ガラスの海に、ピノッキオが倒れた。 彼の胸に突き立つ短剣はさながら墓標のようで、カーペットが引かれた廊下の床に赤い血溜りを作り始めていた。 ピノッキオの顔はブリジットから見えない。彼女が視界に映すのは、電気を流されたように痙攣を続ける哀れな肉体だけだ。「トリエラです。ピノッキオを仕留めました。ブリジットは負傷しているものの大事は無いようです。救護班をお願いします」 襟に付けられたピンマイク相手にトリエラは淡々と報告を繰り返す。ブリジットはそんなトリエラに掴み掛かろうとして、けれどもうそうするだけの体力も無いのか、無様に床へへたり込んだ。「はい、……はい。私は無傷ですが、ブリジットはそちらに行くだけの余力はありません」 そんなブリジットをトリエラは一瞬だけ見やった。だが直ぐに視線を外すと、無線の向こう――恐らくジャンかヒルシャーに連絡を取り続けた。「――わかりました。今すぐそちらに向かいます」 無線が切られ、一拍だけ世界を静寂が支配する。 その沈黙を破ったのはトリエラで、彼女のブーツがガラス片を踏み砕く音がブリジットの耳に届いた。 傍らに立ったトリエラに、月明かりが遮られる。「ごめん。約束、守れなかった」 ブリジットがトリエラを見上げた。トリエラは何処か申し訳なさそうに瞳を伏せると、傷だらけのブリジットを正面から抱きしめた。自身の体に血痕が付着するのも厭わず、ブリジットが苦しまないようそっと優しく抱きしめた。 そして、微かに涙が混じった悲しみの声で告げる。「無事で、良かったよ」 ● ブリジットがトリエラを突き飛ばす。彼女は一目散にピノッキオへ這い寄ると、その真っ青になった青年の顔を覗き込んだ。 ……まだ生きてはいるが、そう長くない。 ブリジットは先ずピノッキオの血に塗れた自身の両手を見た。そして辺りに散らばったガラス片と床に広がっていく血を見る。次にピノッキオの胸の短剣を見て、最後にトリエラを見た。 ――彼女の瞳に宿っていたのはどす黒い憎悪だったが、彼女の口からは何も言葉は出てこなかった。 代わりに、縋り付くように虫の息の男を抱きしめ、トリエラの方を二度と見ることは無かった。 トリエラがブリジットの震える肩に触れる。 彼女は決して振り向かない。 トリエラは、何となくこうなることを頭の中で予測していた。 如何してかはわからないが、ブリジットはいたくピノッキオに執着していた。 自分たち公社の義体には目もくれずに、彼女はピノッキオのことばかり見ている。 その様子が酷く悲しくて、とても寂しくて、彼女なりにどうにかしてやりたくて、 思わず口走ってしまった言葉が「亡霊」だった。 今思えば、こうなることを予測したのはブリジットが自分の前から姿を消したときだった。 彼女はアルフォドでもなく、トリエラでもなく、ましてクラエスやエルザでもない、もっと自分たちとは違う何かを持つピノッキオの元へ消えてしまったのだ。 あれがブリジットを引き止める最後のチャンスだった。 けれど引き止めるどころか、こちらから出て行けと罵ってしまって、ブリジットは言われたとおり姿を消した。 さらにブリジットを持っていってしまったピノッキオを逆恨みして殺した。 ブリジットが二度と自分の下に戻ってこないと理解しながら。 彼女が必ず悲しむと知っていながら。 それでもトリエラはピノッキオが許せなかったし、 何より自身の血でコートを汚したブリジットを見てしまったときには、もう理性も知力も何もかもを置き去りにして短剣を繰り出していた。 ピノッキオを殺したことには、何の後悔もない。 彼女が後悔するのは訓練場での一言だけ。 自分がどうしようもなくブリジットを傷つけてしまったから、舞台はこのような結末を迎えたのだ。 ブリジットは何も悪くない。 悪いのは呪いを呟いてしまった自分で、ピノッキオに縋り付いて離れようとしないブリジットは哀れんでやるべき存在なのだ。 ただしトリエラは、自分にはもうその資格がないことを知っている。 だからこそ、トリエラは何も言わずにブリジットの目の前から姿を消した。 二人はこの瞬間、完全に離別して見せた。 ● ピノッキオが血泡を浮かせた言葉を吐いたのは、トリエラが去りブリジットのすすり泣きだけが夜を埋めていた時だった。「悪いな、ブリジット。先に行くよ」 つとめて明るいその声は、まるでこれから死に逝く者の声色とは思えない。 だが彼の灯火は確実に終焉の時を刻んでいた。「死ぬな」 対するブリジットの返答も絶望の色には染まっていなかった。ただ何処か伽藍を帯びたその表情は最早ピノッキオには見えない。「まあ、色々あったけど良かったんじゃないかな。僕の人生」 ピノッキオが瞳を閉じる。すると瞼の裏に、とっくの昔に見失っていた家族の姿が見えた。 あの日死んでしまったと思っていた自分は、まだこうして微かに生きていたのだ。「ブリジット、もう少しだけ頑張れよ。きっと、いいことがあるさ」 ごふっ、と一際大きな血を吐いて、ピノッキオは自身の終わりを見た。 ブリジットがもう一度、静かに死ぬなと告げる。 ピノッキオが口元を緩めて笑って見せた。「これで、僕は人間だ」 夜が明け、朝が来たとき、屋敷内で行われた作戦の結果が取り纏められた。 以下はその内容である。 クリスティアーノの拘束は失敗。裏手の隠し道――緊急の脱出経路と思われる――を使用され行方は不明。逃亡の手引きを行った二人組も消息を眩ます。 ただし使用人と思われる男一人をリコが射殺。身元の確認を急ぐ。 ピノッキオの暗殺には成功。殺害したのはトリエラ、ブリジットの両名。 ブリジットは手傷を負うも、いずれも軽症。早急の現場復帰が見込まれる。 福祉公社側の目立った損害は特に無し。 クリスティアーノを失ったミラノ派の動きも見られず、これを持って一応の解決とし、本件の管轄は軍警察が引き継ぐものとする。 トリエラが予見したとおり、ブリジットが彼女たちの部屋に戻ってくることは二度と無かった。 ブリジットはアルフォドの執務室に寝泊りする生活を始め、任務におけるペアもエルザと組むことが普通になってきた。 アルフォドがブリジットの荷物を受け取りに、寮を訪れたとき。 一年前のダンボール一つから、大きなキャリーケース二つ分に増えたブリジットの荷物に大層驚き、そして「今までありがとう」と一言告げていった。 クラエスはブリジットに何があったのかと、二人に問うてみるがアルフォドもトリエラもその口を開くことは無かった。 部屋の片隅には、ブリジットとトリエラ、そしてクラエスにエルザが仲良く談笑している様子が描かれた完成間近の絵が放置されている。もう長いこと、筆は入れられていない。 動かなくなったアルフレッドの傍らで、ブリジットはこちらに歩いてくる担当官を見つめていた。 担当官は何か二、三こと言い残しブリジットを抱えあげて階下に降りていった。 ブリジットは担当官の胸元に顔を埋めてこう言った。「もう、一人にしないで」