夜の八時を過ぎたとき、篠崎邸の扉がゆっくり開いた。
すでに明かりがついていた屋敷に入ってきたのは長い金髪に黎明学園の制服を着た少女。
彼女が扉を開けたとき、屋敷の中には竜涎香の心地よい芳香が充満していて、さながら高級サロンのようであった。
「いやぁ、流石にこの時期の生徒会長は本当に多忙を極めますね」
鞄を置いたあと、制服を脱ぎながら彼女が報告する相手は、居間のソファーに腰掛けて包帯を巻いたアーデルハイトとチェスを愉しんでいた公爵その人。
服を脱ぎ終えたクロエは数歩歩いた後、別な灰色の髪の幼女の姿を変えていて、掛けてあったローブを羽織って対戦している二人の間に腰掛けた。
先が肩に掛かる程度の綺麗な灰色の髪は一本一本がとても細く、小学校低学年くらいにしか見えないその体格は華奢でさえあった。
勿論これはクロエ本来の姿ではなかったが、それにとても近い――本来のものとは年齢違いの姿なのだ。
「……七百五十六手先、公爵さまの勝ち」
一瞥しただけの彼女の言葉に対戦していた二人は眉を顰めた。
俗に『ラプラス回路』と呼ばれるものある。
ラプラス回路とは占星術師と呼ばれる魔術師の一派だけが有する特殊な架空神経器官で、『もう一つの頭脳』と揶揄される、主に魔術的な算術計算を行う生体的な計算及び数値計測回路だ。
代を重ねたものになると、現在のスパコンさえ超えるほどの速度と精度の算術計算さえ可能とする。
そして、その回路によって未来を読み、ありとあらゆる事象の計算の果てにこの世の理を知ろうとするのが彼らの魔術であり、それは先天的に選ばれたものだけが可能とする高尚なる技法だ。
それこそ彼らが自分達を選ばれた魔術師と自称する所以である。
全ての魔術を敷く者であるクロエには当然その回路が備わっており、彼女はそれを駆使した応用計算によって外れることのない予言を行ったのだ。
「悪い娘だ。ゲームの邪魔は歓心せんぞ」
ゲームをその場で放棄した公爵は面白くなさそうに紅茶に手を伸ばし、ゆっくりと飲み干した。
当然だろう、何しろ一時間のうちに起こる全てを予想しうるほどに精緻で完成された回路を持つクロエの予言がチェスのゲーム程度で外れるわけはないのだから。
「そう仰られるなら僕の予測を覆されたらいかがです? 例えば、四百手目を間違えれば九百手先まで決着が長引きますよ。ポーンでアーデルハイトのナイトを取ればいいんです」
クロエはそう云いながら手じかにおいていたケースからノートパソコンを取り出し、起動させた。
本来はプロメテウス院が誇る量子コンピューターか、暗算で算術処理を行える彼女にとって軍用品でさえ物足りなかったことはいうまでもない。
しかし、そもそもの技術体系が異なる現在の技術と彼女の技術の互換性が意外に低く、メールのやり取りなどでは自身の会社の製品に頼らざるを得ないという皮肉な現実がある。
「やれやれ……君はわかっておらんようだが、決着の見えている試合ほど興を殺ぐものはないのだ」
「左様ですか。それにしても、公爵さまがチェスで勝利を収められるのは五百年ぶりでしたっけ?」
主人の言葉に適当に答えながら、メールをチェックしてみるが今のところ玲菜からのものは届いていないようだった。
「君らを相手に勝負していれば嫌でもそうなるさ。いや、もう興ざめだ。女史、君も一杯いかがかな?」
自身の目を見ることなく話すクロエに腹を立てるでもない公爵は、ポットから自分のカップに紅茶を注ぐと、アーデルハイトにも勧めてきた。
「確かに興ざめですね。では、一杯お願いします」
「僕はお誘い頂けないのでしょうか? これでも彼女の代わりを忙しく務めているんですけどね」
「ああ、それは云われずともわかっていた。それで、学園生活は愉しんでいるかね?」
二人のカップに紅茶を注ぎながら、公爵は自分が与えた任務の報告を聞く。
「まあまあ、でしょうか。アーデルハイトは性格に問題があるわりに人望があるようです。が、今までにも散々無茶をしてくれていたようで……僕としてはやりやすい側面もあります」
「無茶苦茶、というのは私としては不本意な評価ですけど」
カップに注がれた紅茶をゆっくりと飲み始めたアーデルハイトは頬を軽く膨らませて、子供っぽく怒って見せた。
「君ね、アレを無茶といわずして何というつもり? オカルト研究会なんて僕が廃部にしなければ、どれだけの無駄に繋がったか計算してみて欲しいな、まったく」
パソコンから目を離したクロエは自分のカップを手に取りながら、アーデルハイトの非難が実に不当なものであると身振りを交えたオーバーアクションで示してみせる。
二人の少女が飛び跳ねるようにはしゃぐ様を眺める公爵は実に厭らしい視線を送りっぱなしだったが、彼女達はそれに気がついていようだ。
「勝手に廃部にしないでくださいよ。私も多少は愛着があったのに……クロエさん、酷いです」
「非難されるのは不本意だから弁明しておくけど、代わりに新演劇部を創設しておいたよ」
「あぁ……それは確かに素晴らしいです。さすが私ですね」
「だろう? それで公爵さまもいかがです、今回はマクリール嬢が脚本を考えるシンデレラなんですよ。ご察しの通り、とても普段ご覧になられているレベルのものには及びませんが、多少なりとも興味がおありですか?」
「シンデレラ?」
「ええ……ところで、アーデルハイト?」
