俺宛に届いた久しぶりの電話は妹からだった。「もしもし、兄さん? 今年は帰ってくるの?」 生まれ故郷であるドイツで暮らしている家族とはもう数年会っていない。ブリジットの担当官になってからは、まともな連絡すらやり合っていなかった。「すまない、今年も帰れそうにないよ。仕事が立て込んでいる」「……母さんはもう怒ってないって言ってるよ。いくら死んだ父さんの跡を継いでいるからって、そこまで外国に身を捧げる必要はないと思うな」 家族には公社で働いているとは一言も伝えていない。未だに彼らは俺が軍警察で働いていると思い込んでいる。「俺にとったら、父さんと暮らしたこの国こそが故郷だよ。そっちには友人もいないし、職もない」「兄さんならどこからでもスカウトが来るよ。現役の軍警察官でしょ」「なら職務は全うしないとな。俺はこの後用事があるから切るぞ」 受話器を下ろして一つ溜息を吐いた。ノートパソコンの青白い画面を見るとメールが一通届いていた。妹からの追撃かと思って送り主を確認してみたら職場のビアンキからだった。 文面にはブリジットの手術が無事終わったという旨が書かれている。 俺は椅子にかかったジャケットを羽織ると、窓の外から見えている病院棟に足を向けた。 ――一週間後 手術が終わって丁度一週間。新しい足に慣れるため、俺は公社の外周をひたすら走り続ける訓練をやらされていた。少しだけ大きさが変わった足は時々もつれそうになって、彼是五回は転んだ。本来なら直ぐに馴染んで自由に動かせるようになるのに、体に溜まっている疲労のお陰で中々上手くいかない。 そんな中、歩道に倒れこんでいた俺に声を掛けたのは意外な人物だ。「えと、ブリジットさんですよね。大丈夫ですか? 気分でも悪いんですか」 見上げた先に天使はいた。 恐る恐る俺の視線を受け止めるのは長い髪をポニーテールに結ったアンジェリカ――アンジェだ。彼女も最近退院して現場への復帰のためにリハビリを続けている。「ああうん。大丈夫。転んだだけだから。あと私のことは呼び捨てでいいよ。敬語はむず痒い」「わかりました。ブリジットさん」 にこやかに笑うアンジェに俺は苦笑を禁じえない。相変わらず敬語のままだと指摘してやると、彼女は顔を真っ赤にして恥ずかしがった。 マルコーからランニングを命じられたという彼女と共に暫く走っていると、ベンチに腰掛けるマルコー本人を見つけた。どうやらここで監督をしているらしい。「何だ、ブリジット。お前もランニングか? こんなちゃちな訓練じゃ体も鈍るだろう」「いえ、今は鈍らせられる健康な体がありませんから。交換した足に慣れるので精一杯です」 そう言って、履いている短パンの裾を捲り上げてやった。白い肌地に赤い線が入っている。足の手術の跡だ。「まあお前が慣らし運転をしているのなら好都合だ。アンジェを連れてお前の訓練メニューに参加させてやってくれないか? いい勉強になる」 突然の申し出に俺は思わず「は?」と聞き返していた。少し乱暴な口調だったかと内心冷や汗を掻くが、マルコーは特に気にした様子も無く言葉を続けた。「如何せんアンジェリカは実戦を離れていた期間が長いからな。つい最近まで前線に立っていたお前の動きを学ばせたい」 マルコーの言うことは最もだと思う。これでも中々の場数はこなしてきた。だが「はい分かりました」と安請け合いする訳にはいかず、アンジェリカと共に行動する点のメリットとデメリットを考えてみる。 先ずメリットとしては、彼女と付き合っていれば自然と本編のシナリオに関われることか。 お世辞にも幸福な結末とは言えないアンジェリカのこれからだが、物語の根幹に関わるエピソードを彼女は沢山持っている。俺の少しでもマシな結末を目指すという欲求を満たすのなら避けては通れない道だ。 