朝靄に埋まる安定の街中。
餌を求めるために鳥が飛び交い、朝を知らせるように鶏が甲高い声を響かせている中、相も変わらずに、俺は城の一室にいた。
無論、いつものやつ――朝早くから積まれた書類の処理である。
大豆などの畑を増やしたいので用水路の数を増やして下さい――財政と農畜の担当へ指示書を出しておきます。
新しい戦術を考えたので検討して下さい――賈文和または陳公台にその概要を提出し指示を受けて下さい。
最近食い逃げが頻発しているとの報告があります――警邏に出る各将軍に話しておくと共に対応策の検討をしておきます。
城壁の補修用資材が足りなくなってきてますので補充をお願いします――担当官の方へ伝えておきますので早急に対応します。
董卓様が綺麗で可愛くて生きているのがつらいです――華雄将軍に伝えておきますので死ぬほど調練してもらいに行って下さい、むしろ逝け。
警邏中に会ったあの子のことが気になるんですけどどうすればいいですか――むう、俺も経験が無いからよく分からんがまずは話をしてみることが大切……えっ、相手男?君も男だよね?ま、まあお互いによく話し合ってだな、意見を尊重しあえばいいと思うよ俺はうん。
などなど、途中から今いち理解不能な問題があったりしたかもしれないが、さして気にすることなくそれらの提案書やらなんやらを片付けていく。
どうにかこうにかそれらの書類やら竹簡やらを纏めると、今度は別の山へと視線を移す。
先の渭水から安定までの戦いにおいての論功論賞のための勲功一覧作成、戦死負傷者等の割り出し、囮とした村々の復興のための資金や資材の必要分の算出及び調達、等々。
先の戦が終わって数日、ようやく街や軍も落ち着きを見せ始め、俺としてもそういった仕事が来るであろうことは予測していたのではあるが――何というかである、ちょいと数が多いような気がするのは気のせいだろうか。
「あ、あの、北郷様……?」
「んー、ああ、その辺にでも置いておいて下さい」
そしてまた、数人の侍女が持ってきた竹簡やら書類によって、新たな山が出来上がる。
ちらりと見てみれば、どうやら軍方面からの提案書らしく、どうにもミミズが這ったようにしか見えない文字がつらつらと並んでいた。
文章の最後に『華』と押された印に、思わず苦笑してしまった。
「えーと……これは装備関係……こっちは部隊運用に関して……なんだこれ、詠からだ。なになに、新兵の運用方法についての検討書の提出? 俺じゃなくて霞や葉由殿の仕事だろ、これ……」
「えーと、北郷様、これは一体どちらへ?」
「ああ、すいません! えっと、そこの端にでも置いておいて下さい」
そうやって一通りに目を通していけば、再び文官の一人が腕一杯に持ってきた竹簡によって、また新しく山が出来た。
まあ、今回のは先ほどの侍女達の分よりは少ないので、些か楽そうではあった。
だが。
「北郷様、財政担当からの報告書です。あと、市井への予算をどうするかとご相談が――」
「北郷様、将官の方々から模擬戦の要望書です。それに関して場所を決めて欲しいと――」
「北郷様、賈駆様から街の有力者との会談に出るようにとのご連絡ですが――」
「北郷殿、伯約が聞いてまわった民からの提案や要望を纏めた書を持って来ましたが――」
「北郷! 調練をするぞ、武器を取れッ!」
「一刀、酒呑もう! ほらほら、早く行こうやッ!?」
「……一刀、セキトと遊ぶ?」
「お前の意見を聞きたいのです! これなのですが、どう思うのですか!?」
こうも次から次へと来ると、どうにもこうにも立ち回らなくなるのは当然のことであり、さもすれば、作業効率が低下するのも当然であった――なお、自分達の仕事は済んだとばかりに部屋を訪れた方々には丁重にお帰り頂いた、具体的には暇なら手伝えという言葉で追い払ったとも言える。
