本を持つ少女の半身を隠すように、黒い風が吹き荒れている。
それはまるで竜巻がそこだけに発生していくようにさえ見えた。
音はこの空間に存在しない。
だというのに、不思議なのだ――自分の呼吸する音、心臓の高鳴りだけは耳元でなっているかのように聞こえるのだから。
そんなことを考えているうちに、星さえ黒い風の前ではその輝きを失っていった。
だが、剣が放つ光を頼りに俺の足は迷うことなく相手に向かった。
「莫迦な!? 一体貴様は何だ……ラリーサ・ラリーサ・イム・アデム、イラ・イムフラ!」
爵位を名乗れない身分、それでも三桁の年月を生きるスタニスワフ。
彼の渾身――後先を考えていないと思えるほどの大魔力が術式に全て流れ込んだ。
少女がこちらに向けて振った右腕に纏わりつくような黒い竜巻が、真横に吹き荒れる竜巻が俺に向かって飛来した。
そう、竜巻が真横に向かって投擲されたようにして向かってきたのだった。
すでにその竜巻の発生過程で背後にあった工場や壁、周囲にあった建物の外壁さえ抉り取られたようにして破壊されつくしていたのだ。
仮に、イムフラがこのまま直進すれば軌道上にある建物を、それがマンションであっても数棟は打ち抜いたことだろう。
だが――今宵の風は直進することが出来ない。
「なにっ?」
真っ黒いカーテンを切り裂くようにして魔力で編まれた風を突っ切った俺の姿にスタニスワフは硬直していた。
本来なら周囲に散々な破壊をもたらすはずの風が目の前の人間によってこの世から消失し、それを構成していた魔力が四散していった様子に口が開いたままでさえいる。
「うあああ!」
その隙を逃せばどんな反撃があるかわからない。
最初から、いや途中からだろうか――直感的に悟っていたその瞬間に全てを賭け、ただ剣を振った。
相手の姿を冷静に見た状態では振れなかった剣は、ただその場の勢いのままに少女の肩からその身体を両断しようとしていた。
「!?」
茫然自失状態だったスタニスワフの身体に剣が食い込む直前、意識を取り戻した少女は咄嗟に本を剣の軌道上に構える。
『遅い――その首、貰ったぁ!』
如何に強力な魔力を宿しているとはいえ、本程度で自らの攻撃を受け止めることなど出来ぬと考えたセンナケリブの雷撃はすでに勝利を確信していた。
だが、その本を侮ってはならなかった――その守りにおいて最高を謳われた本なのだから。
「かっ、神吹かす風インブリカ――駆けよ!」
「うっ、そ」
言葉と共にスタニスワフの手元の本が弾けた。
何百という紙がまるで意思を持った生物であるかのように破裂したのだ。
それは空を舞う鳥のように、敵に襲い掛かる蜂のように……俺に襲い掛かってきた。
ページは剣より堅く、ナイフより鋭い。
人の皮膚に触れればそのまま骨まで斬り裂く紙切れ――だが、そんなものはすぐに……
まともに前が見えない状況で剣から伝わる人の身体を斬り裂く感触。
まるでプリンでも抉ったかのような弱い抵抗の後、いきなり空振りしたように身体がつんのめる。
「やった……えっ、痛?」
急に身体の自由がなくなったかのように脱力して、倒れていくのをとめることが出来ない。
同時に凄まじい痛みが体中を伝わっていく。
まるでナイフで体中を切り裂かれたような凄まじい痛みが腹から、肩から、脚まで広がっていったのだ。
「あう……」
今まで目の前を羽ばたいていた紙片が消失すると同時、地面に倒れた俺の目の前にはスタニスワフの脚。
それに……
「ああああ、てめえ、よくも……オレの腕を、よくも!」
スタニスワフの左肩から先がない。
その部分はバターのように溶解された上に切断されていたのだ。
腕が床に転がり、一滴の血さえ流れていなかったが、スタニスワフの眼は凄まじい怒りに燃えていた。
当然ながら転がる俺の身体も無事ではない。
体中にページが突き刺さり、夥しい流血が零れ出ていたのだ。
どうやらページが飛翔するという魔術自体は消失したのだが、ページという実在する物質に加えられた魔術が消失した後も十分に減速されなかったということだろう。
「貴様ぁ、打ち殺してくれる!」
十枚以上の紙が突き刺さった俺の身体を一瞥した吸血鬼はわずかに助走をつけたかと思うと、いきなり俺の腹を蹴りつけてきた。
「ぐっ、ごほっ」
次の一撃で握っていたはずの剣は蹴り飛ばされ、顔面に強烈な一撃。
「オラ、死ね死ねぇ!」
何度蹴られたのか?
