~補完物語・とある日の不幸~
「きゃぁぁぁ!」
董卓軍が安定に入城し、そこを本拠としてから数日後のこと。
膨大な量の書類と竹簡を片付けた俺は、草木も眠る、夜も更けきったころにやっとこさ就寝出来ていたのだが。
起床の時間となって目を覚ましてみれば、耳に届いたのは女性特有の高い叫び声で、俺はそれが聞こえたと同時に飛び出していた。
誰の声かなどと確かめる必要もない、それこそ守ると誓った一人のものだからこそ俺は慌てていた。
まさか、という思いが胸を締め付ける。
安定を本拠にした後に、一番にしたことと言えば治安の改善である。
降伏したとはいえ元黄巾賊という肩書きを持つ兵士達に、街の民衆は厳しい目を向けていた。
確かに、董卓軍が救援に来なければ蹂躙されていた、というのだからそれも当然の反応だとは思うのだが。
多くの兵士達は心を入れ替えて働く者ばかりだったが、一部の者達はそうはいかなかった。
民衆に反発し、悪さをする者もいれば、安定を離れて再び賊と成り下がる者もいた。
もしやそういった輩が、と危惧していた俺は、声を発したであろう人物の部屋へと辿り着いた。
人の気配はするが、争っている風ではない。
だが、もし口を押さえられているとしたら、などと考えて、そんな猶予はなのかもしれない、と意を決して俺は扉を開けた。
「詠、大丈夫――」
「ちょ、入ってくるなぁッ!」
「――かッ……って、え?」
そこで見たものとは。
半ば想像してた通りに寝間着を大きくはだけさせ――先に言っておくが、決して見たいと思った訳ではないぞ、たまたまだ――その胸元がギリギリのところまで露わにされており、乱れた裾から覗く白い太腿はやけに色っぽく濡れていた。
――傍らで割れていた、花瓶の水によって。
なんていうか、大人のビデオ――及川所有物である、断じて俺ではない――にあるような着物が水に濡れている状態とでも言うのか、まさしくそんな感じで賈駆がそこで座り込んでいた。
「み……み……み……ッ!」
艶やかでありながらどこか神秘的で、薄紫の寝間着と白い肌がさらにそれを助長させているのだが。
ぷるぷる震える身体に不似合いな固くにぎしめられた右腕と、涙を溜めながらもこちらを睨み付けるその瞳が、どこか庇護欲を感じさせながら、恐怖をも感じさせた。
敢えて言おう――俺ピンチじゃね?
「み……見るなぁぁぁぁぁぁ!」
「ぐっふぅぅぅぅぅぅ!」
そう思った刹那、目にも止まらぬ速さで繰り出された右腕は俺の顎を的確に捉え、下からの軌道に沿って俺は宙へと浮いた――否、飛んでいた。
後に、あの張遼をもってして、呂布の剣戟と同じかそれ以上かもしれない、と言わしめた拳を受けた俺は、飛んだ衝撃そのままに地面へと落ちて転がった。
ああなんで俺がこんな目に、と脳裏に浮かんだ時には、俺の意識は闇へと埋もれていた。
**
「――と言うわけで、今日一日ボクは不幸の固まりだから。出来るだけ近づかないほうがいいわよ」
朝起きて、水を飲もうと思ったら水瓶を置いてきた机の脚が折れて、水瓶が割れたのを片付けようとしたらたまたま前日に位置を変えていた花瓶が落ちてきて水に濡れた。
その状態で呆然としてしまい、慌ててその場を片付けようとするのだが、水に濡れた寝間着は意外にも重たく、悪戦苦闘している間に乱れてしまい、そこに俺が来た――これが一連の内容であるらしい。
どんな漫才かコントか、とも思ってしまうのだが、月に一度ほど超絶に不幸な一日があると話してくれた賈駆の顔色から、それが意外にも切羽詰まったことなのだと理解する。
未だ痛む顎をさすりながら集められた広間にて、賈駆の口から発せられた一言は意外にも大きな影響力を持つらしい。