塵から山へ、山から山脈へとなるように積まれていく書類と竹簡を出来るだけ見ないようにしながら、俺は人知れず溜息をつく。
本当、なんでこんなことになっているのか、と。
戦の前にもある程度の仕事があるにはあったが、現状はそれどころの話ではない状態である。
それこそ。
全ての仕事が、一旦俺を介しているかのように。
それが自分の預かり知らぬものであるならば、誰々がさぼっているのだ、と開き直る――もとい、諦めることも出来るのだが……あれ、あんまり変わらないような気が。
まあそれはともかくとして、何故こんな現状になっているのか――明確に言うのなら、何で俺に宛がわれた執務室の壁が書類と竹簡げ埋め尽くされているのか、であるが、それに心当たりのある俺は、再び溜息をついた。
本当に、なんでこんなことになってしまったのだろう、と。
ただ一言、了承をしただけなのに。
**
勝利。
その二文字は、多くの軍が求め得ようとするものであり、もっとも得難いものでもある。
人が人として在り始めて後の世、それを求めるだけに生きている人達だっているのである。
それほどに得難く、尊く、そして甘美なそれを携えて、董卓軍と涼州軍は安定の門をくぐった。
黄巾賊との決戦。
当初の六万対一万という絶望に覆われていた戦いは、当初の予想を大いに覆して連合軍の勝利に終わり、軍の内部からは奇跡とも、各々の将兵達の奮戦の賜ともの声が上がっていた。
無論、そのどちらとも言うことが出来るし、或いは軍師達による策が嵌っていた時点で勝利は確実なものだったという智者もいたりはするのだが。
まあようするに、である。
そういったことを話せるだけには落ち着いた状況であり、また議論するほどに勝利の興奮に身を委ねているのではあるが――どうやら、それは戦況を見守っていた民達も同じだったらしい。
二列に並んで安定へと入った董卓軍と涼州軍、その両者を待ち受けていたのは歓声の嵐であったのである。
「董卓様、ありがとうごぜえますだ! これで安心して畑を耕せますだ!」
「賈駆様ー! その鋭い眼差しとその知謀、そこに痺れる憧れるッ!」
「おお、あれが天下無双と豪語する華将軍か。あの佇まい、まさしくその通りよ」
「張遼様、またいい酒入れときますんで、呑みに来て下さいよー」
「呂布様も、肉まんを用意しておきますから、来て下さいね」
「陳宮様、今日も可愛いですぞー!」
などなど。
見渡す限りの人――それこそ、安定中の人達が賛辞を述べるためにここに集っているのではないかと思えるぐらいの声の多さに、董卓軍の面々はそれぞれに応対しながら道を進んでいった。
まあ、董卓が誉められて照れたり握手を求められたりすると賈駆が睨んでそれを押さえ込んだり、天下無双と呼ばれて鼻を高くした華雄が回りとの歩調を考えずに先に先にと進んだり、酒と肉まんがあると聞いた張遼と呂布がそちらへ流れるのを陳宮が服を引っ張って止めたり、と。
大勝利の中にあっても常日頃となんら変わらない董卓軍の面々に、俺はどことなく居心地の良さを感じていた。
ふと視線を移してみれば、涼州軍でも同じような感じであった。
馬超が誉められて顔を真っ赤にして慌てれば馬岱がそれを宥めつつ引っ張っていく、庖徳はのんびりと軍を纏めて行進していた。
そんな軍の一角にて、俺も慣れぬ手つきで馬を歩かせていた。
戦場で勢いよく駆ける分には気前よく走ってくれるのだが、どうにもこういった混雑した所を歩くのはお気に召さない俺の馬は、いつでも走れるといったばかりにいきり立っているようだった。
ならもう少し気性の大人しい馬に乗れば、ということになるのだが――いや、まあうん、こいつしか乗れる馬がいないのだから、仕方がない。
