長い間大地を覆っていた雪は溶けて小川を作り、農業に欠かせない水源となる。
冬眠していた動物達は穴蔵から顔を出し草木の新芽を食べ、山はにわかに騒がしくなった。
遅れた春に農家達は大急ぎで田を耕し水を張り田植えが始まる。田圃以外でも畑を持っている人間達は繁忙を極め、一家総出で耕作が始まるので慧音の寺子屋も一時休業になるほどだ。
妖怪達も同様で、冬妖怪はなりを潜めるが代わりに春妖怪が騒ぎ始める。代表的なところで春告精や花妖怪の他に河童も活発になり大農園できゅうり栽培を始める。
一方私達博麗組はと言うとそんなに忙しくない。里の人間は参拝へ行く間も惜しんで農業に励むし季節の変わり目ではしゃぐ妖精達や妖怪連中の退治は毎年の事として陰陽師がやってくれる。
霊夢は日がな一日玉露を味わいつつ異変後頻繁に神社に顔を出すようになった紫と将棋を指し、このところ分別がついてきたので単独行動を許したフランは日傘片手に霧の湖に遊びに行き、私は里の近くで田植えの手伝いをしていた。
田植えの手伝いと言っても土を起こしたり苗代を植えたりする訳ではない。畔道にござを敷いて座り込み、田植えをしている里人が疲れないように体力を上げてあげるだけである。
流石に神様が手ずから農業に従事するのは威信に関わる。今時高圧的なだけの神様は敬遠されるがフレンドリーが過ぎても信仰が失われるのが難しい所だ。
手持ちぶさたな私は日の出から袖まくりをして田圃に入る里人と一緒に田植歌を歌った。歌唱力を上げて無駄に上手く良い声で歌ってみたり微妙にイントネーションを変えてみたり昼時におにぎりをもらったりつくしを摘んだりしてのんびりと過ごす。
トラクターが無ければ農薬の臭いもしない、昔ながらの田園風景である。見上げれば青い空に白い雲がゆっくりと流れていた。
やがて何枚か稲を植えつけ終え夕方になった。空は綺麗な茜色に染まり明日の快晴を予測させてくれる。
泥だらけの里人達は小川で大雑把に汚れを落とし、遊びに混ぜてタニシやフナを採っていた子供達と共に引きあげていった。途中私を拝んでいってくれるのだが、山菜や草餅のみならず竹トンボやヤジロベエ、手毬まで供物として寄越すのは何か勘違いしてやしないだろうか。
イマイチ釈然としないがこれも信仰の印である。有り難く頂戴して風呂敷に包み、里人がぞろぞろ里の境界内に入っていったのを確認してから私も帰路についた。
山の向こうに日が沈み始めた夕暮れの空の下を飛んでいると通信符が軽快な音楽を鳴らした。この着メロはフランだ。春になって私や霊夢の生活リズムに感化され(吸血鬼にとっての)昼夜逆転生活を送るようになったフランは何か珍しいものを見つけると逐一報告してくる。
私は落ちないように風呂敷を背負い直し、通信符を取り出して耳に当てた。
「フラン、また何か見つけたの?」
「私メリーさん。今無縁塚にいるの」
「……は?」
二の句が継げずにいると通信は切れてしまった。甲高い少女の声だったが明らかにフランとは違う。
イタ電? ……違うよなぁ。第一この通信符は一対の間でしか通信できないからイタ電などできようはずもない。フランは通信符を無くしたり奪われたりするほど間抜けでも無いし弱くも無く、そうなると残る可能性は何かの術による霊波ジャックになる。
つーか凄く聞き覚えのあるフレーズだったんだけど……
念の為こちらからフランにかけ直してみた。
「フラン?」
「白雪? どうしたの? 今日は何も壊してないよ」
落ち着いた声で返答があった。間違いなく聞き慣れたフランの声である。
「いやそういう話じゃない。そこは心配してないから」
「そう? ……えへへ」
「特に用があって連絡した訳じゃなくてね……あ、そうだ。今どこにいる?」
「神社」
「なら風呂沸かしといて」
「はぁい」
素直なフランの返事を聞き、通信を切った瞬間にまたかかってきた。少し迷ったが出る事にする。
「はいもしもし」
「私メリーさん。今魔法の森にいるの」
「そう。お化けキノコに襲われないようにね」
「…………」
黙って切られた。私はふっと息を吐いて博麗神社に向けてスピードを上げる。
メリーさんも幻想入りか。都市伝説は広まるのが速ければ廃れるのも速い。発生初期に猛威を振るいあっと言う間に忘れ去られるのは情報社会に生まれた現代妖怪の宿命なのかも知れない。
確か段々電話をかけてくる場所が近付いてきて最後は背後を取られてもにょもにょ……みたいな怪談だったはず。後期はゴルゴの背後に出て撃たれたり標的が最後の電話の時に壁にもたれかかっていた為壁に埋もれたりとギャグ化された憐れな妖怪だ。そうやって畏れられなくなったんだろう。諸行無常。
里から神社へは空を飛べば割と早く着く。私は山菜が満載の風呂敷を揺らさないように注意して神社の境内へ降り立った。
