渭水から安定に至る道すがら、六万もの群衆となった黄巾賊の中心。
白いものが混ざり始めた髭をさすりながら、趙弘は上機嫌だった。
元々趙弘は、荊州南陽において黄巾賊を指揮する張曼成の配下の将であった。
今回の各地同時蜂起においても、張曼成が指揮する本隊が南陽を攻めるにあって、別働隊を率いて南郡を攻める予定であった。
事実、南陽を攻める本隊九万のうち二万を率い、いざ、という時ではあったのだが。
急遽、華北にて各地を攻める黄巾賊本軍からの使者を名乗る青年――半分に割れた白い仮面を付けた于吉という青年は口を開いた。
曰く、兵を率いて涼州へと攻め入れとの指示でございます、と。
口元は緩めて笑いながらも、その瞳が一つとして笑みを浮かべていないことなど、趙弘としては気付かない筈はなかった。
それを知られながらも尚している気がある辺り、どうにもその青年を信用することは出来なかったのだが、本隊からの指示とあっては、と慌てた張曼成は涼州方面の指揮を趙弘へと受け渡したのだ。
涼州方面の指揮権を得たのは幸運ではあった、だが趙弘はすぐに涼州に攻め入ろうとは思わなかった。
南郡を攻める予定であった二万の兵をそのまま用いる、ということになったのはいいが、それで涼州へ攻め入るには些か少ないと考えてのことだった。
華北では数十万という兵が動いて各地にて官軍を討ち攻めてはいるようだが、華南ではそれほど兵が集まっている訳ではないのだ。
これは黄巾賊の教えがどうとかいう以前の問題で、ただ単純にその地に住まう人が少ないだけなのだが。
だからこそ、華南に位置する荊州では、黄巾賊本軍の半分ほどでしかない九万しか集めることが能わなかったのだ。
だが、そんな趙弘の考えを看破してか、心配はありません、と青年は口を開いた。
渭水周辺、古来より戦地となりながらも人の営みの絶えぬ彼の地であれば、黄巾の教えに賛同する者は多いことでしょう。
趙弘様の教えによっては華北の本隊よりも大きな兵力と成り得るやもしれませぬ、そう青年が口を開けば、張曼成はその考えに同意し、趙弘へとそれを成すようにと指示を下してきた。
無論、趙弘としてもその可能性を否定するには情報が足りず、その指示に否と答えればどのような末路が待ってるやもしれぬとあれば、嫌応無しにそれを成さねばならなかったのだが。
しかして、彼の地にて趙弘を待っていたのは、被害を受け怨嗟を黄巾賊へと向ける民ではなく、圧政からの解放者として多くの信徒が待つ渭水周辺の人々だったのだ。
兵に、と志願する者も後を絶たず、結果として趙弘が指揮する黄巾賊は二万から六万へと膨れあがったのである。
さらには、涼州方面にはさほど大きな勢力を持つ郡はない。
中華一とも言われる西涼騎馬隊を有する西涼太守である馬騰ぐらいなら障害となるかもしれないが、その馬騰も、異民族の侵入を警戒してすぐに行動へ移ることは難しかろう。
石城と安定を勢力とする董卓が涼州の入口ではあるが、先の襲撃からさほど時間が経っていないために、そこにいる戦力も少ないものだと趙弘は考えていた。
そして、その地がここ最近になって富める地となっている、そんな噂を聞きつけてしまえばそれを目指さぬわけにもいかないだろう。
六万もの兵を食わるには、富める街を襲わねばならず、さらには亡き同志への仇討ちもしなければならないだろう。
天の御遣いとか天将だとか、民の希望となる男がいるとあって人の数も結構多いらしい。
実に現状において都合が良かった。
故に、趙弘はその進路を安定へと向ける。
食料、人、そして希望。
それら全てを奪い尽くすために。
**
安定まであと数理、馬を飛ばせばあと半日といった所まで軍勢を進ませた趙弘は、その軍中においてこれからの行軍針路を思考していた。
時刻は昼前、今の行軍速度であれば明日には安定を指呼の距離へ捉えることは可能である。
だがしかし、兵とて人であり疲労を生む、このまま突き進んでみても疲労困憊の状態で安定に攻めかからねばならないのでは、速度を重視したとて意味はない。
かといって、現状この地に詳しい者がいるわけでもなく、地の利が完全に無い状態であれば、いつどこで安定から出立した軍に襲われぬとも限らないのだ。
近くに村でもあればそこを襲い拠点とすることで、安定周辺の情報や地利を集めることが出来る――そう考えた趙弘が先んじて斥候を放とうとしたそんな時である。
