「なあ、綾羽くん」
客もまばらな喫茶店の中、仕立てのいいスーツを着た男は、店内のBGMにかき消されないよう少女に話しかけた。
「なんですか藤間さん。お代わりなら、私もう手持ちありませんから、自分で払ってくださいね」
綾羽御影――苗字と名前という相違点はあるが、奇しくも同じ『あやは』である朽木綾葉と知り合ってしまった少女だ。
「連れない事をいうなよ。朽木の被害者同士、仲良く打ち解けて傷を舐めあおうじゃないか」
男は髭を指で軽くいじってから、コーヒーに手を伸ばした。
その何気ない仕草にも品の良さが表れていた。
男は年のころ三十代の後半だろうか、振る舞いが洗練されていてまさに紳士といった風だ。
「何ですかそれ。藤間さん、資産家の子息でしょ? 私にたかるなんて立場逆じゃないですか」
御影は鋭い視線で非難した。
「いやいやローマの学院で学んだときにね、色々と金が掛かったのだよ。そのうえ、師の頼みで至らない侍女まで背負い込む羽目になったものだから……いやあ見事にスッカラカンさ。この前競り落とした、神詩篇の落札額がいくらか知っているかね?」
しかし男は意にも介さない。
その態度には、代々の魔術師でないにも拘らず、一からそれを学んで大成した者の自信がにじみ出ている。
「それ嘘です。私見ました、ここまでフェラーリで来てたじゃないですか」
「あれはレンタルした車なんだよ。それくらいわかるだろう? ん、わかるよな」
「わかりません! ……朽木先輩、『執行官が実家の近くに滞在中だから、間を取り持ってあげましょう』なんて言ってたくせに! 似非日本人の、巻きロール女!」
つい先日までこの町に滞在していたサーシャ目当てにやって来ていた御影と藤間。
自信満々に仲介を申し出た綾葉に依頼して、彼に会う予定だったのだが、いないものには会えない。
綾葉は簡単にあきらめると、ごねる二人を放置してどこかへ消えてしまっていた。
「ああ、アレは酷い。実に酷かった。『もういないみたいだから現地解散ってことで、来週学校でね』と爽やかに云っていたからな」
「そうですよ、まったく! いつも勝手に提案して、勝手に消えていくんだから!」
「うんうん、わかるよわかる。こういうときは紅茶に限るぞ。ミス・キタガワ、私と彼女にアールグレイを一杯ずつ」
御影はだんだんと熱くなり始めていたため、さり気なく注文を追加する藤間。
わざわざ店員を名前で呼ぶなんていやらしい人、と呟く御影の声は冷たかった。
「それで何でしたっけ? 藤間さんの用事」
「ん、ああ…………」
「?」
不意に話を変えられたために意味もなく間が空いてしまう。
しかし御影はそれに何かしらの意味があると思ったようで、少し真剣な面持ちに変わっていた。
「……そう、そうだった。キミはどうしてあんな危険な連中のとこに就職を?」
魔術世界の刑罰執行機関・通称『サンタクルス』に職を求める者はそれほど多くない。
恨まれることが多いため危険でもあるし、最悪の場合は魔術の碩学である真祖を相手にしなければならないのだから、余程の物好きか自信家、あるいは正義感の塊でもなければ、その門を叩くことは少ないのだ。
しかしこの少女の回答は普通の場合と大きく異なっていた。
「だって給料いいって聞きましたから。三十過ぎたらもう働かないぞって気分なんです、私」
藤間も唖然とする答え――確かに低い報酬ではないが、貰いすぎとも思えない額に、この少女は命を賭けるというのか?
「そ、そうかね……なんともそれは、気の毒な頭だな。いや、実に気の毒だ。ところでそういう人間をなんというか知っているかね?」
「どういう意味です? 魔術師的には貴重な時間を削って仕事してる方が信じられません。ていうか、働いたら負けです。短い人生を労働に時間を使って、研鑽に励まなくてどうするんです? 意味無いですよ、そんな人生」
「いや、気にしては駄目だ。ああ気にしてはいけない、幸せが逃げていくぞ」
生粋の魔術師は、山奥で隠者のように暮らしている者より、むしろ時間に余裕のある上流階級に属する者の方が多い。
時間が大切な彼らにとって仕事の合間に研究をするのでは割に合わないからで、祖先の代に種々の方法で社会的地位を上昇させているものなのだ。
とはいえ、実際に何もしていないのではいつか資金が尽きてしまうので、時代の変遷に伴って事業を興した者や、一部の国の魔術師たちのように現在でも貴族として振舞っているものまで色々なタイプが存在する。
「それにあそこ待遇いいじゃないですか。噂ですけど、新聞沙汰になっても全面的にカバーしてくれるんでしょ?」
「それはこの前キミが大はしゃぎで私に見せた、あの三面記事を云っているのかね?」
「はい。『怪力少女現る!! バスを片手で受け止めた!』って奴です」
オイルマネーで潤う中東某国――その首都市街地で現地の少数民族と思しき少女が大暴れして警察が出動したのだが、彼女は車を投げ飛ばし、官憲を数名殺害し、姿を消したというのだ。
御影はその少女こそ『アッシリアの狼』と仇名される執行官で、それがために信用度の低い記事しか世間に出回っていないのだと主張していた。
実際その国には真祖の一人が城を構える砂漠が存在するし、件の祖は大量殺戮で悪名高い者であった。
しかし、藤間は最初から信じてもいないようだ。
