女は訊ねた。
「あなたは私を捨てるつもり? 今まであなたに尽くしてきた妻の私を」
「そうだ」
男は答えた。「お前はもう私の妻ではない。お前は私に従おうとしなかった。私に従うことをよしとせず、他の男のもとへ走ったのはお前の方ではないか。なぜ今さらそのようなことを訊くのだ」
男の言葉には、かつて愛した女への非難が込められていた。女は唇を噛み、鋭い眼差しで男をにらみつけた。
「私が悪いというの? あなたに従うことを強要され、拒めばそれが私の罪だなんて……傲慢な人ね。あのひとにそっくりだわ」
「私が傲慢なのではない。お前が不遜なだけだ。お前はもとより、私にはふさわしくない女だったのだ」
「だから代わりの女を用意してもらったというわけ?」
「そうだ。あのお方は私のために、私にふさわしい女を創造して下さった。イヴ、こっちにおいで」
男が後ろを振り向くと、そこに娘が一人立っていた。今まで木の陰に隠れて会話を聞いていたのだろう。にらみ合う二人よりいくらか年若の、美しい娘だった。
「……その娘が今のあなたのつれ合いね。綺麗な娘だこと。まるでお人形さんみたいじゃない」
女は憎々しげな目で娘をねめかけたが、娘は口を開かない。ただ柔らかな微笑みを浮かべて女を見つめていた。
他の二人と同じように、娘も己の身にまとうものを何一つ持っていない。裸足で地面の草を踏みしめていた。
男は傍らの娘より半歩前に出て、強い口調で女に言った。
「去れ、リリス。私はもはやお前の夫ではなく、お前はもはや私の妻ではない。お前は悪魔に魅入られた魔女だ。魔女は人ではなく悪魔のもとへ行くがいい」
「殺してやる」
女は吐き捨てた。さして大きくはないが煮えたぎる憎悪を内に秘めた不気味な声に、男は身構えて娘を守る仕草を見せた。
「私に仇なす気か、夜の女。そのような行為を、あのお方がお許しになるはずはないぞ」
「あなたが駄目なら、その女を殺すわ。肋骨からつくられた泥人形の分際でアダムと夫婦になろうだなんて、絶対に許せない。そいつを殺してあなたを取り戻す」
女の瞳の中には、狂気にも似た暗い嫉妬の炎があった。いかに正しく理を説いたとしても、怒りに我を忘れたこの女を翻意させるのは決して不可能だろう。狂人にはいかなる言葉も通じない。
(やれやれ。妬みというのは恐ろしいものだ)
三人から少し離れた林の中で、彼は軽く肩を竦めた。話し声がようやく聞こえるか聞こえないかというくらいの距離があるにも関わらず、女が放つ呪詛の言葉はこの上なくはっきりと彼の耳に届く。自然と口元が皮肉に歪んだ。
女は今にも二人に飛びかかりそうだった。嫉妬が憤怒に変わり、鬼と化した女を駆り立てている。女がその気になれば、目の前にいる娘の細い首を容易くへし折ることができるだろう。
女を止めるつもりはなかった。当人たちにとってはどれほど真剣な行為であっても、所詮痴話喧嘩に過ぎない。女が娘を八つ裂きにしようが、逆に返り討ちに遭おうが、傍観者である彼には大した違いもない。ただ遠くから憐れみの目で三人を眺め、破局の時が訪れるのを待った。
「殺してやる……殺してやるわ」
女は娘に狙いを定め、獣のように地を蹴った。男はそれを押さえようと前に出る。二人の身体が交錯しようとしたその時、突如として辺りに轟音が響き渡った。
「きゃあああっ !?」
女は吹き飛ばされ、空中で回転しながら地面に叩きつけられた。柔らかい草の上とはいえ、相当の衝撃だろう。女の体は大げさなほどにバウンドして、離れた彼のもとにまでその振動が伝わった。
(今のは……まさか、あのひとか)
何ごとが起こったのか、彼は瞬時に理解した。天から一筋の稲光が迸り、女を直撃したのだ。
「があああっ! い、痛い……それに熱いわ。いったい何がどうしたというの」