語るも涙、聞くも涙――馬岱から言わせれば前者はそれまでの苦難と痛みを思って、後者はその話を笑って――というエピソードがあったりもするのだが、それはまあ、割愛しておくとしよう。
「……一刀、疲れた?」
「ふん、これしきのことで疲れるなど、軟弱者なのです。そのような者が恋殿と同じ将軍となろうなどと、百年早いのですぞ!」
自分の馬に乗るまでの課程を思い出して沈んでいる俺の横へと、呂布が馬を寄せる。
紅い身体に炎のような鬣を持つその馬に跨る呂布、その馬が赤兎馬かどうかは分からないが、これが人馬一体か、と言えるほどの風格を携えていた――その呂布の前に、ちょこんと陳宮が座っているために台無しではあったが。
「大丈夫ですよ、奉先殿。心配して頂いてありがとうございます。公台殿は……まあ、面目ない」
分かればよろしいのです、と鼻をならして胸を張る陳宮から視線を外して、そんな陳宮の頭を器用に撫でる呂布へと視線を移す。
片手で手綱を引いて片手で撫でる、そんな芸当を俺がしようものなら、すぐさまに跳ね飛ばされるのは目に見えていた。
というか、そもそも陳宮は疲れるようなことをしたのだろうか。
まあ、それを聞けば最近日常になりつつある跳び蹴りを喰らうことになりそうなので、言わないでおいた。
「それにしてもお疲れ様でした、奉先殿。張、華の両将軍と共に黄巾賊の陣を散々に打ち破ったと聞きましたが……あー、全然疲れてなさそうですね」
「……ん」
「恋殿はお前なんかとは違うのですぞッ!」
そして、社交辞令とばかりに俺も呂布に対してお疲れと言おうとしたのだが、ふと彼女の状態を確認してみれば、服やらは常と変わらず、手綱を持つ手で器用に支えられた方天画戟は汚れも痛みもない。
さらには、特に問題はないとばかりにけろりとされては、それを口に出すわけにもいかなかった。
同じ時間を戦場に立っただけでへとへとな俺とは、天地ほどの差である。
そんな俺を気遣う視線を送ってくれる呂布に、少しだけ和んだ。
そんなこんなで城へと辿り着いた俺達は、その一室へと集った。
外からは未だに歓声が聞こえ、まるで祭りでもしているかのような――後に本当にしていたことが判明する――賑やかさの中にあって、その部屋の中は静かであった。
その議題は、当然のことながら黄巾賊への対策である。
「それじゃあ……まずは、みんなお疲れ様。厳しい戦いだったけど、今日勝てたことはみんなの働きのおかげよ」
「はい、詠ちゃんの言うとおりです。特に馬超さんと馬岱さんには、大変感謝しています」
「えへへ、そう言ってくれるのは嬉しいけど、翠姉様と蒲公英だけじゃ勝つことは難しかったと思うよ。翠姉様、イノシシだし」
「そうそう、わたしと蒲公英だけじゃあ――って、誰がイノシシだ、蒲公英ッ!?」
「なっはっはっは! うちにもイノシシはおるから気持ちは分かるで、なあ華雄?」
「うむ、よく分かるぞ……ん? これだと私がイノシシみたいではないか?」
「う、うわっ!? 孟起殿、ちょっと落ち着いて下さいよッ!? 霞もちょっとは空気を読んでッ!?」
今回の戦では勝利を収めることが出来たし、多くの兵力を潰すことが出来たことによって、当分の間は黄巾賊が活発な動きをすることはないように思えた。
だが、それでもその勢力は健在であり、いつまた牙を剥くとも限らないのだ。
それこそ、である。
過大な表現も含まれているのであろうが、黄巾賊百万、この全てがもし安定を襲おうとするのであれば、いかに馬騰の西涼などに助けを求めてもどうすることも出来ないのである。
だからこそ、勝利したとは言え、黄巾賊の勢力を削れたとは言っても、その新たな対策を講じることは無駄になることはないのだ。
