そうだ、陸孫の姿を確認しよう。
日が既に真南を越えて、西へ傾きかけた時間帯。
食事を終え、本を読んでいたわけだが、そう言えばまだ陸伯言の姿を確認していない事を思い出し、立ち上がる。
姿を確認しようと思った理由は簡単だ。困っていたら何か手を差し伸べておこうと言う、単純な下心だ。
俺の知る歴史とどこまで重なり合うかは知らないが、今の所孫策が陸伯言を攻めようとしているという噂は聞かない。
と言うかほぼ落ちぶれ気味の彼女に軍を動かす力があるようには見えない。
なので、呉に入るので一時的に敵になるであろう陸伯言と直接会う、見てみるという選択肢に関しては及び腰になっていたのだが、もう心配ないなら顔くらい見ておいた方が良いと言う判断である。
それに、もしかしたら困る状況はすぐに訪れるかもしれないと踏んでいる。袁術が楊州全体の統治を任されたという噂が流れているからだ。
袁術が本当に俺の知っている歴史通りに馬鹿かは知らないし何よりもまだ噂の域を出ていない情報なのでそれを元に行動すると痛い目をみそうだ。が、本当ならばあんまり良い統治はしなさそうだよな、と感じている。
噂を聞いても好意的な話は聞かない。更に統治に当たって何かしらの人事をする可能性も否定できない。
恐らく、現在楊州全域の太守の方々は自らの利権が守られるかどうかの確認で忙しかったりするのでは無いだろうか。
あの名門袁家がやってきて広い楊州を統治する事になったのだ。
袁家は基本的に独自の人材をかなり保有しているので末端官吏はともかく中間層、もしくは上部は強制的に移動させるかもしれないと考えるのは普通の事だろう。どこまでやるかは未知数であるが。
平和時において地方の領主は中央に力を持っている人間に対しては無力である。それは、周りから攻められる大義名分を得られる上に、それが功となるので各地の領主が躍起になって襲い掛かって来るからだ。
さらに中央に逆らったという事で人心も離れる上に、離反や裏切りが相次ぐだろう。どれだけ上手にやったところで、結局のところは中央に対しての影響力如何は重要な事である。特に人治国家の場合は。
なので袁家がこの楊州の地を得ることが出来たのも恐らくは中央に対する働きかけがあったのだろう。それに付随として発生したお金はどう回収するのか?
それは当然楊州全域から発生する税で取り戻すのである。それと同じように当然ながら今回の就任騒ぎで各地の地位を約束したりしているだろうから、中間層や上部はかなり人事異動させられると予想される。
それがどの様な約束であるにしろ、約束の対価は地位やお金、場合によっては物などである。
今回の場合、名門袁家の台頭を本来阻止したいはずの宦官や外戚などを押し切るほどの行いをしたのだから、この結果で楊州全域の人事異動が起こるのはとても自然な事である。
それをどの程度の規模で行うのかは謎であるが、それでも大きい動乱の火種を蒔くことには変わりない。
孫策が動かない事で、結果的な陸家の一時的な没落はもしかしたら袁家の手によって行われるかもしれない。そうなると、ここで手助けするという考えはそこまで間違っていないと思われる。
この世界は面白いことに所々歴史が大きく変化するのだが、大勢はあまり変わらない。
この前も、売官が行われた。本来は俺の手で行われる政策の一つだった気がするが、そうはならない。
小帝の後ろ盾をしている外戚と宦官が手を取り合って売官を行い、そのほとんどを懐に収めてまた売官をすると言う悪循環が発生しているのだ。
正直な話、ここまで露骨な事をやられるといい加減我慢出来なくなりそうなのだが、まだ手は出せない。
胸糞悪いが今は静観するしかない。華琳に迷惑をかけるわけにも行かないのが一つと、何の後ろ盾もない人間が何やったって基本的に効果が薄いのが一つだ。
もしも俺に超人的な力でもあれば話は別なのだが、無い物は無い。
話を戻すが、袁家の袁術が人事異動を決行するとすれば、前英雄の孫堅と仲が良い、または親交のある人間を対象にするのは自然な事だ。孫策に地盤をもたれたら厄介だからだ。
また、政策実行能力にも影響するので、ここで手を抜くという選択肢は袁家にはないだろう。実際、今現在多くの諸侯が孫策下ろしに必死である。
それが袁家の意図として行われたのか、そうでは無いのかは知らないが事実としてそういう運動があり、孫策が地方の豪族を纏めきれていないのは事実である。