すでに身体の感覚は麻痺してしまう直前、意識を保っていることさえ奇蹟みたいな状態。
狂ったように叫び続けるスタニスワフは手加減無しでこちらを蹴飛ばす。
「あぅ……この……めろぉ!」
このままでは蹴り殺されかねないと考えたとき、すでに無我夢中で漸く掴んだスタニスワフの脚を引き寄せてその顔を……
「インブリカよ、蹂躙し尽くせ!」
一度の成功でこちらの特性を理解したのか、スタニスワフの対応は冷静だった。
その手に握られた本が一瞬で数百の紙片に変わったかと思うと、刃の嵐が巻き起こる。
「ぐ、あああっ」
何十という紙片を受けつつも、こちらの魔導書をなぞる。
何十枚もの紙片が燃えるはずの焔が巻き起こったのだが、それは盾の魔導書のページなのだ。
全ての焔は一瞬で消失し、代わりに紙吹雪が俺の身体を血まみれに変えていく。
「ひゃはははは、死ね死ね! 人間の分際で、でしゃばってんじゃねえよ!」
正気を失ったような叫び声を上げ、紙の嵐を操る吸血鬼は俺をさらに蹴り上げた。
「屑、貴様はさっさと死ね!」
「うっ」
顔を蹴られたとき、血が目に入って視界が失われる。
それでも何度も蹴り上げられ、呼吸が一瞬止まった気さえする。
内蔵を傷めたらしく血を吐き出し、口の中も切っている。
音さえ満足には聞こえなくなった。
「あはははっは、終わりだ――過ぎ去りし風バアリア、汝の刃によりて……」
その詠唱さえ途切れていく中、すでに意識があったのかなかったのかさえからない状況の俺には――穏やかな波動が感じられた。
ソレが一箇所に集まっていく感覚――いや、それは感覚だけではなく……見える?
光で描かれた幾千の数と複雑な幾何学模様が空中で回転しているところに、周りの穏やかな波動が引き込まれていって、良くない光に換わっていくのがわかる。
あれが魔術式、人の目では見ることが出来ない魔術師によって描かれた魔術装置。
装置……装置?
魔術式がなければ、魔術は発動しない。
俺が今まで魔術を消してきたのは、魔術式を消してきたから?
だったら、アレさえなければ……
「……えろ……き、えろ……消えろぉ!」
自分の魔力のストックも考えず、目の前の人間を殺すことだけを目的にして編まれていく魔術。
ページによってなされるバアリアの風はそのままならビルさえ両断しただろう。
だが、そんなことを許すわけには……いかない。
ページがこちらに振り下ろされる前、何かが弾けた音だけが聞こえた。
同時に、倒れている俺の顔に当たるのは害のない紙吹雪。
千切れたルギエレ書の紙片。
「ぇ、これは……盾の魔導書が……イフィリル様の、第一貴族の魔術が砕け散った、のか?」
ぼんやりと紙片を眺めていたスタニスワフは無意識に呟いていた。
状況を判断できないでいたのだ。
だが、そんな隙を突くほどの余裕はこちらにはない。
「誰だ? 誰だ、誰がこんな真似を! っ――何時の間に……いや、まさか貴様がこれを?」
何かに気がついたらしい声が紙吹雪の彼方から聞こえた、そんな気がする。
血が流れ過ぎたために冷たくなった手は小刻みに震えた。
だが、ソレを無視するかのように何とか瞼をこすると、倒れている俺からもその光景が見えた。
イムフラによって周辺にあった工場やビルの半分が抉り取られ、月光を遮るものが無くなったその場所に降り注ぐのはルギエレ書の紙片――最高の魔導書の一、その紙片が雪のように降り注ぐ光景はこの世に在り得ぬと思えるほどに幻想的だった。
「サーシャ……」
紙の雪の中に立っていたのは、紅い外套の魔術師サーシャ・イオレスク。
「黄昏の、王冠……お前、止めろ、止めろ! 俺はまだこんなところで今回の生を終えるわけには……」
恐怖に歪んだスタニスワフの顔を見てもサーシャは感情を示さなかった。
「サンタクルス法廷のリスト、その二十番に名を連ねる者スタニスワフ・ポニャトフスキー――執行官ミルチャ・アレクサンドル・イオレスクの名においてその罪、裁かせてもらう」
紅の魔術師は十もの黒い狼を従えており、次の瞬間にはその僕を吸血鬼に向けて嗾けた。
その言葉によって走り出した獣達を止めるものはない。