女は草の上で七転八倒し、情けなく泣き喚いた。肌のあちらこちらが焦げつき、黒い炭と化していた。強靭な肉体を持つ魔女といえど、流石に今のは堪えたと見え、狼の鳴き声にも似た悲鳴をあげてのたうち回った。
「己の罪を思い知れ、リリス」事態を把握した男が、女を見下ろして言った。「あのお方はお前が私とイヴに仇なすことを決してお許しにならぬ。お前が私の前から永遠に去らぬ限り、何度でもお前に罰をお与えになる」
「お、おのれ……!」
女は血走った目で男と娘をにらみつけると、両腕を大きく広げた。見る間に細い腕から黒々とした羽毛が生え、烏を思わせる漆黒の翼へと変わる。
「この恨み、決して忘れない。私はいつかあなたたちを殺す。それができないのなら、あなたの子供たちを殺す。その次の子供たちも同じよ。その子供も、さらにその子供も……いつかあなたたち二人の子孫を残らず殺して、根絶やしにしてやるわ」
「去れ、黒い魔女。悪魔のもとへ逃げ帰り、二度とその醜い姿を私に見せるな」
「いつか殺す。あなたもその娘も、子供たちも殺してやるわ。それと、私に雷を落としたあいつ! あいつにもいつか必ず思い知らせてやる。忌々しい────め!」
女は大きな声で何かを叫ぶと、黒い翼で羽ばたき飛び上がった。時折空中でふらつきながら、一直線に彼のいる林の方にやってくる。地面に下り立った女の羽が再び変化し、人間の腕に戻った。彼は目を細くして、裸の女に話しかけた。
「僕のもとに来たということは……決心がついたのかい?」
女は静かにうなずく。「ええ、もういいわ。私はアダムの敵になった。あなたがあいつに歯向かう存在であるように、私はあの男に仇なす存在になった。もうあの男はいらない。あの小生意気な小娘ともども、いつか必ず殺してやるわ」
「そうかい、わかった。僕らは君を歓迎するよ、リリス」
彼の差し出した手を女が握る。それは女が完全に彼の同類になったことを意味していた。
「じゃあ、行きましょう。この楽園を離れて、私をあなたの眷属が支配する土地に連れて行って」
「かしこまりました、お嬢様」
彼は女の手を引いて林の奥へと歩き出した。林の奥は巨大な木々が生い茂り、昼も夜もわからない暗い空間が広がっている。これが彼の住みかに通じる抜け道だった。
(それにしても、この女……一時は愛していた男を本気で殺そうとするとはね。嫉妬というのは恐ろしい……)
女を先導しながら彼は思った。愛情が嫉妬を経て狂気に変わり、愛する対象も自分自身も傷つけてしまう事例を、彼は目の当たりにした。
父に逆らい続ける彼は、己のことにも思いを馳せた。自分もこの女のように、何者かを妬んだがゆえに父の怒りを買ったのだろうか。あるいは、父そのものを妬んだのか。それとも、誰よりも偉大な存在だと思い上がった自分は、何者にも嫉妬しなかったのか。
(僕はあのひとに嫉妬したのか? それともしなかったのか?)
答えのない問いを己に投げかけながら、彼は女を連れて闇の中を歩いた。闇の中を歩き続けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(嫉妬か……)
悪魔の少年は、太古の記憶から現世へと意識を戻した。かつて彼が過ごした楽園の美しい風景は消え失せ、代わりに狭く散らかった店内の様子が視界を占める。彼が経営する小さなドラッグストアは常にがらくたで溢れかえっており、整頓という言葉とは無縁だった。
日頃、ほとんど客の来ない店の中は物音一つしないほど静かだが、今は少し事情が異なる。少年の聴覚がかん高い少女の声をとらえた。
「だからー、あれはあたしのせいじゃないってば。いつまでも同じこと言ってばっかでしつこいわよ、由香理」
「うるさいっ! いつまでも反省しないあんたが悪いんでしょうがっ! ひとの彼氏を寝取っておいて、いまだに詫びのひと言もなしってどういうことよ !?」
(あれ?)