だと言うのに。
そんなことなどお構いなしにいつものように騒ぎが起こり始めるのを、俺は苦笑しながら見ていた。
俺が知る三国志という歴史の中で、後の世となっても英傑と数えられるその面々を見ていれば、例え百万もの敵が攻め寄せてきても勝てる、と思えてくるから不思議でならない。
そして、そう思える人達だからこそ、人は英傑と呼ぶのだと、何だか不穏な空気が流れ始めた面々を見てそう思った。
そして、話し合いなど気にすることもなく、馬岱を追って馬超が、張遼を追って華雄がそれぞれ追いかけようとするのを、後ろから腰に腕を回してどうにかこうにか押さえた――ええと、柔らかくていい匂いがしました、汗かいてるはずなのに甘い匂いとはこれ如何に。
これ以上被害を広げないで、などと俺の意見が聞かれるはずもなく――馬超は、俺が腰に手を回したら真っ赤になって止まったが――張遼に言われた言葉の真偽を何故かしら俺に聞いてくる華雄を宥めて、どうにかこうにか賈駆に議題の進行を促した。
そして。
「……」
「……」
「……」
黄巾賊への対応が一通り決まった――偵察斥候を増やして情報を掻き集め先手を打ち、馬騰達西涼との連絡連携を密にする――その後に、俺は賈駆に呼ばれて先ほどまでの部屋に残っていた。
仕事の話、ということだったので当然のように董卓も一緒で、並んで座る彼女達の対面に俺が座ることとなる。
そして、俺を呼び止めた賈駆が口を開くのを待つ……待つのだが、一向に口を開こうとしない彼女に首を傾げてしまう。
普段であればどんなに言いにくいことでもずばりと言う彼女が、どんなことを言うにせよ言い淀むというのは実に珍しい光景であった。
その事実にますます首を傾げるしかない俺に、ついには賈駆ではなく董卓が口を開いた。
「あの……一刀さんに、お願いしたいことがあるんです」
「いや、やっぱりボクから言うよ、月。……あんたに頼みたいことがあるんだ」
そして、結局は口を開いた賈駆のみならず、董卓のその緊張した面持ちに、俺は知らず身体を強張らせていた。
彼女達がそれほどまでに言いにくいこと、それが一体どんなことなのか理解出来ない以上、賈駆の口が開くのを待つしかない俺にとって、その数秒とも言える時間は永劫にも感じられた。
「あんたに……将軍をしてもらいたいの」
「……はい?」
しかし、待ち構えていた言葉は意外なものであって、俺はその意図を知ることなくあまりにも呆然と声を出していた。
というか、将軍?えっ、元々なる予定じゃ無かったの?
俺の今現在の肩書きは将軍見習いだったと記憶している。
それはつまり、後々には将軍として呂布や華雄、張遼と同じように――いや、あれだけの働きをすることは無理だし、そもそも武力からして段違いなのだが、それでも同じ立場として戦場に立つことになるのだと思っていた。
しかし、賈駆は将軍になってもらいたいと言う。
わざわざ伝えなければならないことなのか、と首を掲げた俺へ、賈駆は呆れたように呟いた。
「多分だけど、あんたの考えていることとは違うわよ。……ボクが言ったのは将軍、つまりは将ではなく、文字通り軍を任せられる将軍にならないかと言うこと。分かりやすく言えば、漢王朝でいう大将軍になってくれないか、と言うことなのよ」
大将軍。
この時代では何進がその役職にあったと記憶しているが、その意味としては、各地の太守や州牧、軍閥を纏めるものである。
つまりは元締めだ。
そして賈駆が言うところは、董卓軍にとっての大将軍に、俺がならないかということなのであろう。
それを聞いたとき、俺はふと思っていた――何かの冗談か、と。
