「ちょっと、貴方の家って意外に広いじゃない? デザインも割りと格好いいし」
浅海はアデットの車が着く前にすでに門の前で待っていた。
手にはボストンバッグを持ち、篠崎邸の全容が思っていたよりも広いことに驚いている様子。
それも当然か、ここはちょっとしたお化け屋敷にも見えるほど古くて、広い。
戦前のこと、親父から聞いている話ではたしか日露戦争が始まる二年前に俺の曽祖父はアメリカに渡ったらしい。
そして、様々な苦労の末にあの国でちょっとした成功を掴んだ。
しかし黄禍論が一部で騒がれて久しい時代は曽祖父のアメリカ生活を不快なものに変え、また一方で彼ら夫妻の間にも望郷の念が募ったこともあり、未だに幼かった祖父を連れて再びこの地の土を踏みしめた。
故郷に錦を飾った彼は自身が慣れ親しんだ洋風の建築をここに建てた。
アメリカでの生活の喜びと悲しみ、曽祖父はよく親父に語ったのだそうだ。
彼はやはりあの土地を愛していたのだろう、そうでなければこんな家は建てなかっただろうし、思い出など語りはしなかっただろう。
そんな逸話が残る家は築70年。
実際はあちこち補修したいところだがリフォームに使える金もそんなにないから、ちょっとしたお化け屋敷の様相さえ呈しているのが俺の家。
この街の中では比較的和風建築の多い地区にでかでかと建つ洋館はなんと浮いていることだろう。
今は別に金持ちって訳でもないのに、あんな場所に住んでいる俺はそのことがちょっと恥ずかしかった。
アデットが帰ったあと、すぐに綾音もやって来て、彼女達をあまり招待したくもない家に招き入れることになった。
大丈夫、誰も勘違いはしていないだろうが、俺が彼女達を襲うことなど在り得ない……俺が襲われることはありそうだが。
そう、あんな在り得ない力の持ち主を組み伏せたとしたら俺自体の存在がおかしな物になる……そんなことが出来る俺はすでに人間とはいえないと思う。
しかし、待て……美少女を前にした思春期の男としてこの反応はどうだろうか?
学校のアイドル二人が同棲するというのに、彼女達を恐れてさえ居る俺――はっきり言ってあの夜の恐怖はそうそう拭い去れないのは確かだが、情けない。
しかも、彼女達の仲が悪いからあの夜が再現されるのではないかと気が気でないことも……器が小さくて格好悪いな。
そう思いながら、荷物を持つ彼女達を連れて階段を上る。
古い階段はギシギシと音を立てるが、壊れそうな音というよりは味わいのある音だと思ってもらいたい。
ただ、明かりもつけない夜中にこれを聞けばちょっとしたお化け屋敷気分に浸ることが出来るに違いない、とも言っておく。
「ふん、なるほど。ここ、私の部屋ね」
見晴らしのいいテラスがある三階の部屋……この家の最上階である部屋からの見晴らしは確かにいいのだが、彼女がこんなところをうろついていては近所の目が気になる。
「なぁ、地下にいい部屋があるから……」
そう、目立ちそうなものは見えない場所にしまわないと。
「死にたいのならご自由に、ミスター」
咄嗟に赤く変わる瞳――夕暮れになる今の時間、テラスから差し込む黄昏の明かりを受ける彼女のその瞳はものすごく心臓に悪い。
カーテンを開け、テラスに出た彼女がそこに背を預けて、こちらを睨んでいる光景は映画に出てきそうな幻想を伴う……主にホラー系だけど。
「浅海、ここはコーメイの家ですよ。そんな脅迫をして、自分の判断で部屋を決めるなどもっての他です、この私が許しません!」
浅海が持っているのと同じようなボストンバッグを持つ綾音が俺の後ろから援護してくれる……この状況は良くない。
そう思うと同時に、二人は険悪な空間を作り出していた。
「……いや、頼むからこのオンボロな家で喧嘩するのは止めてくれ。部屋は、ほら、ここは浅海でいいから、綾音の部屋は二階に用意するよ」
こんなところであの夜のような戦いを起こされては家がなくなる。
