社会福祉公社の子供たちは皆幸福とは程遠く、そんな娘たちの間にあってはたいした不幸自慢にはならないが ここにある一人のかわいそうな女の子がいた。 ブリジット・フォン・グーテンベルト。 俺がここに来て初めて受け持った義体だ。 ピッツァの国のお姫様 精神サポートという名目で、義体の心理状態の監視と思考過程を研究するための面談がある。 基本的には一対一だが、壁に掛けられた大きな鏡はマジックミラーになっていて、許可を得たものなら誰でも見学が出来る。 プライバシーなんて存在しない。 そんな面談がつい先ほど始まった。 フェッロという怖いお姉さんが監視している中、俺とビアンキ先生が向かい合っている。中高時代も俺は面談が苦手で、よく担任に叱られたものだった。 俺は若干の緊張を持ちながら、面談でどう受け答えするか必死に考えていた。 ビアンキは手元の書類に何かを記入した後、俺に質問をしてきた。「さてブリジット。ここのところの気分はどうだい?」「すこぶる順調です。先生」 訓練で培った人前で笑う術を使い、俺は出来るだけ自然に答えた。ここで変に疑われると薬の量が一気に増えかねない。「そうか。なら体調は?」「大丈夫です。生理も前回は苦しかったですが、今は大分楽です」 新しく足されていた薬に体が慣れたのか俺の生理不順も概ね回復していた。今回は腹を押さえてウンウン唸っているトリエラを慰める立場になっている。 ビアンキは再び報告書に何かを書き足すと、一つのレポートを取り出して俺に見せた。 そこにはカウンタースナイプ、劇場、議員と三つの単語が書いてあった。「……? 何ですかこれ」 まったく覚えのないように俺は何かの心理テストかと考える。確か原作ではこんな検査はなかったような……。「いや、別に大したことじゃないよ。よくある心理テストみたいなものさ」「なら先生、テストの結果は?」「今君はすこぶる機嫌がいいな」 嘘だ。 俺は反射的にそう言いそうになるのを必死にこらえた。恐らくビアンキは俺に何かを隠している。きっとあの三つは俺の忘れている過去に関連したものだ。 胸にその三つの単語を刻み付けて、さらに2、3個の質問をこなしていく。 後は酷く無難なもので警戒しただけ無駄だった。だがフェッロがアンジェリカを呼びに言った直後、ビアンキが告げた最後の質問には正直参った。 よくもまあ、イタリア人は素面でそんなことが聞けるものだ。「ブリジット、君は担当官――アルフォドを愛しているかい?」 マジックミラー越しに俺はブリジットを眺めている。 一週間前の狙撃ミッションの内容が書かれたと思われる紙を見てもブリジットは覚えていないと言った。これは最早確定的だ。「あの場にいたのはやはり彼女だったのか」 マルコーの呟きが酷く俺に圧し掛かる。そんなことは言われなくてもわかっていると叫んでやりたかったが、困ったように笑っているブリジットを見てそんな気勢は削がれた。「封印された本来の人格か。義体の運用もまだまだ甘いということか」 ジョゼが忌々しそうに言った。初期のブリジットを見ているマルコーとジョゼならその意味は痛い程わかるのだろう。勿論俺を含めて。 ブリジットが残された質問に次々と答えていく。俺は模範生的なその返答を聞いて彼女が昔と比べて大きく変わったことを改めて実感した。「好きな食べ物は?」「シチリア風のピザとお菓子です。アルフォドさんが差し入れてくれたものが一番美味しいです」 マイク越しに伝わってくる彼女の本音に胸が痛む。俺はただ担当官としての義務を果たしているだけなのに、ここまで信頼されている。 マジックミラー越しに一かけらのプライバシーまで摘み取ろうとしているのに信頼されている。 それくらいしか俺はしてやれないのに。 そしてビアンキが繰り出した最後の質問。それは俺の葛藤を抉るようなものだった。「ブリジット、君は担当官――アルフォドを愛しているかい?」 見学室にいる担当官三人が全員凍った。 ブリジットが答えようと口を開くのを見て、ひどく唇が乾き汗が噴出す。 