張遼や華雄、呂布や陳宮、徐晃は言うに及ばず、常なら常時並んでいるはずの董卓でさえ賈駆から距離を取ったのだ。
その威力を知らない俺や牛輔、李粛や王方だけはその場を動くことは無かったが。
「ですが賈駆殿、近づかなければ仕事にも支障があるの――」
「お茶をお持ちしまし――キャッ!」
董卓の軍師として、また文官の纏め役としての賈駆に近づかなければ仕事にはならない、そう進言しようとした王方のタイミングに重なって侍女がお茶を運んでくる。
まさかそこまでベタじゃないだろう、と考えた俺が浅はかだったのか、たまたま顔の前を飛んでいった蝶に視界を奪われた侍女は、何も無いところで躓いてしまった。
――ご丁寧にも、王方にお茶をぶちまけて。
「…………」
ぽたぽた、とお茶も滴るいい男となってしまった王方は、頭を下げて謝る侍女を宥めて無言のままに張遼達と同じ距離まで下がってしまった。
ごくり、と喉を鳴らしたのは誰だったか。
自然に目配せをしあった牛輔と李粛が、立ち上がる。
「あ、あー! そういえば僕急ぎの仕事があったんだー! さ、先に行くか――キャウンッ!」
「……そういえば、俺も急ぎの件があったな。先に朝食に行かせて――ブグフゥッ!」
だが。
足早にその場を去ろうとした李粛は零れていたお茶によって足を滑らせてしまい、強かに腰を打ち付けて。
李粛につられるように朝食を取りに行こうとした牛輔は、割れた茶器を片付けにきた侍女が開けた扉によって顔を打ち付けられた。
となると当然、残りの一人である俺へと視線が集まる。
またまた謝る侍女を宥めて張遼達の場所へと下がった牛輔と起き上がった李粛までもが、俺の一挙一足を見つめている。
背後からの無言のプレッシャーに、ガタリ、と席を立つ――何も起こらない。
一歩、席から離れて賈駆を見る――何も起こらない。
一歩、賈駆に近づくか離れるか悩むが、近づいてみる――賈駆が息を呑むが、何も起こらない。
一歩、二歩、三歩と賈駆に近づいていく――が何も起こることはなく、さして何もないままに俺は賈駆の元へと辿り着いた。
「…………何にも起こらないじゃないか、むっちゃ緊張したのに。大体、どれもこれも偶々だよ、偶々。運が悪かっただけなんだって」
俺に何も起こらなかったことで驚愕の色に染まる賈駆や董卓達に視線を向けながら、やれやれ、と賈駆から離れていく。
たまたま偶然が重なっただけじゃないか、俺が吹っ飛んだのだって人災と言っても間違いではないし。
そう考えながら先ほどまで座っていた椅子まで離れた時、それは飛んできた。
「あ、危なぁぁぁぁいッ!」
牛輔が顔を打ち付けた扉、侍女が顔を冷やすものを持ってくる、ということで開けられたままのそれから、唐突に一つの陰が飛来する。
それは空気を切り裂き、その先にいる陳宮目掛けて飛んでいた。
「ヒィッ!」
その先にいる陳宮にはそれが何かが分かったのか、驚き、怯えた声を上げたのだが。
「……フッ!」
その横にいた呂布によって、ソレは蹴り上げられたかと思うと、広間の天井へと深々と突き刺さった――刃は潰されているとはいえ、あの軌道でいけば人へ突き刺さってもおかしくはないであろう、剣が。
広間の扉から見える庭にて、早朝鍛錬をしていた武官の手が滑って飛んできたということなのだが、その軌道は明らかにおかしかった。
あれかな、不思議な世界だから万有引力とかないのかなここは、と思えるぐらいに。
へなへな、と腰を抜かした陳宮だったが、己を持ち直したのか、何故だか俺を睨み付けてきた。
何だ何だと思ってみれば、陳宮以外にもみんなして俺を見ていた。
いやもしかしたら俺の後ろにいる賈駆かも、とも思って振り返ってみれば、どことなく頭痛を抑えるような、嫌そうな表情で俺を見ていた。
えっ、マジで俺何かした?