そう、多少近所の目が厳しくなっても、女の子を連れ込んでいちゃついている放蕩息子という情報が親父に伝わらない限りは……我慢することにしよう。
「コーメイがそう言うのなら……別にいいですけど」
綾音が先に折れてくれる、それを受けて浅海も引いてくれた。
最初の危機を回避することに成功しただけで、寿命が縮みそうだ。
当然、たかだか部屋争いくらいで失って構わない命など持ち合わせていないから、その気持ちは誰にでもわかるだろう。
彼女達が喧嘩のとき俺のことを考えて多少の加減をしてくれる? いや、そんなことはないと思うよ……喧嘩しているときのあの眼はかなり本気っぽいから。
○○○○○
危ない二人は俺が用意した部屋に自分の荷物を置くとすぐに中の掃除を始めた。
それも当然で、俺しかいなかったわけだから部屋の中は埃だらけ。
しかし、驚くことに浅海が言うにはそんなひどい部屋でも『魔術で掃除なんて簡単に終わる』のだそうだ。
これは流石に魔術師に憧れる。
主婦の多くも俺と同じ意見だろう……正直に言ってこれだけは俺も羨ましかった。
火が熾せても、空が飛べても、水の上を走れてもこの時代に生きていて得などしそうにないが、こういう実用的な魔術は確かに偉大なものだと思う。
部屋の真ん中に魔法陣と呼ばれる円を書き、その中になにやら見たこともない文字といくつかの数字を書き込んだ彼女はそのまま呪文を唱え始めた。
静かな詠唱、本来急いでなければ詠唱さえ必要ではないのだそうだが、それだと無駄に時間もかかるし、魔力のロスも大きいから魔術師は詠唱を使うという。
何でも、魔術とはパソコンのプログラムのようなものだと考えればわかりやすいらしく、摂理を知った上で組み上げられる魔術というプログラムを起動させるのが魔力という燃料なのだとか。
つまり、魔力はそれだけでは魔術ではなく、魔術というプログラムも魔力の供給がなければただの幻想・空想・妄想の類なのだとか。
だから、俺を含めたただの人間なら誰でも『魔力』は扱えるらしい。
これが魔術になれば、式を組み立てる手法を何十年と研究して初めて普通の人間に使いこなせるようになるのだとか。
そして、今浅海が行っている詠唱とは魔術式というプログラムを一番早く組み立てられる手法で、魔力の消費も抑えられるらしい。
「Come along my butler, I am your Lord――McLir!」
辺りで小さな音がし始めた、何かが動いているような気配。
「Give this room a good cleaning!」
何もない、何も見えないのに描かれた円に埃が、ゴミがひとりでに集まっていく。
対象とする埃が小さいことから重さで選定する、そう言った彼女は部屋の真ん中に集められたゴミをそのまま袋に包んでしまう。
すると、そのわずか10分ほどの作業で疲れたから『俺』に食事を用意しろという。
すぐに、綾音まで『俺』に食事を出せと言ってきたときには流石に泣きたくなった。
しかし、俺も腹が減っていたのは事実。
怪我人に食事を作らせようとする、とんでもないお嬢様方にぐうたら男の恐ろしさを教えてやろうと……電話に手を伸ばしてピザや何やらを注文した。
怪我をしていて背中が痛いし……かと言ってあんな料理の出来なさそうな連中が作ったものは食べたくなかったから、この選択はまずまずだと思う。
そして、デリバリーの力は偉大なり……あっという間に宅配のお兄さんがピザを持って来てくれた。
俺の後ろで騒いでいた綾音と浅海の姦しい声に頬を緩ませたお兄さんが『遊び人だな、君。今夜は徹夜で? 俺は君のことが気に入ったから今日のやつは奢りで良いよ』といってくれたりする。
『あははっ、どうもありがとうございます』と元気に答えると、彼の手からピザやら何やらを受け取り、彼女達が騒いでいた部屋に運ぶ。
○○○○○
「ちょっと! 夜にピザなんて食べたら太るじゃない。貴方本当に馬鹿ね」