急に話を振られたアーデルハイトは紅茶を飲み終えた後のカップをチェス盤に占領されたテーブルの脇に置き、マンガに手を伸ばしながら答えた。
「何ですか?」
包帯だらけではあっても、ホムンクルスとしての要素がいつも以上に強い個体である彼女の傷は表面上全て塞がっており、内部にまで届いた怪我の治癒さえ待てば十分に活動できるのだ。
「マクリール嬢だけど、頭の方は大丈夫なの?」
「? どういうことです?」
予期せぬ言葉にアーデルハイトの視線がマンガからクロエに移る。
ローブを纏っただけで中は全裸という少女は両脚をソファーの肘掛に乗せ、胸元をはだけさせただらしのない格好で寝転がっていた。
しかし、その年齢に見合わぬ気だるい空気を漂わせる彼女にそれを注意しても無駄だろう。
「何つーか、あまり賢そうじゃないなと思ってはいたけど、彼女のセンスは未来的過ぎるよ。うーん、伝奇的な女の子と云えばいいのかな。通常とは何か違うものを持ってるね」
「それは興味深いな。内容はどこが改変されている?」
「まぁ、それについてはまだ送られてはいないんですけど、僕の実感として荒唐無稽な御伽噺になることは請け合いかと。彼女を例えるなら誰でしょうね……クララ?」
口ぶりのわりに対して興味もなさそうに聞いていた公爵はアーデルハイトの身体を嘗め回すように視姦していたのだが、聞き覚えのある名前に思わず飲んでいた紅茶を噴出してしまった。
「ぷっ! ごほっ、ごほ……クララとは、あのクララか?」
「はい。ご想像の通り、クラウディア・ゲルトルート・フレデリカ・シェネー嬢ですけど?」
アーデルハイトも公爵同様に紅茶を飲んでいればマンガに向かって口の中身を吹きかけていたかもしれない、それほどの衝撃をもたらした名前だった。
何しろ彼女は雪のクラウディア、暗い森のクララ……幾多の忌み名で知られるシュリンゲル家の祖その人だったのだから。
「クララ・シェネーとは本当にあのドMのクララなのか?」
「ええ。先程から申し上げていますように、その通りですけど」
「ちょっと……嫌な言葉を使わないでください。ご自分の愛弟子に対して『ドM』とは何事ですか!」
掴みかからんばかりのアーデルハイト、それを軽く片手でいなしながら公爵はさらに続けた。
「何を云うか、彼女ほど強い被虐性癖を持った素晴らしい娘は稀だったぞ。むしろ、誇り給え」
「だから! 始祖さまは今の私と同じ素体なわけで、そのような言い方ではまるで私にもそういった性癖があるみたいに聞こえるじゃないですか!」
暴れる二人を迷惑に思いながらも追い出せないクロエは面倒そうにしながらも二人に割ってはいる。
「つーか、君ら二人の性格って心理学的にいえば同じ感情に端を発してて、自己破壊欲? ホムンクルス作りの過程とはいえ、自分切り刻む君に実にマッチしてると思うけど。違うの?」
「クロエさん、マジでうるさいですよ」
「しかし、あのクララと同等のセンス!? マクリール嬢の病状は思いのほか篤いな」
「ええ。僕もそれがとても心配でして。どうしようか考えているところです」
とりあえず、気分を落ち着かせるためにもう一杯紅茶を飲んだアーデルハイトもその点については他の二人と同意見だった。
「玲菜さん……嫌な予感はしていましたけど、予想を裏切らない方ですね」
「そうそう、君を演じていたときはその予感ばかりが先立って大変だったよ」
「やれやれ。始祖さまのことはさておき、そんな面白そうな現場に立ち会えないのは残念至極です」
アーデルハイトは本当に残念そうにしてみせた。
「いいだろー、羨ましいだろー? 本当に気の毒だねぇ、世紀の瞬間を見逃すなんてさ」
「ふむ。君たちは実にいいコンビのようだな……しかし、女史?」
「はい、何ですか」
「アンジェリカによると、スタニスワフを殺したのはイオレスク君だとか」
今朝から来ていたくせに、アーデルハイトを脱がすことしか考えていなかった公爵はここでようやく真面目な話しを始めた。
何しろ、病弱で薄幸な美少女という設定がいたく気に入ったとかでずっとそのことばかりぼやいていたのだから、アーデルハイトとしても真面目な言葉がようやく出てきたことは自身の気分を取り直させるきっかけになる。
「ええ。私は目撃していませんが確かにそのように報告を受けていますし、私もそう報告する予定ですけど」
「それはおかしいな」
「……何がおかしいのでしょうか?」
「スタニスワフ自身を殺したというのは別におかしくも何ともない。単純な身体能力において中ぐらいの部類に入る彼を殺しうる人間はいくらでもいるからな。しかし、その状況に持っていくことが出来る人間は稀だ」
公明が本人も詳しくは自覚しない方法でスタニスワフに掛かる不死の技法を破ったことは、相手が如何に変態であっても、真祖の一人である魔術師に告げるべきことではないように思えた。
「……」
「わかっているはずだ。アンジェリカすらそれを捉えられない何かがいて、何かをした……どんな裏技を使ったのかね?」
「別に。私はどこかの誰かと手を結んだと公言して憚らない女性と命を賭けて戦っていましたから」
アーデルハイトの思わぬ反撃に公爵の追及は力を失い、一転して守勢に立たされることになる。
「彼女は……ただ君に無駄弾を使わせたいといってきただけだ。別に私の朋友というわけではない」
「どうだか」
