「これは一体どういうことだ……?」
洛陽に元太守を送り届け、返す足で故郷を守りたいという勇士にて結成された三百人の軍勢を、牛輔が率いて安定に辿り着けば、そこにいるであろう黄巾賊の姿は無く、黄巾の切れ端が舞い散るだけだった。
万はくだらまいと思われていた賊徒はどこにも見えず、安定の城壁には戦いの痕こそ残されているものの、城壁が賊徒に破られたとは考えにくい。
ならば城門からか、とも思ったのだが、あの幼馴染みがそう簡単にそれを許すはずもないと一蹴する。
周囲の勇士に視線を配ってみても、同じように動揺しているのか、行動を決めかねている様子がよく分かる。
元々戦の無い地方だった安定では、満足な経験を得る機会など賊討伐ぐらいしか無かった。
訓練はある程度こなしてはいたのだが、無能な元太守がその必要性を感じ得なかったために、それもたかがしれていた。
故に、簡単に動揺してしまう兵が出来上がってしまったのだが、この勇士にしても数十倍になろうかという黄巾賊に相対する勇気は持っていても、その他の兵と同じであるのだ。
かく言う牛輔も、その人並み以上の膂力とある程度の智があったからこその隊長ではあったのだが、経験不足は否めなかった。
数十倍の黄巾賊相手に激戦、下手をすれば、それこそ下手をしなくても全滅の可能性があっただけに、覚悟を決めてきた側からすれば、些か拍子抜けではあった。
既に黄巾賊が安定を占領し、周囲に伏兵を配しているのかと偵察を放ってみても、特に異常は無かった。
「……埒があかんな。これより安定に接近する! 者ども、気を抜くなよッ!」
周囲に問題は無い以上、現在の状況からすれば中に問題があるのやもしれぬ。
そう考えた牛輔は、安定に接近する部隊と、いざというときの場合にそれを援護する部隊とに、二つに分ける。
もし中から黄巾賊が襲ってくれば、接近した部隊が盾となりて、残りの部隊で周囲の諸侯へ援軍を呼びにいくためだったのだが。
城門を確認出来る位置にまで移動した牛輔達は、そこでさらに驚くことになる。
城門が開けられているのだ。
夜間は賊の突然の襲撃を防ぐために閉じられる城門だが、攻められた時も当然それは閉じられることになる。
万に及ぶ黄巾賊を数百の新兵しかいない現状で守るのであれば、それは頑なに閉じられているのだろうと思っていたのだが、それを裏切られる形で、牛輔の目の前で城門は開かれていた。
一体どういうことだ、と再び小声に出した牛輔だが、その問いに答えられる者はその場にはいるはずもなく、その場にいても仕方がないと警戒しながら城門へと近づいていく。
そして城門を眼前にしようかという手前、一人の少年が牛輔の前へと歩み出た。
「牛輔様ですね? 私の名は北郷一刀、李粛様と我が主、董仲頴の命によりお出迎えに馳せ参じました」
**
牛輔が安定に入城する数刻前に、話は遡る。
森を抜け出た俺達は、城門前で待機していた呂布と陳宮を連れて、当初の予定通りに安定へと入城した。
徐栄の言で、董卓軍の首脳たる人物達が入城するのに、天下無双の呂布を連れていないのはおかしいだろうと言うことで待機していたらしいのだが、彼女達も董卓と賈駆が襲われたのを知っているのか、何処か心配した風であった。
だから、何故守らなかったですかー何のための護衛なのですかー、と某仮面のヒーロー的な跳び蹴りを俺にみまう陳宮には何も言うまい。
元々軍師である筈なのだが、何故だかそんな所だけ運動神経のいい陳宮の蹴りを受けつつ、今度その跳び蹴りの技名でも教えてあげよう、などと考えていた。
華雄は既に軍を連れて先に入城しているらしいのだが、天下無双の士を連れて入る、という案によく賛同したものだと思っていたのだが。
