暗い暗い意識のそこ、ヒルダという名の少女はさながら女郎蜘蛛の如く、俺というブリジットの身体を食らっていた。 抵抗する意思は最早存在せず、空ろな感覚だけが全身を覆う。 少しずつ記憶を消されていくのも、もう慣れた。 そこにあるのは終末に向かう怠惰で甘美な眠気のみ。「さあ、ブリジット。殺しなさい」 手に握らされた拳銃の重さが、まるで命の重さ。 この世界を走り続けてきた意味が、果たしてどういうものだったかは忘れてしまったけど、リハビリがてら何も考えずに走り続けるのは気持ちの良いものだ。 ブリジットは著しく低下した体力を恨めしく思いながらも、珠のように汗を滴らせてランニングコースを無我夢中で駆け抜けていた。 その様子をジャンとマルコーが見つめている。「あれが記憶を失う過程の義体か……。案外元気なものなんだな」「限界ギリギリまで引っ張り続ける投薬の所為だ。あれでも薬を切らすと五分と立たずに倒れる」「ならああやって走らせていいのか?」「勿論ダメだ。本来なら病室で寝かされている。だがアルフォドがそれを望まない。彼女がアルフォドに気がつけなくなっても、奴はブリジットの好きにさせたいと言っている」「……元同僚には甘いんだな」 よたよたと快速を飛ばしていたブリジットの足が止まる。まだ走り始めて五分。以前なら一時間でも二時間でもぶっ通しで走り続けていた彼女の姿はもうない。 崩壊寸前まで磨耗した肉体がこれ以上のランニングを拒否していた。「やっぱ、ダメかな」 目を細めて笑うブリジットは若干伸びてきた髪を纏め、潰れた右目を再び眼帯で隠して、宛がわれた個室に帰っていった。 全ての体力テストで最低ラインを叩き割り、義体としての性能に一つの期待も持てなくなっても、俺はのんびりと昼食を取っていた。 ジャンから差し入れられた病院食を水で流し込み、デザートに用意されたキャディーを延々と舐め続ける。 医者に無理言ってランニングをしたせいで、手痛い疲労感が全身を包んでいた。「……あれだけ殺していたのが嘘のよう」 つい最近まで感じていたテロリストに対する殺意も、まるで抜け落ちてしまった本のページのように消え去っていた。ペトラの前で倒れてからというもの、以前感じていた全ての動機が白紙に戻ったのだ。「なんであんなに怒ってたんだろう。誰が殺されたから怒っていたのだろう」 ナイフ使いの少年の名も、自分を慕っていた少女の名も思い出せない。 多分、後者の少女の仇を取ろうとしたのだけれど、今となってはそんなことどうでも良くなっていた。「最低だな、私って」 私は欠伸を一つ噛み殺しながら、簡素なベッドの上で横になった。 それはまるで頭を空っぽにしてしまうように。 見上げた先には憎悪の視線。 少年を殺されたリコは俺を許さない。彼女は俺の胴体に風穴を開けた後、止めを刺さんばかりに銃口を突きつけてきた。 良かれと思って彼女を助けたのに。 結局は無駄足に終わった結末だった。 クリスマスに一つの親子の仲を切り裂いた。 もの悲しげにこちらを見つめる男をナイフで突き殺す。 肉を絶つ感触の向こうに、何か大切なものを見つけた。 あの時聴いた、オルゴールのクリスマスソングはもう忘れてしまった。 一人の悲劇の少女を助けたくて、運命に抗いたくて戦った。 少女はまるで自分の鏡のようで、いつも傷付いていた。 俺は彼女の心に一際大きい傷を刻み込んで、彼女に泣き言を吐いた。 少女は死なずにすんだ。 初めて誰かを救えた。 少年は自分と同じだった。 ただ立場を間違えてしまった。 自分が人間で、少年が人形から始めたのなら。 もしもう少し早くに分かり合えていたら、 誰も死なずに済んだのかもしれない。 少年は生きろと言って、先に消えた。 