「悲観主義者はすべての好機の中に困難を、楽観主義者はすべての困難の中に好機を発見する」
葉巻の似合う、島国の首相の言葉である。
そして、同じ「島国」とも呼べなくない・・・いや「空国」というべき、アルビオン宰相の老侯爵も、どちらかというと楽観主義者であった。最も、それが老人の先天的な性格だったというわけではない。王宮という舞台で、権力を握った舞台俳優が何度も入れ替わるのを、脇役として見続け、そして自分がその立場になったがゆえに、たどり着いた境地であった。
文化と芸術の国の哲学者と同じように、老侯爵は経験的に、悲観主義はその時の気分により生まれ、楽観主義は自己の意志によるものだということを知っていた。そして、ままにならぬ事だらけのこの世の中で、唯一自分が自由にできるもの-意志を、その場の空気に流すほど、彼は「楽観主義者」ではなかった。
楽観主義を貫くには、お気楽な極楽鳥では務まらない。
強靭で、しなやかな、本当の意味での「強い」精神が必要なのだ。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(老人と王弟)
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「カンバー・・・いや、ヘンリー殿下。少しよろしいですかな」
会議終了後、最後まで椅子に腰掛けていたスタンリー・スラックトン宰相は、エセックス侍従長代理と打ち合わせをしていた王弟ヘンリーに声をかけた。杖を突いて立ち上がろうとするが、思わずよろけて机に手を突く。今年で72歳になる老侯爵は、昨年末に宮中で転倒して以降、足が不自由になった。そのため国王ジェームズ1世から、鳩杖を下賜され、宮中での使用を許可されている。手を突いたスラックトンに、ヘンリーが慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「ははは・・・お恥ずかしいところを。よる年波には勝てませんな」
笑うと不思議な愛嬌のある侯爵に、ヘンリーも笑みを返す。
「で、お時間はございますかな」
「あー、いや。これから、ヴォルフ所長と会う約束があってね」
アルビオン王立魔法研究所所長-チャールズ・ヴォルフ。4系統全ての魔法技術に通じた才人であり彼の実家のヴォルフ子爵家は、アルバート(現ロンディニウム官僚養成学校学長)と同じく、大陸からの亡命貴族を祖とする「外人貴族」である。同時に、彼は東フランク王国史-特に王国崩壊後の諸国の歴史についての専門家としても知られていた。
大げさなそぶりで肩をすくめるスラックトン
「やれやれ、殿下はここ最近、寝ても覚めてもゲルマニアですなぁ。ゲオルグ1世(ゲルマニア王)も罪なお人です」
苦笑いしながら、老宰相に拾った杖を渡すヘンリー。肩を借りながら、ゆっくりと立ち上がるスラックトンは、いたずら小僧の様な目をしていた。
「別に好きで調べてるわけじゃないさ。必要だからだよ」
「いやいや、キャサリン妃殿下も、大変なライバルが・・・」
「人の話聞いてる?」
ほっほっほっ、と笑うスラックトン。こりゃ、死ぬまでぼけないタイプだな。
「同席してもよろしいですかな?」
「別に構わんが・・・いいか、エセックス」
「はっ」
侍従長代理とはいえ、王国宰相の決定に、エセックスが口をはさむ権限はない。不満げな表情を見せながら頷くエセックス男爵に、スラックトンが「すまんの」と声をかけるが「ぷいっ」と横を向いて歩き出す。とても同じ年齢の老人のとる態度ではない。
スラックトンとヘンリーは顔を合わせて、今度はそろって肩をすくめた。
この2人は専売所設置以来、よく言えば二人三脚、悪く言えば「共犯者」として行動してきた。ヘンリーの急進的とも言える改革案にスラックトンが手を加え、根回しによって摩擦を抑える環境を作り上げ、ヘンリーの意を汲んだ者や組織が、実績を積み重ねる-いつしかそういう役割分担が出来ていた。最初こそ、宰相のやり方を「まどろっこしい」とヘンリーは反発したが、敵を作らず、時には味方にもしてしまう、その政治手腕には学ぶところも多く、なにより宰相の「根回し」により、自身の構想した様々な規制緩和や制度改正が結果的にはスムーズに進んでいる事もあって、次第に初対面の時の悪い印象を打ち消していった。