そんな俺に、徐晃がくすりと笑いながら教えてくれた。
「私があなた方のお迎えに上がる際に、父上が声を掛けられまして。董卓軍最強の将が軍を率いておらねば安定の民が不安に思うのは必定、ならばこの任は貴殿にしか出来ぬこと、と言い含められておいででしたね」
「ああ……なんとなく想像出来る」
徐栄に言い含められて、ならば自分が行くしかあるまい、と意気揚々と軍を率いて安定に入っていく華雄――想像に難くない。
実際、華雄もそうとうに綺麗な女性であるためにそういう体裁でも見栄えはいいのだから、それも正解ではある。
あの猪突ささえなければ勇将として名を馳せるだけの人物ではあるのだが――
「まあ……そこが華雄殿らしいと言いますか」
――無理だろうな。
くすくすとポニーテールに纏められた金髪を揺らしながら笑う徐晃から視線を移せば、安定の民から熱烈に歓迎されている董卓がいた。
馬は一通り華雄が連れて行ったので徒歩での入城となったのだが、董卓の姿を見つけるやいなや、街からは声が爆発したと言えるほどの歓声が鳴り始めたのだ。
そして、城門から城へと続く道を歩けば出てくる出てくる、多くの民が董卓へと声を掛けているのである。
ありがとう、助かりました、命の恩人です、お姉ちゃんキレー、という感謝の言葉のみならず、うちの倅の嫁に、いやいやうちの甥の嫁に、てやんでぃ俺の嫁に、などなど。
それらの言葉に、董卓は笑いながら応えていた――後半部分は賈駆に怒鳴り散らされていたが。
それでもなお掛けられる感謝の言葉に、渋々ながらも賈駆も応えていくのである。
「さて……そろそろ先を急がねば、華雄殿が突進しかねませんね。月様達を急がせますので、北郷殿もお急ぎなされよ」
「ああ、分かったよ、琴音」
そう言われて気付いてみれば城への道程は遠く、今のペースでは日が暮れてしまいかねない。
俺の了解の意を受け取った徐晃は、その歩調を速めて董卓と賈駆の元へと急いだ。
そして彼女が俺より離れると、何故だか唐突に視線を感じた。
ふと気になって周囲を見渡しても、何故かいじける張遼以外には特に変わったことはない。
そうかと思えば、先ほどよりも多くなった視線を感じた気がして、ふっと後ろを振り向く。
「……?」
しかし、それでも誰が見ているのか分かることはなく、まあいいか、と隣を歩いていた張遼へと声を掛ける。
「……んで? 何で霞は拗ねてんの?」
「……拗ねとらんわ。誰も、折角真名教えたのに何で琴音とばっかり話すねん、とか思ってへんわ」
「……それは世間一般で言えば、拗ねてるって言うんだよ」
ふん、と。
まるで、私は怒っていませんよプーンだ、と子供のように拗ねて頬を膨らませる張遼に苦笑しつつ、先で俺達を待つ徐晃へと視線を向ける――のだが、董卓と賈駆に言い寄る男達を千切っては投げを繰り返しながら、饅頭や肉まんの匂いに誘われてあっちへふらふら、こっちへふらふらする呂布を陳宮と二人がかりで押さえようと奮闘する彼女が見えた。
ちらり、とこちらを見た視線が、早くしろよ、と語っていたのは決して気のせいではないのだろう。
「…………霞、今度酒奢るから早く行こう?」
じゃないとヤバイ、俺の首が。
未だ徐晃の人となりがどんななのかは掴みきれていないが、董卓軍の他の面々からみるに、一度噴火したら手も付けられなさそうなのは目に見えている。
その噴火したのが俺に降りかかるというのも、既に承知している。
だからこそ、出来るだけそれは未然に防がないといけないのだ。
隣にいる霞もそれを分かってくれたのか、渋々といった形で頷いてくれた。
「……しゃーないなぁ。……琴音怒らすと後怖いし」
