奮戦していた女性を中心とした三人と、か弱げな少女を守るように立つ女性の二人という形で分かれている。
二人の方は、どうにもこちらを警戒しているようで、少女を守る女性からは刺すような視線がどうにもきつい。
「助けていただいた礼がまだだったな。我が名は趙子龍、此度の救援、真に感謝する」
「程立と申しますですよ。助けて頂き、ありがとうなのですよお兄さん」
「戯志才……いえ、郭奉考といいます。助けて頂いたことには、礼を言っておきましょう」
「……なんかえらく凄いビッグネームばかりが来たな」
「びっぐねーむ?」
「いや、こっちの話だから気にしないで下さい、程立殿。……ごほん、俺の名前は北郷一刀。一応この部隊の指揮官ということになってるよ。とりあえず、間に合ってよかった」
趙雲と程立と郭嘉などという、これからの時代に多大すぎる影響を及ぼし残していく面々の名前が耳に入ったことが幾分か信じられないのだが、それでも初めて董卓やら呂布の名前を聞いたときよりは衝撃が少ない。
何か変な方向で成長しているらしい自分に驚きつつも、そればかりではいかないのだと奮い立たせて俺は口を開いた。
「ふむ……馬家の長女殿が救援に来たから西涼の軍かと思いきや、今や天下に名高き天の御遣い殿を擁する董家の軍であったとは……。いやいや、この偶然というものに感謝するべきやもしれぬな」
「偶然、で済めば星を見ることなど意味無いのですよ、星ちゃん」
「そもそも、この状況を予想して逃げていたのだから、こうなることはある意味必然とも言えるのですけどね」
そんな俺の名前を聞くと覚えがあったのか、すぐさまに俺が董家の将ということを理解する当たりに趙雲が情報に通じているのがよく知れる。
そして、そんな趙雲の言葉にすぐさまに反応する程立と郭嘉に、彼女達もまたその名に恥じぬ人物なのだと理解した。
こちらの方向へと逃げれば助けが来る。
太陽を掲げる夢を見たとして曹操に出仕した程立――後に程昱と名を変える少女と、病にて若くして世を去り曹操にその才を惜しまれた郭嘉という少女。
出会ってすぐなためにその人となりを知る由もない俺でさえ、彼女達がある確信を持ってそう逃げたのだということが理解出来ると共に、董卓軍か或いは馬騰軍が助けに入るであろうことまで予測していた、ということに畏怖を覚えた。
もし董卓軍も馬騰軍も洛陽へと動かなければ?
その可能性もあった筈なのに、彼女達は集められるだけの情報と世の情勢を鑑みただけで、今の状況を半ば確信していたのである。
畏怖――恐れるなと言う方が馬鹿らしいほどに、俺は背筋を振るわせた。
「……そなた達は、私達を討ちに来たのではないのですか?」
「ッ、気を緩めてはなりません、伯和様ッ!? こやつらがこちらの素性を聞けば、いつ剣を向けてくるやも知れませぬ!」
「で、でも、時雨……天の御遣い様がいるのだし、他の方達も悪い人には見えませんよ? ……それといつも真名で呼んで、って言っているのに時雨はいつになったら呼んでくれるの?」
「し、しかし伯和様の御真名を呼ぶなどと、私には勿体なき――ではなくッ!? こやつらも武門の端くれ、何大将軍の命さえあればすぐさまにこちらへと剣を向けるに決まっているのですッ! 信じるに値しないのですよッ!?」
「……なんだか、散々に言われてないか?」
「まあ朝廷ん中でいろいろしとった人らから見たら、そんなもんちゃうか? 宦官と何進の対立は深いゆう話やから、そうなっても仕方がないと思うで」
ぶるり、と寒気すら覚える畏怖へ思考を飛ばしていると、ふと聞こえた声に無意識に意識を取られる。
緊張すら覚える状況の最中、突如として聞こえたその声は酷く暖かいものに感じられた。
か細い声ながらも、確かにはっきりと耳へと届いたその声の出所を探れば、女性の後ろへと隠れる――もとい、女性が後ろへと隠すようにした少女からのものであるらしい。
女性の方は警戒心丸出しで、こちらが下手なことをすればそのまま噛みついてくるのではないかと思わせるのに対し、少女の方は少しずつではあるがこちらへの警戒心を解いてくれているみたいである。
それが気にくわないのか、それに比例して女性の警戒心が増大するのだから善し悪しもあるのだが。
それでも少女の言うことももっともだと思ったのか、凄く嫌そうで忌々しそうな顔をしながらも、女性は張遼と話していた俺へと顔を向けた。
「……伯和様の言うとおり、貴殿達に救われたのもまた事実。仕方なく、一応は感謝しておいてやろう」