そんな共犯関係も今年で早10年。実際、キャサリンから「最近、宰相さんと仲がいいわね~」という、見当違いの嫌味を言われたことも1度ではない。スラックトンの爺さんには、からかうネタを与えるようなものであるので、秘密にしていたのだが、やっぱりいつの間にか耳に入っていて、大いにからかわれた。
歳の離れた「悪友」は、一人がもう一人に合わせて、歩き出した。
*
「そもそも『ゲルマン民族』という言葉自体が、架空と妄想の産物なのです」
チャールズ・ヴォルフの言葉に、さすがのスラックトンも面食らったようだ。ヘンリーとキャサリンは、唖然として声も出ず、エセックス男爵は、紅茶が器官に入って咳き込んでいた。
「げっふ、げっは、っがが!、、ん・・・んん!な、何をおっしゃるのですかな、一体!」
「・・・唾が飛んでるんですがな」
しぶきが飛んだため、ハンカチで頭を拭くヴォルフ所長。顔ではなく頭なのは、彼が極めて・・・その、小柄な体格であるから。「小さい」「低い」という言葉は、彼の前では禁句である。所長室には、いつでもカラフルな試験管が並んでいるとだけ言っておこう。蛙が人語を喋ったとかいう噂もあるが、きっと気のせいである。うん・・・
「素人が差し出がましいようですが、過去、確かに『ゲルマン民族の大移動』と呼ばれる民族移動はあったのでしょう?」
キャサリンが首をかしげながら尋ねる。
ここは王弟夫妻の住むチャールストン離宮の一室。「たまたま」部屋で編み物をしていたキャサリンは、知的好奇心から立ち会うことにした。決して、スラックトン宰相への対抗心からではない・・・うん・・・
「確かにそう呼ばれる民族移動はありました。だからこそ、勘違いしやすいのですが」
風石が民間商船に使われるようになり、はや1千年。だが、アルビオンの人間にとって、ハルケギニア大陸が遠い存在であったことに変わりは無い。平民・貴族を問わず、一度も大陸に下りずに、空中国土で生を全うするものが殆どである。歴史的に関係の深いトリステインや、ガリア、ロマリア諸国であれば、ヘンリーも何度か訪れたことはあるが、旧東フランク諸国を訪問したことは無い。そのため一般的な知識はあるが、実際に旧東フランク地域で、ゲルマン人とはどういう存在であるのかがよくわかっていなかった。
どうやら、自分の考えを修正しなければならないと考えながら、ヴォルフの説明を聞くヘンリー。心の中で、以前からあった「嫌な予感」が、急速に形をとりつつあったが、それをあえて無視した。
ヴォルフは続ける。
「大陸から離れた我らアルビオン人には想像しにくいのですが、あの地域では『私はゲルマン人』と名乗れば、その人間はゲルマン人なのです」
「・・・そんなに、いい加減なものなのか?」
興味を引かれたのか、エセックス男爵が質問する。
聞かれたら、聞かれた事だけを過不足なく答えるのが学者。10倍にして、自分の言いたい事を言うのがオタク。そしてヴォルフは後者に近い前者であった。目をらんらんと光らせて、獲物を逃がさないといわんばかりに話し出す彼を見て、エセックスは初めて、目の前の小柄な老人の正体に気が付いた。
「そもそも、ゲルマン民族と呼ばれる集団が、砂漠のかなたから、ハルケギニアにやってきたのが、ブリミル暦2000年から2100年頃。名前の由来は、自らをゲルマンから-元々の彼らの言葉で、東を意味するのだそうですが-来たと名乗ったので「ゲルマン人」と呼ばれるようになりました」
助けを求める男爵と視線を合わせないようにする王弟。その夫人は、あさっての方向を向きながら口笛を吹き、最年長の宰相は面白そうにそれを眺めるだけ。エセックスは、自分の味方がいないことを知った。
「西フランクに比べ、人口が少ないことで悩んでいた東フランクは、ゲルマン人の移住推進政策を進めました。彼らが次第に東フランクで頭角を現し、滅亡をもたらしたのは、ご承知の通りで「アー、そうだな!それはわかっとる!わかっとる!!それがどうした!」
強行突破を図ろうとしたエセックスは「その答えを待ってました」といわんばかりに目を光らせる所長を見て、精神力が切れたことを悟った。
