頬を撫でる柔らかい風が、わたしの肩口ほどまで伸びた髪をふわりと巻き上げる。
ネオヴェネチアの過ぎ去る春の匂いを包んだ、初夏の優しい風。
今からわたしがやろうとしていことの成功を祈り、ダイビングの皆さんはいつもの日常へと戻っていった。
彼らが日常に戻るのと同じように、周りはいつも通りに時間が流れる。
あの事故から一月、ミドルスクールは年度替わりの長期休暇が終わって入学式も終わった。たぶん、今頃は各部活の生徒達が新入生の勧誘に校内を駆け回っていると思うのです。
ふと、あの頼りない後輩はしっかりと部長としてやっていけてるのかなと思う。
周りと協調性のない子や無口で人見知りしそうな子とかが入っちゃうと、気の弱いあの子ではちょっと厳しいかもしれません。
たまには見に行ってやるとしましょうかね。
あとはアイリーンですよ、オレンジぷらねっとに出す書類をちゃんと書けたでしょうか?
間違っても、名前とかの綴りを書き間違ったりしてないといいんですけど。
そこで、はた、と気づく。
一昨日までの自分は他人のことを気にかける余裕なんて、まったく無かったのに、こうも変われるとは。
「ふふっ、アイリーンはもう立派なウンディーネですよ」
わたしを夜の底から文字通り水先案内してくれた黒髪の親友を思う。
そんな彼女は後ろで、エレットさんが倉庫から持ち出してきた自前のゴンドラの前に立つわたしを心配そうに見つめていた。
軍曹さんが用意してくれたライフジャケットをミドルスクール時代のジャージの上に身に着けているし、彼がウェットスーツで待機しているので、たとえ水にボチャンと落ちちゃっても大丈夫だというのに。
でも、今のわたしには彼女の心配が一番の勇気に思える。
「サポートお願いしますね、リップル?」
≪了解だ、マスター。いつでもどうぞ≫
手に握りしめたオール、あのオートフラップオールに囁きかける。
わたしの声に反応するのは、今はあの可愛らしい少女の姿を隠したAIリップルの声。
その声はわたしの首筋に張り付けられた、普段でも目立たないように肌色の骨伝導マイクから伝わる。
直接わたしの中へ音が伝わってくるようで、不思議な感じでなんだかむずかゆい。
「本当に大丈夫なんでしょうね、あなたのシステムは?」
≪問題ないさ、マスターも私の試験成績は見ただろう?加えて実験回数に成功回数もだ。それに今更不安がられても、使われる立場である道具の私が困る≫
「それはそうですけど、一応確認のためということで。ほんとーに大丈夫なんですよね、エレットさん?」
「アリ・カちゃん?私の作った水流用『ベクタード』を信じない?そのオールで不安な点はAIの外見だけ?だから、安心してリップルに任せてくれれば大丈夫?」
≪ほれ見ろ≫
「はいはい、存分に頼らせてもらいますよ・・・・・・だから、しっかり頼みます」
≪心得た≫
あの風の無いところにさえ、旋風を巻き起こす出力には不安はなかった。
でも、わたしの手がエラーを吐き出すタイミングはわたし自身にさえ分からないから、それを機械が感知できるのかという疑問。
エレットさんによればわたしの腕のエラーを感知するのではなくて、発生した船に影響のある水流を感知して制御するのだとか・・・・・・他にも注意が色々あったけど、あまり覚えていないのです。
でも、エレットさんが言った一番重要なことはしっかりと刻み込んだ。
「あなたが出来るのは、あくまで水流の維持や管理・ちょっとした偏向・・・・・・だけなんですよね?」
≪ああ。だから≫
「わかってます。一番最後に重要になってくるのは、やっぱりわたし自身」
≪その通り、私は万能ではない。だからこそ、失敗を恐れずに、つまりは水ポチャ覚悟というわけだ。頼られるのは嬉しいが、頼られすぎも困るのでな≫
オートフラップオール、そしてAI『リップル』は例えて言うならば松葉づえのようなもの、だから使用者が前へ進もうと頑張らなければ、それは唯の棒となる。
「データリンク、問題なし?いつでもどうぞ?」
リップルのデータ収集とそのバックアップ制御のためのリンクが正常に稼働していることをエレットさんは告げた。
つまり、いよいよその時が来たっていうことです。
「いざってなると、結構怖いものがありますね」
≪・・・・・・マスター。私を信じろ≫
「そうでしたね。では・・・・・・行きましょうか」
一度深呼吸をして気合を入れる。
ゴンドラの上に乗るだけなのが、これだけ怖くなるなんて・・・・・・でも、やるしかない。
ここが、わたしにとってもう一度のスタートライン、最初の一歩を踏み出さなきゃです!