「……感謝しておいてやる、とか初めて言われたぞ、俺」
「……うちも、そんなん言う奴初めて見たわ」
「中々面白いお姉さんなのですねー」
「……あなたがそれを言うの、風?」
全然感謝などしていない物言いに、危うく脱力しかけてしまう。
隣にいた張遼も同じなようで、俺と同じ酷く疲れた顔付きを眺めてみれば、程立の一言に反応した郭嘉まで同じ顔付きとなる。
それだけで彼女がどれだけ苦労しているのかが分かるような気がした――あまり分かりたくなかった。
「……それはそうとして、あんた達は一体誰なんだ? 見たところ、良いところの出みたいだけど……」
疲れた三人で奇妙な連帯感が生まれようとした頃、それまで黙っていた馬超の一言に意識を戻される。
確かに趙雲達からはその名を聞いたが、彼女達からは聞いた覚えがない。
とりあえず助けられた、という重いから誰何という問いすら忘れていたのだから、それも当然ではあるのだが――趙雲達は自ら名乗ったのだし。
それにしても、と俺は少女と女性へと視線をやる。
馬超の言うとおり、彼女達が纏うその服は、元の世界だろうとこの世界だろうと服装というものにとんと無頓着な俺でさえ、上質なものを用いて作られたものだということが分かる。
俺が纏う聖フランチェスカ学園の制服は、その材質にポリエステルを用いているために日光が反射して輝いているように見えるのだが、彼女達が纏うその服は繊維の一本一本が輝いているようであった。
この時代にはシルクロードもあったのだろうから、もしかしたらそこから得られた上質なものを用いているのかもしれないのだが、いざそうなってしまうと彼女達が一体何者なのかという疑問がいやに大きくなる。
シルクロードの途中にある豪族の娘――洛陽から涼州方面に逃げていたのも実家に逃げるためか、とも思ったのだが、もしそうなら涼州に根を張る馬家である馬超が知らないはずもない。
馬超のことだからそういった面倒なことは知らないようにしている可能性もあるが、そうだとしても少女と女性の反応を見るにそれもないだろう。
大きな商人の娘――可能性としてはこれが一番な気もするのだが、もしそういう話になるのなら彼女達だけが逃げるというのも理解出来ない。
これだけ上質な服を作れるほど大きな商人であるならば、幾人かは護衛を雇っていてもおかしくはないものである。
女性がそうではないか、と言われればそこまでだが、女性が纏う服は護衛と言うよりもどちらかと言うと文官――安定に残る王方などが着ているものに近いのだ。
その服の下に暗器を仕込んでいる、という可能性もあるが、それなら趙雲達の手助けなどいらないだろう。
朝廷に仕える関係者の娘――この時代であるならば、それこそ宦官や位の高い将軍などの娘である可能性もある。
この時代の宦官は張譲、将軍であるならば何進や皇甫嵩などが洛陽で名を知られているが、もしそういった人物の娘であるならば、いよいよをもって護衛がいてもおかしくない。
特に宦官と将軍などの対立は顕著であり、そのどちらだとしても護衛がいて当然なのである。
考えれば考えるほどに難解になっていく彼女達の正体に、俺は考えることを止めた。
考えても埒があかないということもあるし、本人から聞いたほうが早いということもある。
女性がそれを言わせない、ということも考えられたが、それならそれで構わないし別にそこまでして聞かなければならないということもない。
そもそも、先に考えた可能性だとしてもそれ以外だとしても、これまで男なのだと思っていた三国時代の武将の面々が女性な世界に紛れ込んだ時以外の驚きなどはそうそうないだろう。
まあ、もしこの見た目優しそうで儚げそうな董卓みたいな少女が曹操だとか孫策だとか、果てには張譲だとか何進だとか袁紹だとしても驚くことはない……と思う。
何でこの時点でここに、なんて驚きはあるかもしれないが、それでもそれもさしたる問題ではない。
もっとも、もし少女が漢王朝現皇帝である幽帝だ、などと言われたらさすがに驚くことになるだろうが、その可能性も皆無に等しいだろう。
と、そこまで思い至った時、俺はあることを思い出した。
董卓のみならず各諸侯が何進の命で洛陽に呼び出された時、洛陽で何が起こっていたのか。
その混乱の最中、洛陽から連れ出され、かつ洛陽へと向かっていた董卓が保護した人物は一体誰なのか、を。
**
「……ごめん、もう一度どういうことなのか説明してもらえる?」
「いや、俺にも何でこんなことになったのかさっぱりなんだけど……」
