土の元素が支配する一つが『石』。
その範囲は広く、宝石からガラス、賢者の石まで――その全てが彼らの力となる。
後で聞けばそういうことらしい……本当に迷惑なことだ。
硝子に見える光景は作られた景色――偽りの夜は晴らされ、真実は白日の下に晒される。
偽りを消し去る真実の光はそのまま『朝の陽光』であった。
騎士でもある魔導師は薄笑いを浮かべたまま聞きたくもない事実を告げる。
「今、朝の8時ですよ。あ……朝食はここの家主のフェルゼン神父が用意してくださっていますから下の食堂で食べましょう」
言葉を受けて、時計に眼をやった綾音は事務的な口調で告げた。
「08時08分……この教会からですと時間がありません。シュリンゲル会長、食事は抜いてください。それに、浅海さんとコーメイもさっさと行きましょうね」
「そうですか、それは残念ですね……神父の手料理はなかなかおいしいのですが」
金髪の彼女はそう言いながら、机の上に置いてあった鞄と制服を手にしてこちらに言った。
「では、私はバイクで行きます。歩きの皆さんはゆっくりと遅刻でもしていてください――では、また後で」
「バイクって、免許あるのかよ?」
俺に聞かれて、財布から自分の免許を取り出して見せた。
それはまさしく彼女の写真だったが……問題があった。
「免許は偽名で取得しています」
大問題である……お前、犯罪とかいう以前に罪の意識くらいないのか?
「いや、お前……偽名って、それは犯罪だろ?」
間違いなく犯罪です、堂々と法律違反を語る少女にはそんなことを言っても聞かないだろうが、とりあえず俺は言った。
俺の正義の声など意に介されはしなかった、今までの流れでそういう人間だとわかっていてもちょっと悲しくなる答えが聞けた。
「技量はありますし、バイクの運転は30年くらいのベテランです。その間、無事故無違反。ほら、まったく問題ないでしょう? 何より、本名で、しかも実年齢で免許が取れるわけがありませんし……これが最大の譲歩です」
確かにそうだろうと思うよ、実際……その顔で百歳とか言われたら誰も信じないよ。
でも、お前は今高校生を演じているわけだから犯罪……なんだけどな。
金髪の少女はそのまま扉を開けるのではなく、窓をいっそう広く開け放つ。
「え?」
俺が思わずそう言った瞬間に、窓から飛び降りやがった!
笑顔のまま……手を振りながら、消える彼女。
直後に聞こえたバイクの音……これは現実なのだが、言っておく。
「飛び降りたな……今?」
窓から身を躍らせた金髪のクラスメイトのことを考え、事実をそのまま口にしていた。
綾音は何をそんなに不思議がっているの? とでも言いた気な表情で俺の言葉に答えてくれた。
「? そうみたいですね。でも、ただの人間でも死ぬような高さではありません。ましてや、あの人は最高の騎士、怪我をするわけもないでしょう……貴方も急がないと遅刻しますよ、コーメイ」
何でもない日常――彼女にとってこんな現実は大した事ではないのだろうか?
その神経を疑わずには居られない。
それに、俺はどうにも学校へ行けない事情であったことに気がついた。
「綾音、お前……俺は背中を大怪我してるんだぞ。それなのにこんな何処かもわからない場所から走って学校へ行けって言うのか?」
「あ!」
ちょっとドジだということが判明した綾音はそのまま、考えるような表情になった。
「ふふっ、アヤネは頭が弱いわね。それじゃあ私は今日サボるから、学校へ行くのならよろしく。じゃあね~」
昨夜人狼に姿を変えていた魔術師は面倒臭そうに体を起こすと、ベッドの上に新品みたいに綺麗に畳まれていた自分の制服を掴み、そのまま部屋を後にしようとした。
「ちょっと待ちなさい、浅海。コーメイの怪我は貴女の責任でしょう! 彼を自宅まで運んであげなさい!」
そういわれて仕方なく振り向いた浅海はちょっと機嫌が悪そう。
「はぁ? ちょっと待ってよ、どうして女の私が篠崎君を背負って帰るなんて力仕事を?」
絶対に嫌、顔にそう書いてある浅海は綾音を睨み付けた。
心なしか……空気が痛い、殺伐としてきた。
「寝ぼけないで、自分が昨日私を蹴飛ばしたこと……忘れたとは言わせませんから!」
「ああ、あのときは私の意識がないから。何をしたのか、よくわからないし」
とぼける気ですか?
「あのバカ力を有効利用すれば、人間の一人や二人はどうということはないはずです!」
「それって、癪に障る言い方ね。私自身この体質は嫌いなのよ、わかってる?」
どんどん部屋の温度が低下していくのがわかる、俺が口も挟めない二人のジェットコースターは上って、上って一気に落ちようとしている。
昨日の夜の光景が再現されるなんて、冗談にもならないぞ!
「都合のいい言い訳ですね。その反則じみた体力でこの私にスポーツ大会で大いなる恥辱を与えたこと――あれで楽しんでいなかったとしたらどういうわけですか!」
俺はよく知らないが、女子の方では何かあったのか? 綾音の殺意は結構本気っぽい。
「そういうのって……大人気ないと思うな、私。女々しいわよ、貴女」
「私は女です、女々しくて何が悪いのですか!」
確かに女々しいって、字は女と書くが……女だったら女々しくても良いって訳じゃないと思う、基本的にこの場合はネガティブな意味で言ってるわけだし。
「なに? 逆ギレ? そういうのって人間としてどうかと思うけどな、客観的にみても格好悪いわよ」
「シュリンゲル卿は仕留められませんが……今の貴女くらい刀の錆にするのは難しくないのですよ」
だろうな、あの高速剣を交わせる人間が何人も身近に居たら実際に俺も怖いと思う。
何より、魔眼だかなんだかよくわからないがおかしな魔術で綾音の刀を躱したことがあるとその本人が言っていたのだから並の身体能力では躱せないだろうな。
綾音自身にもその軌道の全てが目視できるわけではないだろう速さなのだから、昨日の獣にでも姿を変えないと戦いにもならないと思った。
「脅迫、強要……それって、犯罪よ。ハンザイ! おわかり、白川さん?」
その指摘は本当だが、今いうにはあまりにも危ないと思う。
「っ――首を落とします。吸血鬼を退治するのは我々の使命ですから!」
この人……本気ですよ、刀に手を伸ばしてるし――って、俺もヤバイだろ!
