後漢のいわゆる霊帝と呼ばれる人間が生きている時代。この時代は、名士にとっては苦難の時代である。
それは立場的な事もある。中央を宦官に乗っ取られ、多くの官吏を金で買われてしまい、その親族たちが政治を司るようになってしまった。
その為に多くの名士が立ち上がり、しかし事前に計画が露見して命を散らせて行った。
だが、名士達にはそれに関連して、もう一つの重大な問題が発生していた。
ズバリ、就職難である。先ほども言ったが官吏の役職。しかも中央の美味しい所は大体宦官の親族により席を取られている。
そうなると、就職先は田舎くらいになるが、田舎は田舎でその土地に代々住んでいる人々が下級官僚を勤めている上に、多くの場合はそこの中で最も傑出した人物が中央に入りコネを使ってそこの後釜に座ってしまう。
若く有能で血気溢れる若者達も、お金と人脈の前に膝をつき、官吏の道を絶たれてしまう事が存在してしまうのだ。悲しい事だ。
そして俺は就職に失敗した浪人の一人であった。今さっき、募集していた仕事が他の奴に奪われた所だった。
「………」
少し門の前で呆然としたが、とりあえずダメだったものはダメだったと受け入れて俺はゆっくりとそこから立ち去る。正直、ちょっとだけショックだ。
ちなみに、恐らくは純粋に能力負けと思われる。子供の頃から本気出して家庭教師をつけてもらったり、私塾に通っている人間と宮廷に篭もっていて我流で勉強した人間では大きく差が出て当然だった。
同じ内容を覚えていても主流の読み解き方や一般的な解釈と言うものがある。それを一切やっていなかったのだ。幾ら内容を暗記していようが理解が乏しければ弾かれるのも当たり前だった。
しかも俺の場合は勉強していた内容の多くは兵法が中心でおまけで個人的に行政の仕組みや軍権についての思いがポツポツとあるだけであった。
だが今現場で必要とされているのは実践的な帳合とかであった。そもそも、ここ廬江は戦争に関しては河賊が時々暴れる程度だ。
よくよく考えれば黄巾の乱が発生するまでは中央や異民族と面した地域では戦闘が発生しているが、それ以外の地域は重税などで苦しんだりしているとは言え政治的な混乱はあまり無いのだから戦力なんて必要ない。必要なのは普通の文官だ。武官じゃない。
特に素性も知らない人とか雇わない。一応雇用制度とか確立していて、清廉な人物が選出されているのだ。内実はどうかはともかくとして、やはり他人の評価と言うのは馬鹿に出来ないのだった。
「ふぅ……どうするかな」
まぁ、別に何をしても良いのだが、出来れば隠れ蓑的な物を探しているのだ。それは、出来れば有力な名士がいる所……だったら嬉しいなぁと考えている。
先ほども言ったが、やはりこの時代は人脈が命だ。それがあるのと無いのじゃ大違い。まぁ、どの時代でもそうだったけどな。結局行動するのは人間なんだから。
最終的に必要なのは人であり、そして人と人は繋がらなきゃ意味が無い。そう考えると俺の人生は人との繋がりが異様に薄い人生だな。ある一点では逆に濃すぎる気もするが。
仕方無いので今日も馴染みの本屋へと立ち寄る。
「どうもー、今日もお世話になりに来ました」
「あぁ、帰ってきたのか。その顔を見る限りはダメだったみたいだな。まぁ、ちょうど今在庫が切れた本があるから失敗を忘れて仕事でもすると良い。
写本するならいつもの所だよ。何時も通りの値段で買い取るから、頑張ってくれ」
「はい」
特に怪しまれる事もなく、そのまま奥の部屋に行く。そこには大量の墨と筆記用具が置いてある。そう、ここは写本場なのだ。
この時代は活版印刷なんて発明されていないので、書物は全部手書きだ。しかも、製紙技術はあってもあまり長持ちはしない。
なので竹簡も書物も、どちらも時々買いなおさなければいけない。さらに新刊なども頻繁に出ているようで、こう言った作業は結構需要があるようだ。
一般庶民は本を読んだりはしないが、それでも知識者層はそこまで少なくないからだろうか。
それに驚いた事に案外値段が安い。もちろん一般市民が買うには高すぎるが、それでも普通の宮使いの文官なら月に一冊は買えるであろう値段設定なので、案外売れたりする。
安定した需要があるので、こちらとしても収入源が確保出来て、とても助かっている。
「捗ってるかい?」
「まぁ、それなりに」
「いや、実際助かってるんだよ。少し前になるが、孫文台様がお亡くなりになってね。それから治安が悪化してしまって、あまりこの周辺に人が集まらなくなってね。
今まで写本をやってくれていた人間も地元に帰るとかでどんどんいなくなって困っていたんだ」
「……やっぱり、この辺りは少し前に比べて治安は悪くなったんですか?」