「綾羽くん、キミは朽木に劣らず世間知らずなようだから忠告しておいてあげよう――あんなのはまったくの法螺なんだよ」
「法螺じゃありません! お祖父ちゃんが本当だって、そう云ったんだもの! 彼女は六十年前と変わらず若いままだって」
「キミのところのご老体といえば、アレだろう? 完全にボケ……いや失礼、認知症じゃなかったかね。そう云う老人は悪意ではなく、善意から人を惑わせるものなんだよ」
「お祖父ちゃんは呆けて無いもん、勝手に貶めないでください!」
「ああわかったよ、わかったとも。綾羽のご老体はご健勝であらせられ、記憶力も抜群だ。コレで満足かね?」
「わかればいいんです。それで、藤間さんはどうして?」
御影に話をふられた藤間は少し思案した後、普通なら驚かれるような話を始めた。
「ん、ああ……なんというか、吸血鬼の仲間になりたいと思ってね。要は時間が欲しいのさ。余ってる奴から貰って、それを私が有効活用できる手段なんて他には無いしな。頭の固い連中は倫理的にどうとか言うが、結局のところ、世間には生きている意味の無い人間が多すぎるんだ。彼らが死ぬ代わりに自分の命が延びるのなら、そうなってもいいと思っているのは、決して私だけではないと思うがね」
「へぇ。巷で噂のあれ、ベルジュラック卿がやらかした悪戯の話が流れてから、そういうこと考えてる人がいるっていうのはよく聞きますけど、会ったのは初めてです。最低のエゴイストですね。死ねばいいのに」
藤間が勝手に注文していたアールグレイを一口飲むと、御影は醒めた視線を送る。
しかし非難している以上には敵意のようなものは感じられない。
「相変わらず辛辣だな……しかしまあ、あそこなら出会える機会も増えるだろうと踏んだのだが、無駄足だったようだ」
藤間も紅茶の香りを楽しみながら、悪びれもせずに続けた。
「そういえば、藤間さんは生きている意味が無いって云うんですね。価値じゃなくて」
「今を生きる人間に価値など無いさ。価値とは死んだ後に決まる評価だからね。そういう事情で、私は意味と云う。格好いいだろう?」
「いいえ全然。ただの気障なオジサンです……それで今の話、先輩にしたんですか?」
そう問いかける御影だが、その話題にあまり興味があるようには見えない。
義理で聞いているだけなのだろう。
「したよ、したとも。朽木はキミより怒るかと思っていたのだが」
「怒らなかったんですか?」
「まあ。『面白そうだからその暁には直々に殺してあげる』とはいわれたが、概ね好意的だったんじゃないか」
「それはどう考えても好意的じゃないと思いますけど。ていうか、先輩に嫌われてるんですか?」
「私が彼女に好かれていると思うかね?」
「まさか? 先輩、藤間さんみたいな男はこの世から消えればいいって思ってる人ですから」
「……キミもどこか私を嫌っているようだね。いやそうに違いないな」
「酷い誤解です。私は基本的に人間好きですよ」
「『基本的に』だろ? その中に私が入っているようには思えないな」
「入ってませんよ。私にたかる人なんて、それこそこの世から消えればいいんです」
それこそ満面の笑みで告げる御影。
普段は気にも留めない少女の反応に、藤間は少し気分を悪くしたようだった。
「おいおい、今の伝票分くらいは奢ってくれよ」
差し出された伝票にはしっかりと追加分の値が記されている。
今までの額と合わせれば、御影の財布に深刻なダメージを与えかねないものだ。
そのためか、伝票を受け取った御影は憤懣やるかたなしといった表情。
「わかってますよ! でも、勝手に注文されるといい迷惑なんですからね!」
「感謝はしているよ」
「態度で示してくださいよ、態度で」
「綾羽くん、目上の者にそういう態度で臨むものじゃないな」
御影が急に黙り込んだ。
最初は彼女が怒ったのかと心配した藤間だったが、少ししてそれが違うと気がついた。
御影の口元が僅かに笑みを浮かべていたのだ。
彼女の癖を良く知る藤間はそれが良くないことを考えているときに独特のものだとすぐに見抜いた。
そして、事実それは当たっていた。
「……藤間さん、先輩に仕返ししませんか?」
「それは無理だ」
即答だった。
予想していた提案であったこともあるが、藤間自身がやりたくないことの一つだったからだ。
「どうしてですっ? 先輩が無茶苦茶強いからですか? 笑いながら人を殺せる人だからですか?」
「そういう問題じゃあなくてだな……いや後半は確かに問題だが、要は方法が思い浮かばないのさ」
「藤間さん、流石に大人だけあって難しいこと聞いてきますね」
「キミ、それは割と最初に考えるべきことだぞ」
「うーん、難しい。そもそも先輩に嫌がらせしても、ばれたらヤバイし……うーん」
「……おいおい、本当に方法を思いつかないうちから言い出したのかね? 無謀が過ぎるぞ、いやまったく」
藤間は呆れたようにそう云うと、紅茶を飲み干して、席を立とうとした。
御影はそれを止めるように、テーブルを軽く叩くとやや興奮したように、おかしな提案をした。
「よしっ、コレで行きましょう」
「?」
「先輩にはお姉さんがいるとか」
「確かにいるとは聞いているな」
「その人を誘拐して陵辱しましょう。先輩、私の見たとこ同性愛の気がありますから大慌てしますよ」