攻撃を防ぐべき魔術の盾も消失し、妨害する壁もない。
今のスタニスワフに魔力などほとんど残っていない、体力は人間並みなのだからそれに対抗できるわけもなかった。
「止めろ、止め……が、千ぎれ……」
倒れている俺の目の前でサーシャの獣に食い殺されていく少女の姿。
とても見ていられないような光景が展開されると思いきや、その首が食いちぎられた瞬間スタニスワフの身体は一瞬で灰と化した。
「……イオレスク殿! 貴方は何て真似を……」
サーシャの後ろから駆けてきたのは東南アジア系の青年。
彼はそのまま声を荒げてサーシャに掴みかかった。
「あの吸血鬼は封印する、そのはずだったではありませんか! 何故こんな勝手な……貴方の家名を鑑みても厳罰ものですよ!?」
外套の襟を掴んでいた青年の手を払いのけたサーシャはゆっくりと俺に向けて歩いてきた。
「クラリッサか……でも、封印作業などしていては間に合わなかった――さぁ、無事か?」
俺の身体を抱き起こしたサーシャは自分の肩に腕を回させた。
体中を切り刻まれた痛みは凄まじく、触れられただけでまともな返事も出来なかった。
「痛ぅ……大丈夫なわけ……ないだろ、来るなら、もっと早く来いよ……でも、助かった」
「どうやったか教えてもらえるとは思わない。それでも、貴方のお陰で楽に片付いた……感謝する。酷い傷だ、すぐに私が治療、しよう」
無表情なままにサーシャが告げる声、そこに吸血鬼を滅ぼしたという達成感は微塵も感じられない。
そうだ、吸血鬼スタニスワフは滅びてはいないのだ――封印すべきはずのところでサーシャが殺したから、彼を滅ぼせなかった。
それは十分に余裕を持って行動すべきところで俺を助けようとしたからだ。
それ故だろう、サーシャの横に立っていた助手の男はこちらを苦々しげな顔で睨みつけていた。
「スタニスワフは不死身です、そのことをご存知でありながらこんな愚挙を……封印するための準備も十分にしていたんですよ! それなのに、何故彼など助けようと? あのままにしておけば、いい囮だったではありませんか」
こんなことを俺の前で平気で口にする辺り、この助手も相当頭にきていたのだろう。
「ムーサ――事情どうあれ、スタニスワフを一人で戦闘不能に追い込んだのは彼。作戦通りの行動を取ったとして、私達がルギエレ書の力を過小評価していたのは事実。その場合、発生する被害はどれほどだったと思う?」
「我々がスタニスワフを逃した場合の被害に比べればそんなものは無に等しいでしょう! 貴方のアレがどれほど愚かだったか、反省もないのですか?」
「……そのことについては言い訳しない。だが、次の機会には必ず私がこの手で……」
サーシャの顔を見ると次の機会などないのかもしれない。
「ちょ……っと、待ってくれ……サーシャ」
「君! イオレスク殿になんて口の利き方を……命の恩人に対して失礼だと思わないのか」
「ムーサ」
「ですが……そもそもの失敗の原因は彼でしょう」
「構わない。それは、怪我の手当ての後、でも間に合う話?」
今にも意識がなくなりそうだ。
でも、これだけは言っておかなければ……間に合わなくなる。
「待ってくれ……スタニスワフはまだあそこに、いる。早く倒さないと、逃げられる……ぞ」
「? イオレスク殿、彼は出血で意識が朦朧としているのでしょう。何の反応もない空中を指して、今更何を言っているのか……」
「違う……あそこに、いるんだ。魔術で、隠れてるだけで……」
サーシャが近くに落ちていた小石を俺が指し示すポイントに向けて投げた。
投じられた石は確かにそれに触れたはずなのに、まるで何の反応もなく、スタニスワフをすり抜けて地に落ちた。
神代の時代に生まれた不死の技法――今のスタニスワフは『少女の死』という概念で自分という存在を消しているのだ。
つまり、如何なる物理的攻撃も、魔術も今のスタニスワフを傷つけることが出来ない。
存在する世界がまるで違うモノ同士が戦えないのと同じで、概念を殺すような方法でもなければ触ることも出来ずに、そのまま逃走を許すことになるだろう。