「私は本物の吸血鬼じゃないって、アデットが言っていたでしょう? それに貴女みたいなやわな体の女の子の腕を捻ったら……すぐに折れちゃって、かわいそうじゃない」
「相手を女だからと侮辱するとは、マクリールの魔術師は相当な屑みたいですね」
「マクリール家を馬鹿にするつもり? 消し飛ばすわよ、田舎者」
わりに冷静だった表情に怒りの色が浮かび上がる、それは暗い殺意の波動。
冗談にもならない……あれは本気で怒っている。
「だから私たちは気が合わない。同じ元素を司る魔術師が仲良くできるはずもありませんからね!」
後に話を聞けば、別にそんなことは無いのだそうだが……綾音はそうだと思い込んでいるようだ。
同じ元素をつかさどる魔術師は世界にたくさん居るだろうから、それらの全てと相性が悪いなどという事態になったら大問題だろう。
ある程度の予想はついていたが……やれやれ、と思わずにはいられなかった。
「いや、確かに人の家にいつまでもいるのはどうかと思うけど……喧嘩するなよ、お前ら」
その瞬間に二人から睨まれる。
せっかく、口を挟めたのに俺はそれだけで小さくなりそうだった。
この二人、学校とは別人だ、怖すぎる。
「なに、貴方……綾音の肩を持つ気なの? 幼馴染だか何だか知らないけど、綾音に味方するのなら貴方も私の敵って事でいいのね?」
「い、いや、よくない! 断じてよくないぞ! そもそも俺はみんな仲良くした方がいいって――」
まるでヤクザに睨まれたサラリーマン……浅海のこの上なく恐ろしい碧の瞳はゆっくりと赤くなり始めてさえ居たのだから、洒落になりません!
今の彼女がヤクザより怖いのは間違いない、それどころか下手をすれば熊よりも怖い。
あとで聞いたところによれば、太陽が出ているうちならば自分の意思でもある程度は力をコントロールできるというのだからめちゃくちゃ危ない。
早く彼女の呪いを解くしかないと……俺は切実にそう思った。
「浅海、コーメイまで威嚇して……本当に駄犬ですね。誰にでも吠えていては迷惑でしょうから、私が責任を持って調教して差し上げるわ」
「貴女はさっさと学校行けば? じゃないとその首をへし折るけど」
「何です、私に脅し? 舐めないで。夜でもなければ貴女などに負ける私ではありません」
「いや、ほら、そういう怖いことは、だな……喧嘩、よくないって。な、格好悪いって!」
刀から手を離した綾音が代わりに取り出したのは拳銃――うぁ、どうしてそういうもの持ってるんだろ、この幼馴染は。
「――射殺します」
「素手相手にハジキ? 白川の魔術師はとんでもない卑怯者ね」
とんでもない女子高生、世界で一番危ない部屋の中で俺の心臓は止まりそうだった。
「何とでも……勝つことが全て、それが白川代々の教えです。勝者の取る手段は全て正義、故にこれは卑怯ではありません。何より、敗者はいくらでも言い訳しますが、そのように惨めで情けない言い訳を繰り返すくらいなら最初からその必要さえないように非情になるべきでしょう」
何なんだ、その滅茶苦茶危険な考えは?
「ちょっ――お前っ、それは止めろ! 人の家なんだろ、それになんでそんなもの持ってるんだよ!」
もう駄目だ、これ以上何かあったら俺の命にかかわる。
そう思った俺は必死だった。
「……小さな問題よ、コーメイ。この腐れ吸血鬼を殺したら、すぐに学校へ行きますから。もしものときのアリバイ工作はお願いしますね」
ものすごく大きな問題です、この幼馴染の精神もやばいのか?
殺人事件の犯人に仕立て上げられる危険さえあった状況で、俺は必死に二人の争いを止めようとした。
「あ、いいや……お前ら、本気で止めろよ!」
怒鳴っていたのだが、この二人は血が上ると俺の存在など気にかけないようだ。
「五月蝿い。篠崎君、貴方は死にたくなければ布団でも被ってなさい」
その一睨み――街中の一般人でも数キロ彼方まで逃げたくなるような禍々しい赤い瞳……いや、ちょっと怖すぎ。
だが、そのときばかりは俺も折れなかった。
空気が淀み、魔力が渦を巻き、殺意の風が吹き荒れそうな部屋の中、俺はその恐怖に耐えたのだ。
それだけは褒めて欲しい。
「ああ、もう!」
俺はベッドから飛び上がると、そのままびっくりした二人の頭を平手で小突いた。
反撃があれば首から上が消えてもおかしくない二人を相手に俺はその瞬間、英雄だった。
「たっ――!」
「つぅ――何をするのですか!」
思わず叩かれた頭を抑えた二人はさっきまでとは違った殺気のない目つきに変わっていた。
命が繋がったことが確認できただけで、一気に気分が楽になったことは言うまでもない。
俺の背中がその動きで悲鳴を上げていた。
だが、それを顔に出さずに……
「ったく、お前らなんでそんなに仲が悪いんだよ! それに、綾音は拳銃だとかナイフだとか、刀だとか危ないものをこんな狭い部屋で振り回すなよ!」
取り敢えず、反撃を許さない……許せばとんでもない反撃で命が危険に晒される。
彼女達に言い訳はさせない……させれば、俺が一気に悪者にされるから。
「や~い、怒られてる。ばかアヤネ」
「この――コーメイ!」
「いや、綾音だけじゃなくて、浅海もだろ! 俺の背中をえぐっておいて、謝らないし、すぐに喧嘩を吹っかけるし。まあ狼になってるときの事は許すけど、日頃の態度が悪いぞ!」
一人だけを叩かない……この二人の一方に肩入れすれば、命が危ない。
「この、言わせておけば……なんで私が大して仲もよくない篠崎君から、お母さんに説教されたときみたいに……あ!?」
「ほら、みんなそう思ってるんだよ。親のいう事くらい聞いてやれよ、世話になってるんだろ?」
「五月蝿い。それに……って、大丈夫なの? 足が震えてるけど?」
「――よく見れば、コーメイ! 背中の傷が開いて……ああ、無茶をするから!」
あ、あんまり突然動いたから、また頭の中が……ぼんやりと……して、きた。
ベッドのある方向は後ろだったな?