「本当だ。クロエの証言でよければこの場で聞かせてやれるが、それでは納得しないのだろう?」
「するわけがないでしょう。貴方も中立派を自称するのならもう少し控えめに行動してください」
冷たい視線を送られてたじろぐ公爵を見かねてか、クロエが横から口を挟む。
「そう湿気た話をするなよ、アーデルハイト。僕も帰ってきたことだし、マクリール嬢の伝奇物語が届くまでブラックジャックでもやって待とうじゃないか。公爵さまもそれで宜しいですよね?」
助け舟にすがりついた公爵はすぐさまトランプに手を伸ばしていた。
「構わんが、カードカウンティングやそれに類する行為は禁止だぞ」
「それは不可抗力ですよ。貴方が設計した以上、見た瞬間に計算してしまいますからねぇ」
「それならトランプはやめにして麻雀に変えましょう。面子は……貴女のご兄妹でも呼べばちょうど足りるでしょう?」
アーデルハイトに振られたクロエはすごく嫌そうな顔でその意見を拒絶する。
「それは嫌。アイツら呼ぶと僕も苦戦せざるを得ないから、その選択肢は無し! 公爵さま、何方か心当たりございませんか?」
「むぅ、そうだな。こちらには知り合いなどおらんし、自動人形無しとなれば……適当な人間は思い当たらんな」
「男性でもありですか?」
アーデルハイトは無理だとは思いつつ、玲菜や綾音を誘うわけにもいかない状況で考えられる人物について思いをめぐらせた。
当然といえば当然ではあるが、問われた公爵の反応は予想通りのものだ。
「ありのわけがなかろう、誰が男などこの空間に立ち入らせるものか。少しは考えて物を云い給え」
「ですが、お知り合いはいないのでしょう? 人を誘うにしても、見ず知らずの方を連れてくるというのは……」
「だよねー? 公爵さまもケチ臭いことは云いっこなしですよ。この際、野郎でもいいじゃないですか」
「そうは云うが、君たちにはあてがあるのかね?」
「そうですね――近所の知り合いで麻雀してくれそうな人といえば……正臣さんくらいですか」
それはまさにありえない人選と云っても差し支えないだろうもの。
公爵はその名前を聞いただけで拒否すると決めたようだった。
「駄目だ駄目だ、話にならん。滞在手続き程度で五時間も待たせるような男と麻雀など打てるものか! 六協会はおろか世界百七十五の機関と協定を結んでいるこの私を、五時間も審査待ちさせた男だぞ、信じられるか? これが錬金術師だったら小一時間は説教を」
「我が師ながら理不尽なまでの我侭貴族ぶりですね。貴方みたいな変質者を気軽に自領に入れる貴族がいるわけがないじゃないですか……しかし、他に腕の立ちそうな人がいませんよ。クロエさんはあてがありませんか?」
「知り合いって云ってもね、凡俗相手じゃ意味ないし、人形も駄目となるとね」
「人形が駄目と云ったのは貴女じゃないですか、責任感じてらっしゃいます?」
「そうだね……あ、そうだ! 公爵さま、前に日本に来たときの事覚えていらっしゃいます?」
「私が、か?」
公爵は少し考えてみた様子だが、そもそもそんな記憶は頭に残っていない。
何年も滞在した土地でもない限り、土地自体は特に印象には残らないようだ。
その代わり、日本人の少女の顔は会った場所もよくわからないのに何人も思い浮かんできた。
「はい。僕の記憶によると、太陽暦換算でちょうど千五十六年前の七月二十七日に右足でこの土地をお踏みしめあそばされた」
「細かいことはいい。要するに、君はそれほど以前の知り合いが生き残っているとでも云う心算なのかね?」
「いえ、そんなまさか。僕もそれくらいは心得ていますよ」
「では、クロエさんが仰りたいのは?」
「何つーか、公爵さまがそのとき鬼から助けた幼いお姫様を孕ませちゃってさ。うん、今でもその血脈が生きてるって風の噂に聞いたから……探してみるのも一興かと」
「何日がかりです、それは! それに、イリヤさんも昔から碌なことをしていませんね。助けた相手を孕ませるなど、どこの似非英雄ですか」
非難されること自体が不本意とでも云わんばかり、公爵はアーデルハイトの視線を払いのけるように手を振った。
「煩い、そもそも私は縋られたときしか応じてはおらんだろうが……で、肝心の記憶が定かではないのが、その少女は美形だったのかね?」
「当時のこの土地の基準ではそれほどでも。ですが、僕の黄金比計算ではA-3相当ですね」
「A-3だと!? ちぃ、なんとも惜しい記憶を! ノーブルベルト級だというのに! いや、その少女の顔ならば記憶の中に思い浮かぶぞ、おお、長い黒髪が艶かしい色白で華奢な少女だ……」
「また意味のわからない怪しげな記号を人につけて……それで、この場にいる全員にこれと云ってあてがないのですから、やはり正臣さんを誘うしかないということで妥協しましょうよ」
この場に呼ぶにはふさわしくない人物であると三人全員が思ってはいたのだが、他にいい相手が思い浮かばなかったため、妥協するしかない状況だといえる。
それを察して、クロエは主人に先んじて賛同することにした。
「ま、僕は賛成ですけど。この上、ここに変人を呼ばれたらかないませんし」
「……面白くないが、断ってしまって君たちと脱衣麻雀が楽しめなくなるのはもっと面白くない。だから、涙を呑んで賛成しよう」
「……誰が脱衣麻雀などと?」