少年は驚いた。自分の口が勝手に声を出したからだ。
しかし、それも一瞬のこと。我に返った彼は、自分が今どのような状態でいるのかを思い出した。現在の少年の体は、彼自身のものではないのだ。
(ああ……そういえば僕、由香理さんに憑りついたままだっけ。それにしても、自分の意思で体を動かせないっていうのはなかなか不自由なものだね)
人間を弄ぶのを日課としている彼は、先日知り合いの山口由香理という女子高生の体内に入り込み、由香理の体を乗っとろうとした。
ところが、予想外の事態が起きた。彼の戯れにより恋人を別の少女に奪われた由香理が激怒し、彼の支配魔法を撥ねのけてしまったのだ。たがが人間の小娘と侮っていた彼にとっては、まさに思いもよらぬことだった。
本来ならば由香理の体を乗っとり自由に動かしているはずの古き悪魔が、反対に由香理の中に閉じ込められ、抗議の声一つあげることができない。屈辱と言っていい状況だが、これはこれでそう悪くないと少年は考えた。
(まあ、誰もが僕の掌の上で踊るだけじゃつまらないからね。たまにはちょっとしたトラブルやアクシデントも必要さ。なに、僕が本気を出せば、いつでも由香理さんの中から脱け出せる……はずだ)
せっかく退屈を紛らわせてくれる不測の事態が起きているのに、あえて抗う必要はない。流れに乗って楽しめばいい。悪魔はそう考え、由香理の内に潜んで人間たちの会話にじっと耳を傾けた。
どうやら、由香理は先日友人の加藤真理奈が自分の恋人である安田士郎と性的関係を持ってしまったことを、いまだに恨んでいるらしい。カウンターの向かいに座る真理奈を執拗に非難していた。
(やれやれ……由香理さんも執念深いね。やはりこれも、嫉妬のなせる業なのかな)
由香理は充分に可愛らしい女の子だと少年は思っているが、真理奈は由香理と同い年とは思えないほど華やかな顔立ちと抜群のプロポーションを誇る美人であるため、士郎を取られてしまうのではないかと彼女が悋気するのも仕方の無いことかもしれない。
嫉妬──それは人間が抱く感情のうち、最も激しいものの一つだ。そして憎悪と並んで、特に始末に負えないものでもあった。
「士郎、あんたもわかってるの? さっきから自分だけ無関係って顔してさ。元はと言えば、あんたが浮気しなきゃこんなことにならなかったんじゃない」
由香理の怒りの矛先は、次に士郎に向けられた。士郎は由香理の隣のパイプ椅子に腰かけ、ぶすっと頬を膨らませていた。
「ああ、わかってるよ。俺が悪かったってあれから何度も謝ってるじゃねえか。お前もしつこいなあ」
「何よ、その言い方! 最近のあんた、升田先生とか真理奈とか、あたし以外の女の人とイチャイチャしてばっかりじゃない! 誰よりもあたしのことが好きなんだったら、あたしだけを見てよ!」
「いや、だからあれはあのクソ悪魔の陰謀のせいであって、俺は単にハメられただけ──」
「ほら、また言い訳した! やっぱり士郎、自分だけは悪くないって思ってるんだ!」
「いや、だからそれは、その……」
凄まじい由香理の剣幕に、士郎は何も言えなくなってしまう。普段の彼ならば釈明するなり反論するなりするところだが、幼い頃から由香理のことをよく知っている士郎にとってさえ、今の由香理の憤激は恐怖の対象となるらしい。
士郎が真理奈と関係を持って以来、二人の仲はずっとこんな調子だった。
無理もない。魔王の精神支配すら無効にしてしまう憤怒など、一万年に及ぶ人類の文明史を見ても数えるほどしかなかったのだから。もっとも由香理の場合は、幼い頃から長期に渡って彼の魔術の影響下に置かれていたことが、支配魔法に耐性を持った主な理由のようだが。
(まあ、いずれにしても僕は高みの見物を決め込むとしよう。犬も食わない夫婦喧嘩に手を出すのは野暮だからね)
少年は思考するのをやめ、感覚を宿主のものと同調させた。自分が一時的に自分でなくなって、心身共に「山口由香理」という少女と一つになるのは、男女の交わりにも似た心地よさを彼に与えてくれる。甘美な温もりの中で、悪魔は由香理に溶け込んだ。
「やっぱり士郎も真理奈も、まだまだ反省が足りないみたいね。どうしてくれようかしら……」
由香理は両の拳を合わせて威嚇の音を鳴らした。先日、彼女にこっぴどく折檻されたのを思い出したのか、士郎と真理奈は揃って青ざめる。
