入院してはや四日、良介が友人数人と見舞いに来てくれた以外に客は無い。
しかしアイツ、妙にびくびくしていたな。
何かあったのだろうか?
そわそわしたままで、ほとんど会話らしい会話も出来なかったから余計気になる。
それにしてもまったく、病院生活っていうのは慣れないし慣れたくも無いものだ。
時間が余っているせいか、気分が落ち着かない。
融通が利く食事は確かによかったが、テレビはつまらないし、娯楽も無い。
ただ寝ているのも退屈だ。
自由に歩けるからまだましだけど、これがベッドの上に寝たきりだったらさぞ悲惨だっただろう。
実際にそんな人たちがいることを思うと、やっぱり運がよかったみたいだ。
読んでいた小説がようやく読み終わったと同時、病室のドアが開いた。
ドアから入ってきたのは小さな外国人の女の子――要するにアデット。
カジュアルなキッズファッションに身を包んだ彼女――手荷物は差し入れだろうか?
珍しくポニーテールの彼女は目が合うなり、ニコリと微笑んだ。
わかる……あれは絶対によくない笑いだ。
相手を即座に地獄に落としかねない何かを知っている笑いだ。
「どうも、お加減はもう宜しいのでしょうか?」
「あ、ああ……そっちも怪我したって聞いたけど、大丈夫そうだな」
「ええ。この体は治癒力という点ではなかなかに優れものですから、お先に完治しましたよ」
「そうなのか。じゃあ、そこの椅子でも」
「では、失礼しますね」
指で示した椅子をベッドの横に移動させると、彼女はそれにちょこんと腰掛けた。
黙っていてくれれば西洋人形のように綺麗な少女なのだから、このまま眺めていてもいいかも……
――などと思ったら、あの変態の仲間にされるんだろうなぁ。
「それで、今日は見舞いに来てくれたってことでいいんだよな?」
「そうですね。それと、学園祭で演じる演劇の台本をお持ちしました」
「おいおい、何云ってんだ? 学園祭でやるのは手品だろ」
「私も昔はそのようなことを考えたものでした――が、今回は演劇です」
彼女はそう云いながら、『シンデレラ』と書かれた台本を取り出して、それをこちらに渡してきた。
最悪なことにすでに確定事項らしい。
彼女の笑顔が、断っても無駄だと教えてくれる。
「ったく、こんな時間無い時にそういう無茶を云うんだよな、お前は」
台本を受け取って、その中身に目を通した。
少しアレンジが加えられているらしい。
しかし、サブタイトルがこれ以上無いほどに危険だ。
『紅蓮に染まる帝都』って、正気で書いているのだろうか?
「まあまあ、入院中に台詞を覚えれば時間は十分じゃないですか」
「それはそうだけどさ……お前が書いたのか、コレ?」
それ以外に誰がこんな代物を作り出すんだか。
こんなものを書く奴だ、きっと病気に違いない。
そして、その条件に当てはまる知り合いはコイツくらいのもの。
だが、意外にも彼女の反応は違った。
「そう思われたのなら、私を侮辱していると受け取りますよ」
本当にそう思われることが心外であるように否定して見せたのだ。
「じゃあ……思いたくは無いが、綾音か?」
本人の前では口が裂けても云えないが、昔からどこか普通じゃない人だった。
その気になれば何でも出来るくせに、人と交わらない……変だ。
今その理由を少しくらいなら理解できたが……やっぱり変だ。
やはり容疑者の一人と見て間違いないだろう。
だが、今度の予想も違ったらしい。
「ご本人にお伝えしておきましょうか?」
そちらの方が面白いのですけどね、などと軽く否定してくれるアデット。
ますますわからない、こんなものを嫌がらせ以外で書くとは思えないんだが。
「全力で拒否する! ……わかった、クロエだな。アイツなんかに任せるなよ」
あの人形女ほど暇をもてあましている奴もいないわけだから、きっとアイツだ。
世界でも指折りの大富豪を演じている暇人だし、こんな娯楽を心から楽しむ奴だ。
大体、金持ちが変人でないわけがない。
だが、決定的と思われた容疑者までもあっさりと否定されてしまう。
「いいえ。クロエさんはむしろ被害を抑えることに尽力していましたよ」
「じゃあ、誰?」
まったくわからない、そもそも容疑者になりうる奴はいないと思う。
「玲菜さんです」
こちらの予想に反して、アデットはありえない容疑者を告げた。
センスがいいとか、そういう理由でコイツを排除していたわけじゃない。
コイツほどの面倒臭がりが協力するとは思えなかっただけだ。
まだ信じられない表情のまま、ため息混じりに彼女の名を繰り返した。
「……浅海かぁ」
「ええ」
「どうして? あんな面倒臭がりが、どうして積極的に協力する?」
「それに触れてはいけません。むしろ私自身がそれを知りたいくらいです」
二人が後ろで手を組んでいるわけでもないだろうし、困ったことになった。
そう思いながら台本を細かく見ていると、驚愕する事実を発見する。
「おい、『皇太子=公明』って何だ? この台詞を云えってのか?」
笑わずに云うことが困難な台詞だらけ、しかもこの皇太子は贔屓目に見てもアホだぞ。
「はい。その件については衣装製作が開始されていますから、断れませんよ」
「……台詞にアドリブが多すぎるのは気のせいか?」
半分以上が『アドリブで何とかする』と書かれている。
こんな適当な台本を本気でやらせるつもりなのか?