それを見た俺は、よし、と徐晃を手伝うために走り出したので、張遼が呟いた言葉を聞き取ることは出来なかったのだが。
首筋がひんやりとしたのは気のせいだったということにしておこうと思う。
そして、やっとこさ安定の城へとたどり着くことが出来た俺達は、そこの文官に案内されるままに付いていくのだが、その目的地が中庭であるということを聞いて、首を傾げる。
この時代の人間ではない俺が知るはずもないのだが、こういう場合って広間で顔合わせて感謝の言葉を贈ったりするんじゃななかろうか、と。
そのことを案内してくれる文官に尋ねてみるのだが、返ってくるのは苦笑と曖昧な言葉ばかり。
含みをもたせるでもなく、ただただ申し訳なさそうなその雰囲気に、俺はさらに首を傾げることになるのだが。
開けた中庭が視界に入った時、その謎は氷解した。
「でやぁぁぁぁぁぁッ!」
「甘いわッ! おらおらおらぁぁぁぁッ!」
二人の女性が、勢いよく戟を交わし合っていました。
一人はよく知る華雄だというのは分かる。
普段使っている大斧ほどではないが、それでも重量のある大斧を模した模擬刀を、軽そうに振るい回している。
対する少女も、一般の兵が使うような模擬刀で上手く華雄の攻撃を捌いていく。
胸と腰回りだけという、ある意味華雄よりも危険と評せる服装から覗く健康的な肢体を元気良く振り回して、右へ左へと攻撃を避けながら華雄へと反撃していく。
その際に、その胸が縦へ横へと激しく動いているのは、きっと俺が疲れているのだということにしておいた。
「李粛様! 董卓様が来られ――ああもう、聞いてないし」
申し訳ありませんが少し待っていただけますか、そう言ってその場を去っていった文官の背を見送りながら、ああだからばつが悪そうだったのかと理解した。
徐晃から、安定の指揮を執っていたのは李粛という少女であり、安定でも名門で知られる李家の代表であると聞いていた俺は、粗相がないように気をつけなければいけないと思っていたのだが、華雄と相対する少女はそんな人物には見えない。
だがしかし、三合、四合と華雄と戟を重ねる少女が安定の指揮を執った李粛ということは分かったのだが、何故に華雄と打ち合っているのかが理解出来ない。
ならば、と俺はその理由を知っているだろう人物へ話しかけることにした。
「……それで玄菟殿、これは一体どういうことでしょうか?」
「いやなに、そなたたちが来るまでの間、暇だと李粛殿が言われてな。それに華雄がならば、と答えたまでよ」
ああなるほど華雄なら言いそうだな、と納得してしまうのがどうなんだろうとは思ったのだが。
ふと気になって、徐栄へと尋ねてみる。
「……ちなみに、防衛の指揮を執った者と、援軍に来た一将軍が会談もせずに戟を合わせるって、いいんですかね?」
「…………」
中庭を望む石の上に腰を下ろして華雄と李粛の仕合を見ていた徐栄へと声をかけるのだが、俺の追求に額から汗を流しながら視線を俺からずらした。
ようするには、駄目だと思う、ってことですよね。
はてさてどんな問題が湧くことやら、と溜息が出てしまうが、そんな俺達に気づくことなく華雄と李粛の仕合は佳境を迎える。
とはいえ、祖父が溜め込んでいた兵法書やらの中に埋もれていた三国志に関する書物は読んだものの、あまりに膨大な内容だったためにいまいち覚えていない俺の知識の中でも、李粛という武将がそれほど有能だったとはない。
華雄といえば、反董卓連合を組まれた際に汜水関という要所の守将を務めるだけあって優秀だったのだろうから、その結末はだいたい読めたものだった。
華雄の横撃を屈んで回避した李粛は、そのバネを利用して一気に華雄の懐へと攻め入った。