「いや、私の見る限り朽木のあれは違うぞ。あれはそういうのじゃなくて、だな……もっとおぞましいもので……同性は同性でも、その、幼女趣味というか。ロリコンというか、そういったタイプじゃないか」
「ああ、だから私に無関心なわけですか。よかった。密に狙われてるんじゃないかと思ってましたから、コレで安心です」
「それはよかった。しかしキミ、陵辱って……本当に意味がわかっているのか?」
「はい、要するにエッチいことです。あのけしからん胸を鷲掴みにして、無理やり……あ、ちょっと興奮してきました」
本当に想像するだけで鼻血が垂れた御影は、それをハンカチで必死に押さえながら藤間を説得しようとした。
器用な奴だ、内心そう思いながら藤間は説得する術を探る。
「少なくともキミは彼女の顔を知っているのかね?」
知っているわけが無い、あったことも無いのだから。
それを知っているからこその忠告だったのだが、御影は一考さえしなかった。
「顔どころか名前も知りませんけど、何となく雰囲気でわかるはずです」
何の根拠も無いのだが、困ったことに彼女にはそんな自信があったようだ。
まるで本物の預言者のように断言する彼女と、それをまるで信用していない藤間――分かり合えるとは思えない会話はさらに続く。
「そんな技能は無いだろうに……綾羽くん、もしも間違えて赤の他人を襲ったらどうするんだね?」
仮に藤間に協力する気があれば、ターゲットを見つけることはそう難しくない。
藤間はそういったことに特性を発揮する魔術師であるし、経験で云えば、御影はおろか綾葉よりも上だからだ。
しかし今回はその経験が御影への協力を拒んでいるのだから仕方が無い。
「私も、修行中とはいえ魔術師です。素人相手なら記憶の操作くらいお安い御用です。軽く誤魔化して次に行けばいいんです」
「……」
それはあまりに無謀な提案である。
現地の調停者、土着の魔術師、最悪の場合は六協会まで敵に廻してもおかしくない蛮行だ。
尤もそれは、バレれば、であるが。
「やらないんですか? なら私一人でやります」
御影はそう云うといきなり席を立った。
今にも店から飛び出しかねない様子だ。
それを前にした藤間は、魔術師としてもあるいは大人としても当然であるが、気が気ではなかった。
必死に彼女を説得しようと、その手を掴んで席に引き戻す。
「いや、それはまずい。ばれた時に朽木からキミの監督責任を問われかねんからな」
「なら付き合ってください」
「割りに強引な女だなキミは。私は止めておこうと提案しているのだよ? キミはそれに従うべきだし、それ以外の選択肢は……」
「思ったより話のわからない人ですね」
「それはキミだろう」
「藤間さん、私キレると何するかわかんないですよ? 街中でいきなり通行人殺しちゃうかも。その後はアレですね、未成年だし、そのうえ心身喪失ってことで、責任能力は問えない。いいえ、魔術で殺すのなら証拠不十分で無罪放免ですよ。まあ、それも全て藤間さんの責任ですけど。そうですね、それでもサンタクルスの人たちは見逃してくれないでしょうね。すると、どうなるかな? 私の近くにいた藤間さんの責任も重大ってことで、運が良くても終身刑。悪ければ二人揃って死刑ですね。まあ、私はどうでもいいんですけど。藤間さん、ようやく一人前の魔術師になったって云うのに、気の毒に。ええ本当に気の毒」
最悪のケースを話す御影――その大部分は不幸なことにありえる可能性であり、藤間に協力を強いるに十分な内容だ。
高校一年生の少女に半ば脅迫される自分を自嘲しつつ、藤間は止む無く首を縦に振った。
「……わかったよ、わかった。だが失敗したときは抵抗せずに捕縛されるんだぞ」
「了解です。ふふっ、やっぱり悪巧みを考えるのって最高ですね」
「私としてはキミの将来が心配だよ」
時は少し戻ってその日の朝早く。
白川邸では綾音が暗殺を主張し続ける妹を無理やり車に押し込んで、京都まで送り届けようとしているところだった。
「向こうについたら電話しなさい」
別れを惜しむ様子は欠片も無く、言葉ばかりの挨拶をする綾音。
その視線の先の綾葉は今にも車のドアを破壊しそうな勢いだった。
「ちょっと、姉さん! このっ、綾音! 私はまだアイツにクスリ盛って……」
恐らく縛り付けていなければ本当にドアを粉砕して出てきたかもしれない綾葉は、押し込められてなお抵抗を続けている。
「妹をちゃんと送り届けてあげて」
車の中で必死に暴れる綾葉を押さえつける従兄弟に声をかける綾音。
「わかりましたよ、はいはい。ほら、綾葉ちゃんも暴れないで」
彼女の声に勇気付けられたわけではないが、報酬が出る以上は手を抜けないのだ。
「この馬鹿っ! 従兄弟だからって私に気安く触れるな! 汚らわしい手を退けないと、軽そうな頭吹っ飛ばすぞ!」
「綾葉、お父様がお見えになる前に帰った方がいいのではなくて?」
暴れる綾葉のせいでいつまでも出発できないのでは仕方が無いので、綾音は最後の手段を使うことに決めた。
「えっ? ……いえ、なんのことかしら姉さん?」
「最近、お爺様から貴女の放蕩な生活の苦情が届いて、お父様はとても……」
実際のところ、それはブラフだったのだが、何やら疚しいことがあるらしい妹はすぐにおとなしくなる。
その様子に綾音は複雑な気持ちだったが、事が上手く治まりそうなのでこれ以上の追求はしないことにするのだった。