「時間の関係らしいですよ」
「――退院を延ばしてもらってもいいか?」
「ここから突き落とせば宜しいのですね? それとも、適当に手足を叩き折りましょうか?」
退院を延ばすどころか、即命にかかわりそうな提案をする幼女。
最悪だ、アデットはこの破滅的シナリオが好きらしい。
「……お前、浅海の味方になったのか?」
「こんな羞恥プレイを拝めるのなら少しくらい、ねぇ? 羞恥に歪む貴方の顔、きっと極上でしょうね」
「……」
「愛すべきプロイセン式処刑術でも宜しいですよ? 痛いとは思いますけど、貴方が望むのなら」
世には痛みを感じない術もあるらしいが、俺には無理なわけで……提案を受け入れる余地は無い。
アデットの脅迫に屈し、力なく首を振った。
「今日は台詞の読み合わせを手伝って差し上げましょう。さぁ、最初からお願いしますね」
絶望的な状況に追い込んだ後は、じわじわと痛めつけるつもりらしい。
最低だ、この幼女錬金術師は。
「いやだ……こんなの読んだら、死ぬ。羞恥で死ぬ」
「本番でもっと恥ずかしい目に遭いたいですか? 衣装が溶け出すとか……そういうのは嫌でしょう?」
「鬼だ……ここに鬼がいる」
こちらの非難など物ともしない彼女。
こちらに台本を開いて渡し、自分も同じページを開いた。
「御託はいいですから、ハリー! ハリー! ハリー!」
「お前、絶対碌な死に方しないからな」
「そうかもしれませんが、貴方より長生きしますよ」
それから、最低の二乗くらいの時間が始まった。
痛い台詞のオンパレードで心が削られていくのがわかった。
名台詞は『しかるべき人物』が、『しかるべき場面』で云うためだけにあるということがわかった。
そうでない人間が云えば、滑稽過ぎる。
「うぅっ……『麗しき姫よ、貴女は卑怯な暗殺者の企みを告げるためだけに、我が命を救うためだけに、危険を冒してまでここへ来られたというのか!? 嗚呼、なんと気高き行いだろう! この胸は今にも張り裂けんばかりに、その……』」
「声に出されると流石に引きますね、この変人さんは。では、私も……『ああ、何と美しく高貴なお方だろうか。その尊顔を拝するだけでこの身は恋の焔に焼かれ、他者を蹴落とすことに抱いていた躊躇いさえ、消えうせてしまう。周りの有象無象はさっさと蹴落として……』」
「心が傷ついていく……『一夜で百万の兵を斬って捨てた我が二つ名を何と心得る? 黒翼の熾天使……魔術ギルドにおいて、その名を知らぬもの無しと畏れられた『暁の星』であるぞ!』」
苦痛さえ伴う台詞の読み合わせは、大事なものを切り売りしながら続けられた。
「二つ名を自ら名乗られる貴方に恋してしまいそうですよ。録音しましたから、一緒に聞きましょうね?」
「止めろ、もう止めてくれ。もういいよ、今日はマジで止めよう」
半分を過ぎたところでギブアップ。
この台本はおかしい。
本編で存在感が薄かった王子が、あらゆる場面において、無駄にでしゃばるのだ。
「黒翼の熾天使さまぁ、続きをお願いしますよ」
「『ああ、シンデレラ。其方の瞳はまるで空を飾る星々のように輝き、花のように美しい。流れる髪を梳く、そのか細い指はまるでガラス細工のようで、我が心を昂ぶらせ……』」
「暁の星さま、質問ですが、『星のように輝きつつ、花のように美しい』瞳の色とは?」
「……『シンデレラよ、構わん。この『金糸翼のルシフェル』のことは好きに呼ぶがいい』」
「ルシフェルさまは少しシャイなのですね。あえてどうでもいい、と仰られる辺りは流石です」
「『覚悟するがよい、かぐや姫。貴様など我が『黄金剣・キミアキブレード』の錆と変えてくれる! 見るがいい、流派篠崎・絶対究極破壊最終奥義――真☆疾風斬魔刃紅蓮剣ー!!』」
「キミアキブレード、ぷっふふ。陛下、頭の方は大丈夫ですかぁ?」
アデットもこれには我慢出来なくなったらしい、子供っぽく笑い転げている。
だが、俺はこれを真顔で云わなくてはならない……無理だ。
「穢れた。完全に汚染し尽くされた。精神的陵辱だ、コレは」
「キミアキブレード、どんな剣なのでしょうね? 嗚呼、想像できません」
「しなくていい、そんな期待するな!」