一応の安全を確保した、という俺からの報告を受けて合流した董卓本軍と俺達は、目の前で起こっていることに中々復帰出来なかった。
俺を含む偵察隊として出ていた面々はすでに一度経験済みなために復活も早いのだが、後から合流した面々――特に賈駆にとっては想像を絶するものだったらしい。
痛むのか、こめかみを押さえる賈駆に弱々しい印象を抱きながらも、何故かその背後に何かしらの力というかオーラというか、そういったものが見えているのは気のせいなのだと思いたかった。
「……ボクは、何て言ったんだっけ?」
「……前方に迫る不明勢力を確認し、驚異となるようなら速やかに伝令を入れるべし。もし本隊が逃げられないと判断した場合は、壁となってこれを防げ」
「うん、よろしい。概ね間違ってはないわね。……でもね?」
「お、落ち着けよ、詠。ちょっと顔が怖いぞ?」
「うん? 大丈夫、ボクは落ち着いて――いられるかァァァァァッ!? 何てもんを拾ってくるのよ、あんたはッ!? 人ッ?! 人を拾ってくるのは恋だけで十分なのよッ!」
「ひ、ひぃッ!」
全然気のせいではありませんでした、はい。
全身から、それこそ全ての毛穴から吹き出しているのではなかろうかと言えるほどの怒気をまき散らしながら、賈駆は俺へと詰め寄った。
その顔がまるで閻魔の如く、般若の如くであったために本能的反射から情けない声が出てしまったのだが、それを恥ずかしいとはこの時の俺はどうしても思えなかった――むしろ恐怖で気絶してくれた方が何倍も良かった。
そうすれば、目の前に迫る恐怖も、そして知っていながらも防げなかった事実から目を背けることも出来たのに。
一体全体これからどうなるのか、どうしようか等と恐怖を目前としながら考えていた俺だったが、賈駆の声を聞いたある人物――とは言っても、今現在賈駆の中で問題となっている片割れの女性であるのだが、彼女が声を高らかにした。
「もの扱いとはどういう了見だ、小娘ッ!? このお方をどなたと心得る、漢王朝第十二代皇帝霊帝様のご息女、劉協様にあらせられるぞッ! 者共、頭が高いッ、控――」
「し、時雨ッ、何てことを言っているのですかッ!? み、皆さん、時雨の言ったことには従わなくていいですからねッ!」
「へ、へぅ……は、ははー?」
「ああッ、そ、そんなことしなくていいんですって董卓様ッ!? もう、時雨のせいですからねッ、どうするんですかッ!?」
「し、しかし、伯和様ッ!? こやつらはあなたをものと言っ――」
「そんなことは良いんですッ!」
「そ、そんなことですとッ?!」
こちらへと噛みつかんばかりに声を荒げていた女性であったが、それに従おうとした董卓を見てか慌てて止めた少女――劉協の言葉に、押される形となる。
女性――そう言えば未だ名を聞いてはいないのだが、彼女も劉協には弱いのか、端から見ている分には妹に怒られる姉か、娘に怒られる母のようであって、これが自分に全く関係ないのなら笑いたくなる光景である。
現状は実に笑えないものであるが。
劉協。
現皇帝の霊帝の子として陳留王に封じられ、後に暗殺される弘農王である劉弁の後を継ぎ献帝となる、漢王朝におけるラストエンペラーである。
最終的には魏に皇位を禅譲して漢王朝は終焉を迎えるのだが、それ以前に彼――この世界では彼女だが、彼女を保護したことから董卓は権勢を誇ることとなる。
反対に言うのならば、劉協を迎えて権勢を誇ったからこそ董卓は死ぬことになるのだが。
これを成さないために洛陽へ出征するのを反対し、出征に当たって時間を延ばし、といろいろしてきたのだが、結局の所、済し崩し的に迎えることになってしまったのは事実である。
タイミングが早すぎる、と思わないでも無いが、そもそも俺という歴史の異端がいる時点でその差違を認識しておくべきだったのは、俺の手落ちである。
結局の所、こうなってしまった以上、董卓が洛陽で権勢を得るのは必然になってしまったと言って良い。
権勢を得る事無く洛陽を去る、という可能性もあるのだろうが、賈駆の性格からして恐らくそれもあるまい。
今は混乱しているが、落ち着いてしまえば知謀に優れる彼女のことだ、すぐさまにこれからなぞるべき道筋を導き出すことだろう。
参った、と俺は人知れず溜息をつく。
視線は、未だぎゃあぎゃあと騒ぐ劉協と女性を見ているが、心はここにあらずであった。
本当に次代の皇帝かあれ、等と思考の片隅に置きながら、俺はこれからどうしようと再び溜息をついた。
本当に。
どうすればいいんだろう。