ゆっくり倒れよう……勢いがつけば、傷がひどくなるから。
でも、そこまで考えられない。
倒れた、それがわかった瞬間……背中にやわらかい感触が伝わり、前からも、似た感触が……
眠った……それはおそらく正解だったのだろう。
○○○○○
やがて俺は目を覚ました。
そのとき、他の二人も学校をサボっていたことを知る。
甲斐甲斐しく、柄にもなく手当てをしてくれたようだった。
そのまま事情もよくわからないままに神父が持ってきた食事を食べて、午後のひと時をくつろいだ気分で楽しんでいたときだった。
扉が開いた。
「あら、まだ帰っていなかったようですね。あまり人の家に入り浸られても困るのですけど」
学校が終わって帰ってきた制服姿のアーデルハイト。
紺色のハイソックス、ワインレッドのリボンタイ、ウェストを絞った紺色のブレザー、チェックのプリーツスカート……いつも思っていたのだが外国人がこういう制服を着ると、変なコスプレみたいだ。
部屋にはベッドで朝と同じように寝ていた俺と、本棚にあった本を勝手に取り出して眺めている浅海と綾音……二人は今朝と同じくこの教会のシスターが使っていた普段着のお古。
制服は魔術で直されたのか、綺麗に畳まれたものが置かれていたのだが学校をサボる上では着替えも面倒だったらしい。
「ん? もう帰ったの?」
椅子に座っていた浅海はやれやれ、そういう様子。
部屋の主が帰宅するのは当たり前だが、露骨に面倒そうな顔をする。
何でもあの本は面白いから、邪魔をするな……とか俺に言っていたくらいだから、持ち主が邪魔をしても機嫌が悪いのだろう。
「ええ。人の家で勝手をされると困りますから。それにいくら事情をある程度認識しておられるといっても、この教会の人たちはただの人間です」
その言葉に一瞬、目が点になっていた浅海は事情を飲み込むとすぐに驚きの声を上げた。
「!? あぶなっ――そうだったの? てっきり、今までずっと魔術師だと……この教会は錬金術協会が用意した施設じゃないの?」
確かにそれは驚く……事情を知っているのだと思っていた綾音と浅海は部屋の主がいないにもかかわらず俺と一緒にこの部屋で食事をして、あの調子の喧嘩をやらかしそうになったというのだから……よく気付かれなかったものだ、神父さんの鈍感に感謝しなければならないのだろう。
「ここは私が昔世話をした孤児の少年の伝を頼って見つけた塒でして……彼らの認識上、私は『教会のエクソシストとして活躍していた人』という程度の認識だと思います。教会のエクソシストはほとんどが私の組織とはよくよく敵対する霊媒協会のメンバーですから、調停者としてでなければ来るのもためらわれる場所ですね、ここは」
彼女は鞄を机の上に置きながらそう言ったのだが、『エクソシスト』と聞けば映画などでよくある映像が頭に浮かんだ。
確認するまでもない、魔法使いがいたのだから……エクソシストがいてもおかしくない、そう思いながらも聞く。
「エクソシストって……映画みたいに悪魔までいるのか、この世界は?」
そう、出来れば俺が知りたくなかったことは悪魔が存在するという事実。
その言葉に、三人はきょとんとした表情を浮かべて俺を見つめた。
まるで、お前ってどこまでバカなの? とでも言われているようで居心地がものすごく悪かった。
頭を振りながら、やれやれ、といった浅海がその理由を説明する。
「バカね……貴方は本当にバカ。いい? 私は神様に呪いをかけられたって言ったのよ。神様がいれば、悪魔がいて当たり前じゃない」
当たり前って言われてもなぁ……そんな安直なことをそのまま信じても良いのだろうか。
「じゃあ……まさかサタンとかもいるのか?」
「はぁ? サタンなんているわけないじゃない。だって悪魔っていうのは邪悪な土地の精霊や神のことだから」
「おいおい……神様を邪悪って、言って良いのか?」
「玲菜さん、それではわかりづらいと思いますよ」
「そう? それなら貴方が説明しなさいよ」
「構いませんよ。では簡単に言いましょう……神と精霊は元より私たちとは違った高次の霊格です。彼らには本来善悪というものがありませんから、彼らに善悪の概念を押し付けているのは私たちの勝手な言い分です」
「まぁ、確かにそうだろうな」
「ええ。それで、私たちはその勝手な言い分の元に神と悪魔を分けているわけです。彼らの性質の一端を私たちの価値基準を元に判断して、悪魔と神に分けるわけですから公明さんの考えるような完全な悪魔とは違うと考えてください」
「よくわからないけど、兎に角俺の思っているのと違うのならそれで良い――って、お前急に何を?」
なんとそのまま制服を脱ぎながら、彼女はクローゼットから自分の服を取り出そうとしていた。
「ちょっと、アデットが着替えるまでは眼を瞑っておきなさいよ、貴方」
鋭い視線、軽蔑する眼差しはすごく痛い。
勝手に脱ぎだしたのはあっちだぞ。
「ぬ――いや、俺はそんなこと考えてないって!」
「強い否定は認めているのと同じよ、コーメイ」
綾音も本に夢中だったようでしっかり見るときは見ているんだな。
この二人、こういうことにはすごく息があっている。
なんだかな……
「あら、別に構いませんけど。見られて減るものでもないですし……それに下着になるだけですから」
眼は瞑っているが、俺の目の前でも気にせずに着替えている衣擦れの音が聞こえた。
「殿方の前で肌をむやみに晒すとは……人のことを言う割りには大雑把ですね、シュリンゲル卿」
綾音も久しぶりの反撃の機会とばかりにアーデルハイトを攻撃する。
だが、彼女はそんなことは意に介さない様子。
「着替え終わりましたよ、公明さん。それと大雑把といわれても困りますね。戦場ではそのようなことを気にする人間はいませんよ、綾音さん」
「ここは戦場ではないと思いますけど。どうあっても負けは認めないみたいですね!」
「ええ、負けず嫌いですから。ところで、あなた方はいつお帰りに?」
目を開ければ黒いワンピースを纏った金髪の少女。
腕を組んで、眉を寄せている。
珍しく困ったような表情――まあ、教会の一室に男子生徒と女子生徒を連れ込んでいるのは生徒会長としてどうかと思うが……すでにそんな小事はどうでもよくないか?