さすがに哀れに思ったのか、スラックトンが援護に回る。
「所長。出来れば手短に。『ゲルマン民族は架空の存在』とは、どういう意味なのだ?」
エセックス男爵は、現役の陸軍軍人時代、予算折衝係として何度もスラックトンに直訴した経験から、この老人を敬遠していた。言語明瞭・意味不明瞭な「宮中弁」で、のらりくらりと、つかみどころがなく、最終的にはいつの間にか「はい」と答えざるを得なくなる。それが「嫌悪」という感情にまで至らないのは、最終的にはこちらの利益と顔を立ててくれる折衷案を出すため。妥協と調整に掛けては、これまた老宰相の右に出る者はいない。「政治とは、利害調整と妥協」というのが、スラックトンの唯一とも言えるモットーだ。
そんな彼が苦手なのは、ヴォルフも同じようで。気まずそうに視線をそらして言う。
「・・・要はですな、コーヒーに砂糖を混ぜたものを、もう一度完全に分けることは不可能ということでして。「ゲルマン民族主義」とは、砂糖だけを取り出すような話なのです」
膨大なデーターを持ち出し、嬉々として語る彼にしては珍しく、結論を比喩で答えた。それほどスラックトンの「宮中弁」は評判が悪い。
4000年以上前に移住してきた「ゲルマン人」。東フランク崩壊(2998)から数百年の間は、元からいた住民や、王侯貴族から、ゲルマン人は徹底的に排斥された。ステレオタイプ的なゲルマン人のイメージ(好色・ケチ・つつしみが無い)が形成されたのも、排斥された彼らが、金融業で勢力を伸ばしたのもこの時代である。
だが、砂漠を越えてやって来た「よそ者」では会っても、オーガ鬼やエルフではない。赤毛や色の濃い肌、火系統の魔法が得意という特徴はあるが、それだけといえばそれだけ。話せば通じるし、通じれば交流が生まれる。そして、男と女はどこにでもいる。国境も人種もないわけで。年頃の男と女がいれば、いろいろあるわけで・・・
コーヒーと砂糖は、文字通り「混じ」った。
それが4千年。4千年だ。日本の歴史の2倍だ。
現在、旧東フランク地域に住むもので、ゲルマン人の血を引いていない者を探すほうが難しい。それを知識ではなく生活で知っている平民の間では、次第にゲルマン人に対する蔑視も薄れつつあった。いまだに蔑視が残る貴族の中でも、たまに髪の赤い赤ん坊が生まれる。そうした赤ん坊は、持参金に応じて、修道院や孤児院へと流れていくという。
「つまり、ゲルマン民族主義者のいう、ゲルマン人の国を作るという目的は、現実を無視した幻なのです。ゲルマン民族主義の一大契機とされる『マリア・シュトラウスの乱』にしても、実際には新教徒たちが主体であったことは、近年の研究で明らかにされております。都合がよければ「ゲルマン人」だといい、排斥の風潮が強い時代には「ゲルマン人」でないと主張する、その程度のものなのです」
トリステイン王国が、現在のゲルマニア王国の地域(ヴィンドボナ総督領)の人々を、「ゲルマニア人」と呼んでいたが、それはこの地域の住民に赤毛が多かったので、トリステイン人がそれを揶揄したものだという。それこそ、ツェルプストー侯爵家のように、自らゲルマン人の血を引くを誇りとする者と、さかのぼれば家系の中にいるかもしれないという者の間では、意識に格段の差はあるだろうが、克服できないものではない。
コーヒーの中から、溶けた砂糖だけを取り出そうとするほど、多くの人間は暇ではないのだ。
「・・・ということです。お分かりいただけましたか?」
「うん、わかった。ご苦労だったね、さがっていいよ」
何故か疲れたような顔をして言うヘンリー王子。何故だろう?せっかく要点だけを端的に、たった2時間で申し上げたのに・・・
むしろ越えられない壁が、今ここにあるような気がするが・・・いまはそれはいい。
***
ヴォルフが出て行き、全員でため息を付いた後、さすがに疲れた顔をしたスラックトンは、目だけをヘンリーに向けて言う。
「殿下の取り越し苦労でしたか?」
言葉だけだと、からかうように聞こえるが、口調は至って真剣。実際、スラックトンも、この王弟の考えを「取り越し苦労」だとからかうつもりは毛頭なく、むしろその懸念を深めていた。それゆえ、彼の考えを確認しておきたかったのだ。