「あら、つれないお言葉ですね。ここで半裸になって、ナースコールでも押して差し上げましょうか?」
いじめただけでは飽き足らず、更なる最悪を呼び込もうとする幼女。
服に手を入れ、いつでも脱げる姿勢をとって脅迫してくる。
「逮捕させようってか。やれるものなら……やっぱごめんなさい、もう今日は許してくれ」
「ふふっ、大丈夫ですよ。一度で殺すような真似はしません、ゆっくりと一つ一つ階段を上りましょうね」
「何の階段だ、それは?」
「天国――そのようなものですよ」
「そのようなものじゃなくて、そのものじゃねえか! ったく……」
ベッドから足を下ろすと、そのままスリッパを履いて立ち上がる。
「あ、どちらに?」
からかい過ぎて怒ったと思ったのか、笑うのを漸く止めた彼女が訊いてきた。
「便所。ついてくるなよ、絶対に何があってもついてくるなよ」
「同性なら兎も角、異性間でそういうのはしませんよ」
「同性でもどうかと思うけどな」
「別に私が普段そうするわけでは……それで、見られながらするのが公明さんの趣味ですか?」
「ついてくんなって云ってるのに、どうしてそれが俺の趣味になる?」
「いえ、ルシフェルさまは天邪鬼な方ですから、『来るな=来い』かと」
「違うわ! じゃ、もう帰れよ。あの台詞は人前で読めないから。お前がいると練習にならん」
「やれやれ。本当に悲しいですわぁ。お兄様に嫌われて、私はどうすればいいのやら」
「本当に帰ってくれ……って、ついて来るなよ」
このガキは本当にトイレまでついてくる気なのか、そう疑いたくなる。
何しろ病室を出てからもしつこくストーキングしてくるのだ。
「何を仰います、エレベーターはこちらが近いじゃないですか。自意識過剰ですよ、ルシフェルさま」
「はいはい――ん?」
廊下ですれ違った女二人――片方に何か違和感が……。
「どうしました?」
幸い、すれ違った二人には気づかれなかったようだ。
しかし、隣のアデットには当然聞こえていた。
「いや……さっきすれ違った人、何か違和感が」
俺たちは立ち止まって、置かれていた椅子に腰掛けた。
「それは――プラチナブロンドの縦ロール、あのアンティークな髪型の人ですか?」
彼女が指摘したのは、特に強い違和感を覚えていた相手だった。
それは絵に描いた令嬢そのままの豪奢な金髪、紺碧の瞳の女性。
彼女は一見ドレスのような洒落た洋服を着ていた。
贔屓目に見ても一般人ではないだろう――色々な意味で。
「そう。隣の人は別に何とも思わなかったけど、あの外人さんには……嫌なものを感じた」
「いい勘をしていらっしゃいますね。私も悪いものを感じました、隣の魔術師さんともどもね」
「えっ?」
これには驚いた。
アデットが魔術師と指摘したのは、別の方だったのだ。
俺と変わらないか、あるいは少し年下に見える少女なのだから驚きは一際だった。
「微弱ですが、一般の方よりも魔力の波動が強かったです。意識して隠していないからでしょう」
一般人でも強い魔力を秘めた人はいる。
この場合、そうでない者と魔術師を見分けるには経験が必要だが、彼女にそれを問うのは愚かだ。
「……向こうはこっちに気付いてないのか?」
少なくとも声を上げたことは気づかれていないはずだ。
「まさか。私は兎も角、公明さんは駄々漏れですから」
「いや、俺なんて微弱なもんだろ」
「それはそうですが、周りが一般人ばかりだとその微弱さでもわかってしまうものなのですよ」
『木を隠すには森』とはよく云ったものだが、この半熟は一般人の中に隠れることも無理らしい。
しかし、そうだとすれば疑問が浮かぶ。
「じゃあ、どうして向こうは何も?」
「用事が無いからでしょう。ここは綾音さんのご実家の病院ですよ、トラブルなど誰が望みます?」
どうやら彼女たちは同胞に会ったからといって、必ずしも親しい挨拶を交わすわけではないらしい。
「ま、そりゃそうか。怨まれる理由はないからな……いや、お前は色々恨みを買ってそうだけど」
「今日は特に勘が宜しいですね。私も記憶を遡って捜していたところです」
「どういう心当たりがあるんだ?」
「人生長いですし、人間どこで恨みを買うかわかりませんからねぇ」
