とても頭が痛い。多分踵で思い切り蹴られたからだと思う。 意識はある。 でも目を覚ますのは億劫だった。出来ることならこのまま眠っていたい。 そんなことを考えていると、ブリジットが私を呼んでいるような気がした。 夢の中でも出てくるのだから、相当私は彼女のことを意識していたのだろう。 それはしとしとと雨が降る日だった。 初めて彼女と出会ったとき、あの子は雨と甘いお菓子の匂いがした。 「初めまして、私がトリエラ。この子はクラエス」 私と同時期に義体化されたらしいけど、このブリジットとかいう子は最近になって――半年程経ってから私たちと合流した。黒い髪が綺麗な少し長身の女の子で、余り活発そうな印象を持たなかった。「はじめまして……ブリジットです」 何をそんなに怖がっているの? と問いたくなったが、ここにいる女の子は何かしら問題を抱えている場合が多いのでぐっと堪えた。かくいう私自身もはじめは酷く萎縮していたらしいので、こういうものかと考えることにした。「部屋は私たちと同じ。ベッドは二段ベッドが一つ、シングルが一つね。ブリジットは何処がいい?」 クラエスは部屋を案内しながらブリジットの様子を伺っている。彼女も彼女なりに打ち解けようとしているみたいだ。「空いているところなら何処でも……」 でもブリジットがあまりにも消極的過ぎるのでこればかりはどうしようもない。 クラエスも彼女との距離を掴みかねているのか、しどろもどろとしていた。 結局その日はブリジットが疲れて眠ってしまったので、特に会話を交えることもなかった。 次の日は私とブリジットで訓練を行うことになった。クラエスはお留守番だ。 二人して教練所に向かい担当官に銃の手ほどきを受ける。 私自身はこれがどうにも苦手で、愛用している古いウィンチェスターも使いこなせているとは言い難い。かと言って他の銃が得意というわけでもなかったので、今はウィンチェスターの訓練をひたすらこなしていた。 ブリジットも担当官のアルフォドという人から銃を受け取っている。 ただ不思議に感じたのは彼女が担当官に媚びていないというか、殆ど笑顔を見せていない点だった。私も笑顔が苦手なので、ヒルシャーさんによく笑いかけるわけじゃないけど、それでもあそこまで淡白に接している義体の子は初めてだ。「良いか? これがセーフティ。安全装置だ。これが掛かっている間は発砲できない。よしそうだ。そうやって外すんだ。今度は一度だけ引き金を引いてごらん」 セーフティが外されたSIGが的に向けられる。ブリジットの強張った指が引き金を引いた。すると降りていた劇鉄が上がって発砲可能状態になった。「これがダブルアクションだ。スライドを引いて劇鉄を上げなくても発砲出来るようになる。次は弾が出る。ゆっくり撃ってみなさい」 ブリジットが構える。 その様子はいかにも戦々恐々といった感じで、とても実戦がこなせるようなレベルじゃなかった。 この日、彼女が撃った銃は十五発。命中弾はゼロだった。 訓練が終わって部屋に戻るとクラエスが待っていた。彼女は小さなダンボールを抱えていて、ブリジットの私物だと言った。「これだけしかないの? そりゃあ私たちも持っている方じゃないけど、でも少なすぎない? 着替えは?」「病院のガウンなら沢山あの子の鞄に入っていたわ。あの子の担当官はどういうつもりなのかしらね」 まあ確かにこれは酷いと思う。私たちは給料の代わりに、身の回りのものを揃えるためのお金が担当官に振り込まれている。ブリジットも例外で無いはずだから何かしら服や小物は買って貰えるはずなのだ。「でもまあ、担当官の人は意地悪そうな感じじゃなかったから多分ブリジットが何も言わなくて困っているのね」 ありゃ、と私は首を傾げる。自分で非難しておきながらブリジットの担当官のことを擁護するクラエスを見て訳がわからなくなった。「さっきまで来てたのよ。あの子のことを宜しくって」「普通にいい人じゃないの」 クラエスからダンボールを受け取り、私はベッドに腰掛けた。持ってみた感じ、中身はそれ程入っていない。「これすらも入っていないのか」 ダンボールをブリジットのベッド――二段ベッドの下に置いて、自分は上のベッドに転がった。熊の縫いぐるみを枕元に置いて天井を見上げる。「これからどうするんだろ?」 呟きにクラエスは答えなかった。 シャワーを浴びたブリジットが当たり前のように病院着を着ようとしたので、無理やり私のパジャマを押し付けた。いい迷惑かもしれないけど、彼女の味方であることをアピールしたかったのだ。 ブリジットは私の好意自体は察しているのだろうけど、それでも戦々恐々としていて下着姿のまま中々服を着ようとしない。業を煮やしたクラエスが無理矢理上着をブリジットに被せた。「や、やめて……」 あたふたと逃げ回る黒髪の四肢を押さえて、ボタンを閉めてやろうとした。起伏に富んだ白い肌が目に映えてとても綺麗だった。 だけど。「あれ、これって……」 僅かに上下する腹を、縦横無尽に駆ける盛り上がった線。それが手術の縫い目だと気が付いた時、私は何か悪いものを見てしまったような気がして、思わず目を背けた。「まだ……しっかりと定着していないから」 ブリジットがゆっくりと起き上がり、着せられたパジャマを脱ぐ。そしてベッドに捨てられた病院着を羽織るとそのまま寝てしまった。「やってしまったわね」 気まずさから身動きが取れなくなってしまった私の肩に、クラエスが手を置いた。 少しでも距離を縮めようと頑張ってみたのに、初日の成果は何も無く、逆に彼女と間を空けてしまった。 身動き一つしないベッドの盛り上がりを見て、私とクラエスはそれぞれ眠りにつくことにした。 それから暫くして格闘訓練の日がやって来た。ブリジットの手術跡が消え、皮膚が定着したと判断された為だ。組み合わせはある意味予想通りというか、作為的というか私と彼女がペアになる事が決まった。Tシャツに短パンを着込み、二人して砂地の訓練場に並ぶ。「二人とも基本の動作は習っているな。今日はそれを活かして一対一形式で訓練を行う。ただし眼球等弱点への打撃は禁止だ。注意してくれ」 アルフォドさんの説明を聞いて、組み手を始める。最初はどちらかがゆっくりと攻撃を仕掛けて、それをガード、或いはいなすといった動きを行った。そして徐々に動きを早め実戦形式に近づけていく。 私の蹴りがブリジットの胸元へ直撃し、ブリジットが吹き飛んだ。防ぎきれなかった打撃の威力の所為か、呻き声を上げるブリジットは一向に起き上がってこない。アルフォドさんが駆け寄ってきて、ブリジットを抱き起こす。「息は出来るか?」 彼女は「はっ、はっ」と断続的に息を吐くことで答えた。アルフォドさんがブリジットのTシャツを捲り上げると、胸元に大きな紫の痣があった。「折れたか?」 ブリジットは首を横に振る。大丈夫です、とアルフォドさんを杖にして立ち上がった。彼女が再び拳を構えたのでアルフォドさんが慌てて訓練再開の合図を送る。 彼女が決して早くない動きで向かってきた。 ブリジットには悪いけど、こんな動きじゃまず負ける筈が無い。 私が彼女を地面とキスさせること七回目。 ついにドクターストップが掛かって訓練が終了する。私の手と顔にはブリジットの吐いた血がこびりついており、同じように付着した汗からは甘い匂いがした。 黒髪の女の子はまだ心を開いてくれない。