奴が笑っている。 赤毛のあいつが笑っている。俺に巣食う俺の主が笑っている。 ヒルダは凄惨な笑みでその整った顔を汚し、地に縫い付けられていく俺を笑っている。 不愉快極まりない光景なのに、瞼一つ動かすことが適わなかった。 誰かが俺を呼ぶ。誰かが俺を抱きしめる。 懐かしい、暖かいその感触なのに今は一人にして欲しかった。 【覚えていますか。幻のような世界のことを】 友達って知っていますか。 たとえばそう、いつも隣にいてくれてあなたの味方になってくれる人。 たとえばほら、一度仲違いしてもいつかきっと分かり合える人。 なら恋人って何ですか。 たとえばこう、いつも隣にいてくれてあなたが一番大好きな人。 たとえばあの、あなたが身体を許してもいいと思える人。 人は皆、そうやっていろんな人と関わって生きています。 一人じゃないです。生きている限り繋がりは自然と生まれます。 でも私は、その繋がりすら嘘に思えてしまう私は何なのでしょう。 人ですか。人形ですか。それとも亡霊ですか。 名前を忘れたあのナイフ使いの少年は人だと言ってくれました。 どうして自分を慕ってくれていたのか、もう解らないあの少女も人間だと言ってくれました。 なのに私は思い出せません。あたまが痛くて、ただ寒気がするだけなのに、大切な彼らが思い出せません。 私が撃たれたのはいつのことでしょう。私が殺したのはいつのことでしょう。私が孤立したのはいつのことでしょう。 何も、何も解らないのです。何を忘れたのか何をしなくてはいけないのか。 何か使命を感じて生きていたような気がしました。大切な何かを失って泣き続けていました。 けれどその記憶も、じきに失い、忘れ、そして奪われるのでしょう。 私は抗う術など一つもありませんでした。「トリガーは張り詰めた復讐劇のストレス。代償はギリギリ生きていた彼女の命だよ」 ビアンキが見下ろす先、酸素マスクに呼吸を助けられ規則正しい寝息を吐くブリジットがいた。肩口までの黒い髪に白い肌。外された医療用眼帯の下にあった潰れた右目が痛々しい。 彼女の担当官で最大の理解者でもあったアルフォドはパイプ椅子に腰掛、ベッドの脇で身動き一つしなかった。「諦めろとは言わない。でも覚悟はしてくれ」 夢を見ているのだろうか。ブリジットの残された左目から涙が零れ落ちシーツを濡らした。いつもなら忙しなくハンカチで涙を拭いてやるアルフォドも、今日ばかりは何も行動に移さない。「本当はどれだけ健康でもナターレを過ぎた当たりからおかしくなることは解っていた。アンジェリカの症例と全く同じだよ。断続的な体調不良に記憶の混乱。最後は発作を起こして倒れる」 ビアンキは苦々しそうに腕を組んだ。「正直僕は驚いている。もう十一月に入ったわけだが、あれだけ負傷と手術を繰り返していたブリジットが今まで動き続けていたことが奇跡のようなものなんだ。終わりはとっくの昔に始まっていたのに彼女は生きていた」 病室には無機質な心電図の音とブリジットの呼気だけが響いている。急に押し黙ったビアンキは言葉を選ぶようにアルフォドに告げた。「アルフォド、君には選択する義務がある。ブリジットをこのままベッドに寝かし続け、最期ぐらい泡沫の夢を見せてやるかそれとも――、神の御業に背く真似をして無理やりにでも彼女を生き永らえさせる方法だ。もう隠す必要もないから打ち明けるが、上はブリジットに最後の実験をやらすつもりでいる。内容は君が全てを承服してくれるまで話せない。だが君が激怒ではすまない事だけは保障するよ」 静かな病室に、再び舞い戻る。だがアルフォドの苦しそうな呻き声をビアンキは聞き逃さなかった。 アルフォドは搾り出すように言葉を放つ。