トンッ・・・・・・
「と、とりあえずはOKですかね?」
≪乗り込むだけで怖がってどうするんだ?≫
「わ、分かってはいますけど・・・・・・」
久しぶりに立ったゴンドラの上は、こんなにも不安定だったのかと思う。
あの『彼』や両親のような笑顔が見たくて、あれほど長い時間練習して上達して慣れ親しんだ船上だったのにだ。
「でも、ようやく一歩踏み出せたんだ・・・・・・」
これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である・・・・・・とは、たしかルナ1(月)に初めて足跡を残した宇宙飛行士の言葉だったか。
ならばわたしの踏み出したこの一歩は、『これは人類にとっては小さな一歩だが、わたしという一人の人間にとっては偉大な飛躍である』と言ったところでしょうか。
チャポンと水中へオールを下ろしながら、わたしはそう思った。
そう、小さなそれでいて大きなこの一歩を踏み出したなら、次は歩き出そうじゃないか。
場所は、わたしの家の前の少し広めの水路、行きかうゴンドラは少なくわたしの挑戦にとって好都合。
この場所で、わたしの再挑戦が始まるのだ。
「見ていてください、お父様、お母様」
へたれた自分に活を入れるように、大きな声で威勢よく。
「さて、と・・・・・・アッリ・カールステッド、漕ぎますっ!」
アッリ・カールステッドが前へ進みだしたころ、バーチャルネットにあるゴンドラシミュレータのある一室。
ヴェネチア(ネオではない)のカンポを模した空間の中央に幾つかのアバターが集まっていた。
中央にある井戸の上には時計が掲げられ、時を刻んでいた。
:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪たしか、『Alison』からの報告なら、今頃だよね?大丈夫かな・・・・・・?≫
小鳥のヘアピンが愛らしいオールを抱えた少女のアバターから、『Alli』ことアッリ・カールステッドを心配する言葉がポップする。
それに反応するように二つのアバターから発言がポップした。
:鍛冶屋 ≪大丈夫だ、彼女を信じろ≫
一つは寡黙そうな老人のアバターから。
もう片方は21世紀のある国の軍隊の格好に身を包んだアバターからだ。
兵隊風のアバターの発言はここにいるアバターの操り手にここにいる意思を確認するかのような内容だった。
:マリンコ中尉 ≪やはりここにいる全員、彼女のことが心配か?オーバー≫
:写真屋さん ≪そりゃそうよ!≫
:ソラヒト ≪そうだよ、ボクらは皆彼女の、『Alli』のファンなんだし?マリンコさんは?≫
ポンッと環境音とともにほぼ同じタイミングで二つ発言がポップする。
それらはカメラを首にひっかけた狸パーカーと飛行服姿の少年のアバターからであった。
:マリンコ中尉 ≪むろん、俺もファンだ!オーバー≫
飛行服姿の少年のアバターの発言にそう答える兵隊風のアバター。
オートフラップオールの力を借りた半機械人の『Alison』、対、努力家『Alli』のレースはこのルームによく集まる人々にとっては非常に有名なものであった。
そのレースは引き分けのまま、『Alli』のリアルでの不幸、両親の死と片腕の消失という形で幕を閉じた。
皆それが残念でならないのと同時に、皆のヒロインだった『Alli』に同情した。
いや同情、とは少し違うかもしれない。
ここにいる人々は皆『Alison』にタイムアタックを挑んでいた、いわば戦友だ。
友人を助け起こすのに、同情はいるか?