ピザを食べながら、そういう浅海に説得力などない。
俺が普段過ごしている居間。
洋室ではあるが、ここだけは靴厳禁で寝転げることが出来るソファーや絨毯が敷かれているし、テレビもあるのでそこで食事することになっていた。
「もう、浅海! コーメイを馬鹿っていわないでもらえる? 人の家に来ておいて失礼だわ」
むしゃむしゃとピザを手に取りながら綾音が文句を言った。
幼馴染でもある彼女に強い言葉で弁護してもらえたことはうれしいが、今は和んでいる空気……それほど切実に死を意識しないので別によかった。
「ねぇ、そういえば明日って休みだったわね」
浅海の一言から俺達は世間話に入った。
そういえば、この面子で『普通』の話をするのはこれが初めてだ。
食事を終え、ソファーの上に体を寝かせて楽な体勢を取った俺は欠伸をしながらそれに答えた。
「ああ、そうだな。日曜日だから。それより、浅海はその、狼の抑制剤を飲まなくてもいいのか? そろそろ夜だろ?」
テレビのリモコンを片手にした彼女からは、実に気だるそうな声が返ってきた。
「もう飲んだ。それより、貴方たち。特に、アヤネは普段何してるの?」
最後の綾音の名前の辺りはすでに欠伸……大口を開けるのははしたないと思うが。
いきなり話題を振られたため、少々怪訝そうな表情をした綾音が言葉を選びながら、それに答えた。
二人の関係は普段冷戦並だがこういうときは和んでいていいな。
「どうしてそういうことを? 企みですか」
人聞きの悪い聞き方だが、普段の関係を考慮すれば当たり前か。
「違うって! ほら、望まない結果だけど共同生活するのよ。お互い、色々在るじゃない? 趣味の邪魔をされたくない時間とか、なんとか」
「なるほど、確かにそれは建設的な提案ね。いいわ。私から言いますけど、私は学校がある日は主にナイフや刀の修行、あと勉強を。休日は読書と修行と、勉強を」
おいおい、そんな詰まらない女子高生ありかよ。
何ともいえない答えを聞いて、一瞬、転げていたソファーから落ちそうになった俺。
そういえば、昔綾音の家に遊びに行こうとしても塾だとか理由をつけて断られてたことを思い出した。
こういう生活なら、それも仕方ないだろうな。
でも、これってはっきり言うと……
「――最低な人生の過ごし方ね。貴女、近いうちに過労で死ぬわよ。これだから日本人は働きすぎっていうのよね」
綾音個人の問題が日本人の働きすぎと関係があるかどうかはさておき、この浅海の意見には心ならずも同意するしかなさそうだ。
勿論、口になど出さなかったが。
「む! そういう貴女はどう過ごしているというのです?」
「私? 私は休日にはお婆様から頂いた書籍を読んだり、趣味のガーデニングをしたり、あと食べ歩きとかもするけど、学校のある日は絵を描いたり、魔術の研究をしたり、あと植物の品種改良研究もするかな。それと……たまに地下のプールで泳いだりするわね」
多彩な趣味、それはわかるが……魔術師なのはほとんどついでだな。
「食べ歩き? まったく、味覚があってないような国の出身だけのことはありますね」
明らかに侮辱したような嘲笑、高飛車なお嬢様っぽい感じだ。
いや、実際にお嬢様だからそれが実に堂に入っている。
「ちょっと、私はアイルランドの出身でブリテンの出身だなんていってないでしょう! まったく信じられないわ、この地理音痴!」
現在は独立した共和国であるアイルランドも、およそ百年前まで隣国イギリスによる七百年間もの支配を受けてきた……怒る気持ちもわからないでもない。
因みに、アイルランド独立の立役者の一人といえば俺の頭の中にはマイケル・コリンズが思い浮かぶ。
有能な作戦指揮官であったマイケルはイギリスとの交渉の席で北アイルランドの分離を独立の代償に認めてしまったことを責められ、過激派のテロで命を落とした。