「それはそうだけど、お前の場合は日頃の行いが原因だろ。それで、結果は?」
「会ったことがない人でしょう、恐らく。まあ娘や孫といわれれば、自信もありませんが」
「俺にはよくわからないけど、魔術師的にはそんな縁でも気をつけなきゃ駄目か?」
「稀有な例ですが、三百年も昔の因縁で皆殺しにされた一家を知っています」
「本人関係ないだろ、それ」
「いいえ。三百年生きていた化け物じみた魔術師が、相手を一人残らず殺しにしたのです」
病院の中でドンパチ始める連中の映像が思い浮かび、背筋を冷たいものが伝った。
映像の中で、俺は流れ弾に当たって死ぬんだよなぁコレが。
「巻き添えだけは勘弁してくれよ。なあ、本当にあいつ等を知らないんだな?」
「ええ。ただ、最近は一般人でも物騒ですからねえ」
「まあ通りすがりに切りかかる奴もいるくらいだし、物騒って云えばそうだけど」
「でしょう? そのうえ、何だかわかりませんが……町が消えた記事をご存知ですか?」
アデットが云うのは東欧の小さな町から生物が消えたという記事だ。
一夜にして五千人程度の住人が消え去り、町からはネズミ一匹見つからなかった怪異。
原因は一切不明で、生き残りもいない。
というか、内戦の真っ只中の国だから反体制派に埋められた可能性もある。
それに、事件を通報したトラック運転手は最初から支離滅裂なことばかり云っていた。
『真っ赤な空が落ちてくる』
『月も星も消えた』
終始こんな調子だったものだから、今では病院に入っているとか。
それがあるからだろう、騒いでいても戦争が終わるまで真相もわからない。
そもそも事件自体が政府のでっち上げという話もあるし、怪異といえるのかどうか。
「『グダニスク事件』って云ってたな」
運転手の言葉から『深紅事件』などとも呼ばれているが、町の名前をつける方が正確らしい。
「まあ犯人はわからないでしょうけど」
「――え? お前、犯人知ってるの?」
「まさか。真祖でもここまでの事をするのは一人だけ。彼でない以上、見当もつきません」
「はーん、じゃあマジで怪異なわけだ」
「ええ、マジで怪異なわけです」
「案外、宇宙人とかじゃないのか?」
「誘拐ですか? あはは、それならまだ夢がありますけど」
「ま、それはいいや。兎に角あのドリルとは絶対に縁なんて持ちたくない」
「それは私も同感です。あの人はマズイ……まあ、魔術を知る人かどうかはわかりませんが」
「隣の奴とは、魔術関係無しの知り合いってことか?」
「確証はありませんが、片方だけが無警戒なのではバランスが悪いと思いまして」
新米と玄人を組ませることで、新米の下手な追跡が玄人の姿を隠す、と聞いたことがある。
誰かを追跡中とか、ありえない事情があるのならわからなくもないが……流石に考え過ぎか。
「だけど、片方が弟子ってことも……ほら、俺たちがそうだろ?」
「私たちの場合は例外でしょう。公明さん素人と変わりませんし」
「まぁ、そうだけど」
「……クツキ先輩? どうされたんですか?」
黒髪の少女の後ろで急に立ち止まった女性。
どうしたものかと振り向いた少女に向け、彼女は神妙な面持ちで話す。
「アヤハ、ここで待っていなさい」
そこには反論を許さない気迫がある。
鬼気迫る何かを感じ取った少女は、女性を止めることが出来なかった。
「えっ!? ちょっと、先輩!」
「――あのぉ、いきなり何事です?」
ドリルにぎゅっと抱きつかれたアデットは苦しそうに云った。
俺たちの前にやって来たコイツが、有無を云わさぬうちに抱きついたのだ。
「嗚呼、すごく綺麗な髪。肌もツルツル。ねえ、名前を教えてくださいませんか?」
頬をすり合わせ、アデットの体中を容赦なく弄り、揉みまくるドリル。
周りが見えていないのか、俺を気にする素振りも見せない。
「……おい。いきなり抱きついて何云ってんだ、お前?」
「お姉ちゃんは朽木綾葉というのですよ。さあ、そちらも教えてください」
あからさまな偽名使うドリル女、自称クツキ・アヤハ。
アジア系ですらないくせに、日本人の名前を堂々と名乗るとは侮り難い。
偽名が一発でばれていることに気がついていないのか、あるいは神経が図太いのだろうか?