一騎の騎馬が、接近しているとの報を受けたのは。
「お目通りに叶い光栄です。我が名は旺景(おうけい)と申します」
「ご苦労、黄巾党涼州方面軍を率いる趙弘という。……して、この先にある村を制圧したというそなたの話は真か?」
黄色の布を頭に巻いて現れたその騎馬は、誰彼と尋ねた群衆の先頭に立つ兵に対して、指揮官に会わせろと声を放った。
これが常時であるならばそれも否として、はたまた密偵だとして私刑なり死刑なりで処罰されるのであるが。
事実、それを聞いた兵の一人は密偵だと訝しんで腰元の剣へと手を伸ばしたのである。
だが、それは抜かれることはなく、それ以前に止められることとなった。
彼が放った言葉によって。
「はい。この度、趙弘様が兵を率いて涼州を王朝の腐敗から救ってくださると聞き、黄巾の教えに従う同志にてここから二里ほどにある村、そしてその周辺に位置する村々を制圧しております。財貨はそれぞれ村ごとに中心に集め、村人達も同じ所に集めておりますれば、お手を煩わせることもないでしょう」
見れば未だ幼さを残した少年ではあったが、その佇まいと雰囲気には凜としたものがあり、少年がどれだけ憂国の志を抱えてきたのかを言葉少なに趙弘へと知らしめた。
武装らしい武装はなく、ただあるのは背中で斜め十字にされた二本の長い鉄棒ではあったが、その雰囲気も相まって少年が中々の腕前を持つことが分かる。
民衆の群衆であって有能な副官がいないこともあってか、趙弘は状況が落ち着けば少年を副官に、と思い始めていた。
「……現状、我らの中にこの地に詳しい者はおらん。旺景よ、地元民であるそなたの言、信用させてもらうぞ」
「御意にございます」
だからこそ、趙弘は少年を信じることに決めた。
それに周囲にいた護衛の兵から反対の声が上がったが、民の協力無くば漢王朝打倒などと無理な話ぞ、と言えばすぐに折れた。
腐敗したとはいえ一時は栄華を誇った国を相手にしているのである、兵力差で勝っているとはいえ本職の兵相手ならばそれでも危うい。
それこそ、大将軍である何進や州牧が動けばたちまち鎮圧されてしまうことなど、目に見えているのだ。
だからこそ、例え状況を見計らったかのように現れた少年でも信じざるを得ない、その現状に趙弘は知らず溜息をついていた。
「……よし、軍を五つに分けるぞ。お主らはそれぞれの指揮官となりて村へと入れ。これからはそこを拠点として、周囲へと勢力を伸ばす。旺景は儂の傍にいてもらおう」
「……はっ!」
はてさて、信用が果たして信頼となるかどうか、見極めさせてもらおうか。
趙弘は、黄巾の教え、というものにさしたる興味はなかった。
人より優れた体躯を持ち、生きるために剣を振るい始めた頃から、主義主張など持ちはしなかった。
ただ唯一、知りたかったことはある。
己が、どれだけ強いのかということだ。
人として、武人として、将として。
己の上役であった張曼成も愚鈍では無かったが、それでも自分より強いと思ったことはない。
官軍にさしたる強者がいない以上、自分がどれだけ強いのかなど知りようも無かったのではあるが、涼州の馬騰ならばそれを知りうることが出来るやも知れないと思っていた。
彼の者ならば、自分がどれだけ強いのかを知ることが出来る、と趙弘は知らず口端を歪めていた。
安定など、その前座でしかない――この時の趙弘は、そう思っていた。
**
「兵士さんや、私達は一体どうなってしまうのかのぅ?」
「ご老体よ、心配は無い。賊徒どもを打ち倒すために董卓殿が兵を率いているゆえ、じきに村へも帰れるだろう。今は安心して避難するがよい」
「おぉ、有り難や有り難や」
「ほら行こう、お婆ちゃん?」
安定の城門、そこで各村々から避難してきた民を見守る牛輔は、孫であろう少女に連れられていく老婆から視線を外して、遙か先、渭水の方面へと向けた。
城門へ流れ込む、まるで川のように連なったそれは人のもので、元々安定に住んでいた牛輔でさえ、知らなかった程の数であった。
遠く、所々で川の縁を蠢くのは護衛の騎馬であろうか。
まるで、川で幼子が遊び回っているようだと思うと同時に、牛輔は知らず感嘆していた。
「まさか……賊の進路上にある村から民を全て避難させるとはな。民にとって家――住まう地は財産ともなれば、それも難しいだとうとは思っていたのだが……」