そのヘンリーは、苦りきった顔で、親指のつめを噛んでいた。今までに見たことがない、自らの仕える主人の厳しい表情に、エセックスは「東フランクの再興」という夢物語を心配しているだけだと考えていたが、どうやら思ていった以上に重要な問題だと、認識を改めた。
塩爺など目に入らないのか、ヘンリーが自分の考えを述べ始める。
「どうやら俺は、あの金貸しを-ゲオルグ1世を、勘違いしていたらしい」
ゲルマニア王国初代国王-ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン(ゲオルク1世)。ゲルマン民族主義を利用して、東フランクの再興をたくらむ、現実主義者だと自分を勘違いした、ロマン主義者-ヘンリーは、この老人をそう考えていた。
今の、ヴォルフの説明を聞いて、「嫌な予感」を、妄想だと笑い飛ばせなくなった
「あの爺は、東フランクの再興など、毛頭考えてない」
その言葉に、いつも飄々とした顔を崩さないスラックトンが、表情を消す。キャサリンが声を掛けようとしたが、ヘンリーの思いつめた気配に、それを諦めた。こうやって自分の考えに没頭しているヘンリーには、何を言っても無駄だということを、前世からの長い付き合いで知っていたからだ。
「新たな国を、新たなホーエンツオレルン家の『帝国』を打ち立てようとしているのか・・・」
「昔はよかったと」いう表現は、新しくて古い言葉だ。まして、その時代が遠ざかれば遠ざかるほどに。解体された以降も「東フランク」という名前は、旧東フランクの貴族や知識人にとって、ロマン的な懐古主義の象徴であった。古きよき時代-騎士が騎士らしく、貴族が貴族らしくあり、エルフから聖地を奪還するために、結束して戦った-単なる昔話が、彼らの中では、それが「東フランク」という単語と結びつくことによって、特別な意味を持つのだ。
それを「ゲルマニア」という国号で、否定する。ゲルマニア-ゲルマン人の国と名乗ることで、古きよき時代の象徴である「東フランク」という名前を、根底から否定するつもりなのだ。
割れた皿を、ゲルマン人という接着剤でくっつけるのではない。
全く新しい皿を、自分の手で作り出そうとしているのだ。
「一瞬でも、ゲオルグ1世を、金儲けだけが目的の男と考えた俺が馬鹿だった」
キャサリンもエセックス男爵も、口を閉じて、何も言わない。
「あの老人は、あの地のブリミル以外の全ての秩序と、全ての歴史を否定したいのではないか?そして、そこに、全く新しい、自分だけの秩序を・・・正気の沙汰とは思えん」
言わないのではない。言えないのだ。
「全てを壊し、否定する-それゆえの『ゲルマニア』なのか」
別に『ゲルマニア』でなくとも良かったのだろう。それまでの全てを否定できれば。
ゲオルグとて、東フランク貴族の血を引く者のはず-それが何故、自分のルーツを否定するようなことをする?ホーエンツオレルン家という、自己の家の否定にもつながりかねない危険性をはらんでいるのに・・・
ヘンリーは、自分の考えが妄想だと願いたかった。そうであって欲しかった。もし自分の考えが事実であるとするならば、今このハルケギニアに、ガリアの無能王と同じ「狂気」を持つ人物がいるということになる。
だが、ヘンリーが、ゲオルグ1世やゲルマニアについて、調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、自分の考えが-老人の思考形態の予想が、当たっているという確信を深めるばかりだった。
全てを否定し、全てを壊し、新たな自分の考えを押し付ける-その原動力は何だ?どうしてそこまで、自分のルーツを、歴史を、文化を、慣習を。今まで築いて来た財産を、信用を、知人・友人を、家族を・・・おそらく、老人の中では、自分の存在そのものですら、必要とあらば否定できるのだろう。
ヘンリーは、身震いした。この世界に来て初めて、恐怖を感じた。
恐ろしかった
すべての破滅を望む「無能王」とは違う、しかし本質的には変わらない妄執
老人の、冷たい『狂気』が
いっそ全てが「妄想」だと笑い飛ばせれば、どれだけ楽になれるか
・・・どうする?