「武官文官に顔が通じ、戦を生き残るだけの武と、数倍の敵を打ち倒せるだけの策を考えつく智があって、あんたをただの将軍にするにはあまりにももったいないの。それに、石城だけならまだしも、安定をも支配下にいれたとあっては、同時に攻められれば月とボクだけでは両方を対応するのは難しい」
だからもう一度言うわ、あんたに将軍になってほしいの。
武官としての将軍ではなく、戦場を任せられるだけの将軍に。
そう告げる賈駆と、自分も同じ気持ちだと言わんばかりに頷く董卓の視線に、俺は知らず視線を彼女達から逸らしていた。
董卓軍の将軍と言えば、董卓軍最強部隊を率いる華雄、飛将軍と呼ばれ天下無双を誇る呂布、その部隊運用の疾さから神速将軍と呼ばれる張遼がすぐさまに挙がる。
彼女達の武勇はこれまでも見てきたし、俺なんかがその末席に加えられるなど、と思って時間があれば鍛錬を繰り返してきたものだが。
何がどうして何があれば、末席であった将軍職が、いつのまに彼女達を指揮する将軍へと変貌してしまうのか、まったくもって謎である。
そもそも、俺よりも呂布達董卓軍が誇る三将軍の誰かがなればいいじゃないか、ということになるのだが。
そんな俺の疑問を感じてか、賈駆がずばりと言う。
「駄目よ、華雄達は部隊運用ぐらいなら考えるけど、戦術とか全く考えないもの。言うなれば馬鹿、なのよ。だから無理。もちろん、軍師であるボクやねねでは前線に出るわけにはいかない。なら、両方を兼ね備えたあんたっていうのは当然だと思わない?」
「いや、思わない、って聞かれても……。あれだ、その…………本当に俺、なのか?」
「ええ」
「はい」
当然、そういわんばかりに頷かれて、知らず頭を抱えてしまう。
どうにも本気らしい――裏に馬岱とか馬騰がいたような気もしたのだが――董卓と賈駆に、正気なのか、と本気で問いただしたいぐらいだった。
ただ、彼女達の言いたいことは理解出来る。
董卓に天下を狙うという意志は見えないとはいえ、現状で二つの街を勢力圏としているのだ。
現状でさえ独自に動ける軍は必要とも言えるし、これから飛躍する――俺が知っている歴史へと移っていくのであるならば、絶対に必要と言えた。
まさか、その軍を指揮するのを自分がしろと言われるとは思わなかったが。
それでも、将軍という地位は、待ち受ける歴史へと準備をするには十分に好都合なものである。
軍の編成、その兵力、行軍経路、策略を決められる立場であるならば、あるいは。
そう思った俺は、いよいよに覚悟をもって口を開いた。
そして。
その時をもってして、将軍、北郷一刀が誕生したのである。
**
もっとも、歴史より何より、待ち構えていたのは仕事仕事の連続なのだけれど。
そう心中でだけ愚痴を吐きつつ、伸びをする。
朝早くから椅子に座っていたためか、ゴキゴキと音をならせば幾分かすっきりとした――時々、メキッ、とか、ミシミシッ、と聞こえたのは気のせいだよね、と痛みと共に見過ごした。
「ご主人様、飯持ってきたぞ」
「ありがとう、翠。一緒に食べようか」
そうしていれば、手に盆を持って馬超が部屋へと入ってくる。
結局の所、馬超は西涼へと帰らなかった――帰れなかったと言った方が正しい気もするが。
彼女の母親である馬騰と従妹である馬岱、彼女達の策略によって俺をご主人様と呼ぶこととなった馬超ではあったが、何の因果か、はたまた呪いか、多分ではあるが悪戯によってそのまま安定に残るようにと指示を出されたのであった。
母親からの指示に初めは反抗した馬超ではあったが、さっさと軍を纏めて西涼へと帰還を始めた馬岱に置いてけぼりを喰らい、はたまた追いかけようにも衣類やら細かいものを隠されて、更には愛馬である馬を連れられていればそれも叶わず、残ることとなったのである――なお、馬は後日庖徳が連れてきました。