自分が助けたものは、自分が得たものはいとも簡単にこの両手からすり抜けていく。 たった一人の親友も、守り続けた少女も、全部自分の目の前から消えてしまった。 後悔してももう遅い。 それがこの世に示された現実。 俺は何一つ変えることなく、終わりを迎えている。 緩やかな終焉はもう待ってはくれない。 この両手は何も掴めず、何も救えない。「……私はね、ブリジット。あなたがユーリを殺したときからあなたを見ていた。でも私はあなたを恨もうとは思わなかった。もちろんこの世界は大嫌いだったし、あなたも大嫌いだった。 でもね、私は死人だから。この世には存在しえない亡霊だったからどうでも良いと思っていたの。いえ、思おうとしたの」「なら、どうして」 ヒルダと正面から向かい合う。赤毛の髪をした自分。この身体の持ち主だった自分。「あなたがね、エルザの死で憎しみを感じたからよ。亡霊で、自我も乏しかった、あなたに夢を見せるしかなかった私があなたのお陰でここまで元に戻った。 あなたの復讐の炎は眠っていた私を覚醒させた」 ヒルダは悲しげに微笑む。今まで凄惨に、妖艶に微笑んでいた女の姿は無い。それは年相応の、一人の人間としての微笑だった。「私はあなたの憎悪に触れて、初めてあなたを恨んだ。あなたが感じた感情こそが自然だと知ってしまったから。本当にユーリを愛していたのなら、そうしないといけないと知ってしまったから」 彼女は続ける。「……あなたは本当にエルザを愛していたのね。陳腐だけど、どうしようもなく理想論で吐き気がするけど、私はあなたが眩しかった。こんな身体なのに誰かを愛しているあなたが眩しい」「その点で言ったら、私はユーリに不義理を働いたのかな。彼を想うのなら、あの後直ぐにでも覚醒してあなたを殺せば良かったのに」 互いの手の中には拳銃がある。ヒルダはそれを俺に向けた。「私鉄砲の使い方なんて知らないから、あなたは殺せないかもしれない。でもあなたなら殺せるわ」「さあブリジット。これがね、私の復讐の始まり。あなたと私だけの一対一の戦い。あなたの記憶から全ての記憶を抹消するわ。ただ一人を除いて」 ヒルダが笑う。泣きそうな顔で、震えた眼で。「さあ止めてみなさい。ブリジット。肉体の主導権は私。でも身体に刻み込まれた経験はあなたのものよ」「……私は彼を殺すわ」 世界が暗転する。 アルフォドはもう一週間は引きこもっている宿直室で仮眠を取っていた。ただしブリジットがいつ遊びに来てもいいよう、ベッドは開けてある。 机にうつぶせになるように、覚醒と半覚醒を繰り返していた彼は扉を開ける気配に気がつき、振り返った。「ああ、ブリジットか」 ふらふらとおぼつかない足取りで彼女は部屋に入ってくる。憔悴しているようだが顔色は良い。アルフォドはランニングで疲れているのかと気遣いながら、机の中からキャンディーの袋を取り出した。 認識はされなくとも、ベッドの上に菓子を置いてやるとブリジットは喜んでそれを食べるのだ。 アルフォドは相変わらず変わりのないブリジットの嗜好に苦笑しながら、再び振り返る。 そして、言葉を失った。「……ブリジット?」 少女は幽鬼のように銃口を上げる。うわ言のように逃げて、逃げて、と呟きながら。 カタカタと手にした銃が揺れて、アルフォドはその音を聞いてはじめて自らが陥った状況を知った。 少女が残された左目から涙を流す。 アルフォドは微動だにしない。真っ直ぐ銃口を見据えたまま、ブリジットを見上げる。 荒い息を吐き、瞳を濡らすブリジットは搾り出すように問うた。「……どうして逃げないんですか」 アルフォドは答えなかった。 ブリジットは絶望したように顔を歪めると、彼女のものとは思えないような凄惨な笑みを浮かべた。「ごめんなさい」 銃声が一つ。声はない。