「俺は――、俺は失意のままに隊を去った同僚の為に、何より汚名を着せられたまま、侮辱の言葉を受けて死んでいった親父の名誉を回復したくて国家の犬になった。だが配属先はガキの面倒をみる児童施設だ。笑うしかなかったさ」「テロリストに拉致され、肉親に裏切られ、犯され、自殺を選らんだヒルダを見てもその気持ちは大して変わらなかった。そりゃあ同情もしたし使命感もあったさ。でもそんなもの所詮は自分に対する言い訳で、清いままでいたかった甘えなんだよ」「けどな、ヒルダがブリジットに置き換えられたとき、ブリジットが目覚めて俺の腕の中で『大嫌い』と抜かしやがった時から、そんなことどうでも良くなったんだよ。俺はこの子を守らなくてはいけない。この子のために出来る限りのことをしてやらなくてはならないと思った。理由は知らないさ。大方涙にあてられたんだ」「だがなんだこの有様は。俺は彼女が受けてきた痛みの、傷痕の幾つを背負ってやれたんだ? 俺は守ってやったのか? ブリジットをこの世の悪意から救ってやれたのか?」「復讐紛いの殺戮も止めろとはいえない、だからといって手伝ってやることも出来ない。そんな弱くて汚い人間が俺だったんだ。それが俺の正体なんだ」 ビアンキは否定も肯定もしなかった。 アルフォドは深く深く息を一つ吐き出すと、目頭を押さえ再び沈黙に舞い戻った。 本当に。 本当に誰が悪くて、誰が失敗したからこのようなことになってしまったのだろう。 誰が守りきれなかったから、ブリジットは傷付いたのだろう。 誰が望んだからブリジットはこうまで生かされ続けなければならないのだろう。 病室に佇む二人の男はその答えを出せないまま、懇々と眠り続ける少女を見下ろしていた。 結果的に言うと、ブリジットは目を覚ました。そして最後の砦とも言える投薬を終えて、何とか任務に復帰できる体調を手に入れた。 失ったものは唯一つ。 アルフォドに関する一切の記憶である。 ビアンキの見立てでは、これもある程度予想された事案だったらしい。 アルフォドはその事実をただ黙って受け入れ、病室で歩行訓練を繰り返すブリジットを強化ガラス越しに眺める日々が始まった。「にゃあ、」 執務室の端っこで、黒髪の少女が猫を抱き上げて笑っている。彼女はアルフォドが誰であるか認識できないまま、無邪気な笑みを貼り付けて飼い猫と戯れていた。 ヒルダという、ある意味呪いにも似た名を持つ猫はご主人様の腕の中でエメラルドの瞳を輝かせていた。 ブリジットの復讐劇は彼女自身の電池切れという終わりを迎えた。一週間ほど前まで血眼になってテロリストを探していた少女の姿はもう無い。見た目も中身も少女然とした、言ってしまえば自然体な彼女がそこにいたのだ。 アルフォドはヒルダの肉球を弄ぶブリジットに近づくと、後ろからそっと髪を撫でた。「にゃあ、」 対するブリジットはヒルダに微笑み返すだけでアルフォドには振り向かない。 この仕草も彼是彼女が目覚めてから五日間は繰り返された動作だ。ブリジットの脳は世界から綺麗にアルフォドだけを消去し、あたかもそこにいないかのように扱うようになっていた。発作を起こす直前に見た光景が彼女の精神を蝕み、認識することを拒否するのだ。「にゃあ、」 ブリジットの腕の中に抱かれたヒルダと目が合う。黒猫は小さく鳴くと、まるでアルフォドを嘲笑うかのように身をくねらせ、開いていたドアの隙間から外に出て行ってしまった。 慌てたのはブリジットで、「ヒルダっ」と不自由な足取りで後を追いかける。 アルフォドは特に止めることもなく(初日に止めて暴れた彼女に奥歯を折られた)、その様子を眺めるだけだった。 どうせ本棟から出ることは許されていないのだ。