「別にいいじゃない、どれだけ居たって。私の家、どうせ私一人だし。両親はアイルランドで働いてるしね」
「私も親は居ますが、シュリンゲル卿のような身元のはっきりした方のところなら問題はないと思います。修練を積んでいる、といえば問題ありません」
有名な魔導師の家、その場で修行という理由なら娘には関知しないのか……あの家は。
俺が親なら絶対に許さないと思うけど。
「まぁ――俺も一人暮らしだけど……あ、やっぱり帰った方がいいよな?」
みんなの事情は違うのに、それでもここに何泊しても気にしない様子……それに苦笑しながら錬金術師は俺の寝ているベッドの脇まで来た。
「お怪我の調子は?」
「朝からちょっと……いや、途中で傷が開いて、な」
「ほう。まぁ事情は察しがつきます。ですが、大丈夫でしょう……私が差し上げた薬は霊薬エリクシル、錬金術の秘薬の一つですから」
「俺の体には魔術は効かないんだろ?」
塗り薬、あるいは飲み薬がエリクシルだったのか?
それはよくわからないが、薬とはいえ魔術ならばこの体には効果がないはずでは?
「いいえ、基本的にそれは勘違いですね……実際にはかき消されるタイプの魔術とそうでないものがあります。詳しく言うのは構いませんが、わかっていただくほどの説明は長くなりますので……エリクシルについてだけ。これはそもそもが優れた医薬品としての側面が強く、本人の再生力を引き出し、それを助長する程度の効果しかありません。ですから、これは魔術ではなく魔術の知識を応用して創られた別なもの……効果はあります。それよりも玲菜さんの薬の件で公明さんの血液を少し頂きたいのですが」
真面目な表情。
「……わかった、どうすればいい?」
「ええ、シリンジは用意してあります。夜、玲菜さんの変身時間までには間に合いませんが満月を過ぎた今日なら今までのもので多分大丈夫でしょう。薬の完成までは十数日かかると思いますが、構いませんね、玲菜さん? それまでどうにも我慢がきかなくなれば公明さんの血を直接飲んでいただければ抑制の効果はあると思います」
注射器を取り出しながら、ものすごく危ない言葉が紡がれたことを見逃すことは出来ない。
「……さらっと、とんでもない事をいったよな、今?」
そう、注射器を構える相手は今とんでもないことを口にしていたのだ。
「協力はする、そう仰いましたよね?」
「血を吸うっていっただろ、今! それって普通の人間が考える協力の範囲を超えてるよな?」
「いいえ、私の協力といえば命を懸けるくらいに助力を惜しまない、そういう意味です」
「軽い詐欺だぞ、それ!」
「そうですか? では、野獣になった玲菜さんが人を殺して血を貪っても構わないと?」
それは困る。
いくらなんでもそれは目覚めが悪い、俺は仕方なく頷くしかなかった。
「ご協力に感謝を、きっといいことがありますよ。ほら、玲菜さんも……公明さんが協力してくれるのですからお礼を申し上げてください」
「――わかったわよ。ありがとう、篠崎君」
「ああ、でも気にするな。俺も人が死ぬなんていやだから協力するんだ。それに大して知りもしないのにいうのは何だけど、お前が人を殺すなんて嫌なんだ」
ちょっと玲菜の顔が赤くなった気がしたが、気のせいだろう。
注射器で俺の血液を少し抜き取った錬金術師はそれを大事そうに保管すると、意味ありげな表情で俺に聞いてきた。
「……たしか公明さんは一人暮らしとおっしゃいましたね?」
「ん? まぁ、そういったけど」
「なら、玲菜さんが公明さんのところに泊まればよろしいのでは?」
「……はぁ、今なんて言った?」
俺たち三人はみんなその瞬間に思考が停止したように、間抜けな声を上げていた。
「ちょっと、アデット! どうしてそうなるの!」
「そっ、そうですよ、シュリンゲル卿! 若い男女が同衾など――不潔です!」
うろたえる俺達を不思議そうに眺め、あのイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「あら、綾音さん。私は同衾まで勧めた覚えはありませんが、素晴らしい想像力ですね」
「く……いいえ、私の聞き間違いだったかしら? 確かそう聞こえたと思ったのですけど。とっ、とにかく! どうして同じ家で暮らす必要があるのですか?」
「簡単です、抑制剤を作るまでの間に不測の事態も考えられますし、満月でない夜でも狼化が強まっているかも知れないでしょう? そのとき、近くに居て薬の原料である血液を飲ませてくれる人が居なければ困ります」
理論としては間違っていない。
その言葉に悪意がなければ……この言葉は確かに正しかった。
反対することが即ちそのまま間違いであるくらいに、彼女は正しかった。
だが、見え隠れする彼女の悪意は本物。
人を虐めて楽しむある意味最低の外道、そんな性癖の少女は俺達がこれからどういう反応をするのか漏らさずに聞き届けますよ、という表情だ。
「断固反対です、生徒会長である貴女がこんな不純異性交遊を認めていいとお思いですか!」
