火花と火花がぶつかり合い、鋭い金属音が世界を支配している。 防刃の意味を持たせたブリジットのフロックコートは所々切り裂かれており、白い生地に赤い血が滲んでいた。何より彼女の様子を様変わりさせてしまったのは、美しく濡れたように光っていた腰まであった黒髪が肩口のところで不恰好に切り裂かれていることか。 彼女から分かれてしまった髪の毛は、ピノッキオの大型ナイフで壁に縫い付けられている。「くそっ!」 またもや受け損なったナイフの切れ先がブリジットのコートを切り裂いた。今度は傷口が深いのか、彼女の白い手を伝った赤い血がぽたりぽたりと床に染みを作っていった。「いい加減に引けよ。君が勝てる筈無いだろう」 対するピノッキオは全くといって良いほど無傷で、頬に赤い線を一つだけこしらえているだけだった。 ブリジットの一撃はまだピノッキオに届かない。「トリエラが来ようが誰が来ようが関係ない。僕は生き延びてみせる」 ピノッキオがまた一歩、また一歩とブリジットに歩み寄る。 圧倒的な力量差に、ブリジットは舌打ちをするしかなかった。 ブリジットの誤算はGISで学んだ戦法をピノッキオにさせて貰えない事にあった。 速度と技量に勝るピノッキオを相手取るとき、ブリジットが考えたのは義体が持つ桁外れの筋力で主導権を握るというものだった。 実際部屋の装飾品を蹴りつけるという戦法はピノッキオに危機感を抱かせるほど有効だった。しかしこの戦法は一度逃げられると最早通用しない。 ブリジットも馬鹿ではないから、筋力と、そして生身では考えられない体力を持った義体ならではの戦術をピノッキオに繰り出した。 それは少々のダメージには目を瞑り、とにかくピノッキオに肉薄する。そして隙あらばパワーでねじ伏せるというものだ。 この戦法はGISの隊員たちがその威力を認めたほど、対ピノッキオには最適な手段のはずだった。 だが現実では全く通用しなかった。 その理由に、ピノッキオが義体の持つポテンシャルに油断しなかったことがある。 彼は原作によって義体が持つ怪力やダメコン能力を熟知していた。その為ブリジットが肉薄しようとすれば全力で距離を取り、いくら切りつけてもこちらに向かってくる突進性に怯えることが無かったのだ。 この時点でブリジットの立てた作戦は全て瓦解した。 あとはもう、一分の望みを賭けて、ナイフで切り結ぶだけである。 ピノッキオの歩幅にあわせ、ブリジットが下がる。背後の壁が近づき、彼女の注意力が一瞬それた。 そして、体制が不意に崩れる。 動きは一瞬。 後退に失敗し、ブリジットが足を縺れさせていた。ピノッキオがその様子を見逃す筈がない。 彼は手にした大型ナイフを構えブリジットに突進した。 彼女の細い腹部に衝撃が走る。 胃液と共に血を吐き出し、背後の壁に縫い付けられる。彼女はピノッキオに覆いかぶさるよう、四肢から力を失った。「……今ので一回は死んだぞ」 ピノッキオがブリジットから体を離すと、ブリジットが力なく床に転げ落ちた。げほっ、と口の中に溜まった液体を吐き出した彼女はピノッキオを睨みつける。「情けのつもりかよ」 ブリジットの腹部にナイフは刺さっていない。ピノッキオがブリジットに繰り出したのはナイフの柄だった。されど咄嗟に反転し、全体重を掛けて突撃してきた木製の棒は確実にブリジットの肉体にダメージを与えた。「これでわかったろう。君では俺に勝てない。おこがましいんだよ。投降しろだなんて」 よろよろとブリジットが立ち上がった。ピノッキオは眉根を歪め、罵倒するように続ける。「どうしてそこまで頑張る? ここで倒れても君を責める者はいない筈だ」 ブリジットが壁にもたれ、傷ついた腕を抱えた。白かったコートは固まった血で黒く染まっている。 彼女はナイフの切れ先を自分の額に掲げ、搾り出すように声を放った。「確かにお前ならトリエラを撃退出来ると思う。俺なんか少し本気を出せば簡単に捻られる」「それは結局同郷の好だ。これ以上時間が長引くなら、本気でねじ伏せなければならなくなる」 ピノッキオの持つナイフが月明かりに光った。今度は峰打ちではなく刃で腹部を貫こうとする。余り使いたくなかった手段だが、最早形振り構っていない。 だがそんなピノッキオの足を止めたのは他ならぬブリジットの声だった。「――俺はお前が羨ましいよ」 ナイフがブリジットの直ぐ目の前で止まった。「この世界に俺の居場所なんて本当は何処にもないのに、そうやって自分の居場所の為に戦えるお前が羨ましいよ」 それは全くの本心だった。 ブリジットがピノッキオに抱いていた感情は多種多様だったが、その大部分を占めていたのは嫉妬と救済である。 彼女に用意されたブリジットという肉体には確固たる、生きるための指針が無かった。彼女がこの世で覚醒したとき、真っ先に頭を抱えた問題である。 それに比べて、目の前で相対する男はピノッキオという役割を世界から与えられていた。 男はその役割の所為で人形として生きることとなってしまうのだが、ブリジットからしてみればそれが何より羨ましかったのだ。 シナリオ通りに生きる人形であっても、シナリオが――与えられた役割があるが故に存在意義を観測し続けられるピノッキオ。 シナリオに沿わず自由に生きることは出来ても、与えられた役割が存在しない――自らが何処まで原作に関与したらよいのか、それとも全く関与せずに生きるのか二つの選択に悩み続け、自分の存在意義を観測できないブリジット。 