「納得できたか? ……他に、魔術の反応もない。もう黙って私の治療を受けてほしい」
違う……あの空間には間違いなく魔術式――信じられないくらいの魔法陣や数字、幾何学模様が組み合わさったそれが存在している。
恐らくそれこそがスタニスワフ自身なのだ。
だから、絶対にそれを暴き出さなければ……さっきと同じように、さっき本を打ち破ったようにしなければ。
「あそこを……見ろ! 頼むから、見てくれ!」
俺の動きに反応したのか、スタニスワフ――その場所に存在している魔術が逃げようと動き始めた。
だめだ、複雑すぎて一瞬でアレを崩すのは……いや、間に合わせなければ駄目なんだ。
「!? イオレスク殿、アレを」
ムーサ・ラジャラトナムが挙げた叫び声にサーシャがその場所に視線を移したとき、俺もその作業を完了していた。
みんなの視線が集まったその場所でパズルのように空間が崩れる。
そのパズルが崩れ去った後、すぐに空間は元のように復元していくが変異も残った。
真っ黒くて巨大な怪物の影だけがその場に現れたのだ。
最後に影が消え去って、百足のような、虎のような、多種多様な生物が結合した怪物が残った。
驚愕したのは俺たちも怪物も同じだったのだろう、凄まじい叫び声をあげたかと思うと、五メートル近い巨体でいきなりこちらに飛び掛ってきた。
「くっ! ムーサ、彼を頼む」
敵の一撃目を避けた直後、サーシャは片手で俺を自分の助手に投げ渡す。
すでに体力は完全に尽きていた俺は、怪物の姿から人間の姿に変わったスタニスワフと向き合った紅い魔術師の戦いを離れた場所から彼の助手と見ることになるのだった。
「ごほっ……ああ」
黒いドレスを纏ったスタニスワフは真っ赤な瞳で目の前に立つサーシャを睨みつけた。
「……よくはわからないが、スタニスワフ、ここで決着をつける。逃がさない」
そう云うサーシャの外套の下からはさらに五頭の狼が現れ、すでに出現していたものとあわせて十五にもなる群れでスタニスワフを取り囲んだ。
「オレを……殺すだと? 勝手に二十番目だと認定しておいて――オレより上には、王侯貴族とロマノフしかいないんだろ! それを舐めるんじゃねえ!」
それは影しか残さないほどの疾走――人間の目には消えたとしか思えないほどの速度。
スタニスワフが駆けたかと思った瞬間、彼を包囲していたサーシャの使い魔があるいは頭を吹っ飛ばされ、あるいは半分に両断されて消失したのだ。
それはまるで舞っているかのように鮮やかでありながら、魔力で強化した視力でも何とか追いつけるほどの動きだった。
一般人では本当に残像しか見えないかもしれない。
「うっ!?」
一直線に自分に到達したスタニスワフの蹴りをガードしたサーシャの身体が浮いた。
そのまま、数メートルも宙を飛んで漸く着地したサーシャに突き出されたスタニスワフの拳とサーシャのカウンターが交錯する。
「ちっ、流石は執行官だ……今ので額を砕けないとは、人間離れし過ぎだぞ」
カウンターを受けて歯を何本か折られたスタニスワフは苦々しげに呟いた。
対して、直前で延びたスタニスワフの爪に頬を僅かに裂かれたサーシャも自分の血を舌なめずりしながら、軽くステップを踏み始めた。
それはすぐにリズムを刻み、速くなっていく。
「我ら一族千年の窮み、それを過小評価しないで貰いたい――」
次の瞬間、スタニスワフにも勝るほどの速度のストレートが彼の顔面を捉え、彼の体を壁まで吹き飛ばした。
衝撃自体のダメージは少なかったのか、唖然とした表情のスタニスワフがすぐに立ち上がった。
だが、殴られたダメージはかすかに残っていたのだろう、足が震えていた。
「――この体に満ちる一億の命が生み出す力と私の経験値……殺し合いで吸血鬼如きに遅れを取ると思ったことはない」
つい先日の惨敗を払拭しようとしてその言葉には力が込められていた。
そう、あれは『三貴族』と呼ばれる者の一人を相手にした戦いであったとはいえ、手も脚も出せなかった敗戦だったのだ。
「……くっ、ひゃはは、面白ぇ……殴り合いなんて何百年ぶりか。貴様程度、鈍った身体で十分だ」