確かに政治的な駆け引きの末にマイケルが北アイルランドのイギリス支配を許してしまったことは事実だが、そうしなければ独立が達成できなかった事情を考えれば極めて現実的な判断で、事実彼の葬儀では多くの国民が悲しんだといわれる。
「私はイギリスもアイルランドも料理のレベルは違わない、と言ったのですよ。百年も前は同じ国だったのですから料理に違いなどあるわけもないでしょう?」
言い切る綾音には根拠などなかったが、実に自信たっぷりな言い方に俺も信じそうだった。
「この……」
飛び掛ってもおかしくない怒り方の浅海、正直これ以上燃料を注ぐと危なそうな気がしてきた。
「まぁまぁ、故郷を悪く言われると嫌なことはわかるけど、食事中に怒らないでくれ」
「まぁ……篠崎君がそういうのなら、今だけは許してあげる。で、貴方は何をしているの? どうせ、怪我で大して動けないとは思うけど一応聞きたいわね」
「確かに、私もここ数年はコーメイの家に遊びに来ていませんでしたから是非聞いてみたいですね」
取り敢えずの戦争は回避、自分のことならまだ大した燃料ではないだろう。
しかし、それは大きな誤解であることをすぐに知る。
「俺? 俺はまぁ、テレビを見たり、マンガを読んだり、適当にだらだらと……」
二人は信じられないような眼で俺を見つめた。
悪いことでもしたか、俺?
まるで恐竜が歩いているのを見た人みたいな感じ。
「信じられない……貴方それでもったいないとか思わないの?」
「私も浅海と同意見です。いつからそんな怠け者に?」
二人は実に正直に俺の生活が堕落したどうしようもないものだと切って捨てる。
魔術師の生活に無意味なことがこれほど多くあっては認められないらしい、といって……俺は魔術師ではないと思うのだが。
「いや、ほら、高校に入学して勉強もしなくなったし、倶楽部も止めたし、趣味がマンガを読むことだったりするから……俺は結構満足してるけど……悪かったか?」
言い訳など聞く二人ではないことは嫌というほど知っているのに俺はつい、いらぬことを口にしていた。
「最低、駄目人間の典型ね。綾音、ちょうどいい機会みたいだから彼を躾けた方がよさそうね」
「まったく! それには同意しますわ。コーメイ、自堕落な生活に溺れているくせにシュリンゲル卿に魔力の使い方を教えてもらおうとしたとか……魔術を舐めているとボコボコにしますよ」
ニコニコしながら、殺意が迸る綾音と浅海。
「あの……俺は別にお前らを馬鹿になんてしてない……です」
最後の辺りは声にならない。
睨む二人の殺意はほとんど目に見えるほど……ヤバイな、この空間は。
「その怪我治るまで運動だけは勘弁してあげるけど、頭のシェイプアップは出来るわね?」
「いいえ、浅海は甘いです。コーメイは昔から大怪我をしても我慢できる強い男の子でしたから、この程度では問題ないわね?」
怖いな、どうして俺からマンガと自堕落な日々を奪おうという結論に至るのだろう?
それに、いつから俺はそんな強い男の子になったのだろう。
「待ってくれよ、お前ら。おかしなことは、その、それにこの怪我ってお前らの責任じゃ……」
「あらコイツ、私たちに責任を押し付けるつもりみたいね」
「ええ、格好の悪いことね。コーメイ、大丈夫よ。私が昔の貴方の輝きを取り戻させてあげますから……地獄の特訓ですぐに魔力の扱いくらいはマスター出来ますよ、一ヶ月で」
一年かかるといわれた特訓が一ヶ月の地獄に変わろうとしているのか?
ごめんなさい……魔術を舐めたわけではない、それ以上怖い顔をしないでくれ。
「……」
「殺されたくなかったら、明日はマンガとか処分しましょうね、篠崎君」
「それと、コーメイの部屋からおかしな書籍が出てきたときは私たちが住む以上不適切ですから廃棄しますし、貴方にもそういうことをしないようにするお仕置きをしますから」
「そいういのは、ほら、男の証明って言うか、俺が同性愛者じゃない証明になっていいと思うけど」
アレを見つけられたら、確実に命が飛ぶ!