地面に足をつけると同時に着信が入る。今度は迷いなくすぐに出てあげた。
「はいもしもし」
「私メリーさん。今香霖堂の前にいるの」
「そこの店主の蘊蓄は間違ってる事が多いから買い物するんだったら気をつけて」
「…………」
何か言いかけた気配がしたが無言のまま切れた。
魔法の森の次は香霖堂か。順調に近付いてるようで。
境内を抜けて母屋に入り、居間の障子を開けると霊夢が藁半紙と里で買った寺子屋書道セットを広げて御札を作っていた。御札は材料が安物でも作り手の腕が確かならそれなりの威力を発揮する。まあそうは言っても褒められた事じゃないから売ったりはしない。自分用だろう。
霊夢は少しだけ目を上げて私を見るとすぐに視線を作りかけの御札に戻した。
「おかえり」
「ただいま。フランは?」
「風呂沸かしてるわ」
「夕飯は?」
「どうせあんたが色々貰ってくるだろうと思ってまだ作って無い」
「当たり。山菜中心だから適当に頼むよ。私は先に風呂に入るから」
私が畳に風呂敷を降ろすと霊夢は筆を置いて中身を覗き込んだ。フキやワラビ、ゼンマイの間に隠れた竹トンボを見つけ、ニヤニヤ笑ってこちらに視線を寄越す。
私は無視して風呂場に向かった。
廊下を渡って脱衣所に入り、風呂場の戸を開ける。袖をまくり檜の浴槽の蓋を取って手を突っ込むと丁度良い温度になっていた。
「フラン、も~いーよ」
風呂場の窓から外へ顔を出して言う。普通薪を入れる場所に火力を抑えたレーヴァテインを突っ込んでいたフランは魔剣を消して欠伸をした。
「ふぁ……おかえり白雪」
「ただいま。一緒に入る?」
「んーん、後にする」
「そう。なら先にご飯食べておいで。今霊夢が作ってくれてるから」
「はぁい」
私は首を引っ込め、脱衣所に戻って衣を脱いで髪紐を外した。若干土汚れがついた衣は通信符を取り出し水を張った桶に放り込んでおく。
胸は何もつける必要が無いぐらい真っ平らなので悲しくも上はシャツを脱ぐだけでいい。ショーツに手をかけた所で通信符から音楽が流れた。
「はいもしもし」
「私メリーさん。今人里にいるの」
「人里から出る時は門番さんに挨拶してね。それが礼儀だから」
「……ぅん」
今度は小さな声で返事があり通信は途絶えた。メリーさん、定型句以外も喋れるんだね。
役立ちそうもないトリビアを身に着けた所で下着を全て脱いで風呂場に入り、体を流して一番風呂を堪能した。うむ、極楽極楽。
私はアヒルの玩具が粉々になって隅に寄せられている事に気付いて修理したり、水鉄砲で窓の外500メートル付近でこちらにカメラを向けていた烏天狗を撃ち落としたり、髪を湯船に広げて遊んだりして心行くまで湯につかった。
そしてのぼせる前に体を洗って出る。脱衣所で水を吸って重くなった髪を魔法で乾かし、桶につけておいた衣も濯いでから魔法で乾かした。髪をポニテにして下着と衣を身に着け、とたとたと台所へ向かう。
廊下の途中でまた着信があった。イタ電自体は別に怖くもなんともなく、背後に回られたからといってどうこうされるヤワな体は持ち合わせていないが一応警告しておく。
「あのさ、最後に何するつもりか想像ついてるからもうこの辺で止めとかない?」
「……私メリーさん。今博麗神社の前にいるの」
「……そう。靴脱いで上がってね」
「うん」
小さな声で返事があり、通話が切れる。相手が怖がっていなかろうがオチがバレていようが何がなんでも続行するつもりらしい。
それがメリーさんのアイデンティティーなのかも知れない。電話しないメリーさんなんてメリーさんじゃないもんなぁ。
脱衣所の戸を細く開け、そこから廊下に首を出したが玄関からやってくる人影は無い。風呂場の窓格子は子猫がようやく入れるかどうかぐらいの隙間しか無いので、私の背後を取るとしたら馬鹿正直に廊下からやってきて「後ろに回らせて下さい」と言うか、それとも……
考えている所に着信が来る。これが最後の着信のはずだが廊下にはやはり誰もいない。私は首を引っ込め、風呂場に戻って魔法で湯を沸騰させた。煮えたぎる熱湯を背にして通信符を耳に当てる。
「はいもしもし」
「私メリーさん。今あなたのっキャアアアア!? あつ! あっつ! 何何何!?」
私の背後に空間転移してきたメリーさんはめでたく熱湯に落ちて悲鳴を上げた。混乱して大暴れする水音が聞こえる。
人の忠告を聞かないからこういう事になるのさ。幻想郷で―――幻想郷でなくともこういう目にあっていそうだが―――ワンパターン戦法が通じると思うな!
私はまた一匹幻想郷に愉快な妖怪が増えたようだ、としみじみ思い、後ろを振り返りもせず転移先の確認を怠った迂闊なメリーさんを放置して夕飯を食べに台所へ向かった。
どんとはれ。