「ああ、わかったわ! もうさっさと車出して」
「じゃあ、元気でね」
「はいはい、そちらこそ」
「綾葉って妹さん、いらっしゃいますね?」
「へっ? あの、もしかして私ですか?」
下校途中に突然おかしな二人組から声をかけられたクロエは周りを見渡し、自分しか該当者がいないのを確認してなお首をかしげた。
アーデルハイトの交友関係に興味は無いが、目の前の二人が彼女と深い関係を持つほどの人物には見えなかったのだ。
恨むにしては若すぎるし、慕うにしては未熟すぎる――それが二人から感じた印象である。
「はい」
「人違いをなさっているような気がするのですけど(アーデルハイトに日本人の姉妹なんているわけ無いじゃん)」
「嘘はいけませんね、先輩のお姉さん。あの女のお姉さんなら、学校は空かした金持ちの多いところに決まってます。だからずっと張ってたんですよ、金髪の生徒が現れるのを!」
指まで差されたクロエだったが、目の前の少女たちが何者か見当もつかなかった。
「はぁ」
確かに金髪の生徒といえば全学年含めても彼女だけと云うことになるが、アーデルハイトが『綾葉』なる人物の姉と云うのはありえない話だ。
その綾葉が通り名の類なら兎も角、人物名のようなのでなおさらである。
「止めておかないか。あの反応はどう考えてもおかしい」
確信を込めて喋る御影とは対照的に、逃げ出したい様子の藤間は気乗りしなさそうに撤退を促した。
「惚けてるんです。先輩のお姉さんだけあって卑怯のキャリアが違うんですよ」
「……(卑怯って、レナのことかな? 意外。妹いたんだ)」
あまりに失礼な勘違いをしつつ、クロエは面倒な二人を手早く追い払う方法を考える。
「どうしたんです? 怖いんですか」
「いえ、何と云うか――これは私を誘拐しようとしておられるのでしょうか?」
少なくとも御影の態度は友好的には見えない。
そして、手に持っていた呪符も一般人に使うには危険なものだ。
「ええその通りです。そのうえ、色々とエッチい悪戯しちゃいます。怖いでしょう、泣いてもいいんですよ」
「へえ(しょぼ)」
クロエさえ思わず斃れそうになった。
玲菜を相手にコレをやろうとしているのだとすれば、動機があまりに小さい。
クロエにしてみれば、それは小さすぎて、逆に哀れに思えるほどだった。
「馬鹿にしてるんですか?」
「滅相も無い。ところで、どうしても誘拐すると仰るなら別に構いませんけど、一応名前を聞いてからにしませんか?」
「それは意味無いです。私、貴女の名前知りませんから」
当然でしょう、とでも云いた気な御影。
そこまで自信満々に断言されると、どう対処した方がいいのか迷ってしまう。
「それは、今から自己紹介するのだから当然なのでは?」
「いいんですっ! 綾葉って妹いるんでしょう?」
「私はアーデルハイト・シュリンゲルと申しまして、日本に親戚はいませんけど」
あまりにかみ合わない会話ではいつ終わるのかもわからなくなったので、とりあえずアーデルハイトの名前を出すことにした。
公爵からの命令では、この土地で権利を持たないクロエが自分から彼女の名前を出すのはあまり褒められた行動ではないのだが、この際仕方がないと思われた。
「惚けるんですね、さすが先輩のお姉さん。でもあまり見苦しいと暴力使っちゃいますよ」
御影が手に持っていた符を構えた。
未熟ではあっても何もしなければ怪我をするのは確実だ。
止む無くクロエも後退して距離をとる。
「話のわからない方ですね。そんな人は知りませんと、そう云っているじゃありませんか」
「あーでるはいと……ああ、綾羽くん違うぞ。この方は絶対に違う」
二人が一触即発の状態になっていたとき、一人クロエの話をまともに聞いていた藤間が御影を制止した。
「え?」
そして、そのままクロエに頭を下げる。
「失礼を、シュリンゲル卿」
「うっ、まさか手を出すとまずいタイプのお偉いさん? やばっ、いきなりアウトですか」
藤間の態度から相当な重要人物らしいと感じた御影も、すぐに謝り始めた。
クロエとしても彼らを処罰する権利を持ち合わせていないので、それ以上何かをするつもりはなかった。
「まあまあ。アウトといえばそうかもしれませんが、実害は出ていませんし、貴女相手なら出るとも思いませんでしたから、そうお気になさらないでください(そもそもそんな権限無いし、ここで殺して埋めると後々面倒っぽいからなぁ)」
「色々と懲罰とかは勘弁してください。悪いことしませんし考えませんから」
本当はそのまま帰ってしまおうかと思っていたのだが、こんな危ない連中を放置しておいては問題になりかねないと感じたクロエは、彼女らしくもなく、律儀に対応を始めるのだった。
「別に何も云ってないのですが。それで、綾葉とはどなたのことでしょうか?」
「朽木綾葉、いい加減な人です。仕返ししてやろうと考えて、その、人違いを」
話を聞いた印象としてクロエは、まるで親の敵のことでも語るような御影と、それを呆れたように見ている藤間という対照的な構図から、事の真相としては大したことではないと見抜いた。
しかし朽木と云う名前を聞くと、何やら引っかかるものがあったようだ。
さらに詳しく彼女の容姿などを聞いて、その疑惑は確信に近づいていく。