「? 面白いことを……綾音さん、勘違いしておられるようですが、これらは全て正義のためです。不純な心など一片も見られません。清純というには御幣はありますが、理由が理由……貴女は自身の都合で他人など死んでしまえと?」
そう断言されると人間苦しくなる……仮に他人などどうなっても良いなど言うことは憚られるし、これほど現実感のある人の死の可能性を無視など出来ない。
「! いいえ……確かにそんなことは思っていませんけど……でも!」
言い淀む綾音……獲物を絡め取った蜘蛛のように錬金術師はじわじわと外堀を埋めていく。
「ああ、確か白川の家訓にあったはずですね……正義こそ白川の道、と。あれはどうします?」
義を重んじ、正しき道を行く者――彼女の家の始祖はそういう人だったのだそうだ。
その教えが受け継がれているだけましだとは思うが、さっきの恐ろしげな家訓を残したのもこの人らしいからどうかと思うところもある。
「この……どうしてそういうことまで?」
「私は物知りですから……知的好奇心の塊、と申しましょうか」
いいや、知的好奇心とかじゃなくて嗜虐心の塊だろ。
「それなら……私にも考えがあります……わた、私もコーメイの家に行きます!」
恥ずかしそうな表情の綾音が断固として反対してくれると思っていただけに……俺はその言葉を聞き間違いかと思った。
しかし、うつむいた彼女の発言は間違いなく事態の悪化を告げていた。
「……はい!? なんでお前まで?」
ほとんど死に掛けている俺の声……倒れそうだ。
「簡単なことです、いつ前後不覚になった吸血鬼のバカ女がコーメイを殺そうとするかもわからない状況は危険すぎます。だから、私が正義のためにコーメイの家で責任を持って貴方を守る――問題はありませんね、シュリンゲル卿?」
吹っ切れた綾音は勢いのままに理由を付け足して、理論武装した。
確かに、一理ないこともないと思うのだが……!
その瞬間、俺は見た。
金髪の悪魔は口元に悪役じみた笑みを浮かべ、その顔を一瞬で何事もなかったかのような真面目なものに戻したのだ。
「なるほど、流石は綾音さん。素晴らしい考えです。そして、なんと高尚な志なのでしょう……凛々しく美しい、人間の鏡のような心構え、感動します。綾音さんが身を犠牲にしてこう仰っていますから……構いませんね、玲菜さん?」
この合理的な解決法をとても素晴らしいとべた褒めする魔導師は笑みを浮かべて、これから面白くなっていくだろう事態をさらにかき混ぜてやろうと考えている様子。
最悪だな、この人――反論する方法もなく、俺はどんどん追い込まれていく。
「……受け入れろっていうの? そんな悪夢みたいな生活を?」
浅海玲菜、その必死の訴えに金髪の少女が待っていましたとばかりに、きつい選択肢を与える。
「なら、公明さんが玲菜さんの家に行く方がいいですか?」
どちらでも構わないと思いますけど、そう付け加える彼女にはこの問題の結末がわかっているようだった。
「……究極の選択ね。なら、答えは一つ。私の家に――」
「それは駄目! 魔術師の工房に誘い込むなんて真似、絶対に承認できません!」
烈火の如き勢いの綾音がその答えに口を挟む。
その鬼気迫る勢いに押され、浅海さえ何も言えなくなったのだからすごい。
俺は疑問に思ったことを、近くで見ている錬金術師に聞いた。
「工房って?」
芸術家のアトリエみたいな印象を受けるその言葉――予想もつかないわけじゃないが、一応聞いてみた。
「魔術師が研究を行う場所ですよ。玲菜さんの実家マクリール家のような大邸宅に住む魔術師は館とは離れた場所を設けることもありますが、大抵の魔術師はお金がないことや秘密の漏洩を恐れることから自宅をそのまま実験室に使っている場合が多いわけです。おかしな儀式をする場合など、失敗すると命がなくなることもありますから個人的には家族を巻き込まないために、人のいない場所に設けることをお勧めしたいですね。これは大昔の話ですが、ある高名な霊媒師がなんと宿の一室で悪魔を呼ぶという大暴挙を実行して、宿にいた13人を巻き添えにして消えたという逸話もあるくらいですから」
その語源から説明すると、工房(laboratorium)とは労働(labor)と祈祷室(oratorium)を組み合わせた造語で、まさに祈祷を行い作業をする場所、と言うそのままの意味なのだそうだ。
「なるほど……全然洒落にならないな、それ。お前ら魔術師って、人の迷惑考えないやつが本当に多いなと思ってたけど、ソイツは群を抜いてる気がする」
「それで今、玲菜さんはお父さまの実家をそのまま使っていらっしゃいますから、後者の工房……つまり自宅がそのまま実験室になっていまして、おかしな侵入者除けやトラップが色々と目白押しなわけです」
大方はあっていたが……トラップは予想外、そんな危険な場所なのか?
「悪い、そんな危ない場所は俺も勘弁だ。ついでに、俺の家に工房を作るのは絶対に許さない。金をつまれても絶対に断るからな」
俺にまで反対されて、浅海は自分が折れるしかないと理解したようだ。
「つぅ――貴方まで? なら……仕方ないから篠崎君の家に行くけど、そこって多少は広いの? 私の部屋は十畳以上、これは必須だからね!」
その条件は贅沢じゃないか?