自分の性癖をクラスメイト達に知られるなどという悶絶死しかねない運命が憎い!
「物は言い様、本当にそんな言い訳が通ると思う? それじゃあ私、もうお風呂入って寝るから、明日のために英気を養っておきなさい」
浅海はすっと身を起こすと、そのまま部屋を出て行く。
綾音も数分と立たずに部屋を出て行ったが、俺は明日から地獄を見るかもしれない。
とりあえず、部屋の本はどこかに隠す必要があると思った。
しかし、咄嗟の行動は逆に尻尾を捕まれる恐れさえある。
事は慎重に行わねばならないのだ。
食べていたピザの箱を手に取り、それをゴミ箱に捨てる。
9時を少し回ったところ、未だ時間はあるが体はまだ痛いし、何より傷に効くとか言う薬を飲んでみると眠くなってきた。
「ふぁ~、眠い」
リモコンを手に取り、テレビの電源を切る。
ここはあくまで居間で、俺の部屋はここの二階、綾音の部屋の二つ隣になっている。
誤解を招かないように言っておくが、一階は物置やら親父の部屋、応接間とか事情があって使えない部屋ばかりだったし、何より二人の我が侭を満たす部屋はこの家にいくつもない。
だから同じ階になってしまったことには深い意味はないし、何より……あんな恐ろしい連中をどうこうしようなどとは思わない。
明かりを消すと、そのまま居間を出て階段を上る。
家の広さに比べて貧弱極まりない電灯が階段を照らす。
そう、お金のある時代に作られた部分と、そうでない時期に作り直された部分が非常にアンバランスなのだ。
階段を上りきったとき、そこに綾音が困った顔をして立っていた。
「どうした?」
「私の部屋、どうもシャワーの調子が悪いみたいなの」
古い家である、そんなことはあるだろう。
何しろ浅海と綾音に紹介した部屋はもう十年以上もまともに使われていないのだから、それは仕方ないと思う。
しかし、だからといって無視することも出来ない。
また、無視させてくれるわけもない。
「う~ん。多分使ってなかったから、水道管がイカレタのかもしれないな。俺もちょっと見てみるけど、ほら、お前の魔術とかで何とかできないのか?」
彼女は面白くなさそうな顔で俺に答える。
「あのね、コーメイ。私は確かに広義の意味では魔術師ですけど、水道管の修理なんて真似は錬金術師の領域なの!」
そう力を込められても、事情に疎い俺にはよくわからないのだが。
「? 錬金術師って、アデットみたいな?」
「ええ、鉱物や金属の類については錬金術師以上に詳しい人間はいません。何より、錬金術師は正式に大学の学位を持つ人も多いですから」
そうは言うが、いくら高名な錬金術師でも水道管についての詳しい知識など持っているかな?
そもそも俺のイメージしていた錬金術師は銅や錫を金に変えるような人間だったのだが。
「へぇ、それは知らなかったな。じゃあ、取り敢えず見てみるけど、もしも無理そうだったら今日はあきらめてくれよ」
「それは駄目、却下します。もしもシャワーが出ないのなら、貴方の部屋のを使わせて」
即答した綾音の真意を測りかねる。
平然とした顔で、俺の部屋のを使うという真意は何処に?
それは、確かに幼馴染だけど、男の部屋に来てシャワーまで浴びるって!?