一体、自分に何が出来る?
「ま、どうでもいいことですな」
・・・・は?
「どうでもいいことです」
「・・・・は?」
あまりのことに、あほの様な顔をして、あほの様な返事しか返せないヘンリー
キャサリンはたった一言で、ヘンリーの作り出した重苦しい空気を転換させた老宰相の言動に、素直に感心していたが、その掌にはべっとりと汗をかいていた。
エセックス男は、ヘンリーの説明に圧倒され、続けざまに、スラックトンの「どうでもいい」という発言を聞かされ、何が何だか、もういっぱいいっぱいだった。早く退官して、領地に引っ込みたいと、これほど切に願ったことはない。
「・・・」
ヘンリーは未だ、間抜け面のまま、反応出来ないでいた。彼にとって、今のスラックトンの言葉は、倶利伽羅峠と鵯越と屋島の奇襲をいっぺんに受けたようなものである。ゲルマニア関連の、それこそありとあらゆる情報を集めて、徹夜で報告書とにらみ合い、何度も仮説を立てては否定し、立てては始めから検討しなおすという作業を、ゲルマニア王国建国以来、1年以上に渡って、延々と続けてきた-その仮説を、血と汗と涙と友情と努力と勝利と・・・途中から変なものも混じったが、ともかく、一生懸命考えた仮説を、目の前の、この妖怪ジジイは何と言った?
「どうでもいい」
ええわけあるかい!
怒りの感情にまかせて、細頸を締め上げブリミルの元に送ってやろうと手を伸ばしてくるヘンリーを、スラックトンは「どうどう」と制す。
おれは馬か!「馬並みなのね~♪貴方とおっても~♪」ってか!
確かに、声は似てるって言われたことはあるけどさ!!