「莫迦なことを聞き返すな、私とその姿の君が麻雀する場合に他の形態がありうると思うのかね?」
「嵌めましたね、イリヤさん!」
「知らんな。それとも何か、私に精液でもねだるか? すぐに元の姿に戻れるとは思うが……そうかそうか、アレは経口摂取する必要があるのだったなぁ。本当にどうするね、お嬢ちゃん? もしも望むのなら、床に跪いてその小さな口で、涙を溜めたままお願いしてみてはどうかね」
勝ち誇ったような視線を送られたアーデルハイトは拳を震わせながら、目の前の相手を睨みつけた。
彼女が幼い姿で過ごさねばならなくなった原因の全てが公爵にあるというのに、彼がまるで反省する様子も見せていないことに対して憤りが高まる。
「くぅ……この変態爺は!」
しかし、口にすること以上の反撃が出来ないのも事実だ。
全力でさえ怪我一つ負わせることが出来なかった相手だ、今の彼女では何も出来ないに等しい。
「ほら、さっさと電話し給え。私の頭の中の妄想を口にして発表し、尚且つクロエの身体でそれを実践してやろうか? 私としてはむしろ望むところだが、君は?」
「止めてください、本当に不快ですから」
「というか、僕も勘弁願えないでしょうか? アンジェリカじゃあるまいし、公爵さまの変態的妄想には一々付き合っていられませんよ」
「なら、どちらでもいいから早く電話し給え。どうせあの男を無視すればゲームは成立する。最早面子など構うものか」
「じゃ、そういうことで僕が電話しますね。つーか、公明の代わりにお父さんに電話しておいたやつだけどさー、あの人も彼の親だけあって疑わない人だよねぇ? 少しは疑った方がいいよ、あの息子は」
公明が入院したという件や学園祭に関しての諸事情などを本人の代わりに、公明の父親に伝えたクロエは思い出したようにアーデルハイトに問いかけた。
適当に口裏合わせをしようと、適当なことしか伝えなかったにも拘らず、ほとんど無条件に息子を信じていた父親に少し不満があるらしい。
というより、簡単すぎて面白くなかったといいたいのだ。
「そう気軽に子供を疑うような親もいないと思いますけど。まあそれはおいておきまして、何方名義で正臣さんに招集を掛けます?」
「君名義で構わんだろう。娘の名など出して、目の前に本人がいては目も当てられん」
「ですよね。アーデルハイトの物真似、いきまーす!」
それから少しして、白川正臣は招聘に応じてやって来ていた。
高級そうなスーツを着た紳士風の風貌は、その場の面子を眺めただけで深い失望に染まった。
「なるほど……要するに貴方たちはその程度の用件で私をここに呼び出した、と仰られるのか?」
自らの不満を隠そうともしない正臣は自分を呼び出した三人を睨んだ。
しかし、その鋭い視線に萎縮する者など、この場にはいない。
「そう難しい顔をするな。どうせ暇だったから来たのだろう?」
麻雀の準備をしていた公爵は、正臣が暇であると決め付けているようだったし、彼がどれだけ多忙であってもまったく興味が無かっただろう。
元々男の事情には興味すらないのだ、それも当然の反応といえた。
「貴方と一緒にされては困りますな、キャッスルゲート卿。先のスタニスワフの件で協力をお願いしたにも拘らず袖にされたお陰で、私がその後処理に苦慮しているというのに……まったく、いい迷惑だ」
結局のところ、正臣としてはスタニスワフを殺すつもりはなく、ただむやみに被害を拡大しないように話し合いを望んでいたのだが、その交渉の席を持つ機会が無かったのだ。
公爵が間に立てばそれも望めたのかもしれないが、彼に断られたためにそれも無理で、正臣自身も公明たちのように日夜足で探していた。
土地に無許可で入ったうえ殺傷事件をいくつも起こすような相手を見逃すことは正臣の自尊心を著しく傷つけるものだったが、殺すことが出来ないスタニスワフ相手に仕方なくそうしていただけに、ここに来て不満が爆発したわけだ。
「スタニスワフとて同胞は同胞、吸血鬼の世界にも絶対遵守すべきルールというものはある。人と同胞の争いに関して、同胞に味方するのは当然だろう」
公爵は現在ですら何人かの例外を除けばほぼ全員が守っているルールを告げる。
自身にはその権利があると思っている三人、自らを含めた吸血鬼の全てを殺そうとしている二人、他を同胞と思っていない一人……三十四人の中でも例外的な六人を除けば、アンジェリカのように特定の相手だけに固執する場合もあるが、他の者はこの点でほぼ意見を同じとしていた。
「で、どうなの? 一緒にやってくれるのかな、君は?」
答えがわかっていながらも、一縷の望みに掛けたクロエが問いかける。
当然、即答で返された。
「やるわけがないでしょう。丁重にお断りさせていただく……ときに、キャッスルゲート卿?」
「ん?」
「ハイゼンベルク卿についてはどうなされるお心算か?」
「どういう心算、とは?」
「貴方は世界中の組織と協定を結んでいる数少ない真祖の一人なので私も受け入れを了承したが、彼女は別だ。白のハイゼンベルクといえば六協会がわざわざ懸賞金を懸けている一桁台の獲物……今のところ貴方の要請で私は何もしていないが、この状況が続くのは当方として好ましくない。至急、しかるべき措置をお願いしたい」
至極真面目な話なのだが、公爵は正臣の話を聞くのも面倒そうだった。