「あぁ、そうさ。文台様がいらっしゃった頃はそうでもなかったんだけどねえ。それに、中央からは未だに誰も派遣されて来ないから警邏の人達もどう動いて良いかわからないって困っていたよ」
中央から人が来ないのか……。動きが鈍っているな。中央で誰が行くかで権力争いか何か起こってるんだろうか。
もしも宦官の手の人間がいたらマズいな。来るかどうかはわからないが、いつでも逃げ出せるように準備だけは怠らないようにしておかないと。
「だからお城の方で人材募集があったんですね。まぁ、俺は今さっき落とされたんですけど……」
「人材募集って言っても昔から決まっていた事らしいからねえ。それに募集していたのは文官だから、あんまり関係無いんじゃないかねえ」
「かかっていた募集は文官でも兵糧や資材の確認が主な役割だったから、やっぱり夜盗に対処するための人材だと思いますよ」
試験内容はそれとは関係ない内容だったけどな。と言うか実際の作業に必要な能力よりも政府にとっての教養や気品、一般常識がある人物を採用する制度はいかがな物か……。
「そうなのかい?いやぁ、本屋を経営しといて何だけどおじさんはあんまり頭良くなくてね。字は読めるんだけどねー」
へへへと薄い頭をかきながら照れ臭そうに笑う。こちらも一応微笑を返しておいた。ちなみに会話している間、手は止めてない。買取式なので終わらないとお給金が出ないからだ。
それにしても、既に中央がきな臭いのか。黄巾の乱が起きるのはいつ頃になるかはわからないが、あまり時間の猶予は無さそうだ。
潜伏と言う目的は今の所は達せられているが、それでも次の目標である中央の情報は未だに噂程度しか耳に入ってこない。
逆にお金はそれなりに稼げている。達成目標が逆になってしまったが、どれが欠けても本来はマズい。
しかし中央の情報に触れられそうな自治組織への潜り込みは能力不足で無理になってしまったし……。代替案は何か無いものか。
「んー……………思いつかないな。はい、一本目終わり」
「相変わらず早いねえ。長年本屋をやってるけど、そんなに写本が早い人は珍しいよ? 字体が独特だとか色々と言われたけど」
「字体が独特なのは認めるけど、ココに来てそこまで立ってないはずだけど? もう俺の写本を買って行った人間がいるのか?」
「この街の太守にご縁のあるお人で、とにかく本が好きな方がいらっしゃる。お得意様だけど……注文が多いのが困りものでね」
「注文が多い……。まぁ、字体が独特だと集中できないと言う意見もあると言えばあるだろうから、わかるけど……それってどんな人?」
「廬江の太守様の分家筋のお方で名前が確か……陸伯言様だったはず。本屋に直接来るわけじゃないんで詳しい事は知らないけど、本に関する小言が結構多くて……」
陸、伯言。
「どんな人?」
「いやぁ、噂ぐらいしか知らないからねえ、おじさん。直接来ないし、何よりあんまり家から出てこないらしいからねえ。ただ噂ではかなり有能なお人だとは聞いてるけどよ」
「具体的な人物像が欠片も出てこない……。そんな事言ったら俺もそろそろ有能だって噂立ってたりする頃だったりしないか?」
「ははは、ないない。噂になっても精々が書記に適してる奴くらいだろう」
「まぁ、そうだよな」
クスリと笑った。親父さんも笑っている。
「俺の噂が出てないのはわかったよ。それで、その伯言様の噂は他にないのか?」
「やけに興味を持つなあ、お前さん。さては何かいけない事でも考えてるのかあ?やめとけー、あの人は美人でも有名だが武術もなさるからな、変な事をすると返り討ちにあうぞ?」
「変な事なんて考えてないさ。俺の写本の読者、しかも色々と言いたい事がある相手ってだけで気になるもんだろ」
「そんなもんかね、おじさんは実際に書いた事は無いからわからないなあ」
「まぁ、本屋自身がそんな事する必要ないしな。それよりも売れ筋の本とかを探したりする方が大事だろうさ。売れてる本と言えば、そろそろ阿蘇阿蘇を入荷したりしないのか?都の本屋ではかなり売れてたらしいぞ?」
実際に都にいた時は本屋なんて行った事が無いから詳しくは知らないけど。
「あの本はなー、都では人気なんだがこっちに入荷する頃には古くなって売れ行きがな……」
「都会の最先端を知りたいと思うのは乙女として当たり前の事だと思うけどなぁ……」
「知ってもお金の関係でこの辺りの人間には無理だろうさ。服は凝ったのはべらぼうに高いし、若い身分でそんな事出来るのは、それこそ陸伯言様ぐらいだろうさ」
「なるほどねえ……。でも、この辺りで服が大量に買われてるって話は聞かないから結局は阿蘇阿蘇は売れないってわけだな」