クツキがこちらの疑いの目を気にしている様子は無い。
彼女は手を跳ね除けようとするアデットを気にするでもなく、身体を弄り続けている。
アデットもこんな場所でなければうまく対応出来たのだろうが、ここは人目が多過ぎた。
「むぅ……手を放していただけませんか、クツキさん」
「大人っぽいのですね、お嬢ちゃんは」
「んぅ、私はアーデルハイトといいます。クツキさんはどうして、突然こんなことを?」
何とかクツキの手を引き剥がしたアデットは俺の後ろに逃げた。
そうなった以上、クツキと目が合ったわけだが――ヤバイ、この女逝ってる。
「アーデルハイト……あぁ、ハイジちゃんですね」
「その愛称は昔から嫌いです。呼ぶなら別な呼び方にしてください」
「そうなのですか、可愛らしい名前ですのに。では、アーデルちゃんとお呼びしますね」
「いや、だからお前はいったい何なんだよ。アデットの知り合いなのか?」
「アーデルちゃんのパパとママはどこにいらっしゃるの?」
こっちのことは完全に無視ですか。
「パパとママは天国で……今はこのお兄ちゃんにこき使われながら、夜の相手をさせられています」
「おい! 出鱈目抜かすなよ!」
ふざけるにしても相手が相手だ、この変人に俺が刺されでもしたらどうする心算なのか。
「それは……本当なの、アーデルちゃん?」
案の定、クツキは信じきった表情で俺を睨み付けた。
「ええ、助けてください、クツキさん」
「おい、冗談だぞ! 冗談だからな!」
「冗談? どう見ても親族の方ではありませんね。それに友達でもないでしょう?」
クツキの視線は汚物を見るような厳しいもので、とても信じているようには見えない。
このままでは……まず過ぎる。
アデットの冗談のせいでぶち込まれるのか、俺は?
いや、事情聴取までなら許す――クツキが刺す前に助けてくれ、おまわりさん!
「いや、それはそうだけど。でも、実際に俺たちは知り合いで、友達なんだ」
しかし、軽蔑しつつもクツキは意外な反応を示した。
「そうですか。わかりました――アーデルちゃんを飼……貰っても構いませんか?」
まるで会話が成り立っていない。
しかも、『飼う』って云うつもりだったぞこの女。
「……はい?」
「保護者がいないのは問題でしょう? 私の家はこの国有数の富豪、子供一人くらい問題ありません」
何危ないことを云ってるんだろ、このドリルは。
「大丈夫か?」
「何が、でしょうか?」
お前の頭だよ。
「いや……貰うも何も、ソイツは孤児って訳じゃないんだから」
大体、孤児だとしても手続きとか色々あるだろうに。
金持ちは面倒な手続きも一切無視できるとでも云うのだろうか?
「えっ……そうなの、ですか……」
クツキは信じられないくらいに落胆し、世界が破滅することを知った人のようだ。
「どうして、そう残念そうな顔を?」
「せっかく綺麗な女の子を見つけたのに……ねぇ、これから一緒にお食事に行きませんか?」
俺を無視したままアデットを誘うドリル……コイツ、頭おかしいぞ。
「それはとても遠慮したいというか、私もこれから予定がありますから」
「まぁ、塾なのですか? それならその名前を教えてくださらない?」
「……違いますけど」
「それなら、お食事しましょう? おいしい店を知っていますから、是非」
「クツキさんもそう云ってるみたいだし、行ってこいよアデット」
よく考えたら、アデットは見た目通りのガキじゃないんだった。
俺がいちいち助けなくてもこれくらいの災難から逃れるのはお安い御用だ。
それにコイツを助けると、俺の練習が長引く結果になりかねない。
それなら、これからやることは――アデットをクツキに売る。
「嫌です。クツキさんを厭うわけではありませんが、本当に予定が……」
「あら、残念ですね。では代わりに電話番号を教えてくださいません?」
「携帯電話を持っていませんので」
「そうですか、それならご自宅の電話番号か住所を」
「宿無しです」
「では、やはり私のうちに来てくださいませんか?」
「遠慮します」
「でも」
すごいしつこさだぞ、この女。
「じゃ、じゃあ俺はもう病室に戻るから」
「ちょっと、公明さん!」
「アーデルちゃん、いい匂いですね。どこの香水を使っていらっしゃるの?」
「クツキさん! いい加減に放してください」
「駄目です。住所か電話番号を聞くまでは逃しません」
そのまま、変な女に捕まったアデットを残して俺はその場を立ち去るのだった。
どうせだ、本番までアデットを捕まえておいてくれ。
運がよかったというべきか?