「硬いことを云うな。一年や二年、時間のうちですらあるまい――親が年頃の娘に干渉していては嫌われる元ではないか。君は何の益があって私の家庭に不和を持ち込もうとする?」
「貴方の人生で語られても困る。干渉をようやく排除した上海の老人連中が彼女に対してどれほど神経を尖らせているか、察しがつかぬほど事情に疎いわけでもないでしょう」
「上海? あぁ、あんなものは適当に誤魔化せば済む話だ。兵隊を派遣する余裕もない烏合の衆を気にするなど、君も肝の小さい男だな」
「貴方に少しでも理解して頂こうなど考えた私がバカだったようだ」
正臣の右手が動いた瞬間、何もなかったその手の中に短剣が握られていた。
それが喉元に突きつけられているにも拘らず、公爵はその短剣に眼を奪われていた。
「ほう、霊体武装とは珍しいものを持っている。私も実物はわずかしか知らんが、彼女を除いてその製法は二千年も昔に滅びたと聞いているぞ」
公爵に聞かれた正臣は一瞬首をかしげた。
「霊体武装?」
「なんだ、自身の武器の名も知らんか……しかし、それはまさかヴィグレ・ラロット? 神罰の杖、『キュルヒの七鍵』か?」
公爵が語る名前が何なのか理解できているのはクロエくらいのもので、アーデルハイトも何となくすごいものということしかわからない。
そして、その短剣はそれほどに古いものなのだ。
「? これは西方の仙に由来する家宝。流石に貴方は知っておられたようだが……この土地で無茶をなされるようであれば、私にも考えがあると肝に銘じられよ」
「ふん、なるほど。確かにそれを使えば、私を殺すことさえ出来なくはないな。尤もそれは当たれば、の話だがね。辺境の領主崩れ風情がアマルガストの原本に匹敵する秘宝を持ち出すとは、君を少々過小評価していたようだ」
「キャッスルゲート卿、その評価を改めていただく必要はない。私は所詮辺境の領主崩れなのだから」
「そう怒るな……まあ、次の機会には人形とレプリカではなく、君本人と対面したいものだが」
それを聞いてか、正臣の手元の短剣が消えた。
この場にいる正臣が本物ではないことを一瞥するだけで見抜いていた公爵に正臣自身驚かされたのだ。
「貴方と争うのは最悪の事態に陥ったときと心に決めている。私も無益な争いを望むわけではないし、貴方に勝てるとも思ってはいない……だが、領主である以上は他者の勝手を許す心算はない」
「ま、覚えておこう。アンジェリカにもこの土地では殺生はさせないと誓っておくとしようか」
「その言葉、努々忘れないように……そしてシュリンゲル卿、貴女も娘と夜遊びをした挙句の怪我でありながら、麻雀とはふざけるのも大概にしていただきたい」
「うぅ、違いますよ。それはこの変態に責任がありまして。大体、綾音さんはご自分で勝手に」
「言い訳は結構。それで、貴方たちは一体何の企みでここに集まっておられたのか?」
最初の調子に戻った正臣に睨まれ、一同は『また面倒臭いことになった』と考え始めた。
早く麻雀を始めたくとも、この男を参加させることは本当に可能なのかどうか、それがわからない。
「企みなんて物騒な。僕らはただちょっとしたイベントを待っているところなんだ」
「イベント? 他人の家に勝手に上がりこんだ上、放火でもなされるお心算か?」
「公明さんとは友達だから大丈夫です。それに、私たちが放火するなど発想が物騒ですよ」
「貴女方ならキャンプファイヤー代わりに、平気でやりそうだから危惧したまでですが……企みではない、と? 篠崎邸は古くから重要な――」
とても不名誉な偏見をもたれている事実は軽くアーデルハイトを傷つけたが、それ以上に正臣が途中で言うのを辞めた言葉の方が気になった。
「重要な、何です?」
しかし、聞き返しても彼にはそれ以上語る心算がないようだ。
「いや、ご存じないのなら別にいい。一体どんなイベントがここで発生すると仰るのか?」
「つーか、僕らに関係するイベントじゃないよ。お宅の娘さんが、今度学園祭で演じる演劇の台本が届くってだけの話」
「娘の学園祭、だと……貴方たちは時間を持て余しておられるようで、実に羨ましい限りですな! 本当にくだらない」
「まあまあ、落ち着きなって。あのマクリール家のお嬢さんが書くんだけど、絶対楽しいから一緒に待っていようよ」
マクリールという単語を聞いた瞬間、正臣は急に矛を収めてしまう。
「マクリール……浅海のところの玲菜くんか」
「そうそう。てか、君たち知り合い?」
「彼女の父上は私の無二の親友だ」
日頃の娘達を眺めていて誰も考えなかった展開に、クロエとアーデルハイトは噴出した。
「ぷっ! ……世の中おかしな関係もあるものですね。まるで逆ロミオとジュリエットじゃないですか」
「シュリンゲル卿、浅海は男だ。私にもそういった趣味はない」
「いえ、そういう意味ではないですよ。あのお二人が、何というか……犬猿の仲なのになぁ、と」
「それは完全に娘が悪い。融通が利かない女に育ってしまったことが原因で、私もそれは悔いている――まったくアレでは品のない武家の娘だ、慎みが無い。娘の身であるなら自身の主張など持たず、ただ従順であればよかったのに、どうしてああなったものか……物事は思うように運ばない」
娘によほどの不満でもあるのか、正臣は愚痴るように彼女の欠点を並べ立てる。
それらは実に的確な指摘ではあったが、あまりにも辛口なため正当な評価とはいえないものだった。