こちらとしては、これから就職するのだからあんまり梯子外しばかりされても困るのだが、諸侯の対応は保身と言う意味ではまともなので仕方が無いとも言えた。
ただ、後に孫策に権力が戻った時にどうなるかまでは知らないが。ちなみに、ここ廬江郡全体を統括している陸家の方針は未だに孫家寄りである。
なので、袁家から疎まれる存在であるのは確実だ。その際に色々と貸し付けるために、今こうして行動しているのだ。
また、彼女には姉妹がいるそうだが多くは他方に飛ばされるだろう。
一箇所に留めておかない事で人質としての役割も発揮するし、護衛として孫家の家臣も向かわせなければいけなくなる。
これでまた力が削がれるのだ。こうして考えると人質と言うのはとても効果的な策だなぁ、と思う。
……どうでも良いが孫家の末女はここでも末女だった。てっきり男だと思って人に話して恥をかいた記憶がある。何でそこだけ歴史通りなんだろうか。
テクテクと城壁の上を歩く。巡回している羅卒がいるが適当に手を振るだけで全然怪しまれない。
常日頃、こうして城壁の上を散策していると今日もやってるのか程度にしか認識されないのだ。日頃の行いはとても大事である。
「まぁ、やってる事は賄賂渡してるだけだけどね……」
俺も宦官笑えないよなぁ、と思いつつ望遠鏡を取り出す。なぜかこの世界は普通に眼鏡があるので、それを買って適当に組み合わせて望遠鏡を作った。
ここが本当に後漢なのか疑わしいと感じ続けて来たがこれでわかった。ここ絶対後漢じゃない。出来るものだなぁ、と現実逃避しつつも心の中ではそんな馬鹿なと思ったりもしたが、今はもうあんまり真剣に考えないようにしてます。
ちなみにコレは軍事機密になると思ったので誰にも見せてない。家に帰って適当に組み合わせて作った。出来は正直悪い。かなりぼやけるし、何よりあまりよく見えない。見えないが、地形を適当に見る分には問題ない。
それと、顔の簡単な輪郭とか髪型を調べる程度には使える。適当に太守の裏庭を望遠鏡で覗く。未来においては犯罪だが、今この時点で法律なんか無いので問題ない。
麻薬なんかで脱法とか言われる仕組みと同じである。今法律で決まっていないのだから許されるよね? と言う精神だ。当たり前だが後の領民には真似して欲しくない考えである。
「あれか? 本当に武術やってるんだな」
庭では女性が一人で武術の練習をしている様子が見て取れた。腕前のほどはよくわからないが、とりあえず俺なら一撃で負けそうな強さである。
それくらい動きに淀みが無い。根使いのようだが、時々根が変な曲がり方をしているので三節根か七節根辺りのようだ。
あの動きについていけるかどうか聞かれたら無理だと答えざるを得ない程度には洗練されている。
一流どころを見た事が無いので彼女が一流なのか、そうでないのかは判断出来ないが、その辺りにいる一般兵よりも強い事はわかる。わかるから何だという話ではあるのだが。
「もう充分か、顔は見えなかったけど出口は確認出来たし」
それ以外にも武術をやってるのが本当と言う事も確認出来た。後は髪型がわかったくらいか。あと服装。
何か知らないがあんまり野暮ったい服を着ないよね、この辺りの人達。暑いのはわかるけれど正直どうかと思う。
布は良さそうなのを着ているのだから面積広げれば良い。こちらとしては目のやり場に困る。
「まぁ、服は良いか。……それにしても、やっぱり何をするにしても俺は邪魔になりそう何だよなぁ」
体力がない事と武術を行っていないと言うのは科学技術が発達していないココではかなり不利だ。
もちろん軍を持てたりすれば話は別なのだろうが、誰が持たせるのだという話である。それに行軍にだって体力はいるんですよ、現実問題。徒歩はかなりの距離歩けるようになったけれど。
さらに自分の身を守る事すらままならないようでは何も出来ない。仕方が無い。やりたくは無いが一応保険として計画していたアレをやるしかない。
「あー……薄汚れていく気がする」
主に心がね。
■■
「それじゃあ、また」
「おう!またな!」
相手が意気揚々と引き上げていく。それを手を振って見送った。相手が遠くへ行くのを確認してから、ふーっと息を吐いた。ちょっと後ろめたい取引だったためだ。