その感触は彼女と初めて出会ったときに似ていた。 これが人間なのか、というのが正直な感想だった。 病院施設ぐらいしか設備が整っていなかった社会福祉公社は、三人の瀕死の少女を受け入れていた。 ブリジットもその中の一人だった。 ビアンキは手元の書類を見ながら彼女の身元について話す。「本名はヒルデガルト・フォン・ゲーテンバルト。先日の誘拐事件の被害者だ。犯人の目を盗んで飛び降りたが死に切れなかった」 全身を包帯で覆われ、辛うじて赤毛であることだけがわかる彼女の様子は酷いものだった。聞けば爪は全て剥がされ、骨も幾分か砕かれてしまったそうだ。「もっとも重症なのは骨盤の複雑骨折だな。大方犯しながらゴルフクラブでフルスイングしたんだろう。原型を留めていない」 その時俺が感じたのは同情でも犯人グループに対する怒りでもなかった。 ただ漠然とその事実を耳で流して、暢気に彼女の見えない顔を覗き込んでいた。「手術は二日後に行われる。立ち会ってみるか?」「冗談。そんな薄気味悪いのはそっちの仕事だろ?」 ビアンキはそれもそうだな、と呟いて手元の書類に何かを書いた。 俺はその様子を横目で見つつ、今度は彼女の手を取ってみた。「完全にこん睡状態だから何も感じないよ。それより二日後までにこの子の名前を考えておいてくれないか? 基本的に義体の名前は君たち担当官が決めることになっている」「まだマルコーさんの義体しかいないのに?」「通例とはそんなものだ。何事も最初の事例が最後まで影響力を持つ」 俺は命名用の書類だけを渡されて病室を追い出された。何でも面会は一日十五分らしい。 意識のない患者だから当たり前と言えば当たり前だが、それでも短すぎると思う。「もし彼女のことを理解したかったら彼女が目覚めてからにしろ。それが分かり合うということだ」 ビアンキの変に説教くさい台詞を聞いて、俺はぼんやりとヒルダの新しい名前を考えていた。 軍警察を諸事情で退役して、毎日暇していた俺を捕まえたのは同僚のジャンだ。左翼政党が内閣を組織したのと同時、秘密裏に創設された超法規的特別機関――それが社会福祉公社だった。 食い扶持がなく、また軍人にも未練があった俺は二つ返事でその組織に加入し、そして担当官になったことを告げられた。 それからはとんとん拍子で事が進む。 ヒルダの手術は無事成功し、後は目覚めるだけとなった。俺自身も正式に作戦二課への配属を告げられ、専用のデスクが与えられる。 分厚い義体の運用マニュアルを読み漁りながら、ヒルダが目覚めるのを待つ毎日が過ぎていく。 転換期が訪れたのは、マルコーに童話の一説を提供した辺りの頃だ。 いよいよ覚醒が近いと聞かされていた俺は、ビアンキに呼ばれて久しぶりの病室を訪ねていた。「名前は考えたか?」「まだ。どうもイマイチピンとこなくてな。この子と話をしてから決めようと思った」「二日後までと言ったんだがな。アルフォド、君は夏休みの宿題をしないタイプだろう」「夏休みの宿題? 普段の勉強からサボっていたのに、何で夏休みだけ優等生ぶらないといけないんだ?」 実際幾つか名前は考えた。だがどれも彼女の本来の名前――ヒルデガルトの前では霞んでしまって、どうも納得がいかなかった。「よくこの仕事に就けたな」「うるさいな」 そうやって俺とビアンキがヒルダのベッドを挟んで不毛な会話を続けていたときだ。彼女に繋がれた電極が何かの信号を拾ったのか小さくブザーが鳴ったのは。「目覚めるぞ」「おいおい、まだ心の準備は出来てないぞ」 茶化した口調で言うが、内心は緊張で支配されていた。ヒルデガルト・フォン・ゲーテンベルト、本来なら当の昔に死んでいた少女の覚醒――。 俺はまるで一流のSF映画を見るような気持ちで彼女の覚醒を観察していた。 ヒルデガルトの持つ問題について。 覚醒後、一定の意識混濁あり。 意識回復後、重度の自傷癖あり。 担当官が一人負傷。彼女の運用は要検討の余地あり。 ドットーレ ビアンキ記す