「鏡見ましょうよ、正臣さん。父娘でそっくりじゃないですか」
「鏡は毎朝見ているが娘との類似点などない、あの顔は妻の系統だ。それに、貴方たちこそ日々の行いを改めるよう具申する」
「ふむ、君もあまり男尊女卑など云っていては妻や娘に嫌われるのではないかな? 紳士的な態度で接すべきだと思うがね。まぁ……私は何故だか君の娘の幼女時代にはまったく興奮を覚えんが」
何気ない公爵の言葉に正臣は耳を疑い、そして即座に聞き返すのだった。
「ん……今、何を想像しておられた?」
「口に出しても構わんのなら、とりあえずマクリールのお嬢さんと君のところの娘の昔の姿を想像しながら、二人が私に愛を告げて、すぐに舌を入れた熱い接吻をした後、そのまま私を舐めながら下に……」
「イリヤさん……今現在の姿ではまるで反応しないくせに、どうしてそうおかしな妄想ばかり……」
「脳内変換だ。錬金術の奥義を持って若返らせたとして、相手がそれに見合うほどの女でなければ労力の無駄だろう? その無駄を省くために百年を費やして得たこの技能、素晴らしいことに露ほどの誤差も無いのだぞ」
「ていうか、思ったとしても相手の親の前で云いますかね――あ、届いた。はいはい……ご覧ください、公爵さま」
今にも不穏な空気が部屋を満たそうかというとき、クロエのパソコンに届いたメールがそれを押しとどめさせた。
「ふむ、どれどれ…………はぁ、すごいな。確かにクララにさえ比肩する」
詳しい台本ではなく、概略を見ただけで頭が痛くなりそうな物語だった。
公爵はそれを見ただけで、ため息を漏らす。
「では、私も……って! 玲菜さん、大丈夫ですか?」
「お二方、他者の作品を笑うなどその品性を恥じられ、これは……堅物の娘が演じるとは到底……」
公爵以外の二人の反応も似たり寄ったり、とても高評価しているようには見えない。
「やばっ、僕がこれを直すの? どうやっても原本の部分が残りそうにないんだけど」
「無理だ。あきらめたまえ、クロエ。この中の一篇でも残せばシンデレラではなくなるぞ」
「はぁ、そうですよね。でもそうすると、玲菜の奴五月蝿いだろうなぁ」
翌日、ほとんど全体を改変したと告げなくてはならないクロエは憂鬱そうに頭を抱えた。
「しかし、歪な妄想もここまでくればシュールな芸術だとさえ感じますね」
「シュリンゲル卿、それは本気で仰られているのか?」
「いえ…………一応、友達ですから」
『シンデレラ――かぐや姫の陰謀・紅蓮に染まる帝都の夜――』
昔々のことですが、ある強大な帝国が遍く人の世を征服しました。
しかし、この帝国は他の帝国とは明らかに違う点が一つあり、征服戦争の英雄にして史上最強の騎士でもあった男は皇太子だったのです。
若く才気に溢れ、魔術と剣術を極めた超絶美形の皇太子(注・イメージ公明/ただし、皇太子の説明は公明が全てナレーション)。
黒翼の熾天使、極北の猟犬、魔道王、煉獄の支配者、疾風のルシフェル……その二つ名は彼が駆けた戦場の数だけあるとさえ云われる白皙の美青年は父である皇帝の喪が明けたその日、己の皇帝即位を高らかに宣言すると同時に、自らの后となる女性を世界に求めたのです。
皇帝に即位した皇太子の后となるべきは強く美しくなければならない、そう考えた青年は云うのです。
『愛すべき帝国臣民よ、ここに朕の后となるべき世界最強の女を決すため第一回世界武闘会を開催するものとする。腕に覚えのある女は須らくその資格を持つものである。万国の女よ、汝集い、戦え! 戦い抜いたその先で、朕は汝に史上如何なる美女も手にしたことがないほどの富と名誉を与えると約束しよう』
世界の全てを握る男の言葉は世界中の女武術家の心を揺さぶるものでした。
また、世界最強の名誉が彼女たちの闘志を高めたのです。
ただ、青年はもう一言付け加えておきました。
『ただし、如何に強くとも既婚者、二十歳を過ぎた者、十四に満たぬ者の参加は認めぬし、朕の眼鏡に適わぬ者は予選の段階で失格とする。しかし、それらの者についても朕は決して冷遇などせぬ。朕の近衛騎士団の屈強なる騎士たち、朕に仕える貴族たちの中から独身のものを随時紹介し、朕に選ばれなんだ女への慰めとする。以上だが、帝国の母となるべき女は身分に分け隔てなく選ぶので、朕も一人でも多くの参加を切に願うものである』
帝国を駆け巡ったこのニュースから半年、第一回世界武闘会の本戦が帝都で開催されるのであった。
会場に集まった世界の美少女武術家達はまさに一騎当千の兵達なのだった。
北東アジア地区予選を傷一つ負うことなく勝ち上がった旧大和国の王族『かぐや姫(注・イメージ綾音)』。
帝都の予選で優勝候補の筆頭『シラユキ姫(注・イメージアーデルハイト)』を撃破した謎の美少女覆面武術家『シンデレラ(注・イメージ私)』。
強豪犇く北米地区予選を勝ち上がった『ポカホンタス』、あの世からの使者『ラプンツェル』等々。
やがて訪れた決勝戦――かぐや姫とシンデレラの一騎打ち。
戦いの前、旧大和国の復興を切望し、皇帝の暗殺を目論むかぐや姫の陰謀に気がついたシンデレラは皇帝の寝室に忍び込んでそのことを告げる。
侵入の際の彼女のあまりに見事な動きに感動した皇帝はシンデレラにほれ込み、企みの露見を察して他の暗殺者も動員してきたかぐや姫と最後の戦いを始めるのであった。