そのまま病室に帰ると、ベッドに潜り込み、もう一度台本を広げてみた。
悲しいことに見間違いではないらしい。
思わず苦笑してしまうほど酷い内容だ。
「あーあ、本当にどうするかな……」
逃げ出せる方法があるのなら教えてほしいくらいだ。
ずる休みでも出来ればいいのだが、あの連中が乗り気だというのだから……出た方がましだろう。
経験上、綾音はこの内容でも決定事項である以上はちゃんと出演する。
本人の提案である以上、浅海も何の問題も無く出演するだろう。
話を聞いた限り、クロエは乗り気でなさそうだが、あれはアデットの恥だ――気にしない。
当のアデットにしても今はガキだ――やはり気にしないだろう。
「ふっ……やっぱ恥かくのは俺だけかよ。割りにあわねぇ!」
当日を想像するだけで鬱になりそうだ。
台本を投げ出すと、ベッドの上で大の字になる。
「あらあら、ずいぶんと嫌そうね?」
「当然だろ。誰があんな訳わかんねー代物をやるかっての!」
「そう……あれはそんなに酷い台本だった?」
「酷い酷い。書いた奴のセンス疑いたくなるほど酷い」
「……私が書いたのよ」
「……よお、浅海……部屋に入るときは気配くらい隠さないでくれ。心臓に悪い」
いつの間にか、ドアを開ける気配すら感じさせないうちに部屋の中にいた彼女に最高の笑みを送る。
冷や汗が流れるのがわかる。
もしかすると、顔は真っ赤かもしれない。
「私が書いた作品だって云ったのよ?」
制服姿の浅海はベッドの上に座ると、顔を近づけて殺意むき出しの笑顔を返してくれた。
ヤバイ……とても彼女の目を見ることが出来ない。
汗を拭う振りをして彼女から視線をそらした。
「……ゴメンナサイ。スゴイ芸術で、一瞬理解できなかった。ほら、俺庶民だし」
「あー、そうなの? それで、今はアレの芸術性が理解できる?」
出来るわけが無い。
大体、アレの何がいいのかまるでわからないのだ。
しかし、本音を云える訳が無い。
「もちろん。アレはすごい、マジですごい。俺もアデットから台本渡されて、張り切ってたところだ」
「へぇ、当日は頑張ってくれるの?」
浅海の、俺への疑念しかない視線が痛い。
当たり前だが、絶対に信用していないぞコイツ。
「ああ、当日が楽しみで仕方ないよ」
「本当にそう?」
「お、俺の目を見てくれ」
何とか錆付いた首を動かし、彼女の目を見た。
「……当日がすごく楽しみだ」
頬の筋肉が痙攣する寸前の笑顔に騙されてくれるだろうか?
浅海はしばらく俺を覗き込むように見た後、急に皮肉な笑みを浮かべた。
「ふっ……あははは、冗談だろう。君はこんな台本が面白いの?」
「へ……あの、浅海?」
先程までの態度とはまるで違う、まったく怒っていない対応だ。
何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
「私が誰だかわからない? それは残念ね……」
顔に手を当てた彼女はそう云うと、さっとその手を離した。
「? えーっと、アデット……う?」
浅海がアデットになった?
いや、違う――クロエ?
「漸く気がついた」
「ま、まあ。そこまでやられれば、とりあえずは」
「うんうん、そういう事。授業は午前だけでね、時間があったから打ち合わせをしようと、ね?」
肩の力が抜けた。
寿命が十年は縮まる冗談をやらかす人形に憤りは無かった。
急に訪れた安心の方がより強く、怒りを忘れてしまっていたからだ。
「それより君はこの台本がお気に入りなのかい?」
「いや、お前もわかっててからかうなよ」
「おやおや、玲菜に云っちゃうぞ?」
「絶対に止めてくれ」
「冗談だよ、洒落のわからない男の子だな。ストレスで禿げるよ」
「煩せえ。そういうお前こそ、何の打ち合わせだ? アデットから一通りのことは聞いてるぞ」
「それなんだけど――玲菜が来ないことには始まらないって云うか……彼女はまだ?」
「浅海? いや、まだだけど?」
「うーん、困ったな」
「それは浅海がいないと出来ないことか?」
「君の衣装だよ。玲菜がデザインした奴だけど、完成したのを店までとりに行ったみたいで」
「自分で作れよ。学園祭だぞ、手作りじゃなくてそうすんだ」
「手作りじゃ金をかける意味が無いだろ。台本が生徒製で、演じるのが生徒なら問題なしだよ」
「適当な解釈だな。趣旨を忘れてんぞ」
「君が云うのは既製品を着合わせて作るだけの衣装だろ? それに価値があるのかい?」
この人形……わりに勉強してやがる。
「まあ、君は心配するな。玲菜がデザインした服は世界に一着しかないような代物だから」
