楽浪見あやめは兎が好きだった。これは彼女が妖力の澱みから発生した時、偶然目の前に居たのが兎だった事に起因する。
人里離れた竹林で発生したあやめは当初とても力が弱かった。あやめ固有の力「惑わす程度の能力」は優秀な精神干渉能力であるがその分あやめ自身の直接的身体能力は低い。当時の妖怪平均を下回り、精々下の上と言った所か。
あやめは人間が食料的意味で大好きで食べたくて食べたくてたまらなかったのだが、竹林は人間の群から離れた場所にあったので獲物が向こうからノコノコやってくる事は滅多に無く、自分から人間の群の中に襲いに行くと返り討ちに遭う危険性が高い。年若く妖力の低いあやめはネズミやイタチ程度の小動物の方向感覚を惑わす程度しかできなかった。
従ってあやめは基本的に時折群からはぐれて竹林に迷い込む人間に奇襲をかけて狩っていた。迷い込むのは精々が年に一人か二人程度なので、一年の大半は兎と戯れている計算になる。もふもふの白い毛皮はいつでも触り心地が良く、愛くるしい紅い瞳で見つめられるとちょっと胸がキュンとした。シルクハットに入れて連れ歩き、暇な時は可愛がる。
やがて年月が経ち、あやめの能力が人間を発狂させられるレベルまで成長し、狩りが楽になってきた頃。竹林に小さな妖怪が訪ねてきた。
新雪の様な汚れ無き純白の長い髪。あやめの胸に届くかどうかという背丈で、人間で言う少女と幼女の中間ぐらい。暖かそうな紅の衣の裾を弄りながらきらきらした黒い瞳でキョロキョロと辺りを見回していた。
可愛い。兎と同じくらい可愛い。
一目で小さな妖怪が気に入ったあやめは、早速思いっ切り撫で回そうとノコノコ近付いて行った。
常時五感を惑わす力場を展開しているあやめは早々発見されないが、小さな妖怪は歩み寄るあやめをしっかり見て言った。少し驚く。
「浅葱色の着物モドキにシルクハット……その時代考証ガン無視の服装、楽浪見あやめ?」
「そうだけど~、何か御用~?」
「ああちょっと交渉に。私は白雪って言うんだけど、あのさ、あやめは片端から人間の集落を襲ってるみたいだけど、ここから東に行った森の近くの村の……ちょ、この手は何?」
「可愛いものを撫でるための手~。うーん、ちっちゃい~」
「おい馬鹿やめろ」
柔らかな髪を撫でくり回していると凄い形相で手をはたかれた。
「なんで嫌がるの~?」
「子供扱いされるのは誰だって嫌に決まってる。あやめも嫌でしょ?」
「私はいいよ~?」
「嘘つくな。やられてみれば分かる」
白雪はぽむんと煙を上げて大きくなった。ボンキュッボンの長身美女になった白雪は、よーしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよし良い子だー、とあやめを徹底的に撫で回した。するとあやめはなすがままにされて気持ち良さそうに細い目を更に細くする。白雪はなん……だと? と驚愕した。
大きく舌打ちし、またぽむんと煙を上げて小さくなる。
「くそ、信じられん……とにかく私は嫌だから。ぅゎょぅι"ょ小さいって言われてるみたいでさ」
「それならずっとさっきみたいに大きくなってれば良いのに~」
「結構妖力消費するから。それに実際背が伸びた訳じゃないからシークレットブーツ履いて高い目線に感動しつつもどこか虚しい気分になるのと同じ感覚に、って言わせんな恥ずかしい。あー、話が逸れてるなこれ。東の森付近にある村なんだけど」
要するに白雪が見守っている村の人間には手を出さないでくれ、という交渉だった。
あやめは意味が分からず首を傾げる。
あやめは捕食者であり、人間にどういう態度をとられても気にしない。人間は食べ物である。それ以上でも以下でも無い。
鯛の活け作りに恨めしげな目線を向けられたからと言って箸を止めるだろうか?それと同じだ。止める者もいるだろうが、少なくともあやめは該当しない。
あやめには捕食者が披食者を慮る意味が分からなかった。
心底不思議に思ったあやめは白雪の言った意味をうんうん唸って考え、ぴこんと思い付いた。
「なるほど、養殖場で保存食なのね~。白雪頭良い~」
「え? いやそうじゃなくてさ、ずっと見てる内に親近感が沸いたからあんまり死んで欲しくないと言うか」
「人間に……親……近……感?」
「あ、もう保存食でいいや。好きに捉えて」
別に白雪の管理下にある村を襲撃しなければならない理由もないあやめは白雪の要求を飲んだ。他に餌場はいくらでもある。
それから白雪と付き合いが始まった。あやめの方から遊びに行く事もあれば白雪が遊びに来る事もある。白雪の友達だというえらく格好の良い男妖怪も紹介されたが、色気より食い気なあやめが異性として意識する事は無かった。親友止まりだ。
やがて時代は進み、人間の科学が発展し妖怪に反撃し始める。
妖怪は肉体よりも精神の比重が大きい存在であり物理攻撃の通りが悪いが、それでも強力な攻撃を受ければ死ぬ。増える一方だった妖怪は徐々に減り始めた。
あやめは精神攻撃を得意とする妖怪だ。精神攻撃は科学での防御が難しく、科学が発展しても狩りにさしたる影響は出ない。基本的に人間達の心を惑わせ同士討ちをさせる狩り方をしていたので、むしろ殺傷力の高い武器を持つ様になった分狩り効率が高まったとすら言える。あやめは時々白雪の指示を受けながらも好きな時に食欲に身を任せ人間の村や町を滅ぼしていた。