これがヘンリーでなければ、スラックトンはすでにブリミルと対面していたところだが、この王弟がそんな事をするはずがないのは、キャサリンもエセックス男爵も-何よりも、当事者である宰相自身がよくわかっていた。
ヘンリー自身も、自分がそう見られていることはわかっていた。それが一層、彼の感情を逆なでする。「70を超えた爺さんをどうこうするのは、人としていかがなものか」という思いと「こんな妖怪爺に情けは無用、思い切ってやっちゃえ!」という欲望が、心の中で、取っ組み合いの大喧嘩を繰り広げている真っ最中だ。
そんな自分の主人を無視して、キャサリンは、この老宰相の振る舞いを、じっくりと-それこそ髪の毛一本に至るまで見落とさないように観察していた。爵位と家柄以外は何もない没落貴族に生まれ、宮廷という場所で育ち、実質上の最高権力者に上り詰めたこの老人は-自身の行動が、他者からどう見えて、どう評価され、それがいかなる反応を引き起こすか、わからないはずはない。
キャサリンも社交界という虚実入り混じった世界の出身。そして前世での経験もある。相手の表情を読むことや、望む所を察することに関しては、多少なりとも自信はあった。だがこの老宰相に関しては、まるで感情が、表情が、考えていることが読み取れない。深い皺を刻んだ顔で、いつも笑っているような表情をしているが、額面通り受け取れるほど、キャサリンは素直でもなかった。もしかすると、相手にそう考えさせることが、宰相の目的であるのかもしれない。そうだとするなら、この爺さんの思惑通りに考え、踊っている自分は、いい面の顔-いっそ馬鹿馬鹿しくなってくる。
そしてなによりも、自分よりも、よほどヘンリーをうまくあしらっている事が、彼女にとって、どうしようもなく悔しかった。嫉妬とは違う。女である自分が、決して入り込むことの出来ない(本人達は否定するだろうが)男同士の「友情」が、うらやましかった。
自分だって、ヘンリーの-『高志』の事を、全て理解しているとは思ってはいない。だが、何十年も連れ添ってきた自分と夫よりも、精々10年しか付き合っていない二人の間にある「絆」のほうが、強いものに見えた。
・・・うん、やっぱり認めよう。自分はこの爺に嫉妬している。
スラックトンは、そんな視線に気が付かないのか、気が付かないふりをしているのか、気付いていて楽しんでいるのかは解らないが、顔の皺をより深く刻み、顎髭をしごきながら、未だに憤りを隠せないヘンリーに向き合っている。
老宰相は厳かに、神官が祈りの言葉をささげる前のように間を空けてから、口を開く。
「殿下、今検討すべきことは、ゲルマニアがいかなる目的の元で行動するか。それを受けて、わが国がどう行動するかということです」
「わかっている。それくらいわかっている、だが、それがどうした」
ヘンリーも子供ではない。反論しながらも、スラックトンに目線を合わせ、話を聞く姿勢に入っている。キャサリンには、スラックトンの目が、少し笑ったように見えた。
「最悪の事態を想定し、最善の計画を立てろ-古代の賢人の言うとおりです。まずゲルマニア王国旧東フランク地域を、いかなる手段によるのかはわかりかねますが、統一しようとしている可能性について検討をすることには、賛成致します」
可能性だけなら、アルビオンに宣戦布告をしてくる可能性はあるが-「Can」の選択肢でなければ、検討する意味はない。その点で考えれば、ゲルマニアによる東フランク地域統一という選択肢は、可能性も意味もあった。
「ですが、その行動の理由を「何故か」と考えることは、余り意味のないことなのです」
反論しようとするヘンリーを、宰相は、再びその手で制して続ける
「確かに、理由を知ることが出来れば、何故その行動を起こすかという理由を知っていれば、より効果的な対応を打つことが出来るでしょう。しかし・・・」
「・・・っ」
スラックトンはいったん言葉を切る。もどかしそうに続きを促すヘンリー。完全に宰相のペースである。
そして老侯爵は、決定打を放つ。
「他人の考え方を、一部の違いも狂いもなく理解できる人間はいないのです」
そう言って、片目を瞑るスラックトン。普通、爺のウインクは気色悪いだけだが、この老人がやると、何故か可愛げがある。
完全に毒気を抜かれたのか、椅子に座り込むヘンリー。
キャサリンは、舌を巻くと同時に、顔を赤くした。相手を煽って、会話の主導権を握る。押して引いて、相手の矛先をかわし、興味を持たせるための会話の間-詐欺師でも、こうはいかないだろう。そして顔を赤らめた理由-スラックトンのウインクは、この自分にも向けられていたのだ。「安心しなさい、貴方の主人を奪いはしませんよ」とでも言うかのように。
な、なんで私が、あんたみたいな爺と、この馬鹿を取り合いしなきゃいけないのよ!!