そのままの勢いで華雄へと斬りつけようとする李粛だったが、不意に華雄がその顎を狙って蹴り上げたこともあって脚を無理矢理に止めてしまう。
そこを、一度振り切っていた模擬刀を切り返すことによって、華雄は李粛の模擬刀をはじき飛ばしたのだった。
「……ふっ、これで私の三連勝だな」
「三戦も?! やり過ぎでしょう、葉由殿!」
どんだけやってるんだよ、どんだけ戦うの好きなの、何で徐栄止めないの、等々色々言いたいことがあったのだが、ぱたぱたと手に何かを持って駆けてきた文官にそれを止める。
「ああ、ようやく終わってくださいましたか、李粛様。いよいよ水をかけねばならないかと思ってましたよ」
「え~、だって面白かったんだもん。まあいいや、それで、誰が董卓さん?」
「へぅ、わ、私が董卓です。董仲頴と申します」
「ふぅん……董卓さんって綺麗だね」
「へぅっ! そ、そんな私なんかより詠ちゃんや霞さん達の方が!」
ちっかけ損ねたか、とぼそぼそと呟いた文官に背筋を冷やしながらいると、中庭ではあるがようやっと会談が始まった。
まあ、会談というよりも顔合わせ的なものなのだが、ぐるりと俺達を見渡すと、李粛は頭を深々と下げた後に笑みを浮かべた。
「僕は李武禪。今日は助けに来てくれてありがと、兵と民もとっても感謝してるよ!」
もちろん僕もね、と付け足した彼女は、とりあえずこんなところではなんだから、と広間へ移動しようと持ちかけるのだが。
溜息をついたその時の文官の気持ちをが手に取るように理解出来る。
なら初めからいてくれよ、と。
出会って少ししか経っていないが、あの李粛の性格から言えば相当苦労してるんだろうな、ってのがよく分かる。
董卓軍にも全く考えずに動く人達がいるしな。
妙な親近感を抱きながら移動を始めた俺達だったが、そんな時だ、安定の兵から一つの報告が入ったのは。
洛陽へと行った軍の一部隊が帰ってきた、と。
**
「――という訳でして、恐らく暇であろう俺が僭越ながらお迎えに来た次第でございますよ」
「それは、何というか……感謝いたします、北郷殿」
董卓と賈駆は当たり前として、他の面々も戦功論賞などの関係から手が離せないとあって、特に功を上げるでも無かった俺がその部隊と相対することになった。
洛陽へ行った軍の装備をした黄巾賊ではないか、という危険性もあっていざというときには城門を閉ざし兵を動かすことも構わない、ということではあったのだが、向かい際に李粛から伝えられた牛輔の人物像が見事に一致していたために、それも杞憂であった。
『黒くて短い髪で、こーんな目してでっかい剣持ってるから、すぐ分かると思うよ』
指でつり目をしながら牛輔のことを教えてくれる李粛に、どんだけでっかい剣なんだよ、と苦笑していたのだが、いざ目にしてみれば確かにでっかい。
でかい、でかいにはでっかいんだが――まさか人並みにでかいとは思わなんだ。
刃の全長だけで人並みにでかく、持ち手を入れれば優に頭一つ分はでかい。
横に並んで歩くだけでその威圧感に気圧されそうになるのだが、それを持つ本人は何処吹く風で易々とそれを持ってのけていた。
「……常であれば、客人と言っても過言ではない貴殿に出迎えさせるなど言語道断なのでしょうが。何分、今は人手が足りておらず……面目ない次第です」
「いえいえ。こちらこそ、俺なんかの身分で差し出がましいことをしてやいないかと、心配していたところです。それを許してもらえるのであれば、全然構いませんよ」
でも、いえいえ、ですが、ですから。
そんなことを言い合いながら、ふと気づけばいつのまにか城へとたどり着いていた俺達は、歩いていた文官に董卓と李粛がどこにいるのかと問いかけ、示された部屋へとまた進んだ。