と再び振り返って董卓達を見やれば、歯がゆそうな董卓と張遼を押さえて、呂布が前へと進み出た。
そして、その可愛らしい唇から零れ出た言葉は、俺の今日を幸せなのか不幸なのかよく分からない境地に叩き落とすものだった。
「……詠が、一刀といれば、解決?」
かくして俺、北郷一刀はアンチ不幸のスキルと、不幸キャンセラーの称号を手に入れたのだった。
**
「なんであんたなんかと一緒に……月、ボクに恨みでもあるの?」
「その不幸体質に関して言えば、恨みの一つ二つあるんじゃないか? 今朝の件で陳宮にも一つ出来ただろうし」
今日一日、北郷一刀と賈文和は離れずに仕事をすること。
我らが主である董卓がそう任じたからには、それは守り行わなければいけないことではあるのだが。
その任を不服としてか、それともただ単に俺が近くにいるのが気にくわないのか、広間で解散した後にとりあえず部屋に行こうと廊下を歩いていると、隣を歩く賈駆からの愚痴攻撃に早くも心が折れそうだった。
あの後、賈駆からある一定の距離でアンチスキルが発動することが判明した結果、まず始めに俺の取り合いとなった。
張遼と華雄が俺を調練に連れ出そうとすれば、董卓と王方がそれを引き留め、酷い目にあった陳宮と呂布が俺と散歩したいと言えば、牛輔と李粛がそれをさせじと動いた。
もてもてである――もてもてではあるのだが、何だか嬉しくないぞー。
そして、結論が出ぬまま出仕の時間となった時、本当に珍しく閃いたかのように放たれた呂布の一言によって、董卓が決断したものであった。
「うぅ……そりゃ確かに、お茶掛けちゃったり服汚したりしたのは一度や二度じゃないけどさ。ボクだって、好きでしてるんじゃないし……」
あの董卓であるからして、恐らくではあるがそれぐらいで怒るようなことはしないだろうというのは、よく分かる。
かといって、それで全てが我慢出来る、というわけでもないのもよく分かる。
あれだよね、顔はニッコリ笑っても心で怒るって結構出来るよね。
とまあ考えてみても、賈駆の不幸体質が消えるわけではないのでここで止めておく。
目下として、まず解決しなければならない問題があった。
「それで……どっちの部屋で仕事する?」
「……仕方がないけど、あんたの部屋にしましょう。多分、ボクの部屋はまだ片付けられてないでしょうから。…………一つ言っておくけど、変なことしようとしたらただじゃおかないわよ」
じろり、と睨み付けられながら言われた言葉に反射的に、出さないよ、と口を開こうとしたのだが。
何故だかさっきより鋭く睨み付けられてしまえば、その気も無くなってしまった。
結局、文官や侍女の協力もあって俺の部屋に机と椅子、賈駆の仕事を運んできて両者共に仕事を行うこととなったのである。
いつもなら俺の補佐という形でいてくれる王方も、先ほどのことがよっぽど応えたのか部屋に立ち入ることはなく、ある程度の量を纏め終わったら侍女に持っていってもらう、という形で仕事は進行していった。
先に分類等はしてくれていたらしく、予想していたよりも苦労することなく進んでいくのだが、先ほどよりどうにも不可解な視線を感じていた。
視線を感じて顔を上げてみれば、そこには竹簡に向き合う賈駆がいて誰かが見ている訳でもなく。
気のせいか、と竹簡を見れば再び視線を感じて顔を上げる。
だが、そこにはまたしても竹簡を見る賈駆しかおらず、俺はただただ首を傾げるばかりであった。
不幸スキル大が発動中の賈駆の恐ろしさを身を以てしっているのか、アンチ不幸を持つ俺が近くにいるとはいえ侍女と文官以外誰も近づこうとしない部屋は静かで、カロカロ、と竹簡を纏める音と筆を走らせる音以外には何も聞こえはしなかった。
いつからか、そこに雨の音が混じっていることに気付いた時には既に日が暮れる時間帯であり、どうやらいつもより集中して仕事をしていたらしい。
視線の先にいる賈駆も同じらしく、俺が背中を伸ばすと同時にパキポキと鳴る骨の音に導かれて、俺達は視線を交わしあった。
「……昼飯食べ損ねた」
「大体片付けられたわね。月に判を貰わないといけないのもあるから全部ではないけど、いつものこの日なら全然仕事は進まないのに」
腹減ってる時って、自覚すると凄いお腹が減るよね、今の俺がまさにそれ。
ぐぎゅるるる、と盛大な音を立てて飯を寄越せと訴える腹をさすりながら、大体の仕事が終わったので、と片付けを始めていく。
王方も、今日はこれぐらいでいいだろう、なんて言ってくれたから大手を振って片付けることが出来たのは、とっても嬉しいことであった。
だから、気が緩むというのは仕方がないということである。
アンチスキルが緩んでしまったのも仕方がないのだ――どうやって使い分けるとか知らんけどさ。
「さあさあ、賈駆様も北郷様も一息ついてお茶にしませんか? 美味しいお饅頭もありますよ」
なんて言いながら、ニコニコとお茶とお菓子を持ってくる侍女を見やりながら、ふと彼女に見覚えを感じてしまう。
ええとどこで見たことが……ああ、王方にお茶を…掛け…た……侍女?
