必殺を狙って放った掌底は見事に宙を掠めた。咄嗟に身を引いたのだろう。何時の間にか僕から距離をとっていたトリエラが笑っていた。「…………!」 何だこれは、と息を吐く。何かとてつもない違和感がふつふつとこのトリエラから湧いて出てきた。確かに彼女との対戦は初めてだ。だが、原作の彼女を知っている身としてはこの違和感は見逃せない。「誰だお前は?」 トリエラは俺の質問の意味を理解していない。おそらく挑発か陽動と取ったのだろう。彼女は答えることなく短剣を抜き放ち、跳躍の構えを見せてきた。 僕も大型のナイフを構え、彼女の挙動を注視する。 始めに飛んだのはトリエラだった。 短剣の斬撃はピノッキオの頚動脈を狙っていた。横薙ぎの黒い一閃が宙に光る。ピノッキオは頭を伏せそれをかわす。 そしてカウンターに袖の隠しナイフを投げた。 虚を突かれたのはトリエラだ。ナイフは咄嗟に突き出した手の甲に刺さり、赤い血糊をばら撒いた。握力が弱まり短剣が抜ける。ピノッキオがそれを蹴り飛ばしトリエラから武器を奪った。「くっ」 武装解除されてもなお、トリエラはピノッキオに向かっていく。 彼女の拳がピノッキオの肩口を捉えた。 鈍い、骨が砕けた音がしてピノッキオはナイフを取り落とした。だがまだ戦意は失っていない。 彼はそのまま体を捻ってトリエラの側頭部目掛けてハイキックを繰り出した。 未だに拳を放っていたトリエラにそれをかわす術はない。 激しい打撃音が響き、少女の小さな体が飛んだ。硬い木の床で数度バウンドして壁にぶち当たる。「あ……ぐっ」 気絶したトリエラを見下ろしピノッキオは安堵の息を漏らした。折れた腕は動かしようがないが、辛くも勝利は掴めたようだ。「くそ、完全に舐めていた……」 まさかここまでやられるとは思わなかった。それどころかあの掌底さえ決まっていれば原作より早い幕切れを迎えることが出来たはずだ。「僕が弱くなっているのか、こいつが強くなっているのか……」 気絶したトリエラの脈を取って、生きているかどうか確認を取る。激しい運動の所為で若干乱れているが、命に別状はなさそうだ。 ピノッキオは護身用にと用意していた銃を取り出すとそれをトリエラに向けた。「仮にここでトリエラを射殺すると僕がリベンジを受けて殺されることはないのかな」 それは以前からずっと考えていた問題でもある。 ピノッキオ自身はこのまま原作通りに殺されることは吝かでないと考えている。その考えは原作に出来るだけ沿うように生きてきた彼にとって、至極当然のことだった。まあ、トリエラが突入してくるように振舞ったことについて好奇心の所為ではないと百パーセント言い切ることは出来ないが。「でも、何だろう。この違和感は」 それは彼女が突入してきてからずっと感じていたものだ。 見た目はトリエラ。戦い方も多分トリエラだ。 だがあの時見せたトリエラの笑み。 掌底をかわした時のしてやったりの笑み……。 たった一つの表情なのにどうしても頭から離れることがない。今でも網膜に焼き付いている感じがして、何とか振り払おうとする。「もしかして……ズレが出ているのか?」 それは以前から危惧していたことだった。自分ではピノッキオを出来るだけ完璧に演じているつもりでも、何処か意識していないところで別の行動を取ってしまっていたとしたら。 そうなれば例え無視できる範囲で起こした行動も、いずれ何処かで大きな波となって押し押せてくる可能性がある。それはピノッキオの破滅を意味していた。 地下室で銃声が一つ木霊する。ピノッキオはそのまま拳銃をポケットに収め、フランコに合流するべくガレージに向かった。 今の行動は迂闊だとは思う。筋書きとのズレを反省したばかりなのにまた原作と違った行動を取ってしまった。けれどもこの漠然とした胸の不安を打ち消すにはそうするしかなかった。 彼は焦っていた。 やけに静かだ。 何か一つ大きな物音がしたが、それから何も動きはない。 フランカは警察と思われる男に背後から銃を突きつけられそんなことを考えていた。「本当に今日は千客万来ね。死体が呼び寄せたのかしら」「銃を渡してもらおうか」 男が手を伸ばす。フランカは手にしていたグロックを差し出した。「仲間は取り押さえたぞ」「あら、私の仲間は私服の手に負えないわ」 行動は一瞬だった。フランカは差し出していた手の平を返し、銃を床に落とす。そして警官の目線がそちらにいった隙に肘へ手刀を放った。「待て!」 警官の持っていた銃が暴発し、床へ穴を開ける。フランカは一気に駆け出し、廊下の角に飛び込んだ。 足首に括り付けていた予備の拳銃を取り出すと、向こう側からスコーピオンを持ったフランコが走ってきた。「怪我はないか」「私は無事よ」 フランコは壁越しにスコーピオンを放った。たまらず警官が近場の部屋に飛び込んだのを見逃さない。「ガレージに行け。ピノッキオが待っている」 ポケットから出した携帯電話を操作しタイマーをセットした。それを部屋に投げ込んでやる。お手製の携帯爆弾は小火力だがボディアーマーを着ていない人体に対しては非常に有効だ。 爆発音を背後に、フランカフランコはガレージへ急いだ。 ● 訓練を終え、エルザと二人してヒルダを弄っていたらアルフォドが血相を変えてこちらに走ってきた。隣にはエルザの担当官であるラウーロもいる。「ブリジット、緊急だ」 内容は言われなくてもわかっている。どうせトリエラがピノッキオに敗北したことだろう。俺は何食わぬ顔で何があったのか問う。すると、アルフォドから聞かされた返事は俺の全く予期していないことだった。「トリエラが意識不明でフィレンツェ支部の病院に運ばれた。今から向かうぞ」 言葉が出ないとはこういうことを言うのだろう。俺は何が起こったのかわからないまま、アルフォドに腕を引かれていた。エルザもラウーロと共に俺たちフラテッロの後ろをついてくる。 よほど酷い顔をしていたのはエルザが心配そうに俺の袖を掴んだ。 いつかの頭痛の所為で、息が苦しかった。