「お、おい。落ち着け、由香理」
「そ、そうよ。暴力はダメだわ。ドロドロした昼のドラマじゃないんだから……」
「大丈夫よ。あたしはちゃんと落ち着いてるから。えへ、えへへへ……」
暗い笑みを浮かべて立ち上がる由香理。士郎は椅子を蹴って飛び上がり、慌てて真理奈の後ろに隠れたが、狭く散らかった店内では、それ以上逃げようがなかった。追い詰められた二人にできるのは、ただ抱き合って恐れおののくことだけだった。
「ヤ、ヤバい。由香理のやつ、完全に目が据わってるぞ。殺される……」
「安田、何とかして由香理を止めてよ。あんた、この子の彼氏でしょ?」
「無茶言うな。本気で怒った由香理を、俺なんかが止められるわけないだろ」
「この役立たずっ! 由香理はあんたの命令には絶対服従の性奴隷なんじゃないの !?」
「それが由香理のやつ、あのクソ悪魔に憑りつかれてからは俺の命令を一切聞かなくなっちまってな。どうしようもねえ。お手上げだよ」
「そ、そんな……このままじゃあたし、また半殺しにされちゃうじゃない! ストーップ、由香理っ! 待って! 話せばきっとわかるから!」
無表情でにじり寄った由香理が、腕を伸ばして真理奈の首をぐっとつかんだ。また泡を吹くまで絞めあげるつもりかと真理奈の顔が恐怖に歪む。そのとき、由香理の手が意外な動きを見せた。
ぷつり、と音がして丸い塊が床に落ちた。一体何がどうなったのか──士郎が視線を下ろし、上ずった声をあげた。
「ひ、ひいいっ! 加藤の首がっ !?」
足元にバレーボールほどの大きさの塊が転がっていた。明るい茶髪を持つ少女の生首だった。怒り狂った由香理が、加藤真理奈の首を千切り取ってしまったのだ。
「うふふふふ、ざまあ見なさい。あたしの士郎に色目をつかった報いよ……」
由香理は低い声でつぶやき、真理奈を持ち上げていた手を離した。セーラー服を着た首無し女子高生の体がどさりと倒れ伏す。士郎はへなへなと床にへたり込み、呆然と由香理を見上げた。
「か、加藤のやつ、死んじまったのか?」
「まさか。いくら真理奈でもそれは寝覚めが悪いから、ちゃんと生かしといてあげたわ。もっとも、真理奈みたいなタイプは殺しても死なないだろうけど」
由香理は不満そうにそう言った。
真理奈の首の切り口はハムのような明るいピンク色で、出血はいささかも見られない。頭部を千切り取られて生きているはずはないが、首のない真理奈の肢体は依然として若々しい生気を保っていた。
その場にかがみ込み、真理奈の首を拾い上げる由香理。目と目を合わせて「気分はどう?」と問いかけると、真理奈は首だけの異様な姿で怒鳴り散らした。
「ちょっと、由香理! あんた、なんてことをしやがるのよっ! あたしが死んじゃったらどーしてくれんのっ !?」
「ああ、本当だ。加藤のやつ、ちゃんと生きてやがる。そういえば、前にもこれと似たようなことがあったような……」
「そう。あたしも以前、悪魔さんに首ちょんぱにされちゃったよね。まさか自分がする側になるとは思わなかったけど」
と言って、由香理は真理奈の頭をもてあそぶ。それは悪魔の所業と言ってもよかった。悪魔の少年を己の身に取り込んだ由香理は、一時的に悪魔と等しい存在に成りおおせたのだ。
「由香理、そんなことより早くあたしの体を元に戻しなさいよ! こんな格好じゃ身動き一つできないじゃないの!」
真理奈は由香理の手の中で盛んに喚く。腕も脚も胴体も全て失った彼女には、それ以外に何もできないのだから当然だった。
由香理はそんな真理奈の生首を肩の高さに持ち上げ、哀れな友人をせせら笑った。
「ふん、いい気味よ。ひとの彼氏に手を出したこと、少しは反省しなさい」
「だから、あれはあたしのせいじゃないって言ってるでしょ !? 全部あいつが悪いのよ! それに、由香理だって自分があたしと入れ替わってること、全然気づいてなかったじゃない! なんであたしだけがこんな目に遭わなきゃいけないの! 理不尽よ!」
「ふーん、やっぱりあんたも士郎と同じことを言うんだ。あんたが士郎とよろしくやってる間、あたしがどんな辛い目に遭ってたのかも知らないくせに……」
由香理は声のトーンを落とし、真理奈の頭を片手に持ち変えた。不穏な気配を察知したのか、真理奈は騒ぐのをやめ由香理の顔色を窺う。