そして、その戦いで旧大和国の残党は打ち砕かれ、シンデレラと皇帝は遍く世界の支配者として、末永く幸せに暮らしたのです。
注・旧演劇部員は適当に旧大和兵とナレーション、そのほか。
注・人員不足の折は、ボランティア募集。
「……」
台本に目を通し終えた綾音は憂いを帯びた表情で、実に深いため息をついた。
令嬢のそのような仕草は実に絵になっていたのだが、同時にそれは目の前に座っている金髪の少女への不快感を示していた。
新演劇部の8人の部員達が揃ったわりと広い部室の中、綾音と同じ気持ちの部員は多い。
クラスの出し物と平行しているため、ただでさえ忙しい日程だというのに今はすでに6時を回っていて、おまけに空は暗くなり始めていたのだから、彼らの不満に拍車をかけていたことだろう。
「ええと、自己紹介もしないうちから一般公開前日の台本に目を通していただいたわけですが……どうでした?」
恐る恐る口を開いたクロエは6人の非難するような視線に晒される。
「会長……いえ部長、オリジナリティーを出すために多少演出や物語を変えるのは手法としてありだと思いますが、これをシンデレラと云ってしまうのは元部長として、その、抵抗が」
眼鏡をかけた三つ編みの二年生が口火を切った。
「俺も元部長つーか、キムさんとおんなじ意見――会長、予定と話違うくないっすか?」
手を頭に当てたまま、不満を隠そうともしない二年生の男子生徒は台本をテーブルの上に投げ捨てた。
「そうですよ。自分で、二日とも同じだとつまらないから二種類のシナリオで演じようなんて無茶云い出したのに、これじゃあ一般公開日に私たちの用意したシナリオを見に来てくれる生徒がいなくなるじゃないですか!」
「わたしも……やっぱり、これだけ解離しているのは問題あると思いますけど」
元々演劇部員だった二人の一年生もやはり同じように不満顔だ。
「んー、みなさんの視線から察するにそのシナリオを書いたのが私だと思っていらっしゃいませんか?」
クロエはあまりにも不当な非難に我慢できず、この事態を招いた犯人に視線を送った。
「えっ? このシナリオ、部長じゃなかったんですか?」
眼鏡の女生徒をはじめ、元演劇部員は思わず声を上げて驚く。
クロエの視線の先に綾音がいればどうしよう?
そう思ったからこれほど驚いたのだが、その最悪の事態だけは逃れることが出来た。
「うそっ!? 浅海、さん?」
綾音の視線はまさに玲菜を射殺さんばかりだったが、他の生徒たちはまだ信じられない感じで、考えあぐねている様子だった。
「そうよ。そのシナリオ、私が書いたの。まさか約束破る気? 私たち旧オカルト研究会のシナリオを一般公開日前日に演じるって云うのは、最初から約束で決まっていたはずよね。そうでしょ?」
そう云われては旧演劇部は反論の仕様もない、確かにその約束で部費の増額等々の待遇を勝ち取ったのだから、約束を矛にすることは出来ない。
だが、そんな約束など気にもかけない人もいた。
「浅海――私は木村崎さんたちがした約束とは無縁のはず、貴女の滑稽な漫才に付き合う義理はありません。忙しい中でこんな無駄な時間を使わされては不愉快だわ。会長、もう失礼させて頂きます」
立ち上がろうとした綾音を制したのはクロエでなく、玲菜だった。
「ちょっと待ちなさい! 滑稽な漫才のどこが間違ってるのよ? うけるじゃない」
「浅海、一昨日のことは綺麗に忘れると云っておきながら、この配役は私に対するあてつけか何かですか!」
「なに? 不満なの? 悪のボスよ、格好いい役よ。大体、あてつけって? 貴族に二言は無いわ、あとから愚痴云うわけ無いじゃない。気にしてないから素晴らしい役を選んであげたんでしょうが。贅沢ね」
「えっ……これは、あてつけではなく、真剣にいい役を選んだ結果なの?」
「そうよ。大体、みんなして私の努力の結晶をあざ笑う心算なの?」
あまりにもその場の人間に受け入れられなかった玲菜はショックを受けるどころか、彼らの美的センスの無さに愕然としていた。
彼女にしてみれば綾音を含めてその場の人間は全て芸術に対してあまりにも無知なのだ。
それは彼女にしてみれば実に当然のことで、貴族である彼女とそうでない庶民の差というものなのだと勝手に決め付けてさえいた。
「舞踏会ではなく、武術大会に改変して……貴女はまるでストーリーがわかっていないのでしょう? ガラスの靴も、魔法使いも、かぼちゃの馬車も登場しないシンデレラがどうしてシンデレラを名乗れるというの?」
綾音の尤もな指摘に演劇部員達も同意し、さりげなく熱い視線を送っていた沙月はその凛々しい姿に感動さえしていた。
だが、沙月が綾音の手を掴もうとすると、目の前の玲菜を睨んでいるにも拘らずその手はさっとかわされた。
「バカね、バカ、バカ……いいわ、貴方たちが芸術を理解できるまでゆっくり教育してあげる。まず、今回のシナリオにガラスの靴が登場しないとか、そんなくだらないことで文句をつける気なのね?」
立ち上がっていた玲菜は、頭を振りながら各自の後ろをゆっくりを歩いた。
そして、同じように立ち上がっていた綾音の後ろにまで達する。
二人の視線が交錯したとき、まさに火花が散る錯覚さえ覚える。
「ええ。当然です、物語で最も重要な小道具も出さないのでは話にもならないわ……貴女、私を馬鹿にしていらっしゃるの?」