「金髪のくつきさん……失礼ですが、その方の家系は京都で何代も続いていたりしませんか? あと祖先に唐の高僧がいるとか、教えを乞うたことがあるとか、そんな逸話はありませんか?」
「えーっと、なんかそれっぽいことを聞いたことがあるような気もするんですけど……つい昨日くらいに。馬だか、鹿だかよくわかりませんけど、棒切れ使ってすごいパフォーマンスしてましたよ」
「なるほど」
「もしかして、知り合いだったんですか!」
「知り合いといえば知り合いのような、違うといえば違うような……直接の面識はありませんけどね。そうですね、恋人のような、怨敵のような、兎に角不思議な縁です(出会えば公爵さまが死ぬところを拝めただろうけど、そうそうあの蛇の思ったようには行くわけ無いか。自分の娘の管理も出来ないような奴が、他人にちょっかい出すなっての)」
どう受け取るべきかよくわからない返事に、今度は御影が首をかしげた。
「?」
「ああ、そうですね。綾葉さんのお姉さんには少なからず見当がつきました。正直、止めておいた方がいいと思いますよ」
「それは、調停者だから止めるんですか?」
御影の、その問いかけは少し危険な香りがした。
「いいえ。この程度の事件に介入するほど退屈ではありませんから。それより貴女が心配なので忠告したくて――ここだけの話ですが、お姉さん、すごく性格悪いですよ。街でも有名な極悪人で、裏で二桁は殺してますね。家の蔵には大量の惨殺体が隠してあって、気に入らない奴は闇討ち上等、暗殺大好きな危険人物です(暇つぶし暇つぶし、と)」
「……あはは、そんなの嘘だぁ。まるきり犯罪者じゃないですか」
殺気を発し始めていた御影もこの話には呆れたようで、彼女らしくもなく苦笑していた。
「いやいや、シュリンゲル卿。それが事実ならどうして朽木の姉を放置しておられるのでしょうか?」
対照的に、藤間は深刻な面持ちだった。
一流とはいかなくても一人前の魔術師である彼にとって、調停者であるアーデルハイトの権威がそこまで低いとは思えなかったのだろう。
「酷い話なのですが、ここでは向こうの意向が協会より強く働いていて……本来ならここは一種の無法地帯なのです。彼女の蛮行に眼をつむる代償に、協会と向こうの協力関係が成り立っておりまして、私も不用意に彼女に意見できなくなっているわけです。まあ、彼女一人の蛮行を認める代わりに、治安が維持されるのなら構わないというのが上の意見でして……色々と大変なのですよ(てきとー、てきとー)」
「えーっと、本当にそんな酷い人なんですか? ていうか、そんな人実在するんですか?」
立派な肩書きを持つ人物が深刻そうに語ったのが効いたのか、御影は一転して真剣な表情に変わっていた。
「ええ、実在しますよ。んー……ほら、あのすごく目付きの悪い、髪の長い女です(偶然って怖いよね)」
クロエは今までいた路地から交通量の多い通りに出ると、しばらく歩行者を眺めた後で、かなり遠くを歩いていた女生徒を指差した。
その女生徒とは御影たちが探していた綾葉の姉・綾音その人である。
しかも、クロエが吹き込んだ話が相当効いたのか、御影の第一声は――
「……うぁ、本当に殺してそう……」
「そうかね? 云われているほどの悪党には見えないな」
「藤間さん、何悠長なこと云ってるんです!? あの顔は絶対に殺しまくりです、そうに決まってます!」
「……(先入観は大事、と。髭の男は兎も角として、この娘単純すぎないか。法螺話だけで殺人鬼にされちゃったよ、彼女)」
可哀想な人を見る哀れみの視線を送られているにもかかわらず、御影は気分を害した様子もなく、いきなりクロエにしがみついてきた。
「シュリンゲル卿、いいえアーデルハイトさん! 私があの殺人鬼を退治します、いいですね?」
「そうですか。いえ、それでしたら私の立場にも影響ないので是非ともお願いします(まあ彼女が死ねばそれはそれで利に適うし)」
「おい、綾羽くん! 勝手にそういう約束をするものじゃないぞ! そういうものは、しっかり考えた上で」
「アーデルハイトさん、つきましては、成功の暁にサンタクルス機関に推薦状とか貰えませんか?」
「貴女をあの刑罰執行機関に……ですか? 別に構いませんけど、危険のほどを理解していらっしゃいますか?」
「当然です。たくさんお金がもらえるんですよね?」
クロエも絶句である。
多くの真祖をして難敵と云わしめるクラリッサが、自身が信じる正義と五百年に渡る執念で築き上げた城に、よもやその程度の理由で挑もうとは誰が思うだろう?
「……止めた方が良くないか、綾羽くん」
「何云ってるんですか! これは大義名分です、私たち正義の味方なんですよ。一回やってみたかったんです、正義の味方」
まるで先程までのドタバタなどなかったかのような変わりように、クロエは怒るのではなく、呆れた。
「……よく云うよ、誘拐しようとしていたくせに」
「え?」
思わず本音がこぼれてしまいそうなほど、御影は無色だった。
そう、クロエも彼女の心は読めなかったのだ。
実際に詳しく考えていることがわかるわけではないが、他の人間なら何となく行動原理がわかる。
しかし御影に関しては、彼女の行動が浅い思考に基づいているため、クロエでは深読みしすぎるのだ。
「いえ、何でもありません。綾羽さんが崇高な志で志願なされるのでしたら、是非、あの極悪人に裁きを下してください」