彼女は前者に憧れ、メッシーナ海峡でその存在を確認したときからピノッキオを渇望して止まなかった。 そして同時に、自分が願い続けた器を持つピノッキオに救いを求めるのも、いたし方の無いことだったのである。 ブリジット自身、未だに自分が願う救済の正体を知らない。 こうやって切り結び、あわよくば公社のほうへ引き込もうとしたが結局それも失敗した。 ピノッキオから存在を認めてもらっても、この男がここから立ち去ってしまうのならそれは全くの無意味だ。 トリエラに拒絶され、一人取り残された彼女は自分が何をしたいのか、最早見失っていた。 ただ目の前に佇む、恋焦がれた男に向かって八つ当たりを繰り返すしかない。 だがその行為も、やがてブリジットのスタミナ切れで終末を迎える。 彼女には戦う意思も、力も残されていない。 彼女に出来ることは、懇願するようにピノッキオに語りかけるだけだ。「なあ、ピノッキオ。どうして俺たちはよりによって、こんな世界に生まれ変わったんだろうな。お前には現実がなく、俺には存在する居場所がないこの世界に」 ブリジットの手が空中で止まったナイフを掴んだ。切れた手の平からさらに血が流れて、ピノッキオの手元に届く。 ピノッキオは何処か自嘲を含んだ声色で答える。「そんなことわかるものか。ただ僕たちの器がもしも最初から逆だったのなら、こんなことにならなくて済んだのかもしれないな。人の体である僕に君が、人形の体である君に僕が」 ピノッキオがそっとナイフを手放す。 ブリジットは非難するように、けれど柔らかな表情で言った。「今のお前は木彫りの人形じゃなくて立派な人間だよ」「いや、まだ人形さ。まあそれもここを逃げ出すまでだけど」 ブリジットが壁から離れ、ピノッキオの胸に顔を埋めた。アルフォド以外の男だったが、不思議と嫌悪感は湧いてこない。それどころか、愛情とは違った温かみが感じられた。「折角会えたのに、お前は俺を助けてくれないんだな」「生憎僕自身のことで精一杯だからね。悪いとは思うよ」 ピノッキオは縋り付いてきたブリジットをそのままに、ぼんやりとした月明かりを見上げた。思えば本当に遠い世界で二人きりだった。今の彼には戦う理由も、生き残る理由も、それを与えてくれる居場所もあるが、真の意味で通じ合えるのは目の前にいる義体の少女だけだ。「僕は君の事を忘れない。だから君ももう少しだけ生きてみろよ」 ピノッキオの言葉に、ブリジットは表情を曇らせる。 だがピノッキオはブリジットの瞳を見据えるとそっと笑って見せた。「君が悩み、絶望していることを僕は共有することは出来ない。けれど僕は君が亡霊であることを否定してみせる」 ピノッキオがブリジットの顔を引き寄せた。そして互いの額をあわせると神託のように告げる。「僕の名前はアルフレッド。この名前を知っているのは僕と、今聞いた君だけだ。君がこの名前を覚えて、そして生きている限り君は亡霊じゃない」「意味がわからないよ」「意味なんていらないのさ。よく言うだろ? 二人だけの秘密って。そういうものを互いに持っていれば、自ずと自分を見失わないで済むんだ。確かに君は不安定な体に、不安定な精神を宿した不安定な人間かもしれない。でも僕は認める。この世界で唯一本当の僕を知っている君は亡霊じゃない。君はブリジットという名の少女で、僕の友人さ」 救われた、とは微塵も思わない。 どちらかというと適当なことを言われて見捨てられたと感じるのが正しいのだろう。 でもブリジットは笑って見せた。 白い頬に血をこびり付かせ、長い髪の毛は失ってしまったけど、 それでも十分に美しいといえる表情で笑った。 ピノッキオはブリジットの本当の性別を知らない。だがそんなものを軽く超越して、思わず見惚れてしまうような、そんな笑みだった。 「俺は、ブリジットという名の少女か」「一人称が私なら完璧だったね。思わず連れて帰りそうなぐらい綺麗だったよ」 ピノッキオがブリジットから数メートル離れる。そして新しいナイフを抜いた。ブリジットもピノッキオから受け取ったナイフを無事な腕に持ち替えた。「これって、意味あるのか?」「大有りさ。残りの一本勝負で決着をつけよう。もし君が僕に一撃入れたら僕は投降する。逆に僕がそれをいなしたら見逃してくれ」「そんなことしなくても、もう追いかけるだけの体力が残っていないから逃げたらいいのに」「何処の世界に、友人から逃げ出す奴がいるんだよ。それにとても綺麗だし」 余計なお世話だと、ブリジットが言う。 半ば本気さ、とピノッキオが言う。 二人は最後の別れを告げるために向かい合う。そこにもう言葉はなく、自分たちが手にした肉体の限界を使って舞台で舞う。 IL TEATRINO 廻る舞台の終焉は直ぐそこだ。 ブリジットが地を蹴り、渾身の一撃をピノッキオに見舞った。 ナイフとナイフが触れ合い、刃が欠け幾つもの燐光が飛び散る。 滑るようにブリジットのナイフがピノッキオの刀身をなぞっていく。 しかし終に刃が耐え切れなくなり粉々に砕けていった。 銀色の破片が舞い散る世界の中、二人はすれ違い、そして別れ、 これからの舞台を生きていく――、 筈だった。 辺りを支配したのは静寂ではなくガラスの破砕音だ。 ピノッキオの背後に抜けていたブリジットは音の正体が何かはわからない。 でもピノッキオは、――満足そうに微笑み、ナイフを床に捨てたピノッキオは、 窓ガラスを突き破って自身の胸元に短剣を突き立てるトリエラを、その青い双眸ではっきりと見ていた。 ブリジットに赤い血潮と白いガラス片が降り注ぐ。