「な、何よ。由香理、何をする気よ……」
「何って、お仕置きに決まってるじゃない。今日はとびきりキツいのを味わわせてあげるから、覚悟しなさい」
自由になった由香理の右手が空中で円を描いた。すると、何も存在しないはずの空間にガラスのような透明の円盤が出現した。直径は六、七十センチといったところか。厚みはほとんどない。透き通ってはいるが、全体がわずかに黒く染まっており、皺のないビニルのようでもあった。
真理奈と士郎は突如として虚空に現れた円盤を、驚きの目で見つめた。
「由香理、これは何?」
「これ? ただの穴よ。空間に穴を開けて、ここと別の場所とを繋いだの」
「空間に穴……? よくわかんねえけど、なんか凄そうだな。お前、どこでそんな芸を身に着けたんだよ」
「んー、自分でもよくわかんないの。真理奈を懲らしめようと思ったら、頭の中にお仕置きのアイディアがひとりでに浮かんできて、やり方も自然に……多分、あの悪魔さんがあたしの中にいるからだと思う」
由香理は空中の「穴」を見ながら答えた。悪魔を体内に取り込んだ由香理は、その力を自在に行使できるようになったのだ。真理奈の首を生きたまま胴体から切り離したのも、やはり悪魔の力によるものだ。
由香理は穴をのぞき込み、かすかな声で何ごとかを囁いた。その囁き声に呼ばれるように、穴の向こう側から白い影が飛び出した。
「ワン、ワンっ!」
店内に現れたのは真っ白な中型犬だった。やや鋭角的な顔つきをしており、尾は丸まっている。どこから見ても普通の犬だ。
士郎の驚きの声があがる。「ゴン太っ !? お前、ゴン太じゃねえか!」
どうやら士郎はこの犬を知っているようで、腕の中に飛び込んできた白い犬を、親しみを込めて撫で回していた。
「おー、よしよし、いい子だ。相変わらず元気だな。それにしても、どうしてお前がこんなところにいるんだ? 爺さんのところにいたんじゃないのか」
「あたしが呼んだの。大きさを考えたら、ゴン太がちょうどよかったから」
と言って、由香理は真理奈の頭部をカウンターの上に静かに置いた。いまいち要領を得ない返事に、士郎が首をかしげる。
「ちょうどよかった? いったい何の話だよ」
「ふふっ、すぐにわかるわよ」
「由香理、この犬はあんたの知り合い? やけにあんたたちに懐いてるみたいだけど」
真理奈の問いに、由香理は少しばかり嬉しそうにうなずいた。
「うん。この子、近所のお爺さんが飼ってるオス犬なの。子供の頃はよく一緒に遊んだり、お爺さんの代わりに散歩に連れていってやったりしたんだ」
「へえ……それはわかったけど、なんで犬なんか呼んだのよ。あたしに対するお仕置きに、その犬を使うつもり? それなら言っとくけど、あたしは別に犬が嫌いじゃないわよ」
「うん、わかってる。ゴン太、こっちにおいで」
犬が由香理の足元に駆け寄る。馴染みの少女に抱きしめられ、白い獣は非常に喜んでいるようだった。
犬の首につけられた革の首輪をもてあそび、由香理が言う。
「あのね、ゴン太。実はあたし、ゴン太にお願いがあるんだ。悪いことをした友達を懲らしめるために、あなたの力を貸してほしいの。いい?」
「ワンっ!」
「協力してくれるの? ありがとう、ゴン太」
由香理はふっと微笑むと、犬の首輪を指でなぞって呪文を唱えた。魔術が発動し、赤い革の表面がぼんやりと光りだした次の瞬間、犬の首がまるで熟した果実のようにごろりと転がり落ちた。真理奈のときと同様、やはり鮮血が噴き出すことはなく、首は床に落ちる寸前で由香理の手に納まった。
「お、おい、由香理っ !? お前、ゴン太に何をしてるんだ!」
「ごめんね、ゴン太。すぐに済むから辛抱してね」
由香理は犬の頭部を大事そうにかかえ、後ろを振り返った。その視線の先には、首を失った真理奈の身体が仰向けに寝転がっていた。
「ちょ、ちょっと由香理っ! あんた、何をする気よっ !?」
真理奈の叫び声を無視して、由香理は犬の頭を真理奈の胴体に載せてしまう。またも呪文を唱えると、異なる種族の肉の境界が溶けて結合してしまった。
「うまくいったかな? どう、ゴン太。動ける?」
「ワン、ワンっ!」