他にも考えればいくつかメリットがあるのだろうが、今はこれくらいに留めて置く。重要なのはデメリットの方だ。 俺が危惧しているデメリットの筆頭は、アンジェリカの暴走を果たして止められるかという事だ。これから薬の依存症に悩まされるアンジェリカは意図せずして公社の職員を傷つけてしまうだろう。仮に俺がその場に居合わせてしまうと、ただでさえ不都合を抱えすぎている身の上なのに、さらなる不都合を背負ってしまう。 出来ればそういった面倒事は勘弁願いたかったし、ピノッキオとの決戦が終わるまでは自身の戦闘力の強化に努めたいという考えもある。生半可な訓練では返り討ちにあうのが関の山だからだ。 だが結局、俺がマルコーに返した返答は了解の意だった。 断る適切な理由を上手く思いつけなかったというのもあるし、何より一番大きかったのはアンジェリカがこれから通る道はまず間違いなく俺が通る道で、この世界における現実として目に焼き付けたかったからだ。 せめてこの目で、義体がどういう最期を迎えるのか知りたかった。 マルコーと別れた俺たちはとり合えずシャワーを浴びるために寮へ向かった。アンジェの部屋は寮ではなく未だ病室にあったが、シャワーを浴びるだけなら寮でも可だ。俺の後ろでは不安げな表情でアンジェリカがとぼとぼ歩いていた。シャワールームの外で服を着替えて待っていると、中から殆ど裸のブリジットが出てきた。彼女は素早く寮の廊下を駆け抜けると、クラエスがいる彼女たちの部屋に飛び込んだ。どうやら着替えを忘れてしまったらしく、部屋の中からはクラエスの小言とブリジットの気の抜けた謝罪が聞こえてくる。一瞬だけ見えた裸のブリジットはとても綺麗で、女の子の私も思わず見惚れてしまうほどだった。冬の夜に私の病室を訪ねてきたときも彼女はあんな感じで、いつも話の中心にいる。それは遠い昔に読んだ――今は殆ど忘れてしまった物語の主人公のようで、私は羨望の眼差しを送るしかなかった。部屋から出てきたブリジットは厚手のコートにデニムのジーンズという出で立ちで、手にはライフルケースを抱えていた。これから彼女の担当官に掛け合って射撃レンジを使うらしい。私は頭一つ大きいブリジットに手を引かれながら黙って彼女の後ろをついて行った。その日の夕食は直前まで一緒にいたブリジットと取ることになった。食堂に向かった私たちは既に席についていた三人の義体に名前を呼ばれる。「ありゃ、トリエラじゃない。何でここにいるの?」「つれないね。喜んでくれると思ったのに」 悪戯っぽく笑うトリエラは、訓練に一段落が着いたから帰って来たと話した。ブリジットと話す彼女は活き活きとしていて、二人は仲のいい姉妹に見えた。トリエラもこんな感じで笑うのかと考えると、とても不思議な気分だ。「ところでブリジット、足代えたの? 痛くない?」 ブリジットの足と言えば、今日の訓練中もそうだった。彼女は時より歩きにくそうに振舞っていた。本人曰くどこか痺れた感触らしい。 けれど彼女はトリエラに対しては何事も無かったかのように笑って見せた。「大丈夫大丈夫。あと一週間もすればGISの巣に帰れますよっと。はあ、また投げ飛ばされるのか」「私なんか顔面をしこたま殴られたよ。ブリジットはまだマシな方だと思う」 二人で楽しそうに談笑する。一緒に食事をするクラエスやエルザも機嫌よくその様子を見守っていた。 私はその輪に入る方法も勇気も持ち合わせていなかったけど、今はこうしてその雰囲気を味わえるだけ幸せだと思った。 多分これが、私たちに与えられた小さな幸せなんだと思う。 ブリジットが退院してから一週間経った。デスクで残業の準備をしているとマルコーに声を掛けられる。彼から差し出されたタバコを受け取って二人して火をつけた。