「はいっ、任せてください!」
「……(悪く思わないでよね。どっちみち彼女を狙うのは決まってたわけだし、他の連中に害が出る前に目標を定めてあげただけ、僕っていい人でしょ?)」
クロエが思っている通り、実際に狙われているのは綾音で間違いないのだし、御影たちが他の一般人に害を及ぼすのは放置していい事由ではない。
恐らく綾音本人でもこの選択を悪いものとは云わなかっただろう。
「貴女、私に用でもあるの?」
クロエに頼んで少し綾音を引き止めてもらっていた御影たちは、夕方の路地裏で彼女を待ち伏せていた。
「うっ……(これは思ってた以上に怖っ。本当に殺されるかも)」
クロエに吹き込まれた大嘘が思った以上に効果を挙げていたため、御影には目の前の少女が悪魔の類にしか見えない。
それも魔王か何かのようにしか。
「用が無いのならそこを退けなさい。通行の邪魔よ」
綾音にも目の前の二人――特に髭の男が魔術師であることはわかっていたが、だからといって争う理由にはならないので、そのまま通り過ぎようとした。
それに慌てた御影は、なおも彼女の通行を阻む。
「あ、綾葉って妹がいますね」
「綾葉の知り合い? そう、その制服は確かに見覚えがあるわね」
御影が着ていたブレザーの制服は確かに地元で見かけるものではない。
しかし今の御影にはそんな事はどうでもよかった。
彼女は正義の味方であり、目の前の恐ろしい女は滅ぼされるべき悪なのだから。
「悪逆非道の魔女、そこに直りなさい。て、天誅です!」
堂々と宣言する御影に、流石の綾音も唖然とした。
「は?」
「あいさつがまだでしたね、『氣鬼使い』の綾羽御影です」
「氣鬼……本気で云っているのなら、綾葉の知り合いでも怒りますよ」
相手の本気を察した綾音、その周りの空気がやや冷たいものに変わる。
霊脈であるこの土地の大気に満ち溢れる魔力の流れがそこだけ異質なものになったのが感じられた。
流石に御影も相手と自分の力量の違いに冷や汗をかき始めた。
「……(今ゴメンナサイしたら許してもらえるかなぁ? でももう色々云った後だし、やっぱ無理だよね)」
「まあそういうわけだ、適当にあきらめてもらえると助かるね。私は藤間清明、ローマで学んだ者で……彼女よりやる気は無いので、手加減してもらえるとうれしい。そう、彼女は殺してもいいが私は駄目だぞ。そこのところ気をつけてくれ給え」
後ろから見ていた藤間がようやく口を開いたと思えば、思わぬことを口にしたので、御影は慌てて振り返って彼に掴みかからんばかりに怒った。
「藤間さん! 何初っ端から裏切ってるんですか!」
「煩いな。死にたくないのさ、私は。キミは死ぬのも本望みたいに云っていたじゃないか」
藤間はまるで面倒な子供の相手をするようにあしらう。
その振る舞いには綾音も苦笑してしまった。
だが――
「うっ、兎に角! 行きますよ、この貧乳魔女……いえ、先輩のお姉さんのそれ、何でそんなに貧相なんです? 先輩と比べると、まるで何も無いみたいじゃないですか。もしかして噂に聞く、消失の魔術ですか?」
空気が凍りついた。
先程の威嚇とは違う、本気の殺意が御影に向けられたのだ。
「そういう侮辱は聞き流せない性質なのだけど、それを全て承知の上で云っているのね? 余計なお世話かもしれないけれど、自分の発言には責任を持ちなさいよ」
「なんだか素晴らしく直球で逆鱗に触れたようだぞ、綾羽くん」
藤間も流石に御影が心配になってきたらしく、真剣な声だ。
「知ってますよ。でも事実ですから。ていうか、胸が無いって云ったくらいで人を殺す人なんているわけが……そんなベタな人いるわけが……って、あれ? なんか殺気が……」
次から次へと流れ出る汗。
まるで炎天下の夏が蘇ってきたような感覚に襲われる。
しかしこれは暑さによるものではない、想像上の自分の死、それによるものだ。
「氣鬼使いといいましたね」
静かな問いかけに、御影はようやく嫌なものを打ち払うことが出来た。
「え、ええ」
「そこにいる鬼では、私に勝てないわ」
綾音の視線の先には『何も無い』。
しかし何かが『いる』。
それこそが『氣鬼』と呼ばれる存在であり、一般人には決して見えない、術者の魔力だけで創造された式神の一種だ。
そしてそこに『いる』のは、身長七メートルはあろうかという金色の鬼。
通りにいる彼女たちを威嚇するように公園から睨み付けている。
赤い瞳が木々の上から見下ろし、その腕は今にも振り下ろされそうだ。
そう、それはまさに公園を占領してしまうほどの存在感を持つ、凄まじい魔力の塊だった。
一介の魔術師では到底調達できないほどの魔力――金色の鬼を形作っている魔力の総量は、それこそ綾音のそれを二桁も上回る。
「ふふっ、本気で云っているのならお笑いです。これ、強化してるからビルでも壊しますよ。人間なんてそれこそ紙です、紙。街で暴れたら人死にが出ると思って、こんな辺鄙なところで待ち伏せてたんですからね、感謝してください」
創造物に絶対の自信がある御影はようやく殺意の呪縛から逃れたようだ。
そうだ、コレがあって負けるわけが無い。
「そこまで自信があるのなら、今ここで試してみる?」
しかし何だと云うのだろう?
いい知れぬ最後の不安を振り払えない。
綾音の根拠の無いブラフのせいなのだろうか?