そこまで思い至って、疑問を感じてしまう。
何であの人またお茶運んでんの、と。
そりゃ確かに、最初にお茶を零したのは彼女で、それは賈駆の不幸スキルのせいだと言っても過言ではないかもしれないけども。
それでアンチスキルを持つ俺が近くにいることで不幸スキルの心配をしなくてもいいかも、なんて思うのも無理はないかもしれないけども。
何となく嫌な予感がしてしまうのは、人としての本能か、はたまたこの世界で培った勘なのか。
これから待ち受けていそうな光景を不意に想像してしまい、背筋が冷えてしまう。
慌てて止めようと口を開けようとするのだが、ちょっと待て、と考えてしまう。
ここで声を荒げれば驚いて転けてお茶をひっくり返すパターンではなかろうか。
ならば、と静かに声を掛けようと思い口を開くのだが。
「あっ! ちょっと、あんたが運んだらまたお茶が零れるじゃないッ!」
どこまで不幸なんですか、少し考えたら分かるじゃないですか、そもそも俺のアンチスキルは既にオーバーフローして一杯一杯なんですか、などなど突っ込みたいことは山ほどあったが、とりあえずやることはただ一つ――被害を受けないように机の上の書類を抱えて机の下に避難する、ただそれだけである。
「えっ! あ、申し訳ありませ――あぁぁっ! お饅頭が!」
賈駆に怒鳴りつけられた侍女がビクリと反応し、それによって詰まれた饅頭がこぼれ落ちそうになるのを必死で止めようとして――までを確認した俺は、慌てて机の下へと非難した。
だから、そこから先の展開は視界に入れることは出来なかったのだが、その光景は容易に想像出来てしまったのだ。
「え? なっ! こ、こっちに来るんじゃないわよッ!? って、きゃぁぁぁぁ!」
「うわわわわぁっ! 賈駆様、避けてぇぇぇ!」
ドンガラビシャァゴンガッション、という謎の音を響かせて、恐らくは転けてしまったであろう侍女とその被害を受けたであろう賈駆を思いながら、静かになった部屋を見渡すために机の下から顔を覗かせる。
先ほどまで綺麗に積み重ねられていた書類は無惨にも崩れ落ち、しとしと降る雨の湿気によってゴミなどを吸い付けながらぐちゃぐちゃになっていた。
そこから視線を進ませれば、これまた綺麗に詰まれていた竹簡は崩れており、どんな不幸だよと言わせたいのか、竹を纏めていた紐が切れてばらばらになっていた。
そこから先、机に頭をぶつけたのか侍女が目を回して気を失っており、その足下には一つの潰れた饅頭が散らばった書類を汚していた。
そして極めつけといえば、机の傍でお茶塗れになった賈駆と、同じようにお茶をぶちまけられた机の周りにあった書類と竹簡だろうか。
何をどうすれば、と言いたくなるように見事にお茶によるシミを作りだしている書類の上で、饅頭がこれまた何故か割れて中のアンコが絶妙なアシストをしていた。
目を覆いたくなるような惨状、だけどそれは憚られて。
ぷるぷると震える賈駆に、俺は何と言っていいのか、と言葉を探した。
「…………んた………よ」
そこでふと、震えながらも賈駆の口がぶつぶつと何かを紡いでいることに気付く。
それは、初めは聞き取りにくいほど小さなものだったのだが、段々と大きくなるにつれて形取っていく。
「あんたの…………あんたのせいよぉぉぉぉッ!」
だから、その声が形となって俺へと降り注いでくると、俺は反射的に口を開いていた。
「ええぇぇッ! り、理不尽だッ!?」
「ボクはあんたのせいで不幸なのよッ! あんたがいなければッ!?」
「俺悪くないよッ!? 俺いなかったらみんなが酷い目に――」
「やっぱりあんたのせいだぁぁぁ!」
「何でだよッ?!」
ジャイアンでももう少しマシ……だったような、じゃなかったような、と思えるほどの持論を展開していく賈駆から逃げつつ――もちろん書類と竹簡は被害の及ばない位置にまで避難させた――どたばたと部屋の中を走り回る。
やり直しがほぼ決定しているからか、丸められた竹簡を惜しげもなく投擲する賈駆には恐れ入るが、お茶に濡れたまま走られるのには遠慮願いたい――ここ俺の部屋だぞ。
もちろんそんなことに賈駆が気付く筈もなく――気付いててわざとな気もするが、俺達の狭い追いかけっこは侍女と同じようにお茶を運んできた王方が来るまで続けられた。
ちなみに。
ドロドロのグチョグチョのヌメヌメのゲロゲロという成れの果てとなった竹簡と書類はすぐさまに破棄され。
賈駆と、何故だか俺の二人は翌日の日が昇るまでその再生に尽力したのであった。
一言だけ言わせてもらいたい。
――今回一番不幸だったのって、俺じゃね?