お金持ちのお嬢様女子高生にあるまじき、大胆な発言。
「まぁ、お前がそれで良いって言うのなら別に好きに使ってくれて構わないけど……別に風呂に入らなくても死ぬわけじゃないと思うけど」
その瞬間、刺すような視線が俺を捕らえる。
「うふふっ、私は潔癖症なの。わかりませんか、そういう女心?」
「……ごめん、俺が悪かった。今すぐに部屋に行こう」
そのまま二人で綾音の部屋のバスルームを見に行ったが、あれは駄目だ。
いくら蛇口を捻っても錆びた色の水ばかりが出るばかりで、澄んだ色に変わらなかったのだ。
その上、水の出がものすごく悪い。
二階まで水を引き上げるのは俺の部屋と同じ水道管のはずだから、この部屋に来るまでの時点に問題があるのだろうが、素人がどうにかできるわけもない。
直す努力をすることは構わないが、水道管が破裂したら今夜眠れなくなる。
出来もしないことをするのは良くない、『餅は餅屋』と昔から云うからな。
首を振って、自分の力不足を告げることにする。
「悪い、今度修理の業者を呼ぶことにするから勘弁してくれ」
「仕方ないですね……あっ、でも浅海の部屋も同じ?」
「ああ、確かにアイツにも言ってやらないとまずいな。一応、女の部屋に行くわけだから綾音もついて来てくれ」
「確かに、あの馬鹿女が貴方を襲うかもしれない訳だから私は構わないけど」
俺達二人はそのまま、部屋から出ると階段を上り、三階の浅海の部屋に向かった。
だが三階に着いたとき、そこはほとんど異界だった。
廊下の明かりがチカチカして、獣の低い唸り声のようなものが微かに聞こえた。
床が少し震えている。
地面を揺らすのは低く、恐ろしげな獣の声。
「おい! まさかアイツ、こんな場所で狼に?」
俺は後ろに立っている綾音に叫んだ。
「いいえ、これはただの発作のようなものだから大丈夫。それより、コーメイはここに残っていなさい」
綾音はそのまま俺の前に出ると、浅海のいる部屋に歩みを進めた。
「綾音! 本当に大丈夫なのか?」
「ええ、でもただの人間が近づけば彼女の我慢が利かなくなるかもしれない! 私は中に入って浅海の発作を弱めるようにします、貴方はもう部屋に戻っていて」
「でも、ほら、何かあったらどうすればいいんだよ!?」
「満月でもなければ、私の力で十分抑えられます。それに……浅海もあの姿はあまり見られたくないと思うから、貴方はもう寝なさい。私も今夜はお風呂をキャンセルするから」
そういい残して、綾音は部屋に入っていった。
苦しむ獣の声と共に、歌うように紡がれる呪いの言葉が微かに聞こえた。
獣をあやす子守唄は実に優雅、獣の声が次第に小さくなっていく。
しかし、獣の声が消えることはない……呻き声は人間のものに近づき、逆に耳を塞ぎたくなる。
何も出来ず、その場に立ち尽くす俺は唇をかみ締めた。
耳に聞こえる女が苦しむ声は聞くに堪えないほどの苦しみを与えてくる。
俺は浅海を助けられるはずなのに今は何も出来ない。
この血を飲めば大丈夫だというが彼女はそれを欲しなかった。
おそらく自分の力だけで抑えられる発作だったからだろうが、俺に負担をかけたくなかったからかもしれない。
そう思えば、苦しい、すごく苦しい。
人が苦しんでいるのがわかっていて、その人を救う力があって、相手から頼られず、自らは助ける術を知らない。
頼りにされないことが何よりショックで、彼女との間に信頼などないのだと改めて思う。
足がそのまま階段を下りようとした。
どうせ、俺には何も出来ない……しかし、もう一人の俺が言う。
俺はそれに自分で反論して、二人は言葉を交わす。
『聞いたはずだ、その血があれば取り敢えずの発作は抑えられる』
「でも、俺が近づけばアイツはまた狼になる」
『言い訳だ。怖いから取り敢えず知らないフリがしたいだけだ』
「違う、綾音だって言ったはずだ。俺が近づけば、ただの人間が近づけば本当に危ないんだ!」
『どうかな? 俺は忘れていただけだ、意識してこの瞬間までそのことを忘れようとしていただけだ。血を飲まれる、それは確かに怖いよな? でも、逆に言えばたったそれだけだろ』
「ああ、そうだ。たったそれだけなんだよな、この声を聞くのと血を飲まれるの……比べるとやっぱり血を飲まれる方が安いよな」
人の苦しみと自分の苦しみ、おかしな正義感か?