「それのどこが安心なんだ?」
「目立つ。君一人の舞台といってもいいくらいに目立つよ、ルシフェルくん」
「……」
「――ああ。ごめん……玲菜は来れそうに無いな。衣装も破れたみたい」
何処か遠くを見るような格好のクロエは呟くようにそう云った。
「何かあったのか?」
「来る途中に玲菜を見かけて、興味本位で使い魔を放っておいたんだけど」
「だけど?」
「ちょっとした野暮用みたい――ま、要するに喧嘩」
「早く止めに行けよ! 相手が殺される」
「まあまあ、知り合いみたいだから大丈夫だよ。気にするな」
「……」
「それはいいよ。衣装についてはこんなこともあろうかと、代わりを用意しているから」
「よくない提案だな」
「じゃあ、それは明日持ってくるよ。そうだな……今日は小道具を見てくれない?」
「小道具?」
「そう。すぐに持ってくるから待っていて」
「ま、見るだけなら」
クロエはそのまま病室を後にした。
クロエが出てから30分。
ひたすら彼女を待っていると、漸くドアが開いた。
ただ、ドアの向こうにいたのはアデットの姿ではない。
「綾音?」
コレはわかる――綾音は怒ってるからここに来ないのだ。
情報収集が足りないな。
お前が綾音に化けてることくらい俺でもわかる。
「……牧原さんからもう聞いていると思いますけど……この前は御免なさい」
クロエの奴、白々しい……
良介は来ていたが、別に何も云ってないじゃないか。
大方その情報だけを知って、適当に話を作ってるんだ。
とても申し訳なさそうにしている『クロエ』。
綾音がこんな態度をとるわけがない。
彼女は自分が絶対的に悪くない限り、仲直りするためだけに自分が折れることをしないのだ。
「お前さ、こんなことやって何が楽しいんだ?」
「……どういう意味です?」
部屋に入ったときとは違い、彼女の視線が厳しいものに変わった。
流石だ――まるで本物。
「ま、いいけど」
「その態度……私を侮辱するつもり? だとすれば、いい度胸ね」
ここまでくると、目の前の綾音が本物としか思えない。
やはり眼力だけで不良に道を譲らせたとか云う噂は本当なんだろうか?
しかし、本物っぽくても所詮はクロエだ。
「別に。それより、用事があったんだろ?」
急に『クロエ』が黙り込んだ。
どうしたというのか、顔まで赤い。
「……此の頃気づいた瑣末というか、大した事ではないのですけど…………例えば貴方が危険に晒されるとしますね? すると、何か……いいえ、きっと吊り橋効果か何かだと思うのだけど、でも……」
どうしてだか、彼女の様子が変だ。
「お前、どこか壊れてるんじゃないか? 顔色が悪いぞ」
たとえ人形であっても、知っている奴が壊れているのなら心配すべきか。
というか、コイツは病気になるのか?
「……話をしているときに口を挟まないで! いいえ、からかうにしても相手を違えているわ」
「おいおい。からかうも何も、お前を心配してんだぞ」
「えっ……そ、そっ、そう。それは、その……ありがとうございます」
「で、例の物は?」
「レイノブツ?」
さっさと小道具を出せ、という意味なのだが理解できていないのだろうか?
クロエはきょとんと首を傾げるだけだ。
「えーと、何だっけ……(衣装の中で用意できた王様)パンツと、他には……」
「パンツ? ……貴方は一体何を云っているの?」
「何って? お前が持って来るって云ったんだろ。さっさと見せろよ」
「な、なに? 私、そんな事は……貴方、ここで下着を見せろというの!?」
「はぁ? ふざけてるのか。誰がそんなこと云った?」
「ふざけているのは貴方でしょう! 訳のわからないことばかり云って、そんな趣味でもあるの?」
「趣味? おいおい、俺の趣味じゃない。浅海の趣味だろ。アイツならそれこそ喜んでするぞ」
王様パンツ、金ぴか剣、悪趣味な王冠を被った王子さまのスケッチは、見ただけで即死ものだった。
だから、格好いい格好にしても……ソレを着る人間の体格や顔も考慮してくれという。
大体あんなのは貴族の趣味じゃないと思うのだが、彼女がそうだというのだから始末が悪い。
「玲菜なら? ……気に入りませんね、私が劣るというの」
「? お前も乗り気だったじゃないか」
「私が乗り気? あ、あ、あなたは、一体こんな場所で何をするつもりだったの!」
「何って? 予定通りなら、コスプレだろ」
「コスッ――って、ここは私の親族が経営している病院よ」
「はぁ?」
しつこい人形だ。
コイツはいつまで綾音の真似をするつもりなのだろう?
