いつか来たこの部屋で、俺は漫画のページを捲っている。 対面に腰掛けるヒルダはにやにやと笑い続けていた。「君の思い出の場所、なのかな。随分と面白い部屋だね。アニメーションが好きだったの?」 俺は答えない。ページを捲って、捲って、ブリジットという名の少女がどのような結末を迎えるのか、ただそれだけを求めていた。 彼女は禁忌とも言える担当官殺しをしてしまう。 や、結果的には未遂に終わるのだが、耐え切れないストレスと薬からの禁断症状で判断力を失ったブリジットは、最後の味方であるアルフォドを手に掛けようとしてしまうのだ。 もちろん代償は大きい。 かんかんに怒った公社はブリジットの意識を完全に殺して、ただの殺人人形に作り変えようとする。 そして怪我から復帰したアルフォドはブリジットを失ってしまったことに気がつき絶望。 アルフォド様と微笑むブリジットに彼は自分の過ちを知った。「……なんて救いのない……」 思わず毀れたのはそんな言葉だった。 だってそうだ。 ブリジットはあんなに傷付いて、味方を殆ど失ってまで世界を変えようとしたのに、少しでも幸せな結末を望んだのに、彼女は得たものは公社の奴隷としての人生だけだ。 ブリジットに自分の命を託して死んだピノッキオもエルザも、 彼女と仲違いしたままのトリエラやクラエスも、 ブリジットに親身になろうとしたペトラも、 何より彼女に愛を伝えようとしたアルフォドが報われていない。 こんなバットエンド、誰も救われていない。 ブリジットは何一つとして救えなかった。「それがあなたと私の終末なのかしらね」 対面のヒルダは俺から「GUNSLINGER GIRL」の単行本を受け取る。ぱらぱらと流し読みした彼女はあらあらと笑った。「公社が私を肉体的に殺すなり、精神的に殺すなりしてくれればもうこのお話は終わりだったのに……。まさか二人とも生きてるなんてね」 そう、公社はブリジットの意識体を殺そうと画策するが、ものの見事に失敗してしまっている。 俺とヒルダの意識はこうしてブリジットの深層意識に避難しており、肉体の主導権は失っているものの、まだ生きていたのだ。「でも実質の終わりだ。ここでブリジットの物語は終わった。俺は何も変えられなかったんだ」 失っていた外見が急速に取り戻されていく。ブリジットの姿を取った俺は赤毛のヒルダを真っ向から睨み付けた。 ヒルダはその視線から逃げることなく、逆に受け止めるように言った。「君は何も変えられなかったし、アルフォドを殺して君と共に死ぬという私の復讐も失敗した。本当、凄い抵抗だったよ」「あそこで彼を殺しても物語りは救われない。だから助けた」「嘘つき。彼のことが好きだったからでしょう? 身体を共有していた私が気が付かないはずないじゃない」 俺はヒルダから視線を外す。彼女の嫌らしい笑みが癪に障る。「条件付けの洗脳を抜きにしても、あなたは彼に好意を抱いているわ。私はこの気持ちを知ってる。私がユーリに抱いていた感情と全く同じ。 親愛と、友情と、憎しみと、それ以上の情欲がそこにはある。ブリジットはね、世界の誰から認められなくても、アルフォドにだけ認めてもらえればそれで良かったのよ。 そうすれば皆は救われずとも、ブリジットは幸せになれたわ」 ヒルダの告げる事は本当だと思う。ブリジットは、俺が宿っていたブリジットは本当にアルフォドのことが大好きだった。アルフォドの首から手を外したのは俺でもヒルダでもない。 身体に刻まれていた、ブリジットとしての意識が、そして願いが彼を助けた。「何時の間にか身体の主導権はどちらにもなかった。私もあなたも宿主のふりをするだけで、ブリジットという名の少女は確かに存在していた。それは身体からくる人格であり、公社が植えつけたあなたが来る前の人格。 今は彼女に全てを乗っ取られて、こうして二人仲良く深層心理に閉じ込められている。馬鹿みたい」 ヒルダが漫画を投げ捨て、壁際に置かれたベッドに横になった。無機質なフィギアたちが見下ろしているにも関わらず、彼女は何事もないかのように身動き一つしない。 彼女はこちらに背を向けたまま、ポツリと零した。「もともと私は義体として覚醒するのが嫌で、早く死にたかったから肉体の主導権をブリジットに手渡したの。