いや、ただ献血と同じことをするだけの話だ。
正義などという高尚なものではなく、ちょっとした善意。
そう、ちょっと困っている人間を助けてやろうとするだけのことだ。
自分にそう言い聞かせた俺の足は階段ではなく、部屋に向かっていた。
呻き声の聞こえる部屋の前まで来たとき、息を吸い込む。
三度の深呼吸。
これから眼にする衝撃的な光景に気を失わないように気合を入れる。
もし気を失えば、彼女は傷つくことになるからそれだけは絶対にしないと誓いを立てる。
背中の傷、体中の打ち身はまだ痛むが狼の恐怖を克服するために傷のことさえ忘れた。
気合は十分、部屋を空けるために手がノブを握った。
そして、静かにドアを開ける。
○○○○○
月が窓から差し込む幻想的な光景。
部屋はまるで欧州の貴族の館のような怪しい空気を織り成し、目の前の伝説と現実が入り混じった光景をただ俺が受け入れるべき事実に変える。
明かりの差し込むベッドの上には自ら両手足を鎖で繋ぎ、吸血鬼の象徴といわれる血のように赤い瞳をらんらんと輝かせ、もがき苦しむ少女の姿。
体は汗でびっしょり濡れ、額には血管が浮き出ている。
片腕はあの夜の狼のように銀の体毛に覆われ、顔の半分にもその兆候は見られた。
もしも覚悟がなければ、どんな人間でも叫びだしそうな光景。
いや、この苦しみの声と彼女の姿を見れば言葉など出せないかもしれない。
彼女の傍らに立ち、呪文を唱えていた綾音は俺の登場に驚きの表情を浮かべる。
まるで呪いをかけているのは彼女であるかのように見える、魔術を統べる者としての綾音……紺色を纏った魔女は俺に退避を促すための声を上げる。
「コーメイ! 貴方、どうして? 早く出て行きなさい!」
その言葉と同時、綾音のように魔術で消したわけでもないから俺から駄々漏れの人間の臭いを嗅ぎ取った浅海の右腕が一気に鎖を引き千切った!
あるいは手錠の鎖よりも丈夫であろう太い鎖がその限界を超える力に引き千切られ、音を立てて弾けとんだ!
砕けた破片が床に転がるのがわかる。
「!?」
思わず飛びのいた綾音。
しかし、自由になった腕は綾音ではなく、彼女自らの胸を引き裂いた。
白い絹の寝巻きが朱色に染まり、引き裂かれた箇所からは白い肌が覗く。
傷は硝煙を上げてすぐに塞がるが、痛みで一瞬浅海の理性が回復する。
赤い瞳の半獣人は苦しげな声で、俺を叱り飛ばした。
「はぁ、はぁはぁ……なんのつもり、貴方? 早く、ここから出て行きなさい! 私、貴方の血を飲みたくて我慢が出来なくなりそうなの! だから、早く!」
そのとき、浅海も綾音も歩みを進める俺を呆気に取られた表情で見つめた。
俺自身も自分の体が他人のものでないかと心配になる。
「ちょっと、コーメイ! 貴方、何をするつもりなの?」
浅海のベッドの脇まで行くと、膝をついて首筋を差し出す。
「ほら、俺の血を飲めば取り敢えずの発作はおさまるんだろ? なんで俺に言わなかったのかわからないけど、そのために同居したんだから少しは頼れよ」
まるで恐怖を感じていない様子の俺を綾音は口をパクパクさせながら見つめた。
恐怖は感じている、しかしその量が多すぎてすでに表現する手段がないのだ。
俺が感じられる恐怖はすでに限界を超え、限界を超えた恐怖はまるで映画でも見ているように他人事……これは狂気かもしれない。
しかし、この場で冷静でいられるのなら狂っていても良い。
首を差し出された浅海は、だらしなく開いた口から涎をたらしながら我慢できずに俺に噛み付いた。
鋭い犬歯が皮膚を切り裂き、俺の血液を吸い取る。
それがわかるほど近くに彼女の姿があり、俺は黙って彼女に身を任せた。
彼女の息遣いが聞こえ、その心臓の音さえも耳に届く。
極限の恐怖は俺の神経を信じられないくらいに研ぎ澄ましている。