否だと、彼らはそう思っていた。
だからこそ、今日その友人が再び立ち上がろうとするのを心待ちにしているのだ。
:鍛冶屋 ≪・・・・・・しかしワシらに出来ることは吉報を祈って、待っていることだけか≫
:写真屋さん ≪あの『Alison』の力を頼らなきゃいけないってのが、なーんか癪だけどねー≫
:鍛冶屋 ≪言うな、今彼女に一番助力できるのはあれなんだ≫
:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪そうですよ。それに、だからこそ、今ここにいる私たちは希望を持って祈っていましょう?≫
:写真屋さん ≪あたりまえのもちのろんよー!私一人でここに今いない人たちの分まで祈ってやれるわ!≫
:マリンコ中尉 ≪おいおい、随分と威勢がいいな。オーバー≫
:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪あはは。このままじゃ、お祭り騒ぎで祈る祈らない以前にめちゃくちゃになりそう・・・・・・ちょっと心配、かな≫
少女のアバターが心配そうに、周りの熱狂ぶりを指摘する。
それを収めるためにか、はたまた火に油を注ぎたいのか、飛行服姿のアバターが提案する。
:ソラヒト ≪ここにいる皆はお祭り好きだからね!それじゃ、先に乾杯でもしてようか?ボクが音頭とっても?≫
:鍛冶屋 ≪かまわんだろ≫
なぜ、『Alli』の挑戦が成功したわけでもないのに乾杯をしようとするのか。
なぜならそれは、彼らにとって考えてみれば、『Alli』が再び漕ぐことに挑戦すると聞いただけで、感無量であったし、なにより『Alli』の諦めの悪さを知っていたからだ。
彼らは『Alli』が、一度挑み始めたら追いついて追い抜くまで挑み続けるのだと知っていたからである。
そして、彼らはこの空間を表示する画面の前に、それぞれ自前の飲み物を用意してくる。
と、ここで兵隊風のアバターが、メモ帳とペンを携えたアバター・・・・・・つまりこの私に指をさし、言ってきた。
:マリンコ中尉 ≪ああ、そうだ『ルポラ』、お前も参加しろよ。いつまで第三者気取りでモノローグ書いているんだ≫
ああ、そうだすまないね。
それじゃ、参加させてもらおうとするか。
:ソラヒト ≪グラスの準備は大丈夫だね?それじゃ行くよー、せーのっ≫
そのポップと共に私も用意しておいた缶ビールを開け、掲げる。
おそらく皆、思い思いの飲み物を掲げていることだろう。
私達の小さなヒロインのために。
:マリンコ中尉 ≪彼女の作戦の成功を!≫
:写真屋さん ≪彼女の行く末に光をっ≫
:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪えっと、航海の安全を≫
:鍛冶屋 ≪苦難に挫けず、進めることを・・・・・・≫
;ルポラ ≪彼女が、私の記事に面白く書ける日が来ることを≫
:ソラヒト ≪そして彼女に笑顔に祝福が訪れんことを祈って―――!≫
汗臭い基地の片隅で、写真だらけの大きな部屋で、ある大プリマのサインの飾ってある小部屋で、工具が無数に存在する工房で、深夜の会社のオフィスで、下駄をはいた飛行機のある格納庫で、母国の言語も身分も職業も年齢も性別もありとあらゆることは違うけれども気持ちは同じ。
それぞれがそれぞれの画面を前にして、キーを叩いた。
≪≪≪≪≪≪乾杯!≫≫≫≫≫≫
キシ、軽い軋む音をたてるエレットさんの古いゴンドラを、ゆっくりと岸壁から離すように漕ぎ始める。
一掻き、二掻き、三掻き・・・・・・慎重にオールで水を掴んでは推進力にすべく、後ろへ流していく。
出だしは上々、とは言えないけれども。
なんとか漕ぐことはできた。
「今漕げてますよね、わたし」
≪ああ、確かに漕げている。だが、ゲームでいえばチュートリアルを終わったところだぞ?≫
「ふふっ、了解」
次第にゴンドラの線速を上げていくが、ゴンドラは今のところ安定しているようだ。
少なくとも、基本的な体のフォームやオールの捌き方ぐらいは、しっかりと脳内に記憶されていて、体も対応してくれている。
というか、これはもはや。
≪マスター。マスターの操舵はまるで脊髄反射みたいな感じだ。髄液に動作がインプットされているんじゃないか?≫
「あ、ははは。一体全体どれほど練習していたのでしょうかね、昔のわたしは」
≪だが、この事実はこれ以上ないほどのマスターの味方だ。マスターはただ『発作』が起きたときのことだけを考えてくれればいい≫
まるで脊髄反射のように基本的な動作は繰り返せれる、これはいい。
だが、わたしには二つ不安があった。
一つは、リップルが指摘してきた例の左腕の異常動作である『発作』。
そして、リップルが気づいていなかった、もう一つの敵は・・・・・・ウンディーネがウンディーネたる所以、ただ自分だけがゴンドラに乗れればいいというものじゃないこと。
お客様が安全にゴンドラに乗り、かつお客様が楽しめるようなオール捌きを提供すること。
そう、ウンディーネは全身でネオ・ヴェネチアの魅力を案内しなければならないのだ。
今のわたしにそれが出来るだろうか?