そう言おうとするが、あのきつい視線で睨まれると反論するための声は出せなくなる。
しぶしぶながら、彼女に屈する決意を固める。
「……とんでもない客だな。まぁ、部屋はあるけど。でも、二人が来るんだろ? 俺、一応男、お前ら女だぞ。なぁ、近所の目とか考えてくれないか?」
ご近所との仲が悪くなる、あるいは面白い噂を流される……どちらも勘弁願いたい。
特に、親衛隊の狂信者みたいなクラスメイトに学校で何かされないかが心配だ。
「愚問ですね。公明さんの世間体と世の中の平和、どちらが大事だと思います? 自分の自尊心のために数人なら犠牲が出てもしょうがないか、くらいに考えておられるのですか? だとすれば、人の命はなんと軽んじられているのでしょうね」
教会に巣食う悪魔は俺を道徳的に痛めつけ、精神的な快楽を味わう心算のご様子。
断れるはずもない理由を持ち出して、俺を虐める……この女、絶対にいい死に方しない。
そう、ちょっとの付き合いでわかった。
三人の中で一番性格が悪いのはコイツだ。
しかも、虐め方が汚い――合理的な理由を付け加えて俺を追い込むのだから、彼女の陰険さは相当なものだ。
それを楽しんでいることについてはすでに言うまでもない。
「いや、流石にそこまでは考えてないけど……」
当然だ、世間体が人間の命より大事なんて事があっていいはずがない。
どんなに意地悪を言っていても、彼女の言うことはその意味では間違いではない。
だから、わかっていても反論することなど出来なかった。
「なら、答えは決まりですね。面白パラダイス――いえ、失礼、忘れてください。ところで、私もお宅をたびたび訪れることになると思いますが、抑制剤の進行状況やそちらで発生する問題点などを報告しあいましょう。ああ……残念、抑制剤を作る場所は教会ですから、そんな面白そうな場所に行けないなんて……本当に不幸」
「……それがお前の本音か?」
俺の平和な篠崎家を世界で一番危ない家に変えようとする相手は悪魔も裸足で逃げ出すような、悪意の塊だった。
なんだかんだすぐに手を出しそうな二人はこういうネチネチした虐め方はしそうもないのに、この人はそれがこの上ない快感のご様子なのだから救いようがない。
「ええ、嘘偽りなき本音です。ですが……別に私個人の楽しみのためにそう仕組まれた状況ではありませんでしょう? ただ、私は流れを楽しんでいるだけで、私が望んで状況を作り出したわけではないことを忘れないでください」
悪意を本音と言い切る相手、一切の不正もなくこの状況を作り上げる彼女には天から俺の運命を弄ぶ権利を与えられているかのように思えた。
「くっ、確かにお前のいうことに説得力もあるし、正しいとは思うけど……でもな、人の不幸を楽しむのはどうかと思うぞ」
「不幸? 私といるのが不幸だっていうの? 私の方こそ貴方たちと居て不幸だっていうのに!」
茶髪の狼姫、浅海玲菜はあんまりふざけてると、ぶっ殺すわ、とでも言いたいのだろう……ものすごい不満そうに文句を言い始めた。
それを鎮めるのは俺じゃあ無理、彼女の扱いに通じた者の登場を願うしかなかった。
「ほら、そういうのは良くないですね。みんな仲良くしろと昔から言いますでしょう?」
「この――性格が悪すぎるわよ、アデットも!」
「そうですか? いい性格をしているとはよく言われるのですが……悪いといわれることは珍しい」
「それは皮肉っていってるだけじゃない、わかっていってるでしょう」
「何分異国の生まれなものですから、この国の言葉には通じていなくて」
「嘘! そんなに流暢に日本語話しておいて!」
「ふふ、だから貴女はからかい甲斐がある……そうですね、あまり遅くなっても悪いでしょうから、私が車で送りましょう。国際ライセンスを偽名で取得したこともありますから、安心してください」
「そういう事故ったときにどうにも言い訳が聞かないのは……やばくないか?」
「警察に止められれば、簡単な瞳術で誤魔化しますからご安心を。それでは、荷物があれば後で運んでください」
そのまま下に止めてあったベンツに乗ると、俺達は篠崎邸に向かった。
○○○○○
どうも相手は家の場所を調べていたらしくまったく道を聞かなかった。
運転もうまい、これは相当運転しなれているな。
「そういえば、公明さん?」
助手席に座っていた俺に運転しながら話しかけてきた。
他の二人は家に取りに帰るものがあるとかで走って帰ったから、俺とアーデルハイトの二人だけ。
「ん?」
前を向いたまま彼女が俺に聞いてきたのは耳を疑うような言葉。
「公明さんは魔術を使いたいですか?」
あなたは魔術が使いたいですか? 俺にはそう聞こえたのだが。
「……はい? 今なんていった?」
聞き返すのは仕方がない、特別な血族だかなんだかよくわからないが変わっているらしい俺でも、親父が魔術師だというほどに変人ではない。
「魔術を使ってみたいですか、とお聞きしたのですが?」
しかし、それでも俺の耳は聞き間違えていなかったと告げられて困惑した。
「俺は魔術師の子供じゃないぞ。いや、もう間違いないくらいに普通の人間だ」
そう、恐ろしく普通の人間なのだ。
親父はただの出張が多いサラリーマンで、至って普通。
その息子が魔法使いだったら大変だと思うのだが。
「ええ、そうですね。特異体質ですし、正確には魔術は使えないでしょうね」
涼しげな錬金術師は自分の発言を理解できていないのだろうか?
魔術は使えないのに魔術師になれるのか?