いや、そもそも彼女の言葉はブラフなのか、それは藤間にもわからなかった。
「いい度胸ですね。本当はこんなバカな勝負やるつもりはなかったんですけど、お姉さんが云い出したんですからね? 死んでも恨まないでください。ちゃっちゃとやっちゃいなさい、金氣鬼!」
「きんききって……相変わらず語呂が悪い名前だな。おまけにひねりも無い」
「煩いですよ!」
「とはいえ、詩篇を四百も使って強化したソレを舐められては困るよ。ああこちらは大損なのだから、見縊って欲しくないな」
その言葉に、綾音はこの異常な魔力量の原因に思い至る。
なるほど神詩篇ね、ただそう呟く。
その間にも巨鬼は大地を蹴っていた。
鬼の一歩で大地が揺れ、局地的な地震となる。
恐らく鬼の姿が見えない一般人には何が起きたのかさえわからないだろう。
そして、その拳が当たれば本当に彼女の身体は紙のように千切れてしまうだろう。
そうだ、魔術師の喧嘩とは喩え大きな悪意が無いのだとしても、場合によってはこれほどのものになる。
「的が大きすぎるというのも、何だか興ざめね」
綾音はただ自分に向かって飛んできた鬼に向かって、手元のナイフを投擲した。
ただそれだけだった。
しかし、たったそれだけの抵抗しか受けていないのに、鬼は二度と地面を踏むことはなかったのだ。
一瞬、身体を貫かれた鬼の身体から大量の血が噴出し、空が地面を赤く染めると、次の瞬間にはそれらが消えていた。
そんな中、身体を真っ赤に染めた綾音に睨まれ、御影は腰を抜かしてその場に倒れこんだ。
「へ……え? ええ? 金氣鬼、どうして……やられたの?」
「運が悪い、というよりは相手が誰かを良く見て戦うべきだったわね。『人形』で私に挑むなんて、愚かしい」
綾音の真っ赤な身体から次第に赤が消えていく。
それは鬼を形作っていた魔力が残滓も残さずに消失したことを示していた。
そのまま投擲したナイフを拾うと、ゆっくりと構え、腰を抜かしている二人の魔術師の前に歩み寄った。
「……ああ、危なかった。ショックのあまりゲシュタルト崩壊するかと思ったよ。生還させて貰えたことに感謝、そう感謝させてくれ給え」
「……私は崩壊しちゃいました……アレで負けたらどうやって勝てって云うんです」
「お祈りは終わりました? あるいは、念仏は唱え終わりましたか?」
「……ごめんなさい。許してください。悪気は一ミクロンもなかったんです、アレはちょっとしたお茶目です。まったく悪くないとはいいません、でも本当に脅かすだけだったんです。最初の天誅云々はジョークって云うか、あれですよ、アレ……言葉の綾。そう、綾と云えばお姉さんも『綾何とか』さんですよね? こっちも名乗ったのに名乗り返さないのはどうなんでしょうね? あの時点で魔術師的な決闘は始まってないんじゃないかな……ということにはならないでしょうか? して、くれますよね? お願いです、してください。どうかこの通り、許してください」
呆れるほど低姿勢で綾音の足元にすがり付いて命乞いをする御影。
最初の威勢は欠片も残っておらず、見ていて悲しくなるほど情け無い姿だった。
しかし彼女の矜持とはそれでも保たれるらしく、精神が崩壊したわけでもない。
「同じく。というより、私は悪くないので、この娘だけ処罰してくれると助かるんだが」
藤間はあるいは死を覚悟していたのだが、主犯が別にいるのであるいは見逃してもらえることに一縷の望みを託すようだ。
綾音としてはこういう魔術師らしい魔術師なら殺しやすいのだが。
「え? 裏切らないでくださいよ」
「裏切ってはいないよ。私は組んでいないのだから、コレは裏切りではないさ」
「……酷い」
仲間割れを始めた二人に冷たい視線を送りつつ、彼らへの殺意を収める綾音。
いくら事情が事情とはいえ、妹の知り合いを本人に告げずに殺すのは気が進まなかったし、二人の様子に毒気を抜かれたと云うのが正解であろう。
「では、二人とも事情を聞かせてもらっても構いませんね」
「はい」
「……なっ」
午後八時すぎ――公明がトイレから戻ってくるとベッドの上にビデオカメラが置かれており、それを再生すると、椅子に縛り付けられた幼馴染を囲むように立つ二人組が映し出された。
『アロー、グーテン・アーベント……って、何でドイツ語なのかって? 特に意味は無いですよ。私的に、なんか悪役っぽいからです。ジーク・ハイル! とか、ハリウッド的に悪役っぽいでしょ? でもその印象ってプロパガンダなんですよ、私的にはですね……』
二人組の一人、先日クツキと一緒にいた少女と思しき人物が頭の悪そうなことを話し始める。
そして、まったくこの状況とは関係の無い方向に、三分間も話が跳んだままになった。
思わずカメラを落としそうになる公明だったがそれはそれ、綾音が拘束されている以上は何かがあるに違いないと、真剣に見入った。
『――おっと失礼、しっかり見てますよね? 見て無いと困りますよ。それで、我々はアレです、アレ……エロリスト』
『違う、テロリストだ』
『そうでした、そう。魔術師的にヒエラルキーの高い人たちをどんどん殺してしまおうってスローガンの、とても活発な殺人集団です。この度は、この人、綾姉さんを赫々然々な事情で捕まえることに成功したので、これから処刑しちゃおうかなって気分なんですよね』
表情だけは真剣に、だが頭の悪い発言を続ける少女に、怒りがこみ上げてくる。
目隠しされ、猿轡まで噛まされた綾音の体はピクリとも動いていない。
もしかするとクスリでも盛られたのか、そういった心配が公明の頭をよぎった。
『――で、話は長くなりましたけど、要は貴方にここまで来て欲しいわけです。もちろん一人で。何でかって? そうですね、本当に何でなんでしょう……私が思うに、ですが……やっぱ理由なんて無いんじゃないの? 一般人に毛の生えたようなのに、用事なんてあるわけ無……いや、でもですね……え? 理由くらいい聞いてもいじゃないですか、ケチ! ……わかりましたよ……気乗りがしませんけど、兎に角、理由なんてどうでもいいので来なさい!』
「どっちだよ!」
思わずカメラに向かって怒鳴りつける。
しかし映像が返事をくれるわけもなく、そのまま再生が続く。
『おいおい、何をやってるんだ……少年、キミはミスタ・シノザキ、というのだね? はじめまして、私は侯爵リグノア・イム・ジア様に仕える者だ』
『え? マジですかそれ? 藤間さんがあんな大物に仕官なんて初み……』
少女が男の名前を暴露した瞬間、男の拳が彼女を殴りつけた。
『あたた……』
『キミはもう黙っていろ、いい加減怒るぞ……私は真祖関係者だぞ、キミ。だから、我々はキミを知っている。そこでキミについては色々と調べさせてもらったよ。ずいぶんと特別な事情があるようじゃないか?』
少女とは対照的に、髭の男が確信めいたことを口にした。
あるいは糸が絡まった様子の少女へ助け舟を出したようにも見えなくもなかったが。
『我々はその特別な事情に興味があるのさ。そう、特別な事情にね。そこで、取引と以降じゃないか。キミが一人で来れば彼女を解放しよう、もちろん助けを呼ぶのは無しだ。しっかり監視しているからおかしなことはするんじゃないぞ。そして、キミが抱えている特別な事情が私の創造の産物なら、きっとキミたち二人を殺すだろうね……ああ、いや、やっぱり殺すのは無しの方向で。殺さないから、ここまで来てもらえるかね? 道案内については、そうだ、ベッドの上にはカメラのほかに封筒があったはずだ。全てはそこに書いてあるから、深夜零時に来てくれたまえ。キミの到着を首を長くして待っているから』
そこでビデオの再生が終わる。
指示通りの場所には確かに封筒があって、その指示通りに行けば、その場所は廃工場だった。
時間はすでに九時、それは時計を見直しても巻き戻らない。
突然の事態に、まるで茫然自失したようにベッドに腰を下ろしていた。
夢なら醒めて欲しい、その願いの元に頬を殴るが夢ではない。
悪戯と思いたいが、趣味が悪すぎるし、髭の男たちと綾音の接点が見出せない。
「いきなりなんだってこんな事に……」
街にいる連中の反応から、真祖が黒幕と云うことは無いだろう。
しかし少女がいたと云うことは、あるいはクツキが黒幕なのかもしれない。
アーデルハイトの云う通りなら彼女は相当な術者だと見て間違いないし、その線で考えればさほど矛盾は無い。
だとすれば、彼女は公明の秘密に気づいた魔術師と云うことになる。
髭の男がそれに近い発言をしていたこともあって、予感は確信に変わった。
だが、一人で助けに行ったとしてどうにかできると云うのか?