でもその過程であなたが紛れ込んだ。この世界の知識を持つ不思議なあなたがね。最初は神か何かと思ったわ。でも違った。あなたは私と同じただの人間で、しかも男の子だった。 ……今でもわからないわ。あなたがここに来たのが果たして良かったのか悪かったのか。あなたが来なかったらユーリは死ななくても良かったかもしれない。でもあなたが来なければ私自身の手でユーリを殺さなければならなかったかもしれない」 きゅっ、とヒルダが己の身を抱く。「父親に裏切られて、男共に犯された私は死を選んだ。もしあの時生を選んでいたのなら皆幸せだったのかしら」 俺はヒルダに答えない。ヒルダもまた答えを持っていなかった。 ブリジットという器の中でさ迷い続けた俺と彼女は何も得ることが出来なかった。世界に対する結論も、皆に対する答えも持っていない。「あなたはどうなの? もし余計な干渉をしないで、アルフォドに甘え続けて人を殺す物語と、今までの物語、どちらが幸せ?」 そんなこと答えられるわけがない。彼女も最初から返答は期待していないのか、静かに溜息を吐くと、いよいよ本格的に動かなくなった。 俺は手持ち無沙汰になった手で単行本の山を眺める。 一巻から始まり、七巻まで来た物語は終わりを迎えてしまった。 誰も救われないバットエンド。ヒロインが人形になったデットエンド。 果たして俺が変えてしまった結果の物語。 床に無造作に置かれた単行本を抱えると、俺は本棚に向かった。 生前読んでいた漫画本の隙間にぽっかりと、七冊だけ抜け落ちている場所がある。 俺はそこに一冊一冊丁寧に本を戻していった。 そして七冊目を収めたとき、それに気が付く。「あれ?」 七冊ある単行本の後、真っ白な背表紙の単行本が六冊あった。 手にとって中を確認するが白紙のページが刻まれただけで何もない。表紙も作者も校閲印もない、まっさらな白い本だった。 そしてそれは、本来続くはずだった「GUNSLINGER GIRL」の八巻目からだと気が付いた。 俺は慌てて今までの単行本の表紙を見る。 描かれている人物や中身こそ違うものの、タイトルはしっかりと「GUNSLINGER GIRL」となっている。中身が別の道を辿っても、物語はまだ続く予定なのだ。「中身も表紙もない。でも展開は書き進められる。これって……」 自分でも暴論だと思う。自分勝手で都合の良い解釈だろう。だがそれでも、エンディングに納得できなかった俺はそこに可能性を見出した。 ベッドに寝ているヒルダを叩き起こし、俺は白紙の単行本を見せる。「ヒルダ、俺たち、また向こうの世界に出られるかもしれない」 こちらを驚いたように見上げていたヒルダだが、直ぐにその綺麗な双眸を細めた。そしてその可能性は知っていると告げる。「私はその方法を知ってるよ。でも到底薦められない」 そう言うヒルダだが、瞳に若干の期待が混じっていることを俺は見逃さない。 俺はどういう事だ、と彼女に掴みかかった。「公社の作り出したブリジットに身体を乗っ取られたからこそ、私たちはここにいる。恐らくブリジットの肉体そのものが滅ぶまでね。けれどもブリジットは私とあなたから作られた折衷案みたいな意識体。 ブリジット本体へ私たちが同化することによって肉体の主導権を取り戻す可能性はある。いや、十中八九取り戻せるわ。公社は意のままに操ることの出来る人形を製作したと考えているみたいだけど、実態は違うの。 だって、今まで操っていた私たちが追い出されただけなのだから。再び手綱を握れば私たちの勝ちね」「GUNSLINGER GIRLの物語は続いている。ブリジットの物語はまだ終わりじゃないんだ。元に戻ればやり直せる可能性もある」「そう。肉体も精神体も死んでいないのだから、ブリジットの物語は厳密には終わりではない。でも同化するには一つ問題があるわ」 俺の下になっていたヒルダが起き上がる。彼女は乱れた髪を整えると、俺が抱えていた白紙の単行本を奪い取った。「ブリジット同化すること自体は今でも出来る。でもね、今のままじゃ彼女に取り込まれてデットエンドにしかならない。主導権も握れずに殺されるの。だから先ずは私たちが一つになる必要がある」 彼女は白紙のページを俺に見せつけた。「私はあなたの記憶を、ブリジットとして生きていた記憶を知ってるわ。