「なら……」
俺の疑問に先んじて、彼女はそのモヤモヤを晴らす回答を口にした。
「言い方が他になかったもので紛らわしいことを言ってしまいましたが、魔力をコントロールして怪我を治りやすくしたり、身体能力を高めたり、そういったことをしてみたいですか?」
これはわかりやすい、怪我が治りやすくなったりするのならそれははっきりしている。
「そりゃ……出来るなら」
そう、未だによくわからないが出来るのならそれは出来た方が得だ。
簡単に出来るとは思えないが。
「出来ますよ、魔術師になるのに資格は必要ありませんから」
彼女は魔術師という存在のハードルが恐ろしく低いといった。
そう、誰でも魔術師になれるのだといったのだ。
「資格がないっていっても……ただの人間なんだけど、俺は」
「そうですね。ですが実際、ただの人間が神秘に近づくことは思っているよりは簡単なものです。何しろ私たちの一人一人の魂は星を通じて宇宙、ひいてはこの世界の理に通じているのですから」
「いや、そういわれてもよくわからない」
「そうですか、ですがこれがわかる必要はありませんのでわからないのならそれで構いません。それで、ここが重要なのですが……本来魔力の扱いに通じるには才能のある人間でも10年の厳しい修練が必要で、綾音さんや玲菜さんのような古い家柄の天才でも1,2年以上の修行が必要です。凡人になれば、20年でも足りないといわれる世界です」
結局、ぬか喜びさせたかっただけなのだろうか?
二三十年もかかることがどうして俺に簡単に出来るといえるのか?
「それなら俺は無理じゃないか?」
「普通なら、今から特に才能があるわけでもない貴方が本気で修行しても30年くらいかかるかもしれません。しかし、貴方は別な意味で特別です。だから、この世界のルールは当てはまりません。魔術を使えない代わりの救済措置なのかどうかはわかりませんが、過去の事例から行きますと……適切な修練を積めばあるいは長い歴史の魔術師にも匹敵するほどの速さで習得できるかもしれません。尤もそれは、魔力の使い方だけですが」
魔力といった、魔術ではなく魔力の使い方?
しかし、どちらにしても俺にもおかしな力が使えるというのだろうか?
「!? その――つまり、1年くらいで?」
「そういうことですね。どうです? こちらの世界の人間に成ってくだされば、頭を弄って記憶を操作する必要もありませんし……あの危ないお二方と一緒に暮らすのなら命がいくつあっても足りませんしねぇ?」
意地悪そうな顔に変わる、こいつは強敵だ。
俺を虐める要素を色々なところから抽出して、執拗に責めようとしている。
あの二人の大馬鹿が喧嘩すれば俺の命が危ないかもしれない。
それは事実だが、こうまでも彼女の口車に乗せられていいものだろうか?
「それが狙いなのか、お前は?」
「どうでしょう? それで……習っておきます? 止めます?」
「――習う、それしか答えはないだろ。頭をいじくられるなんて真っ平ごめんだからな」
性格の悪い魔導師、教会でシスターの手伝いまでしているくせにその心は間違いないくらいに真っ黒だと思う。
彼女は獲物がかかったことを喜び、極上の笑顔で俺を見つめて告げた。
「賢明なお答え。いいですね……賢い人は好きですよ」
天使のような笑み、内心に悪魔が潜んでいても彼女の笑顔は魅力的だと思った。
すぐに視線を前に移して、車の運転に集中する。
「で、師匠って呼べばいいのか?」
成り行きとはいえ師匠は師匠、仮にクラスメイトであってもそれは同じ、敬意は払うべきだと思った。
何しろ、俺と比べるとずっと年上だし、他の二人とは雰囲気が違う。
「どうとでもお好きなように。ただ、名前で呼ぶのは長いかもしれませんからアデットで構いません」
気軽に接しろということらしい、本人がそういうのなら俺もその方が言いやすいのでそうすることに同意した。
「ああ、それはわかった。それから、俺はどうすればいいんだ?」
魔術を使えない魔術師――それは魔術師ではないと思うが、取り敢えず彼女が魔力の使い方を身に着けるべきだというので厳しい訓練を覚悟して聞いた。
その答えは気が抜けるほど意外、そして恐ろしく簡単なことだった。
「とりあえず、節度ある生活を心がけてください」
たったそれだけ?
これは魔術師としてではなく、人としてその方がいいという教訓ではないだろうか?
「節度ある生活? それ、関係あるのか?」
俺は相手がふざけているのかと思っていたが、それは違った。
真剣な表情で告げる彼女の顔にはいつものふざけた色が見られない。
「あります、魔力とは即ち体に宿る力……世界から借りるほどの魔術師なら兎も角凡百の魔術師はそれさえ困難。魔力を感じるためには魔力を作り出す体が健康でなければなりません。タバコなどは厳禁、お酒も公明さんの年では止めておいた方がいいでしょう」
よくわからなかったが、ものすごく本当っぽい説明だったので信じそうになる。
しかし油断できない……彼女は内心とっても悪い人、再度確認が必要だろう。
「担いでないか?」
俺も真剣な顔で言ったつもりだ、仮にふざけていればそれでネタを明かすのだろうが、彼女はそうしなかった。
「いいえ、まったく。経験を積んで力を得た魔術師の多くもそうして堕落します――そうなれば彼らさえ弱い。これは基本でありながら奥義、精神を鍛え、肉体を鍛えぬいてこそ得られるのが魔術という神秘。肝に銘じてください……惰弱な者には魔術を極める資格が無いということを」
「じゃあ、お前も鍛えてるのか? あんなに強いのに?」
「当然です、鍛錬を怠ることはそれだけで弱体化を意味します。例え一日とてそれを欠かすことは戦闘において命取り。今までに多くの魔術師が力を過信して、若い魔術師に討たれてきた歴史があります。それを考えれば堕落することはありえません」
彼女は語る、力に溺れる者と自らを驕る者の愚かさを。
力を得た魔術師……彼らは様々な神秘を体現した存在となるがそれを使いこなせなければ意味などない。
神秘を体現した自らを驕り、修練を怠ればそれは即ち夢の終わりを意味する。
心弱き者は堕落する、魔導師でさえも自らの命の終わりを恐怖して吸血鬼の甘言に堕落させられたのだ……自分が堕落しないと断言出来ようか?