「『リップル』、制御系メモリの使用領域を予備メモリから10%追加してみようか?」
≪了解≫
心地いいキシュ、キシュという機械音が、水中からオールを引き抜くたび、フラップから聞こえてくる。
わたしの全盛期とでも言うべきかミドルスクール時代よりも安定感があるのは、ちゃんと『ベクタード』が機能している証拠か。
この能力、確かについつい頼りがちになってしまいそうだ。
気を引き締めて、さらにゴンドラを進めていく。
ゴンドラのスピードが上がるたび、わたしの心臓の鼓動もまた早くなっていく。
それは『発作』が起きるのが怖いからなのだろうか?
「ううん、違うか。これはきっと・・・・・・」
これはきっと、新しいネオヴェネチアに出会えるような、そんな気がしているからか。
揺らめく波間に映る人々の営み。
交差点を声を掛け合いながら行き交うゴンドラの群れ。
誰かが落っことしでもしたのか、波に揺られ漂っていくオレンジが青い水面にアクセントを。
遠くで商品を値切る主婦の声が聞こえる、店主は必死に値切られまいと抵抗しているけど、ちょっと無理そう。
今までも見て聞いて感じていたはずの周りが、どうしてこんなにも新鮮に感じられるのだろう?
こんなにもワクワクドキドキで漕いだのは、今まで感じたことが・・・・・・いや、初めてあの湾で漕いだときも、そういえば同じ気持ちだった気がする。
チクリ、とこんな気分を感じているわたしは心に痛みが走る。
こんな気持ちを味わえるなら、この再挑戦も悪くない、だなんて。
・・・・・・でも、わたしは決めたんだ。
今は前しか見ないって。
≪マスター、心拍数が若干増大しているが?≫
「大丈夫、問題ないです。それより、水流偏向、上手くいっていますか?」
≪抜かりはない・・・・・・ただ、そろそろ危険性が出てきた≫
「例の発作、ですね」
≪ああ、気を付けてくれ≫
ゴンドラのスピードが上がり、水面にウェーキが出来始めると、自然とオール捌きも大きな動作が増えてくる。
そのようなオール捌きの最中に例の『発作』が出たならば、確かに危険なのだ。
注意したいが、注意のしようがないこの『発作』が恨めしい。
「ううう、またぞろ怖くなってきたでありますよ・・・・・・」
「カールステッド嬢、心配するな。たとえ水に落っこちても、すぐに引き上げてやるから」
≪私を信頼しないのか?≫
「そ、その時は光速でお願いしますよ?リップルには全力で信頼していますよ」
今来るか、次の瞬間来るか、それともそのまた次の瞬間にそれは来るのか・・・・・・。
「怖がるな、とは言わん。恐怖は安全装置だからな。だが、それを乗り越えなきゃ再スタートにはならんぞ!」
「ッ!?はいっ!」
段々表情が不安の雲に覆われていくわたしに、軍曹さんの声が響く。
今はただ前へ漕いでいよう。
そして・・・・・・その時は来た。
水路の端の曲がり角まで来て、ゆっくりと旋回して再び反対側の曲がり角までゴンドラを漕いでいた。
その5度目、いや6度目か。
水路の中央、一番速度が乗って一番オール捌きが大胆になる場所で、『発作』は起きたのだ。
ぐらり、と一気にゴンドラが不安定になる。
いつもの発作とは違い、ピクリ何て可愛いものじゃなくてビクンと今までで一番大きい物だった。
「うあ、うああ!?」
「アッリ!」
アイリーンの声がやけに遠く遅く聞こえる。
全ての感覚がスローモーションに感じる、わたしの制御を離れた左腕に持っていたオールが大きな水しぶきを上げて滅茶苦茶な水の流れを生み出す。
右腕で支える?