相手は恐らく三人以上。
しかも全員が魔術師で、綾音が囚われていることから考えて、相当腕は立つのだろう。
公明の頭の中でシミュレーションが開始される――結果はどれも敗北しか導き出せない。
当然だ、先頃の戦闘でさえ一般人と変わらない吸血鬼を相手に死にかけたのだし、あの厄介な魔導書を差し引きで考えても、彼にとっては今回の方が強敵であるように思えたのだから。
「ああっ、くそ! どうすりゃいいって云うんだよ……」
玲菜かアーデルハイトに連絡すればあるいは、何かしらの手が打てるのかもしれない。
しかし髭の男は監視しているといっていた。
それが事実であるかどうかを確かめるすべは無いし、仮にあの言葉が真実なら悲惨な結果になるだろう。
『だが』、『しかし』、『でも』……彼の頭の中を巡るのはその言葉だけ。
素晴らしい妙案が思いつくわけでもなければ、思い切った選択も出来ない。
しかし時は待ってはくれず、刻み続ける。
「綾姉さん、こんなのに何の意味があるんです? アレですか、恋人の愛を測りたいとか、そんなベタな事考えてないですよね? 大抵侮辱と受け取られますよ、そういうタイプの試みは」
街外れの工場に、御影の元気のいい声が響く。
「まさか……愛を測るなんて、そんな品の無い真似、私がすると思って? それこそ侮辱よ」
一人椅子に腰掛けたままの綾音はやや云い淀みながら返事をした。
「では、一体何の意味が? 正直、協力するだけで先の無礼を許してもらえるのなら、私たちは万々歳だが……何と云うか、意義とは意味を知らねば見いだせないものなのだよな、これが。そうは思わんかね、綾羽くん?」
藤間と御影はいつ公明がやって来てもいいように準備を整え、工場の機器に背を預けていた。
カビ臭い場所ではあったが、月明かりは十分に差し込んでいたし、僅かながら明かりも灯っていたので周囲も見渡せる。
「ですよねー? 云っておきますけど、試されてキレる男がいるのはマジですから……って、綾姉さん、何青くなってるんです?」
「えっ、気のせいじゃないかしら。青くなんてなっていないわ。そう、意味ね、意味は……あります」
「何だね? 意義が見出せるものならいいのだが」
「これは……彼を試すための実践訓練です」
藤間と御影はキョトンとした表情だ。
「いや、それって私が云った奴じゃないですか」
「違うわ。これは彼の戦闘経験を高めるための訓練で、貴方たちにはそれなりに本気で彼の相手をしてもらいます」
綾音は自分が何を云っているのかすでにわからなくなっていた。
もしも本音を暴露してしまえば、あるいは浅い謀が公明の耳に入ってしまえば、全てが終わる気がしていたのだ。
しかし思った以上にスラスラと言葉をつむぐ自分に、半ば歯止めをかけようとして、それが出来ない。
「殺しちゃってもいいってことですか?」
「勿論よ」
云ってしまった――その場で頭を抱えたくなったが、プライドが邪魔をしてそれをさせてくれない。
年下の御影に知ったようなことを云われて冷静さを欠いていたことが原因だろう。
あるいは魔術師として格下であると見下していた彼女への、卑しい対抗意識があったのかもしれない。
それらを全て自覚しながら、止める言葉が出てこない。
いや、いい方向に考えるんだ。
いまさら止められないのなら、このまま貫き通せばいいのではないか?
いざとなれば自分が止めればいいし、彼が一人で来てくれるならそれはそれで見上げたものだ。
それに、そんな光景が見てみたい誘惑はすでに押し留められないものだった。
「流石に生粋の魔術師と云うべきなのだろうが……私見だと、鬼だぞキミは。誑かした男のレベルアップにここまでやるとは、信じられん。使い捨てられる彼が不憫だ」
「いっ、いえ、私はそこまで云ってな……それに、本当に殺すのは無しですからね! そこを忘れないで」
「いや、尊敬します。すごくアクイですよ、綾姉さん! 私も本気でレベルアップに協力します……確実に殺す気で!!」
前回の投稿からかなり間隔があいてしまってすみません。
私的なことではありますが、資格試験や何やらがあったもので。
多々直したいところを直すべきだったのですが、その辺りはまだ手が回ってません。
なのでご指摘いただいた方々、すみません。