「それで……その、私は浅海に劣るなどとは思っていません。だから……その、これは私の存在証明のための質問なのだけれど、貴方は……どんな衣装が好きなの?」
「ん、太っ腹だな。選ばせてくれるのか?」
やっぱり浅海の衣装は駄目だと気がついてくれたらしい、流石クロエ。
「えっ、だって……好き、なのでしょう? どうしてもと云うのなら、少しくらいなら、着てあげても……ふっ、深い意味は無いのよ。ただ、浅海に出来て、私に出来ない道理が無いということを証明しなければ、私の自尊心が……だから、だからよ。やりたくて云っているわけじゃありませんからね!」
ふざけてる。
気を持たすだけ持たせて、自分の衣装とは……許せん。
「あぁ? お前の衣装のことか。なら、ウサ耳つけたゴスロリメイドじゃなかったか?」
「そっ、そんな破廉恥な格好をしろと云うの!? いくら私が提案したからといって、あまり図に乗らないで!」
何を騒いでいるんだろう?
浅海がデザインした中では一番まともな服なのに、コイツは意外に我侭だな。
コンセプトは『戦うメイドさん』で、バズーカ持って大会に出るんだっけ?
コレもなんだ……クロエは白雪姫なんじゃないのか?
浅海のセンスはとことんアレだ。
「煩いな。ソレくらいで騒ぐなよ。世間じゃ、もっとハズイ格好をする人間もいるんだぞ」
主に俺だけど。
というか、自分で衣装を決める綾音以外、みんな浅海の犠牲者なのだが、特に俺のが酷い。
他は俺がいるだけでうまく隠れるほどに酷い、あれはもう罰ゲームだ。
「そ、そう……? もしかすると……その、私が世間知らずでした?」
「ああ。ソレくらいで騒ぐなんて、俺からすれば『ふざけるな』ってとこ……お前、本当に大丈夫か?」
「え、ええ。貴方こそ大丈夫なの?」
「どういう意味で? 身体のことならすぐにでも退院できそうだけど」
「いえ、そうではなくて……もう一度訊きますけど――貴方は本当にそんな服を着て欲しいの?」
いや……着て欲しいか、と訊かれても困る。
そもそもクロエの衣装がどうとか云う前に、俺の衣装はどうした?
「嫌なら別に今じゃなくてもいいけどさ。本番で着ないとか云ったら、いい加減俺も怒るぞ」
「――」
クロエの顔が茹蛸みたいになった――やばっ、メルトダウンとか無いよな。
「おい、大丈夫か?」
「ほ、ほっ、本番ッ!? なんてふしだらな! わ、私をあまり見くびらないで!」
「はぁ? 何で?」
「――え、だって……貴方は私に、段階も踏まず、いきなりに……ソレが間違っていないと云うの?」
「……なあ、いい加減にしろよ。どうせ最初ちょっと着るだけなんだから、いちいち騒ぐな」
そもそも今まで何人に化けてきてんだ、コイツ。
「本当にさ、我が儘は止めてくれ。一応ルールなんだから」
「え? あの……そういう格好をするのが、決まりなの?」
「当たり前だろ。お前、裸で出るつもりか?」
「い、いえ。そんなことは……えっ? でも、それでは……」
「? もう帰れよ、俺も台詞の準備あるから。今日のお前調子悪いんだよ、養生しろ」
本当にどうしてしまったのだろう?
学園生活とかの忙しさでクロエも壊れてしまったのだろうか?
「……わかりました。今度、二人きりになれる時間があれば……そのときなら」
はー、この期に及んで二人きりかよ。
演劇の本番どうすんだ、この調子で出来るのか?
「お前……それじゃあ、えんげ……」
そのとき、病室の扉が開いた。
「やあやあ、遅れてごめん。道が混んでてさ、タクシーってもう乗らないよ……あ? 綾音、どうしたの?」
高校の制服を着たアデット――ああ、クロエか……いっ!?
目の錯覚じゃない、クロエはあっちで……目の前のは、ホンモノ?
「え、いえ……お見舞いに来ていただけです。貴女こそ、一体何を?」
あっという間に喉が渇く。
呼吸することすら苦しい――彼女がクロエでないとわかった瞬間、頭の中で台詞の矛盾が説明できてしまった。
ヤバイ、ヤバイ……俺はなんてことを云っちまったんだ!!
「云ってなかった? 衣装合わせと小道具、まあ演劇の打ち合わせをしようとね……まずいなら席を外そうか?」
「いいえ、結構よ。私の用件は済みましたから。では、退院するときは一人で帰ってくださいね」
彼女はそのまますっきりした表情で帰っていったのだった。
「公明? おい、大丈夫? 体温の低下が異常だよ」