「いやぁ、本当に買える物なんだなー……」
渡された木箱。中身は上の方は書物の山が入っている。おかげで持つと中々に重たい。重たいが、本命はそこじゃなかった。さすがにココで開けるわけにはいかないので、一度家に戻るとしよう。
家の近くで受け取ったので、少し歩いけば自分の家へと戻れる。重たい木箱を持ち上げる。力の無い俺としては、かなりきつい。きついが、一刻も早く中身や使い方を確認したいので頑張って歩く。
帰る途中に何度か話しかけられるも、適当に話を合わせるつつ早々と去る。重たい木箱を持ちながら楽々と放せるほどに俺に体力は無い。
ゼェゼェと息絶え絶えになりながら部屋の前で一息つく。相変わらず体力は無かった。ちょっと歩いただけなのに、もう息が上がっている。ちょっと情けない気持ちになる。
扉を開ける。中は朝出た時とまったく変わらず書物やら竹簡やらが大量に床に溢れている。直接的に言うと汚い。何とも悪い意味で生活感が出ている部屋だった。
「よいしょっと……」
木箱を下ろして中身を空ける。上にある本を退ける。そうすると小さな板が箱の中間に敷き詰めてある。それをどければ、本命の物が出てくる。
弩である。本来は政府が厳格に管理している物で、しかも私有は犯罪なので手に取る事なんて出来ないはずなのだが、残念な事に中央の力が減ると、こういう風に賄賂とか色々やると手に入るようになってしまうのが現実。
一応皇族である俺としては、あまり良い気持ちにはならない。だが、この武器は俺に必要なものだ。正直、弓も剣も扱えない俺が武力をそれなりに持つには簡単に扱えてそれなりの威力を発揮する武器が必要なのだ。それが弩である。
木箱からゆっくりと持ち上げる。故障して使えないと認定された事になっている弩。だが、どう見ても新品同様だ。と言うか、新品のはずだ。そう言ってたし。
箱から専用の矢も取り出す。全部で20本くらいしかない。実は弩の矢は弓とは違って専用の物になる。矢羽が極端に少なく、また普通の弓のそれよりも少し短めだ。
だから、俺は弩を二十回しか使う事が出来ない。持ってるだけで犯罪な上に二十回しか使えない武器。それが弩。割りに合わない気もして来るというものだ。
「しかも、かなり高かったんだよなぁ……」
おかげでかなりの間、本屋で写本作業をするはめになってしまった。それでどうにかなるのは本がそもそも高価な物だからだろう。
一応覚えている内容の本とかもあったので本屋に無い本を増やしてあげたりもしたので金払いはかなり良い。
関係も良好だ。だから買えたというのもある。これが単純な労働などになると急激に給料は下がる。
もちろん生きていくだけならば余裕だろうがこういう事は出来なかっただろう。頭が良くて良かった。ありがとう、俺の頭脳。
カチャカチャと弩をいじってみる。当然、矢を番えるのにだって力は必要だ。
試しにちょっと矢を番えてみようかな? そう思ったが下手にやって壁に穴を開けでもしたら弩を持っている事がバレてしまうかもしれないので、やめておく事にした。
買ったのは良いのだが練習が出来ないので本番でどこまでやれるか不安だ。外で持っているのを見たら即逮捕なので見つからない所に隠すしかない上に外で練習出来ない。
しかも俺の部屋には物を隠す場所などない。ではどうするか? 持ってきた箱に入れるしか無い。俺は弩を箱の中に戻して、板を並べて本を上においた。
俺が読書家である事は周知の事なので、これで誤魔化せるだろう。ちなみに上にある本の多くは古くなった本ばかりだ。
お金に苦労しながら官吏を目指しているという設定の俺ならば、安い本を手に入れて勉強しているとか言えばたぶん騙し通せるのではないだろうか。中を確かめられたらその限りでは無いが。
「まぁ、何にせよ、これで俺にも武力が手に入ったわけだ」
仮初で、しかも弾数制限があるとは言っても弩は強力な武器だ。俺のような弱い人間にはあるのと無いのとでは安心感が違う。最終的に目的を達成出来れば良いのだから、その為に少し手を汚すくらい良いさ。
清廉潔白など望むべくもないのだから。手を汚すのなんて今更ためらう事でもないだろう。
俺は少し伸びをしてから横になって本を読むことにした。結局、力が無い俺は相手が動くまで待つくらいしかない。だったら、精々もっと頭を良くしておくだけだ。力を持つまで……ね。