色欲、食欲、征服欲、物欲、独占欲、そういったものの一つにでも溺れればそれは終わり、その瞬間に知識と技術という名の鍛えた筋肉が脂肪の塊になる。
常に知識に貪欲であれ、常に周囲より孤高であれ、自らの弱さを捨てよ。
故に言う――精神の弱体は肉体の弱体から始まる、それならば常に肉体を健康に保てと。
それは単純すぎることだが、基本が大事。
「……」
「吸血鬼となった魔導師たちは終わりを克服したおかげで、その精進を決して怠らない。彼らの精神は鉄のように堅く、その肉体は魔術の行使も無しに金剛石さえ砕きます。それを相手にする以上、私も彼らに劣らぬ鍛錬を続けなければならないことは必定でしょう」
アデットが言うには、魔術師が使う魔力というのは人の生命力のようなものだという。
人はそれを意識して初めて、それを鍛えることが出来るのだと。
基本的にスポーツ選手の場合と同じなのだという、魔力とはその種目に必要な特別な筋肉でやたらめったら鍛えただけでは駄目。
それに必要な鍛え方、それを知る師が必要であり、それら以上に魔力の存在を自分で認識する必要があるのだという。
存在しないものを鍛えることなど出来ない、存在を認識して初めてそれを使い、鍛えられるのだ。
さらに彼女は伝えた。
世界中に溢れるこの星の魔力自体を消費することも出来るというが、それは経験をつみ、理を統べるほどの術者だけが可能とする領域であって綾音たちレベル、つまり五大の元素を統べる家柄の天才でもなければ容易にその領域には至れないのだと。
魔導師たるアデットもそれは可能だというが、魔導師たちが使うような大魔術を必要とすることは少ないらしい。
その威力は確かに絶大ではあるが、天候を左右したり、土地を腐らせたり、あまりにも規模が大きすぎて白兵戦向きではないからだそうだ。
魔力とは東洋で言うところの『気』であり、方術師系列の魔術師――つまり綾音の流派が最も得意とするのがこれで、これを意識して利用することで体は強靭に、年を取らないほどに若く、傷さえも治りが早くなるという。
昨日の綾音は俺の登場で動揺したため、精神に乱れがあって力が発揮しきれていなかったらしいが、冷静な状況下でならその身体能力は兵卒クラスの吸血鬼にさえ匹敵するかもしれないとか、冗談めかして恐ろしいことを言ってくれる。
多分、これだけは冗談だと思いたい。
魔力も筋肉と同じで……例えば、どれだけ人の肉体を鍛えても拳でビルを崩せないのと同じように限度というものはあるのだそうだ。
それはその人個人に設けられた肉体の限界であり、魂の限界であるという。
だが、吸血鬼となった魔導師たちの多くはその限界さえ超える――故に貴族種の吸血鬼の多くは通常の攻撃を受け付けない。
王族種に至っては明確な限界さえ最初から存在しないとか、恐ろしいことだ。
「それで、一ヶ月くらいの間次のことに注意してください。早寝早起き、暴飲暴食の禁止、お酒、タバコの禁止……」
健康番組でもあるまいし、どうして俺の楽しみばかり奪うのだろう。
そう思いながらも、魔術師の言葉を素直に聞くしかないことを考えれば従う。
「まあ、それはいいけど……まだあるのか?」
「ええ、とりあえず自身に制約を課してください」
「制約?」
「何でも構いませんが、徐々にハードルを上げてくれればいいでしょう。例えば、今日はテレビを見ない、宿題をする、10キロランニングを毎日する、などのようなものです。絶対に守ることが必須条件です」
「それって、本当に魔術と関係があるんだよな?」
「ええ、それと体を鍛えること。ボディービルダーのようになれとは言いませんが、健康を保てるくらいには鍛えてください」
「なんか……面倒なことばっかりだな」
「ええ、特に自身にかける制約が重要であることを言っておきます。それは制約というものが自身の心を鍛える上でいかに重要なものかを知らしめるものでもありますから。それと、瞑想などはもっと後から始めてください、あれは素人がするものではありませんから」
「悪い、どうしても納得できないからもう一度確認するが……からかってないよな?」
「まったくそのような悪意はありません。ご安心を、努力さえしてもらえれば最低でもオリンピックレベルまでの身体強化は可能になりますから」
「本気で言ってるのか、一年でそんなになるって? 確かに体力の無いほうでもないけど、ただの一般人だぞ……俺は。改造でもしないとそんなレベルにいく訳ないだろ?」
「そうでもないですよ、私に従う限り可能です。因みに、魔術も無しに私たちの域まで来たかったら1000年ほど修練を積んでいただく必要がありますけど……どうします?」
「いや……もうそれは無理だってわかったからいいや」
「では、以上のことだけは守ってくださいね。もし守ってくださるのなら、ご褒美に良いものを差し上げますから」
含みのある笑顔、何か裏がありそうな様子にちょっと思うところがある。
「? 良いもの?」
「内容は秘密ですが、世界にいくつもないほど希少価値はあるものです」
「いいのか? 内容も知らないけどそんなものを人にあげて」
「構いませんよ……あれは本来私たちのような人間には大して必要なものでもないですから」
その希少価値が良い意味のものであることを願うしかないな。
呪いの指輪で、嵌めれば一週間で天国にいけるとかなら絶対に嫌だからな。
「そうなのか? じゃあ……取り敢えず、制約とかなんとかは頑張ってみる」
その日から、師である少女と呪いを解きたい少女、世界で一番おっかない幼馴染の少女……三人と俺の命懸けの日々が始まる。
当然、常に命の危機にあるのは俺だけで、他の人外連中は余裕綽々に俺をいじり倒そうとするだろう。
それを思い、現実感たぷっりの想像に車の中でほろりと涙がこみ上げる。
いや、これは涙ではなく心の汗だ、と思うことにしよう。
『ドナドナ』がぴったりだな、俺。