「そう言うことだ。それに伯言様は服よりも本の方を欲しがるお方なんでな、今のままで充分って事よ」
「そうか。それじゃあ、俺もそれに便乗して稼がせてもらいますか。ほい、二つ目」
そう言って俺は竹簡を置く。これで、もう二つ目だ。そこから先は親父さんの店に客が来たので、俺は作業に没頭する事になった。
■■
外が暗くなる前に本屋を出て、俺は街の宿舎に帰ってきた。荷物の類はほとんど無い殺風景な部屋でである。飼い殺しの頃は部屋の中は雑多な物で埋め尽くされていたのを覚えている。
発散されない何かを物で埋めようとしていたのかもしれない。大体は手に入ったが、思い入れのあるものはほとんど無かった。結局の所、苦労して手に入れなければ思い入れは無いと言う事だろうか。
あぁ、でも長年使っていた筆を置いて来たのは少し未練かもしれない。でも、アレだけ俺の部屋から無くなっていたら怪しまれる事だろう。痕跡や疑問を持たせる余地を残してはいけない。
「まぁ、食えて住めて着れてるんだから満足としておくか」
衣食住がそれなりならば感謝すべきだ。特に逃亡中の身としては。さらに幾つか重要な情報も手に入ったのだから喜ぶべきだろう。
それは少なくとも俺こと"卯金"の情報は一切流れていないと言う事だ。何処から情報が発覚するかわからないのだから、今の俺の情報については気を払うべきだろう。
名声も悪名も轟かせるような事は全く行っていないので今の所噂が出てくる余地は欠片も無いが、それでも注意すべきだろう。
今日、このことが確認出来たのは良かった。この街には宦官の息がかかった人物が来ない限り、俺はこの街を根城にしても問題は無さそうだ。
そもそも外見からも性格的にもそこまで目立つ人間でもないから、大きな問題は無いだろう。特異な容姿をしてたら逃げてもすぐに見つかっただろうな。
二つ目には、この街から出ていなければいけない可能性が出て来た事だ。個人的にはこの街は気に入っているがさっきも考えていたように宦官の息のかかった人物が州牧についた場合には、恐らくはこの街を現在支配している人間は切られるだろう。
それが名士側ならば恐らくは問題無いだろうが、宦官勢ならば領地の下部や上部に自らの息のかかった人物を捻じ込むくらいはやってのける。ここが長い間同じ人達が支配していた場合はそうでも無いのだが、ここは少し違う。
ただ宦官がこの州を欲しがるかどうかはちょっと疑問も残ると言えば残るけど……用心しておいて損はない。
第三に、既に陸遜がもう何故かいると言う事だ。詳しくは知らないが陸遜はかなり後半の武将だったように思えるが、何故かもういるらしい。活動はしていないようだが、それでもいると言う事実は大きい。
将来の呉の重鎮候補なので動向は出来るだけ探っておこう。今のところ、有能であると言う噂と本が好きと言う噂くらいか。後、俺の写本に文句をつけてきたとか何とか。あぁ、それと一応武芸するって感じか。
……よく考えるとかなり優秀だな。武芸が出来て頭脳明晰。さらに若い。若いと言ってもどのくらい若いかわからないので、俺としては何とも言えないが比較的低い年齢でも普通に政治の表舞台に出てくるのがこの世界である。
もしかしたら俺がいる間に太守の交代があるかもしれない、くらいには思っておこうかな。優秀なら今の太守が陸遜に政権を委ねる場合もあるだろう。一応親族同士らしいし、
四番目は中央の動きが極端に鈍っていると言うことだ。恐らくはこの地を巡っての内部抗争だろう。何と言ったって就職難なので名士側としても、この地を取って何人か親族を国家公務員にしたいと考えている事だろう。
宦官勢はこの地を取るかな。取る可能性が無いとは言わないが、川を越えて少し行けば異民族と接触する地だから、あまり欲しい場所では無さそうだ。結局は名士で落ち着くと思っているが、どうだろうか。
それに結局の所、宦官が動かせるのは皇帝の力が及ぶ所までだ。残念な事にこの時代の皇帝には力があまりない。中央集権化が進んでいないのが原因だ。
それでも反乱を起こしたりしないのは基本的な人脈作り、コネを作る上での中心地として首都があるのと、純粋に洛陽の都市としての能力が突出しているからだろうか。それとも漢という国を信じているからだろうか。
「どちらにせよ、選択肢は二つ。動くか動かないかだけだな」
人脈が無いとやれる事が限られて来る。今は時が立つのを待つだけ、か。
結局のところ、権力が無ければ政治が乱れないと動けないのだ。皮肉なことだ。世直しをしようと考えている人間が乱世の到来を誰よりも願っているのだから。
ドサリと横たわった。ゆっくりと息を吸う。目を閉じる。
今の俺は正しいのかな、なんて訳のわからない事を考えながら俺は眠ろうと努力を始めた。