そんなに大量に吸われたわけでもない、程よく吸ったとき、咄嗟に俺の首を離した浅海は半分狼になりかけていた体が完全に元に戻っていて、自分で引き裂いた服からは乳房がこぼれていた。
少女の美しく瑞々しい肌、白く柔らかい胸元、赤く染まった下着……疚しい感情はなく、物語に出てくる幻想的な一場面のよう……そう思えた。
露わになった自信の乳房を押さえると、未だに血を流す俺の首筋に自分の服の裾をちぎったもので止血を行う。
綾音もすぐに気を取り戻して、それを手伝った。
俺の治療が終わった後、その部屋の中で俺達はベッドや椅子に腰掛けて真剣な表情でさっきの俺の行為について話すことになる。
自分で引き裂いた血だらけの服を着替えた浅海は俺を見つめ、感謝ではなく非難の言葉を告げる。
「篠崎君、貴方は浅慮よ。もしも私が貴方を殺していたらどうするつもりだったの?」
言葉のどこかに、非難とは違う心底心配している感情も感じられる。
それを覆い隠すための虚勢、鋭い口調の非難はその奥に潜む本心を感じ取れなければひどく心外なものだったかもしれない。
しかし、俺もそんな言葉を真に受けるほどバカではなかった。
「それなら俺も言わせて貰うけど、どうして俺を頼らなかったんだ? アデットはそれが目的で同棲を勧めたんだぞ」
その言葉を聞き、わずかに逡巡した浅海は俺から綾音に視線を移した。
「アヤネ、彼はわかってないの?」
「でしょうね、シュリンゲル卿が説明を怠ったのでしょう……まったく、いい加減な人!」
苦々しげな綾音の呟き、そこには確かに苛立ちと怒りが感じられる。
「? どういうことだ?」
ため息をつくと、浅海は空の月を見ながら言った。
「簡単なことよ、貴方の血を飲めば確かに呪いは抑えられる。でも、それは打ち消すほどじゃない」
「それがまずいのか?」
「ええ、私は血を飲めば飲むほどより深い飢えに悩まされることになるの。例えそれが貴方の血でも結果は同じ……つまり、一時的な呪いは抑えられても呪い全体は逆に勢いを増す。そうすれば、貴方の血に頼らざるを得なくなるでしょう? それって、すごく悪循環」
俺の血は麻薬と同じ……苦笑しながら、浅海はそう言った。
飲めば快楽を得られる、しかしそれを続ければ……自身の破綻にしか至らない。
「そういうことですね。だから、浅海は自分の力だけで何とかしようとしていたの」
「そんな……だったら、俺の血から作る薬だって意味がないんじゃ……」
衝撃だ、力が抜けるような衝撃。
人を助けるつもりが、彼女をより深い地獄に落としかけているのは自分だといわれる、それが衝撃でなくてなんだというのだろう。
「いいえ、それは違うわ。私が血を欲するのは血に含まれる成分ではなく、別な要因があるから。アデットの話ではそれを薬の原料と分離すれば、発作を抑えるだけで、吸血衝動を高めないものが作れるそうよ」
「じゃあ……俺がしたのは本当に余計なことだったのか?」
それに答えるのは綾音、俺を救うような言葉を口にする。
「コーメイ、それは間違いよ。貴方は愚かだったけど、人間として間違ったことをしたわけではないの」
間違いでありながら、間違いでない……なんと言う矛盾なのだろう。
「?」
意味を図りかねる俺より先に、静かに浅海が口を開いた。
「ええ、確かに私も今夜は久しぶりに眠れそうだし、貴方に感謝しないでもないわ。でも、明日からはああいう命知らずな真似はしないでもらえる? 殺したら、寝起きが悪いでしょう」
ちょっとぎこちなく笑顔を浮かべ、俺の無茶苦茶な行動を非難し、同時に賛美する。
俺はその夜……彼女たちの笑顔に救われた気がする。
月が与えた恐怖は月の夜に持ち去られた、俺はもうあの狼の姿をおそれることはないだろう。
差し出されたやわらかい手を俺はしっかり握り返した。