―――無理だ。この無理な体勢で右腕で支えようとしたら、それこそ転覆だ。
なら、制御から離れているのはごく短小な時間だから、回復と同時に復帰を図る?
―――これも、無理。今まさに体の体勢を崩し始めているのに、待つことはできない。
だったら、落ちないように足で踏ん張る?
―――無理じゃないけど、微妙。体力の落ちたわたしが踏ん張ってどれぐらいの効果があるか。
自分で自分を褒めたくなるぐらいの思考の速さで、いくつかの対策が浮かんでは否定されていく。
駄目だ無理!
その時、声が聞こえた。
諦めるな、と。
「『リップル』、オーバライド!『ベクタード』、出力120%、水流とゴンドラの安定を最優先!」
≪マスター、踏ん張れ!あとはこちらで受けもつ!≫
「!、はいっ!」
今までで一番大きい駆動音が、オールの先端から響き渡る。
ヒュゥゥオォォンと、トンネルの中を風が抜けるような甲高い音と共に、オールは水流を綿菓子を作るときのように、文字通りオールの先端から絡めとっていく。
まるで飴細工のように粘性があるように見えるのは視界すらもスローモーションになっているからか。
そんな不思議な光景を視界の端に入れつつ、ゴンドラの進行方向左に落ちようとしていたわたしの体を支えるべく、下半身にグッと力を入れる。
左足を軸に、傾きかけていた体を無理やり元に戻そうとする・・・・・・駄目だ、体勢が崩れて右足がゴンドラ漕ぎの際の定位置から外れる。
それはウンディーネとしては下の下、失格だ。
でも今は・・・・・・お上品にならなくてもいい、まずは水に落ちずに漕いでみせるのですよっ!
ゴンドラの縁に右足をかけて力をいれて、上体をグイッと引き起こす。
一時的にゴンドラの重心が左へ傾いたことにより発生したゴンドラの不安定さはオートフラップオールがその全力を尽くし、相反させ消した。
右手には再びオールの柄が握られている、どうやら体勢を立て直すことに成功したようだ。
「はぁぁ、ふぅ」
安堵のため息が漏れる。
心臓の動機が和らいでいくのと同時にスローモーションだった世界が元の速さへ加速していく。
なんとか、なったのでしょうか?
だとしたら・・・・・・。
「アッリ!」
アイリーンが叫ぶようにわたしを呼ぶ。
そんなに大声でなくても聞こえてますって・・・・・・。
「アッリ!!」
だからなんでしょうか?
わたしはとりあえずは漕ぐことに成功した余韻に浸りたいのですが、そう思ってアイリーンの方を向こうとして気づく。
「まーえー!」
目の前に壁が迫っていたことを。
≪あーマスター、こりゃ無理だ≫
「・・・・・・ですよね」
何とかできないかとオールを握る手の力を強めるが、諦めた台詞をリップルは発した。
・・・・・・水ポチャですね。
何ともしまりのない。
そして。
ゴツンッ!