でもあなたは私のヒルダとしての人生を知らない。私たちがブリジットに立ち向かうには記憶を共有する必要がある。互いに齟齬が発生し、そこに付け込まれないようにね」「なら……!」「確かにあなたへヒルダの記憶を追体験させるのは吝かではないわ。でもね、私は今でもあなたを憎んでいる。ユーリを殺したあなたをね。この憎悪は本物だわ。だから私があなたにヒルダの記憶を見せた場合、最後はあなたの意識そのものを殺し尽くそうとする」 それはつまり消滅ね、とヒルダは笑った。彼女は悲しそうに、様々な感情を湛えながら笑みを浮かべる。「あなたは私が死ぬその瞬間まで追体験しなければならない。でも耐えられるの? 私の憎悪渦巻くあの世界を。私はね、あなたも嫌いだけどそれ以上に世界そのものが大嫌い。父に裏切られ男たちに犯された記憶なんか碌なことはないわ。絶対あなたは壊される。私はあなたが憎くて仕方ないけど、この深層世界での話し相手としてなら結構好きよ」 だから止めておきなさい、ヒルダはそう言ったきり俺のほうを向かなくなった。 俺は床に撃ち捨てられた単行本を拾い上げて、渋々と本棚に戻った。 本当に、俺はこれ以上何も出来ないのだろうか。 ページを捲る音だけが世界を支配する。 当てもなくページを捲り続けてはいるが、ブリジットには別段目的があるわけでもない。 ベッドに横になったヒルダも、寝ているわけではないのに声一つ上げない。 時折ブリジットがヒルダのほうを思い出したように見つめるが、声を掛けることは終になかった。 どれくらいの間そうしていたのだろうか。 ヒルダが三度目の寝返りを打った時、ブリジットが徐に口を開いた。それはヒルダに告げるのではなく、まるで自分に言い聞かせるかのような口調だった。「何かが変えられると思った。前の人生でどんな死に方をしたのかなんて全く覚えてなけどさ、この世界のことは知っていた。変えられると思ったんだ。でも物の見事に失敗したよ。それが溜まらなく悔しい」 一拍置き、「ヒルダ。君の記憶を見せて。俺は少なくとも君よりかは長い時を生きてきた。君の憎悪になんか負けない。必ず君を受け入れて体の主導権を取り戻す」 ヒルダが起き上がる。彼女はブリジットの正面に立つと、彼女の漆黒の眼を覗き込んだ。 碧眼と黒眼が交錯する。「もう、帰って来れないかもよ?」「それでもいい。ここで朽ち果てるぐらいなら何とかしてみせる」「あれ程世界に絶望していたのに? あんなにも皆を恨んでいたのに?」「だからだ。ここに来てまだやり直せることを知った。物語はまだ続くんだ」 ブリジットはヒルダを見据える。ヒルダは困ったように息を吐き、そっと腰を下ろした。そしてブリジットの手を取る。「不思議な人。ここに来て条件付けが解けたのだから、アルフォドにもあの世界にも未練が無くなると思ったのに……。死ぬ前のあなたってこんなにも前向きで諦めが悪かったの?」 ヒルダの手をブリジットが握り返す。彼女はここに来て初めての笑顔をヒルダに見せた。「世界は変えられなくても、悲劇は変えられなくても、俺自身は、いや、私自身は十分変わったよ。ヒルデガルド・フォン・ゲーテンバルト」 虚を突かれたのヒルダだった。彼女は初めて驚きらしい驚きの表情をブリジットに見せた。 そこには亡霊と化していた彼女の面影はなく、年相応の少女がいた。 ヒルダはブリジットに答える。「そう。ならもう止めないわ。何度も言うように、私はあなたが殺したい程大嫌い。……でも、死なないでね。ブリジット・フォン・グーテンベルト」 ブリジットとヒルダの額が合わせられる。互いの手を取り合い、追憶の扉を開く。「残酷な運命を変えてとは言わない。でも、一滴の救いをあなたにどうか」「それだけあれば、何でも出来るよ」 最後に見たのはお互いの微笑みだっただろうか。 光の向こうへ待ち受けるヒルダの記憶へブリジットが歩みを進める。 もう一度、運命に立ち向かうため、 ブリジットという名の少女に、本当の意味でなる為に、 彼女の戦いは再び始まった。 Next episode ヒルダという名の少女 三月投稿予定。 次回から、逆転サヨナラ満塁ホームランへ走ります。 あと劇場の存在を忘れていました。出来次第投稿します。これは大晦日までに。