くるくると顔色を変えるキャサリンを、視線だけで楽しそうに眺めながら、スラックトンは、座り込んだ若き王弟を、文字通り懇々と諭すように、話し続ける。その光景は、まるで実の祖父と孫のようで-いや、年齢の離れた教師と、出来の悪い生徒か?心なしか、宰相の口調が、弾んでいる様に聞こえた。
「殿下のご心配はわかります。ですが、考えても仕方がないことなのですよ。人の心など、神でもなければ、確かめようのないことですからな」
「だがな、宰相」
一旦そのように考えると、全てがそう見えてしまう。ヘンリーの口調も、どことなく教師に甘える生徒のように聞こえてくるから、不思議なものだ。エセックスなど、久しぶりにヘンリーの、素の表情を見ることが出来て、嬉しそうだ。
「殿下はお優しいですな・・・しかし、人の力には限りがあるのです。それは、王とて、王族とて同じことだということを、忘れないでください。その目と手の届く範囲でしか、出来ないことが、いかに多いことか・・・」
何かを思い出すように、言葉を選びながら言う老宰相。綺麗も汚いも、酸いも甘みも知り尽くしたこの老人は、その皺を一本刻む間に、どれくらい多くの出来事を諦め、どれほど多くの人の手を振り払ってきたのか?
「何もかも、ご自身で抱え込むことはありません。その為に、我ら「貴族」がいるのですから」
その言葉にエセックスが頷く。立場は違えど、同じ年数をアルビオンに仕えてきた者同士、通じるものがあるようだ。
「まずはご自身のことをお考えください。殿下は、もっとご自身を大切になさるべきです。自分の大切なものを守れないものに、国を語る資格はありません。ましてや、自分を粗末に扱うものには」
ヘンリーは、居住まいを正し、老宰相の諫言に耳を澄ます。何故か、そうしなければならないと思ったから。
10年以上この王弟を見続けてきたスラックトンには、彼の「優しさ」が心配だった。
あふれる創意と斬新な視点で(多少理解に苦しむものも混ざってはいるが)、様々な改革の原動力となったこの王子は、自分の存在を軽んずる傾向がある。知識としては、王族だということ、重要な立場にいることを理解してはいるようだが、それが自分のことだとわかっていないように思える。
どこか「他人事」なのだ。客観的に自分を観察できるといえば聞こえがいいが、それは小説の主人公を眺めているような、劇を観覧する観客の様な-無責任とまでは言わないが、必要とあれば自分の死でさえ、平然と受け入れるような・・・
それでは駄目なのだ。
現実は物語のように奇麗事ばかりでも、救いようの無い悲劇ばかりでもない。地面を這い蹲り、泥まみれになり、傷だらけになりながら、死ぬまで歩み続ける。歩み続けなければならない。それが生きる人間の権利であり義務だと、スラックトンは信じていた。
この王子は、それを見ているだけだ。確かに、彼は必要とあれば、汗を掻くことも、手を汚すことも厭わない。それは認める。だが、自分自身が、泥だらけの傷だらけな惨めな姿になっても生きるという、生への執着が、本質的に感じられないのだ。
キャサリン妃殿下と夫婦となられ、アンドリュー殿下がお生まれになって、すこしは生きることに執着を持たれたようだが・・・スラックトンからすれば、まだ弱いといわざるを得ない。
何に重きを置くか-大切なものに順序を付け、そのためには、他の物を、他者を切り捨てても守り抜くという腹が決まっていないからだ。
優しさともいえる。
だが、それが命取りにもなりうる
全ての人間を幸せにすることは出来ない
自分のように、大切なものを失ってから気付いても遅いのだ
「2羽のウサギを追う者は、結局1羽も捕まえることが出来ないのです・・・いけませんな。どうも年寄りは説教臭くなりまして」
照れ隠しなのか、顎鬚を撫でながら口元を隠すスラックトン。
ヘンリーは笑った。キャサリンも、エセックスも笑っていた。
それが、アルビオン王国宰相スタンリー・スラックトン侯爵が、ヘンリーに残した「遺言」となった。
「1000年に一人の宮廷政治家」は、執務室の椅子に腰掛けたまま、息を引き取っていた。
浮かべていた笑みの意味について知る者は、誰もいなかった