ゴンドラの舳が壁にぶつかった音と共に、わたしは水の中へ盛大に頭から突っ込んだ。
「アッリ!大丈夫!?」
「ええ大丈夫ですとも、げほっ、ちょっと水を飲んじゃいましたけど、げほっ」
わたしが水に突っ込んだ瞬間には軍曹さんも水に飛び込んでいたそうで、瞬く間にわたしは救出されました。
鼻から水を吸い込んでしまったようで、鼻水は出てくるわ、気管支にも少し入ったのかさっきからむせ続けるわ、さんざんですが。
わたしは、これ以上ないほどの満足感に満たされていました。
酷い顔になっているのに、さっきからニヤニヤと笑みを絶やさないわたしを不思議に思ったか、アイリーンの目が丸くなる。
「ふ、ふふふ・・・・・・これはこれはこれは」
「あ、アッリ?ちょこーと、怖いよ?」
「うふふふふふ、ふふ?やっぱり一度じゃ無理かぁ」
「アリ・カちゃーん?」
アイリーンやエレットさんが体を何やらびくびくさせながら、わたしに声をかけてくるが、わたしには全くもって聞こえていなかった。
軍曹さんは、自身にも経験があるのかやれやれといった風に肩をすくめていた。
「漕げた、のですよね。わたしは」
「え、うん。アッリはちゃんと漕げてたよ、でも最後は・・・・・・」
アイリーンの表情に影が落ちる。
彼女は最後の失敗が気にかかっているようだ。
でも、今のわたしにはそれは些末な出来事でしかない。
漕いでいる間は緊張と不安で気づいていなかったが思い返してみると、あの最後の『発作』の手前までの自分のフォームは、限りなくかつての自分の物だった。
つまり、自分はまだ漕げるのだ。
ならば、残された課題は。
仰向けになったわたしの目の前に浮かぶ海の底とはまた違う、吸い込まれそうな蒼穹の大空へ左手を伸ばし掌を広げる。
「必ず乗りこなしてやるのですよ、このじゃじゃ馬を!」
「・・・・・・アッリ」
そう叫ぶと同時に、ギュッと拳を握る。
わたしのその動作にアイリーンは一瞬呆けたような顔をする。
でも、その目に涙が浮かび始めるのもすぐだった。
わたしは彼女に抱きついた。
体が濡れたままだから彼女の服が濡れてしまうと思ったけど、彼女が押しのけようとしないので、このままわたしは言うことにした。
「アイリーンが居てくれたおかげで、わたしは挑戦することが出来た、漕ぐことができた」
「う、ん」
「今のままのフォームじゃ、たぶんウンディーネにはなれっこなさそうです。でも、貴女は言いましたよね?『迷いながらも、失敗しながらも、その義肢は確実にアッリの腕になる』って」
昨日の夕方のダイビングで言っていたアイリーンの言葉。
今のわたしなら、それは嘘に聞こえなかった。
「うん、私はそう言ったよ?」
「その言葉、今なら信じます。いえ、実行します。必ず、この義肢を御してやります」
「うんうん・・・・・・」
「わたしは、貴女にこれからも迷惑をたくさんかけると思います。だから先に感謝しておきます。今まで、ありがとう。これからも、いつまでもありがとう」
「アッリぃ・・・・・・」
「全く、貴女が泣いてどうするのですか?」
立ち上がり、エレットさんからタオルを受け取る。
けど、それを使うのはわたしじゃなくて、アイリーンです。
アイリーンの頬を流れる綺麗な涙の粒を優しく拭い取ってあげ、彼女の手をとり立ち上がらせる。
「うん・・・・・・ごめんね」
「ほら、涙を拭ってください。わたしに取っての王子様?」
「・・・・・・はは、アッリ。ちょっとキザだよ、それ」
「やっぱりキザですかねぇ?」
「うん、とっても」
そして、二人で笑いあう。
雲一つないこの青空のように、わたしの心も澄み切っていた。
:マリンコ中尉 ≪成功したってよ!オーバー≫
:鍛冶屋 ≪そうか≫
:ゴンドラ漕ぎの少女 ≪よかったぁ・・・・・・≫
:レポラ ≪ふーん、記事向きな内容?≫
:ソラヒト ≪レポラはいつもそれだねぇ・・・・・・≫
:写真屋さん ≪まぁ、とにかく?もう一度いく?≫
:ソラヒト ≪そうだね、そうしようか!せーのっ≫
≪≪≪≪≪≪我らがヒロイン、アッリ・カールステッドにとりあえずのグランドフィナーレを!乾杯!≫≫≫≫≫≫