その時に、とは言わず安定に入った直後から様々な人が牛輔に声をかけるあたり、彼が慕われているというのがよく分かる。
まあ確かに男の俺から見ても格好いいんだけどさ。
短く切りそろえられた髪は浅黒く焼けた肌によく合っており、その巨大な剣を振るう二の腕は引き締まっていながらも十分に太い。
歴戦の戦士といった精悍な顔立ちは、貫禄さえ感じさせた。
「……牛輔様をお連れいたしました。…………?」
そうこうしてる内に示された広間の扉へとたどり着いたので、俺はノックをして入る旨を確認したのだが、一向に返事がない。
もう一度してみても同じであるから、背後にいる牛輔を振り返ってみるのだが、彼も分からない顔をしていた。
まさか城まで黄巾賊が襲ってくることはないだろう、と思ってはいたのだが、もしやと思い扉を開ける。
が、そこには董卓含め全員がいたのでそれも杞憂だったか、と安堵するのだが。
ならば何故誰も返事をしないのだろうか、とふと疑問に思う。
そして視線を移してみれば、皆が一様に驚いた顔をしており、その視線はニコニコと笑う李粛へと向けられていた。
いよいよよく分からないな。
かと言って、俺が李粛に問いかけるのもあれかと思ったので、一番近くにいた陳宮へと声をかけてみた。
「公台殿、これは一体どうされたのですか?」
「……」
だがスルー。
仕方なくその横の呂布へと視線を移してみるのだが、難しい話が続いていたのか、くー、と可愛い音を立てて寝ていた。
「……おい、陽菜。これは一体どういうことだ?」
がっくし、と肩を落とした俺から視線を外した牛輔が李粛へと問いかけると、今気づいたのか、笑みをいっそう深めて李粛が笑った。
「あっ、子夫、帰ってきたんだ! お疲れさま!」
「ああ、ありがとう。……それで、質問に答えろよ」
陽菜、というのは李粛の真名なのだろう、彼女を表す最良の言葉じゃないだろうかと思ってしまった。
そして、子夫、というのが牛輔の字なのか、とも。
前漢に衛子夫という皇后がいたのだが、それとは何か関係があるのだろうかなどと思っていたら、李粛の口からとんでもない言葉が飛び出してしまった。
「どういうことと言われても、僕は普通のことを言っただけだよ? 安定を董卓さんの下に付かせてくださいって」
「…………は?」
と、ついつい変な声が出てしまったのだが、続く牛輔の言葉にさらに驚いてしまう。
「あ、それは俺も賛成。……ああ、だからこうなってるのか」
「えぇぇぇっ!? 何でそんなにあっさりと?! 簡単に決められることでは無いでしょう!?」
ちょっと冷静に考えてみよう。
元々、太守という役職は後漢王朝によって任じられるものである。
ある者は力で、ある者は金で、ある者は徳で得るものではあるのだが、根本的にはそういうものであり、それ即ち後漢王朝からの管理代行という形となる。
だから、どんなに地方であろうとそれを勝手に決めるのは後漢王朝への叛意に他ならず、勅命を受けた軍勢が襲いかかってくる可能性も否定は出来ないのだ。
「そんなに難しく考えるものでもありますまい。太守兼任、代行、どうにでもなります。さらには、いつ黄巾賊に襲われるやもしれない街の太守など、野心無くばいらないものでしょう。すんなり収まりますよ」
「…………確かに、今の状況であれば上手くいくかもね。石城だけではどうしても物資や情報の交流が閉塞してしまうから、受け入れてもいいのかもしれない」
「……ですが、それをすれば片方ばかりに注力する訳にはいかないのですぞ。石城を富ませ、安定をも富ませる。資金物資には限りがあるため、難しいとは思うのですが……」