犬は勇ましく吠えて肯定の意思を示した。身長百七十センチを誇る真理奈の体に、白い犬の頭が融合していた。真理奈の手足を動かしているのは犬だった。犬の頭を繋ぎ合わされた少女の肢体が床に四つん這いになり、この世のものとは思えない奇怪な姿を晒していた。悪魔の業によって奇妙奇天烈な生物が生み出されたのだ。
「そ、そんな。あたしの体に犬の頭がくっついちゃった……」
首だけの真理奈がカウンターの上で色を失う。あまりにもグロテスクで常軌を逸した光景に、豪胆で知られる彼女も愕然としていた。顔からは完全に血の気が失せ、哀れなほどのうろたえようだ。
「よかった、ちゃんと繋がったみたいね。あたしも升田先生と首をすげ替えられたことはあるけど、犬と人間の頭を取り替えるのは初めてだから不安だったの。特に問題ないみたいで安心したわ」
「うげえっ、気持ち悪い……何だよ、こりゃあ」
「ワンっ!」
ヒトの肉体を与えられた犬は、ひと声鳴いて再度士郎に飛びかかった。しかし中型犬と人間では、体重が数倍異なる。真理奈に体当たりされるのと同じことだ。士郎は悲鳴をあげてひっくり返った。
「うおっ !? や、やめろゴン太っ! のしかかるんじゃない! 重いって!」
犬は豊かなヒップを左右に振りながら、倒れた士郎の顔をなめ回した。犬にとっては何の変哲もない愛情表現なのだが、はた目には、セーラー服を着た女子高生が男子生徒を押し倒しているようにしか見えない。由香理はそんな犬の姿を眺めて満足げな笑みを浮かべた。
「ふふっ、うまくいったわ。それじゃあ、今度は真理奈の番ね」
「な、何すんのよ、由香理っ! 放しなさいよ!」
由香理にひょいと頭を持ち上げられ、青ざめていた真理奈が我に返った。気持ち悪い、元に戻せと力の限り喚いたが、由香理はいっこうに取り合わず、真理奈の首を持ってしゃがみ込んだ。そこには首のない真っ白な犬が横たわっていた。
「さあ、真理奈。新しい体よ。元気いっぱいのゴン太の体をあんたにあげるから、せいぜい喜びなさい」
「な、何ですって !? そんなのいやっ! よりによって犬の体なんて──ああっ、や、やめてぇっ」
かん高い悲鳴があがり、茶髪の少女の頭が犬の胴体に繋ぎ合わされる。人間の顔を持った犬の誕生だった。
「い、いやあああっ。あたしがこんな……」
真理奈は変わり果てた己の体を見下ろし、ぽろぽろと涙をこぼした。今や彼女の目線は幼稚園児よりも低く、地面から測ってたった五、六十センチの高さしかない。あまりの屈辱に嗚咽する真理奈の髪を、由香理の手のひらが撫でた。
「どうしたの、ゴン太? なんだか元気がないみたいだけど」
「う、うるさいっ! あたしはゴン太じゃない! 早くあたしの体を元に戻しなさいよ!」
「ダメよ。これはお仕置きなんだもん。あんたがちゃんと反省したら戻してあげる」
「反省なんかするかっ! いいから早く戻せっ!」
真理奈は顔をくしゃくしゃにして吠えたが、由香理は聞く耳を持たない。真理奈の毛皮や尻尾を楽しそうにもてあそび、雄犬と化した友人を嘲った。
「ふふっ、効いてる効いてる。でも、まだまだ反省が足りないわね。もうちょっと痛い目に遭ってもらわないと。ゴン太、こっちに来なさい」
「ワン、ワンっ!」
由香理が呼ぶと、忠実な犬はすぐに士郎から離れて駆け寄ってきた。スカートの中から黒い下着がのぞいているのも全く気にせず、四肢の先をぺたりと床につけて座り込む。十七歳の可憐な女子高生の肉体を、犬の脳が操作していた。
「ふふふ……真理奈の体が犬みたいに這いつくばるのは面白いけど、やっぱりこのままじゃ、いろいろと不都合があるのよね。ただ取り替えるだけじゃなくて、きちんと調整しておかないと」
由香理は犬になった真理奈の額に人差し指を当て、短い言葉を口にした。淡い光が指先に浮かび上がる。そして由香理はその指を、真理奈になった犬の頭に押し当てた。
「はい、これでよし。ゴン太、立ってみて」
由香理の命を受け、犬がその場に立ち上がった。すらりと長い二本の脚で危なげなく直立する犬の姿に、士郎と真理奈が揃って目を剥いた。
「ど、どうなってんだ。ゴン太が人間みたいに立ってやがる……」
「そ、そんな。犬の癖にこんなこと、信じられない……」