ところがどっこい、更に時代が進むとあやめも自重せざるを得なくなってくる。人間がますます勢い付き、あやめの友達の妖怪を無節操に殺していくのである。
これにはあやめもちょっと怒った。食物のくせに生意気だ。
もう殺されてしまった妖怪は仕方無いが、このままいけば白雪や剛鬼や兎も殺されてしまうかも知れない。二人に限って人間ごときに殺されるとも思えなかったが想像してみるとちょっと怖くなった。
あやめは白雪の指揮で人間を殺戮する。奇襲だの夜襲だの補給線切断だの要人暗殺だの、どういう意図で白雪が指示を出しているのかは分からなくても人間を食べれて妖怪が安全になるらしかったので割と頑張った。
ある日、とある研究所に堂々と表玄関から忍び込んだあやめはターゲットを探していた。研究所主任が今回の標的だ。
隠れもせずふらふら廊下を歩くあやめに研究員は誰一人として気付かない。
研究員の顔を一人一人覗き込み、白雪に渡された写真と見比べていたあやめはすぐに標的を見つける。黒髪で小太り、眼鏡をかけた小男だった。銀髪の変な服を着た女と喋っている。
女の顔を見たあやめは白雪に言われていた事を思い出して困惑した。この女は八意××だ。△△だった気もするけれどどちらでも良い。白雪に殺さないで欲しいとお願いされている、その一点が重要。
目標を補足したら後は能力を発動させて研究所を壊滅させようと思っていたが、今それをやると××も巻き込んでしまう。あやめとしてはターゲットの男より美味しそうだなぐらいの感想しか抱かないが、かといって食べてしまうと白雪に叱られる。××とは友達だと言っていたし泣いてしまうかも知れない。
ターゲットだけさらって食べようかな~、でも一人だけ食べてもお腹膨れないし~、と悩んでいると、ターゲットと話し込んでいた××が不意にふと首を傾げ、辺りを見回し自分の真横で悩んでいるあやめを発見した。
××は目を見開き、頬をひくひくと痙攣させる。その顔は一気に血の気が引いて青褪めていた。
白雪が言っていた。××は桁外れにハイスペックな天才だと。どうやら何をしたのかは分からないがあやめを認識しているらしい。
「見つかっちゃった~。どうしようかな~、食べるしかないかな~?」
「やめて頂戴。……え? ああ、なんでも無いわ。ただ少し調子が悪くなったの。先に上がらせて貰うわ、いいわよね? お疲れ様」
××は心配そうに声をかけてきたターゲットに一方的に言うと足早にその場を去った。
××が研究所を出た十分後、研究所の人間は全員あやめの腹に納まっていた。
肉体を捨て、霧になったあやめはまどろんでいた。この竹林に通すのは白雪と兎だけ。他は全て惑わせる。
竹林の霧はあやめそのもので、霧に包まれるという事はあやめに包まれるという事に等しい。それは強力な守護を竹林にもたらした。
肉体を失い自我も限り無く薄くなったあやめはぼんやりと長い年月を過ごす。時折意識がはっきりする時もあったが、すぐに眠くなる。
その内白雪が復活させてくれるかな~、と思っていたがなかなか復活させてくれない。でもまあいいや、気長に待とう、とあやめはひたすらうつらうつらしていた。
それからどれだけの年月が経ったのか。竹林の中の兎が妖怪化したり、白雪が建てた屋敷に月人が住み着いたり、白雪がどこかへ行ってしまって寂しくなったり、結構色々あったからまあ……たくさん月日は流れたはず。
月夜の晩、妖怪が二人竹林の入口にやってきた。その時は偶然意識がはっきりしていて、追っ払ってやろうと能力を強く発動させる。羽の生えた方の妖怪がビクンと痙攣し、虚ろな目で相方の黒服の金髪を見て手に髑髏を灯す。
何かが爆発する音を聞くと共にあやめは再び眠気に誘われて意識を落とした。ああ眠い眠い。
あやめは白雪に誘われて洩の湯に来ていた。百合姫も一緒だ。半端に復活して能力が本調子では無いので、惑いの力場は展開していない。
三人は体を流し、並んで湯船に浸かった。白雪は百合姫の胸と自分の胸を見比べあからさまに溜め息を吐き、次にあやめと自分の胸を見比べて微妙な顔をした。
その様子が可愛いかったので抱き締める。殴られた。
「なんで私だけちまっこいの? 不公平じゃない?」
「そんな事言われても~」
「なんでさ!」
「可愛いから良いでしょ~」
「なんでさ!」
「可愛いは正義だから~」
「なんでさ!」
「百合姫、白雪がおかしくなった~」
「うむ、では私の膝の上に」
「百合姫もおかしくなった~。白雪は私の~」
百合姫と白雪の取り合いをする。なんとなく懐かしい気配がする百合姫の事は好きだったが、白雪は譲れない。烏天狗がその光景をどこからともなく取り出したカメラで撮っていたが、ワーハクタクにその場で叩き壊されていた。銭湯の中では撮影禁止らしい。
それからハッと我に帰った白雪に湯船で騒ぐなと拳骨を貰う。
白雪に二回も殴られてしまった。悲しい。永遠亭に帰ったらてゐとウドンゲに慰めてもらいながら××と輝夜をお腹一杯食べようと思った。
楽浪見あやめの頭の中は今日も平和だ。