民にとって、財産とは人であり地である。
その地に住まいて根を張り、その地に住まう者同士で集団を作ることで、そこは村となるのだ。
村を生み、村を育んできた民達にとって、村から離れるということはそこにあるそれまでの自分というものを捨てるということでもあるのだ。
故に、牛輔は黄巾賊から逃れるためと言っても、それが容易に進むとは思っても見なかったのだが。
いざ蓋を開けてみれば、さしたる混乱もなく、ここ安定に民達が集いつつある。
この調子でいくのなら、明日までには村々の全ての民が安定に収納出来ることだろう。
驚くべきは、それを即決した董仲頴か。
結果的に、それが善と判断した賈文和と馬草元か。
或いは。
その策を論じ、さらには逃れる民の希望である天の御遣い――北郷一刀か。
馬家と共闘することが決まった後、では黄巾賊への策を考えるとなった時に彼が漏らした策。
それは、両家の軍師である賈文和と馬草元の目に止まったのか、或いは同じ事を考えていたのか。
少なくとも、現状において取れる最大限の策だと両者が思ったからこそ、その策を煮詰め此度の策となったのだが。
まさか自分の策が採用されるとも思っていなかったのか、半ば呆然とした北郷は中々見物であった。
安定に来てから、何処か張り詰めていた彼のそんな顔が見られるとは思いもしなかったのもある。
「北郷一刀、か……。はてさて、どんな時代を見せてくれるのやら」
「はうはうぅぅぅッ!? い、一体どうすれば……?」
北郷一刀が描いた策で紡がれる時代とは、そう思いを馳せていた牛輔の耳に、ここ数日でよく聞くようになった――というよりは、殆ど毎日聞いている声が届く。
何処か慌てたような、それでいて途方に暮れている声を辿れば、その声の発生源である人物へと至った。
「どうなされた、姜維殿? ……そこで泣く子と何か関係があるのか?」
「あっ! ぎゅ、牛輔様ぁぁぁ! はわはわ、た、大変なんでしゅぶッ!」
いつものように不思議な慌て方でカミカミな姜維に、牛輔は視線を向けるのだが。
その傍らで泣きわめく六つ七つほどの少年に、自然を視線が向く。
その少年をあやすようにしていた姜維は牛輔の姿を確認するや、慌てて言葉を放つ。
「あ、あのッ! この子が人形でお姉さんが村なんでしゅッ!」
「……すまん、言いたいことがよく分からない。どうした、少年? 何かあったか?」
カミカミで、なおかつ言いたいことが分からないことを理解したのか、はわはわ、と言いながら項垂れる姜維に構うことなく、牛輔は傍らの少年へと語りかけた。
姜維の大声にビクリッと反応した少年は再びその眼に涙を溜め始め、それを見た姜維が再び慌てようとするのだが。
それを無視して、牛輔はなるべく少年が落ち着けるようにと静かに問いかけた。
「ひくっ……ぐす……お、おれ……」
それを姜維も理解したのか、いつものようにはわはわと言いそうになる口を両手で押さえると、少年の言葉に耳を傾ける。
泣いた子は静かに語り先を促さず、安定を阿呆太守が収めている時代、警邏の途中に泣きわめく子と出会った牛輔が、李粛に教えられた言葉である。
教えられた、というのはまあ当然の如く泣く子をさらに酷くしたからのではあるが。
李粛に馬鹿じゃないの、なんて言われたのはあの時が生まれて初めてであったのだから、二度と同じ轍をを踏まないようにしようと固く決めた牛輔としては、今回は上手く出来たと言えるものである。
「おれ……人形、村に置いてきて……。そしたら……姉ちゃんが……姉ちゃんが……」
そこまで言い切って再び泣き出す少年から視線を外し、牛輔は遙か彼方、民の列が連なる渭水の方面へと視線を移す。
全てを言い切った訳ではなかったが、それでもその言いたいことが理解出来たのだ。
そして、それがどれほど危険なことかも。
子供の脚と鑑みても、それでも最初の避難民が来てからかなりの時間が経過している。
この少年とその姉が先頭の避難民と同じ村だったとしても、既に追いつける距離ではないことを、牛輔は理解してしまった。
馬を飛ばそうにも、知らせるにしても到底届かない距離にあって、牛輔は密かに願った。
願い届き叶うならば天将へ、と。
そして、一人の少女は村へと入る。
己と弟が住んでいた家へと急ぎ、その中へと入る頃。
その村を指呼の間に捉えた黄巾の群衆が、それを飲み込まんと接近していた。