「ふふふ、すごいでしょ」由香理は勝ち誇った。「人間の体でも不自由がないように、真理奈の頭の中にある知識をコピーしてやったの。二本足での歩き方とか、手で物を持つ方法とか、人間の言葉とかね。もちろん犬だから喋れないし、知能も人間並みとは言わないけど、それでもすっごく賢くなったと思うわよ。ねえ、ゴン太?」
「ワン!」
犬は首を大きく縦に振った。その自然な動作はヒトのものに極めて似かよっており、何も知らない者が見れば、女子高生が犬のマスクをかぶって仮装でもしているのかと思ってしまいそうなほどだ。
「うん、これも成功ね。今のゴン太、とっても女の子っぽいわよ」
「ワン、ワン!」
犬は両手を細い腰に当て、自らが得たプロポーション抜群の女体を誇示してみせた。セーラー服の胸元では豊かな乳房が揺れ、紺のプリーツスカートから伸びる長い脚の曲線も、艶かしい美を備えている。恵まれた体格を誇る女子高生の肩に、雄犬の白い頭が誇らしげに乗っていた。
「い、いやあっ! 犬なんかにあたしの体が好き勝手されてるなんて……戻して、由香理っ! 早く元に戻してよぉっ!」
真理奈が絶叫した。無理もなかった。犬の体にされただけでなく、自分の体を畜生ごときに使われているのだ。無理やり頭部を交換させられた挙げ句、自分の肢体を奪った犬に見下ろされる屈辱は筆舌に尽くしがたいだろう。
しかし、いくら嘆こうが真理奈になすすべはない。彼女を元に戻せるのは由香理だけだ。由香理は再び真理奈の頭に手を置き、自分が犬になってしまったことを嫌というほど思い知らせた。
「もう一度訊くわよ、真理奈。士郎に手を出したこと、反省してる?」
「はい、してますしてます。猛反省してます。あんなことはもう二度としません。だから早く元に戻して……」
真理奈はすっかり意気消沈して、涙声で由香理に慈悲を乞うた。日頃の尊大で不遜な態度が嘘のようだ。由香理と犬に挟まれ、ひたすら泣きじゃくっていた。
「まあ、さすがの真理奈も少しは懲りたみたいだから、元に戻してあげよっか。でも、その前に……」
由香理は先ほど犬を呼び寄せたのと同じようにして指で弧を描き、空間に小さな穴を開けた。直径二十センチほどの円形の穴に腕を突き入れ、中をごそごそと漁る。穴から取り出されたのは、真理奈が装着している首輪と同じ赤のリードだった。
「ゴン太、真理奈を押さえて。途中で取れちゃったら困るから、しっかり繋いでおかないと」
「こ、今度は何をするつもりよ? あたしは犬じゃないんだから、そんなリードなんてつけないでよ。いや、やめてっ。うう、苦しいっ」
二人かがりで押さえ込まれてはどうしようもない。犬になった真理奈はリードに繋がれ、その端を真理奈の体になった犬が握った。
「それじゃあゴン太、真理奈を連れて散歩に行ってきて。ゴン太もせっかく人間の体になったんだから、三十分でも一時間でも好きなだけ楽しんできていいわよ」
「ワンっ!」
犬はリードを持っていない方の手を挙げて了解した。人間の肉体と知識を獲得して高揚する犬の足元で、真理奈が仰天する。
「さ、散歩っ !? 散歩なんてできるわけないでしょ! こんな格好で外に出たら大騒ぎになるわよ!」
「大丈夫よ、真理奈。さっきあんたたちの頭をいじったときに、おまじないをかけておいたの。その名も『誰も気にしないおまじない』よ」
「何だよ、それ?」
横から訊ねたのは士郎だった。由香理から少し距離をおいて椅子に腰かけ、犬と身体が入れ替わったクラスメイトを同情の眼差しで見守っていた。
「えーっとね。うまく説明するのは難しいんだけど、とにかく誰も細かいことは気にしなくなるおまじないなの」由香理は真理奈の白い毛皮の感触を楽しみながら説明する。「今の真理奈とゴン太を見た人は皆、注意力が部分的に散漫になってね。別に姿が見えなくなっちゃうわけじゃないんだけど、この子たちがどんな格好しても何をしても、全然気にならなくなっちゃうの。だからこの格好で散歩してるところを見られても、誰も気にしないの。『ああ、女の子が犬を連れて散歩してるな』って思うだけ」
「ひでえ……滅茶苦茶じゃねえか」
「そういうわけだから安心して、真理奈。散歩から戻ってきたら人間に戻してあげる。それまであたしたちはここで留守番してるから。ゴン太、真理奈をよろしく頼むわね」
「ワオーンっ!」
犬は大きく吠えると、リードを引いて真理奈を外に連れ出そうとする。真理奈は「こんな体で散歩するなんて、絶対にやだっ!」と店の棚にしがみついて嫌がったが、犬に力いっぱい尻を蹴られて悲鳴をあげた。