「今日はブリジットにアンジェリカの面倒を見てもらった。助かったぜ」「礼ならあの子に言ってくれ。僕は何もしていない」「俺はお前の義体教育がいいからだと思うけどな」 マルコーの台詞に俺は違うと答えた。やや口調を荒らげた所為か、マルコーは目を丸くしてこちらを見ている。「あの子は昔からそうだよ。誰にでも優しくて、誰にでも笑いかける。――だからいつもボロボロだ」 マルコーは肺に溜まった煙を一通り吐き出した後、瞳を伏せてこう言った。「そいつは悪かったな。でもお前の影響も少なからずあると思うぜ。別に実家に帰るくらい誰も咎めないのに、ブリジットがいるからって頑なに拒んでいるそうじゃないか。お前が一つ留守番を申し付ければ彼女は幾らでも待つだろう。真面目すぎるんだ。お前は」「世界で一番似合わない言葉だよ。それは。彼女が真面目なのは俺がぐーたらだからさ」 マルコーは何も言わなかった。 ただ靴の底でタバコの火を消すと、その場を去ろうと背中を向ける。 俺はそんな彼を呼び止めた。「マルコー、もっとアンジェリカの事を見てやれ。昔のお前は何処に行った? 今のお前はアンジェリカに向き合っていない」 お世辞にもブリジットと向かい合えているとは言えないが、それでもマルコーアンジェ組よかは、という考えが俺の中にあった。マルコーはそんな俺の浅はかな考えを感じ取ったのか、皮肉に満ちた声色で告げた。「お前もいずれわかる。あれだけ薬漬けにされた義体だ。ブリジットも直ぐにアンジェのようになるんだ。そしたら少しは俺の気持ちも分かるだろうよ」「それでもアンジェはアンジェ。ブリジットはブリジットだ。彼女たちは本質的には変わっていない。それなのに回りの大人が自棄になってどうする。彼女たちに対する侮辱だ」「なら一つ聞くが、お前はその手でブリジットを助けられるのか? 俺たち担当官はあいつらに命令して命を縮めることぐらい幾らでも出来るが、延命してやることは出来ない。お前はその無力感を知らないだけだ!」 殆ど怒鳴るように告げられたマルコーの言葉に俺は反論の術がなかった。彼の言うことは正しい。だがそれで納得できるならこんなことで悩んだりしない。「何故だマルコー。何故お前はそこまで割り切れる。お前はそんな人柄じゃない筈だ」 タバコの火が落ちて、足元で消えた。マルコーは俺の疑問に搾り出すような声で答えた。「割り切れないから俺はこの態度を取っているんだ。割り切れるならアンジェリカのことは忘れて仕事に生きてみせる」 その日の晩、俺の電話には留守電が二つ入っていた。 もしもし、兄さん? もう実家に帰って来いとは言わないから、せめて父さんの墓参りくらいは一緒に行こう? 明後日の父さんの命日に私と母さんはそっちに行くから。兄さんはローマの教会で待ってて。また時間は連絡するわ。 もう一つ、再生する。 えーと、アルフォドさん? こんばんは。ブリジットです。携帯電話が使えないみたいなのでデスクの方に電話しています。今日は一度も会えなかったので一応報告だけ。 ――今日はアンジェリカと一緒に射撃訓練をしました。マルコーさんもアルフォドさんも入用だった見たいなので、ヒルシャーさんに監督して貰いました。連絡は以上です。 あ、それと足の方はもう大丈夫なので心配しないでください。 明日からはGISの方で訓練をやっても問題ありません。足首の件はお騒がせして申し訳御座いませんでした。 ではお休みなさい。 ……えーと、留守番電話ってこれでいいのかな? ねえークラエスー…… 再生が終わった後、俺は一人仕事場で天を仰いだ。 こうでもしていないと、油断してしまえば弱音を吐いてしまいそうになる自分がいて嫌気が差した。 夜が更けていく。 落ちて燃え尽きようとしているタバコの火だけが、俺の足元を照らしていた。