「スタニスワフ、その百年分、そちらにハンデをやろうか?」
「ぬかせ、人間。所詮貴様も永遠を求めるものの一人に変わりはない、それがオレを裁く? 寝言は寝て言え!」
その直後に始まった殴り合いはとても脇から援護できるものではなかった。
すでに使い魔程度の力ではスタニスワフを倒せないと感じていたサーシャは実力だけで彼をねじ伏せるつもりなのだろうか、世界チャンピオンを何人も殺しそうな拳のみで戦ったのだ。
二人の殺気のぶつかり合いでこちらも息苦しくさえなったとき、両者は消えたかと思えるほどの速度で殴り合いを始めるのだった。
当然ながらリーチの長いサーシャが優位に立ってはいるが、スタニスワフの体術がこれほどであったとは意外でさえあった。
サーシャもその点は少し驚いていたようだが、そんな様子は顔に出せるわけもなかった。
互いの拳が相手を捕らえるたびに骨が砕けるような音が何度も通りに響いたが、両者の足は止まらない、まるで死を急ぐ馬のように歩みを止めることなく走り続けた。
しかし、これはボクシングのようにグローブをつけた試合とは違う――殺し合いなのだ、永遠に戦いが続くなどということはありえない。
そう、互いの体力を削るような殴り合いは実質わずか三分で決着を見ていたのだ。
今宵、最速の一撃を放ったスタニスワフの内側に入り込んだサーシャのカウンターが吸血鬼の胸を打ち抜いたのだ。
直前で何かしらの魔術でも使ったのだろう――スタニスワフの身体を貫通するほどの一撃は、相手の心臓を潰したうえ背骨さえ粉砕していた。
「ごほっ、あー、あ……復元もなく、痛みばかりということは……今の拳、不死殺し……?」
崩れ落ちるようにその場に付したスタニスワフは憑き物が落ちたように穏やかな表情で、サーシャを見上げた。
「他者の存在を騙る不死者スタニスワフ――この死合、私の勝ちだ」
「はは……どうやら、夜の加護もこれまでか……どうせ殺されるんだ、白状するよ。貴族の方々とは違うんでね、オレたちレベルじゃ……これまで、もう終わり……尤も、アンタが放って置いてくれれば明日には回復できそうなんだがな……」
「殺すのは変わらない、でも、遺言聞く。断っておけば、叶えられるかどうかは別問題」
「は、なんだそれ……でも、ついてるな、今はオレも願うことがある。罪滅ぼしにオレのアヴェンジャーで、オレが騙っていた相手を生き返らせてくれ。剣は当然、使った後で収めてくれればいい……駄目だというなら、それでもいい」
スタニスワフは自分の胸に空いた穴に手を突っ込んだかと思うと、その中から抜き出した黒い剣をサーシャに差し出した。
「ごふっ、あ、ア……これは、罠の……類ではない……」
サーシャは剣を受け取ると、紅い外套を脱ぎ去った。
「――執行官……死者の忠告、だ……黒い鴆を連れた、ファ、…デ…ロ、リス……」
「……誰? よく聞こえなかった」
「……薬の秘密を、知ってる人間……、ヤズルカヤ公の右、うで…ごほっ……じゃ、バイバイ」
相手がわざと聞こえにくく言ったことに気がついたサーシャは無言のまま、スタニスワフに別れを告げた。
「……」
サーシャの身体に描かれたドラゴンの刺青がわずかに動く。
その瞬間、狼の場合などとはまったく違う強烈な悪寒が真っ青になっていた俺の体を震えさせたのがわかった。
それは目の錯覚――そうに違いないと思えるほどの一瞬だったのだが、これほどの死を感じたことはない。
そして、それが現実のものであると証明するかのようにそれは俺の目の前に現れた。
サーシャの身体からわずかに数秒現れた巨大過ぎるドラゴンの頭部が、スタニスワフを一口で食い殺したのだ。
そのドラゴンこそは『ウラディミルの翼』――そう呼ばれるモノ。
頭部だけで五メートルを下らない、いや全体が現れればさらに巨大になるというそれはまさに幻想世界の怪物だといえたであろう。
「――ムーサ、早く彼の治療を」
ドラゴンを消したサーシャがこちらにやって来ようとしているところで、流石にこちらの意識も途絶えた。
ただ、意識を失う直前にマリアさんの声が聞こえた気がした。