「い、痛いっ! やめて、蹴らないでよおっ!」
「バウ、バウ!」
犬は乱暴にリードを引っ張り、互いの力関係が逆転したことを真理奈に教え込む。真理奈の首から下は犬の体で、犬の首から下は真理奈の体だ。肉体を取り替えられてしまった以上、もはや真理奈はリードを手にした犬に従うしかなかった。
「ふふっ。行ってらっしゃい、二人とも。車に気をつけてね」
「ワンっ!」
「ううう……なんであたしがこんな目に……あとで絶対、この忌々しい犬っころに思い知らせてやるんだから。キャインっ !?」
自分のものだった長い脚に何度も何度も蹴飛ばされ、真理奈は泣きながら四つ足で外に出た。不慣れな犬の体でよたよたと歩き始めた真理奈のあとを、女子高生の制服を着た二足歩行の犬が、軽快な足取りでついていった。
「やれやれ。なんて言ったらいいのかよくわからんけど、大変だな……あいつも」
異形の犬と少女を見送り、士郎はぽつりと言った。ドラッグストアのドアが閉まり、店には由香理と士郎が残された。大騒ぎしていた真理奈がいなくなると、途端に静かになった。
「何をひとごとみたいに言ってるのよ、士郎。お仕置きされるのは真理奈だけだと思ってるの? 元はと言えばあんたが悪いんじゃないの」
死の宣告にも等しい由香理の指摘に、士郎は震え上がった。
「そ、それはつまり、俺もあんな風に犬の体にされちまうってことか? マジで勘弁してくれよ……」
「んー、どうしよっかな。最初は士郎も真理奈と同じ目に合わせてやろうかと思ってたんだけど……」
「……だけど?」
「真理奈をしこたまイジめたら気が晴れたっていうか、なんだかすっきりしちゃった。今日のところは許しておいてあげる」
由香理は怒った様子もなく、パイプ椅子に腰を下ろした。士郎は大きく息を吐いて、安堵の表情でカウンターにもたれかかった。
「はあ……そっか、助かったぜ。加藤みたいに人面犬にされたら、一生消えないトラウマが残りそうだ」
「ポマードポマードって唱えたら逃げ出すやつ? でも、あれは違うか。たしか口が裂けてるんだっけ」
「まあ、何だっていいけどさ。とにかく俺はお前ひと筋だから、くれぐれも変な誤解はしないでくれよ」
「わかってる。わかってるけど……でも、ときどき無性に不安になるの。士郎がよその女に惚れ込んで、あたしのことを見てくれなくなったらどうしようって」
由香理は膝に手を置きうつむいた。癇癪を起こせば魔王の魔術すら打ち破る屈強な少女も、ひとたび落ち着きを取り戻せば、多感で未熟な年頃の娘に過ぎなかった。
「そんなこと、絶対にありえねえよ。俺が好きなのはいつまでもお前だけだから、心配するなって」
士郎はいつになく柔らかな笑みを浮かべて、由香理にそっと寄り添った。由香理はにわかに顔を上げ、熱を孕んだ視線で恋人を見つめた。
「うん、信じてる。信じてあげるから、やっぱりお仕置きしてもいい?」
「な、なんでだよ。信じてくれるんだったら、そんなことする必要はないだろ」
「いいから、とにかくお仕置きね。真理奈とゴン太が戻ってくるまで、あたしに好きって言い続けて。あたしが満足するまで愛してるって言い続けて。これがお仕置き」
「はあ? 何だよそれ。そんな恥ずかしいこと、今更……」
「ダメ。とにかく言って。今、ここにいるのはあたしたちだけだから、恥ずかしくないでしょ。『好き』でも『愛してる』でも昔の思い出を話すのでもいいから、ひたすらあたしを好きだって言い続けて。言わないと、やっぱりあんたも犬にする」
「ちっ、わかったよ。由香理、好きだ。愛してる」
やや早口で囁かれた愛の告白に、由香理はだらしなく頬を緩めた。
「えへへ、もっと言って。もっともっと言い続けて」
「由香理、俺はずっとお前と一緒にいたい。大人になったら結婚しよう。そんで毎日ケンカしながら、いっぱい子供を作ろう」
「うん、いいよ。あたし、あんたの奥さんになって、子供をたくさん産んであげるね。えへへへっへへっへ」
満ち足りた表情で士郎の言葉を聞き続ける由香理と、半ば呆れながらも愛の語らいを熱心に続ける士郎。再び恋人同士の仲に戻った二人のやり取りは、疲れ果てた犬の真理奈が散歩から戻ってくるまで続いた。