「バカにバカと云って悪い法律はないけど、その無知蒙昧ぶりには同情が必要ね。いい? ガラスの靴なんて履いて、歩けると思う? ましてダンスしたり、走ったりすればすぐに足は血だらけよ」
一本取ったとばかり自信満々に云う玲菜に、一同の口がふさがらない。
「……」
「あらあら、こんな初歩的なこともわからなかったの? そして、ネズミとかぼちゃが馬車になるとか云うのは『無理』よ。魔術でそんなことは出来るわけもないし、出来る奴なんてどこ探したっていないわ」
まるで独裁者の演説のように、身振り手振りを交えて自身の正当性を主張する玲菜にみんなの視線が集まっていく。
彼女が動くたび、新しい部室の中に独特の香水の香りが広がっていった。
花か何かの植物系だが、玲菜の動きに気をとられていたためそれ自体を珍しい香りだと思った人間はいなかった。
「……あの、玲菜さん。貴女は作者に恨みでも?」
「そして、魔法使いなんて都合がいいものが助けてくれるなんて弱者の考えよ。甘ったれた依存心はドブに捨てなさい。この世で幸せになろうと思えば勝ち取らなきゃ、それこそが人生のあるべき姿よ!」
「……童話に弱肉強食の理論を押し付けないでくださいよ!」
「そして、これは貴族として云わせてもらうけど、そんな昔の王子が政略結婚しないなんてありえないわ。そもそも伝統ある貴族社会に恋愛なんてものはないの、己の家のために合理的判断で結婚するの。何百年も前の王族が町人風情と結婚? 笑っちゃう。そんな奴すぐ干されるし、欧州社会でそんなことしたら権威なんて即おじゃんよ。貴族を馬鹿にしないで欲しいわ」
「あのですね、玲菜さん……立場上ある程度までは賛同できますけど、先程から申し上げていますようにファンタジーにリアルを持ち込まないでください! その辺は認めていただかないと、話の前提が成り立ちませんから」
「バカね。云わなくてもわからない? 地上を全て征服するほどの王子なら政略結婚も必要ないし、年ばっかり取った大臣に口出しされることもないでしょう? だから、王子は最強にしてあげたの。それなら好きなだけ恋愛できるじゃない。大体、魔法がある世界で王子が魔法使っちゃ駄目って云うのがおかしいのよ。王子が魔法使いじゃないって記述、どこにも無かったわよ。ま、以上のように精緻な計算の結果がアレなのよ、すごいでしょう?」
「精緻な計算って、ただ単にすごく性格の捻じ曲がった解釈なだけじゃ……もう云う言葉もありません」
「あと、あれだ。そんな強い王子が選ぶなら踊りのうまい奴や綺麗なだけの奴じゃなくて、強くて綺麗な相手じゃない。だから、武術で競うのよ。汝集い、戦え! 敗者の屍踏み越えたその先に、勝者の栄光が待っているっ!」
手を振り回して、まさに自分が戦いに出陣するかのように熱っぽく語る玲菜に一部の聴衆は完全に引き込まれていた。
「……んー、私も浅海さんの話を聞いていたら――確かにあのシナリオにもある程度の合理性があるような気がしてきたかな」
「ちょっと、木村崎さん!」
「うっ、すみません。でも、あの……白川さんも、そんなに目くじら立てなくても……ただのコメディ化したパロディだと思えば、我慢できなくもないですし。死とかそういった表現をなくして、純粋な決闘ということにして、登場人物の心理をうまく描ければそれなりの舞台にはなると思うけど」
台本を眺めたときからは想像も出来ない反応に綾音は信じられないといった表情を浮かべ、周囲を見回し始めた。
「そ、そうっすよ。白川さん、キムさんの云うみたく俺も何だか……やっぱ本物が云うんだし、昔は庶民と結婚って難しかったような気もするし。新釈って事で」
「貴女方、私の味方ではないのですね……(要するに敵ということ。いいえ、それにしてもこの反応は不自然過ぎる。なにか……っ、不覚! この匂いはただの香水じゃない、彼女達マインドコントロールを)」
そのときはすでに遅かった、部屋に蔓延していた独特の香水の匂いは彼らの常識のラインを一時的に引き下げてしまっていたのだ。
「じゃあ、多数決でもしましょうかぁ? 結果は見えてるけどね……(ふふ、私は勝つためなら手段は選ばないのよ。そのへんが伝統と格式ある欧州貴族さまの流儀ってやつ。お分かりかしら、白川さん? 貴女みたいな東洋の酋長崩れとはそもそもの格が違うのよ。この前のことは私も日頃の行いが悪かったとあきらめるけど、今日は余裕で勝たせてもらうわね)」
言外に嫌味を含んだ玲菜の笑みに綾音は場を忘れて怒鳴りだしそうだ。
「このっ、玲菜! 後で覚えていなさい。この私を愚弄して、ただで済むと思わないことですね」
「綾音、そんな台詞は負け犬の遠吠えに過ぎないわ。けど、貴女にはそういうのもお似合いかも……(正しい目的の手段は正当化される、ラスコーリニコフも確かそんなことを云ってるじゃない。卑怯とか、そういう事云ってるから貴女は甘いのよ。戦いでは『戦う前』から全力を尽くす、それこそが真剣勝負というものよ)」
二人を眺めていたクロエはやや投げやり気味にため息をつく。
「……(つーか、玲菜もそこまでこの超設定の演劇に愛着があるのか。僕にはその愛の源泉がわからないな。それに綾音も、どれだけ恥ずかしくても生かす殺すを論じるほどこれを演じるのが嫌?)」
そして、玲菜の策略によって多数決は5対3……玲菜のシナリオで演劇を演じることとなるのであった。