そして、ついでとばかりに賈駆によって俺の副官に任命されてしまったのだから、何とも申し訳ないものである。
まあ、その縁もあって真名を預けてもらえたのだから、悪いことばかりでは無かったのかな。
「……それにしても、相変わらず仕事多いな。何か手伝えればいいんだけど」
「ああ、別に構わないよ。そもそも、軍方面に関しての指示を伝えてくれるだけでも相当助かっているんだし、翠には感謝してるよ」
「べ、別にご主人様のためって訳じゃなくてだなッ!? え、えと、その……そうだ、ご主人様が仕事溜めたら他んところに迷惑がかかるだろ、それを心配してんだよッ!」
そうそううんうん、と一人納得している馬超に苦笑しつつ、心配してくれていることに内心感謝する。
俺が将軍になって今日で三日目。
初日と二日目などはあまりの仕事量の多さに飯を食べに行くなど考えられないぐらいであったが、そんな現状を見てか馬超が運んでくると言ってくれた時には、本当に感謝したものである。
姜維が、はわはわ私の仕事が取られたです、などと悲しんでいたのはちょっと罪悪感があったが――でも伯約殿、あなたが何事もなく飯を持ってこれたこと、一度でもありましたっけ。
姜維が飯を持ってきて何かに躓いてそれをひっくり返し書類やらをグショグショにしてしまうのをリアルに想像出来て、俺は背筋を振るわせながら汁物を啜った。
結局の所、姜維も、つい先日まで俺を手伝ってくれていた王方でさえ、あまりの忙しさに忙殺されていれば、それも叶わぬことではあったのだ。
安定に本拠を構えたとはいえ、当初であれば董卓軍を歓迎するというムードは、ほぼ皆無であったと言っていい。
漢王朝から派遣された太守、それが自分達を見捨てて逃げ、その代わりとして董卓軍が街を救ってくれたとはいえ、新たにきた太守を信じろとは言っても再び見捨てて逃げるのではないか、と疑うのは当然のことであった。
王方が言っていたように、俺が助けた姜維が董卓軍に参加し俺の補佐をする、という印象緩和策でさえ、さしたる成果を上げることはなかったのだが。
命をかけて、誇りをかけて、十倍になろうかという黄巾賊に挑み、そして勝利して守ってくれたという実績が、それを覆してくれたのだった。
となると、当然覚えをよくしようと訪れる商人の数は増えるし、俺も俺も、と軍に参入する志願兵も増える。
であるからこそ、董卓軍において暇な人物など、殆どいなかったのである。
西涼からの半ば同盟の人質みたいな形でいる馬超も、その騎馬技術を買われて斥候部隊の訓練や騎馬隊の調練に駆り出されていたりする。
それでも昼や晩になれば飯を持ってきてくれる辺り、本当に感謝してもしきれない。
そんなこんなで、数日が経過する。
相も変わらずに忙しかったが、それでも黄巾賊戦の後始末が終わればそれも徐々に収まりつつあった。
まあ、その時に囮にした村々の復興は献策した俺の義務でもあるけどさ、何でその村々に関しての一切合切を俺へと回してくるのかが、未だに謎である。
そして、再び迫るであろう黄巾賊の脅威への対応策や、活発になりつつある群雄諸侯の動きへと注意を払っているある日の午後。
『張』の印が押された模擬戦の提案書――っていうかつい昨日もやったばかりなんだけど、どんだけやるんだよ――に目を通していた俺は、馬超が持ってきた報にしばし呆然としてしまった。
それは驚きであるとともに、俺にとっては意外なものであって。
本音を言えば、その報が各地へ飛び交うのがもう少し後であればよかったのに、と言えるものであった。
すなわち。
各地にて蜂起した黄巾賊、尽く壊滅す。
その報は、一つの転換点として時代を舵取り、そして待ち受ける歴史へ突き進めていった。