牛輔の言葉に段々と思考が落ち着いてきたのか、董卓軍が誇る軍師、賈駆と陳宮が善手を打つために模索を始めていく。
確かに、石城は彼女達のみならず、張遼や華雄の働きもあって治安もよく、発展していると言える。
だが、十分というわけではない。
こんなご時世であるためか、噂を聞きつけた難民は後を絶たず押し寄せて来るのだが、受け入れられる数には限りがある。
元々それほど大きくない石城であるからして、その限界値は小さいのだ。
かといって、規模を拡大しようにもそれだけの人員も資金も物資すらない。
そのため、現状手詰まりであった状態なのだ。
さらには、牛輔も言っていたが人員不足というのもある。
安定の主たる文官は後漢から派遣されていた太守と同じであり、彼が洛陽に帰るということもあって大多数が付いていったらしい。
先ほどの文官などは安定の生まれのために残ったらしいのだが、数人だけで街を動かせるわけもなかった。
だからこそ、安定は董卓の名の下に下ると言うのだ。
加えて、董卓軍には文官たる人物があまりにも少ないのだ。
賈駆と陳宮、本職ではないが経験から李確と徐栄も出来るのではあるが、それではあまりにも少なすぎる。
一応、最近では俺が手伝ってはいるのだが、何分今いち読み切れないためか、そこまで役に立っているとは言い難い。
とまあ、色々模索はしてみるのだが、結局のところ董卓が決断しなければ話にはならない。
賈駆も陳宮も、他の面々もそれを分かっているために董卓へと視線を移すのだが、そんな視線に答えるかのように柔らかくほほえんだ彼女は口を開いた。
「詠ちゃん、困ってる人達が頼ってくれてる……。私は、それを救いたい」
「……分かったわよ。ボクは月を補佐するからさ、思ったことをすればいいと思うよ」
それに、手伝ってくれるのはボクだけじゃないしね。
そう言って周囲を見渡す賈駆に、そこにいた殆どの人が頷く。
若干一名、未だお休み中ではあるのだが。
もちろん、俺へと向いた視線がにやりと笑うのを、俺もにやりと笑いながら頷いて返した。
あの日の夜に聞いた董卓の言葉。
力があれば守れたかもしれない、救えたかもしれない。
でも、それはきっと儚い願い。
どんなに力を得ても、守りきることは出来ないことは俺がよく知っている。
どれだけ力を得ても、全てを救うことは出来ないことは俺が体験している。
それでも、俺はその願いを守りたいと思った。
彼女が作る笑顔を、守りたいと願った。
きっと、これからも人を殺めなければならないだろう、それは大変な苦痛だと思う。
でも、この時代でそうすることでしか守れないというのなら、俺はどんな思いをしてでもそれを守ろうと思う。
辛くても、苦しんでも、傷付いても。
帰れる居場所がある、守りたい笑顔がある、だから俺は――
「うん、皆さん、ありがとう。……李粛さん、牛輔さん、これからよろしくお願いします」
「うん! こっちこそよろしくだよ!」
「戦うしか能のない私と陽菜ですが、どうぞこき使って下さいませ」
「ちょっと、子夫と違って僕は頭良いんだからね! 一緒にしないでよ!」
もー失礼しちゃうなー、とぷんすかと怒る辺りどうにも子供っぽい李粛に、その場に笑いがおこる。
一番笑っているのは牛輔なのだが、それを見た李粛が、むー、と怒るのだから分かってやっている風である。
それでも、李粛がみんなの笑いにつられて笑い始める頃にはその怒りも収まっているのか――ビシビシ叩いている辺り、そうでもないらしい。
痛い痛いという牛輔の必至さが、李粛が本気だということを理解させた。
――歯を食いしばってでも、守り抜きたいと思う。
董仲頴、安定を得て勢力を広げる。
その報は、瞬く間に各地へと散っていった。