いざとなれば他の義体の少女が止めるのだろう。 彼は床に散らばっていた猫用のおもちゃを拾い上げると、静かに荒れた机に備え付けられたイスに腰掛けた。 机に積みあがるのは義体から取られた臨床試験の結果と、精神科医の診断結果ばかりだ。 ブリジットの為に学んできた医学書も、最早カタチだけの化石と化していた。「……世界はこんなに辛かったんだな」 アルフォドは天井を見上げ、火のついてない依れたタバコを咥えた。外からはヒルダを追いかけるブリジットの嬌声が聞こえる。 腕の中で暴れるヒルダを宥めながら、最近殊更酷くなった物忘れに溜息をついた。 意識を失ってから三日三晩眠り続けた俺は、肉体の終わりを切に感じていた。この世界に来たときから覚悟してはいたけれど、いざ始まった見れば怖いというより、一体どう過ごせばいいのか戸惑いばかりが溢れている。 ここはどこだったか、と薄暗い廊下で俺はさ迷う。 人気はなく、足元付近に備え付けられた非常灯には全く覚えがない。 人の名前と姿かたちを忘れたと思ったら、公社の地理も忘れてしまったらしい。 そうやって、完全に途方に暮れていた俺を救ったのは以外にも嘗て邪険に扱っていた同僚その人だった。「そうか、元気になったんだね。ブリジット」 俺の手を引くのは赤毛の長身の女。 今となっては理由を忘れたけど、テロリスト狩りに精を出していた時期にコンビを組んでいたペトリューシュカだ。 バレエで培った優雅な歩き方が様になっていて、よたよた歩きの俺とは比べようがないほど美しい。 ペトラは俺の手を引きながらこんな風なことを言った。「また二人で仕事が出来るね」 ニコニコと笑うペトラに水を差すのが怖くて、もう下手したら仕事は出来ないと俺は言えなかった。 黙って頷き、片手で抱いたヒルダを抱きしめる。 ペトラは一瞬そんな俺の様子をいぶかしんだが、直ぐにいつもの調子に戻ると何でもなかったかのように歩みを進めた。 担当官の宿直室に連れられて、俺は机で身動き一つしない男の姿を捉えた。 彼が自分の担当官だと言うのは解る。でも彼の名前も彼がどのような人物だったかと言うのも、霞が掛かったように思い出せなくなっていた。 だから俺は下手をこかないよう彼を認識できないように振る舞い、これからもそうするつもりだった。「##さん、ブリジットを連れてきました」「……ああ、ペトラか。ありがとう。帰ってくるのが遅いから心配していたんだ」 疲れたように笑う男を少し気の毒そうに見やった後、ペトラは引き攣った笑みを貼り付け宿直室から出ていった。 言いようのない静寂が部屋を包み込む。「ブリジット、あまり心配を掛けないでくれ」 床に座り込んでしまった俺に目線を合わせて、こちらを覗き込んでくる男に返す言葉はない。口を開こうにも何かが邪魔し、手を伸ばそうにも何も動かない。 認識できないように振舞うのは演技だが、こちらからコンタクトが全く取れないのは真実だった。「……夕食まで少し寝なさい。どうやら疲れているようだ」 返事は返せない。俺は床に座り込んだまま、あたかも虚空を見つめるように彼を見た。 彼の悲しみを湛えた瞳の奥で、俺の内に潜むあの女が笑っているような気がした。 彼女はきっと一人ずつ俺の中から人間を消していくのだろう。 半ば肉体の主導権を手渡した今、彼女に逆らう術は無い。 いつの日か全ての人を忘れ、彼女が抱いていた強烈な自殺衝動に付き合わされるに違いない。 それでも。 そうやって静かに幕を終えるのも悪くないと思ってしまう辺り、もうどうしようもないほど、俺は彼女に飼い慣らされているのかもしれない。 次は誰が消えるのか漠然と考えながら、俺は床の上で膝を抱えた。 俺の復讐が失敗した今、彼女の復讐が俺を蝕んでいく。