『世に、最強の盾があるのを知っている?』
玲菜の場合よりもさらに大きく見える巨大な狼――五メートル近い獣が歌うように言った。
暴走状態というべきその姿で、なお理性を保つ精神力は彼女の強さの証明といってもいい。
そして、それは同時に戦慄すべき事実――彼女があの姿であっても魔術を行使することを意味するのだ。
しかもその魔術とは全ての中でもなお特別な、マクリール一族だけの家伝魔術『水時計』。
吸血鬼たちにとって、それは致死の攻撃ではない。
如何に強力な魔術であっても打撃中心の攻撃では容易に死ぬことのないのが彼らだ。水時計『クレプシドラ』は使う魔力も尋常ならず、不死である吸血鬼を相手に使うには最強の魔術とは言い難い。
だが、人間を相手に使う場合は事情が異なる。
人にとって、彼女の一撃が致死。その事実は決して揺るがない。
存在の固有時間に干渉する彼女の魔術を持ってすれば、音速さえ超える地上で最も速い暴力の風がこの場を吹き抜ける。
それを防ぐ手立ては盾の魔導書に匹敵するほど堅固な結界を用意するか、目視する事さえ不可能な彼女よりなお早く動くか……その二点のみだろう。
それが出来なければ無残な屍が晒される。
これは彼女、レナのみに当てはまることだといえる。
本来クレプシドラの欠点は行使している最中には別な魔術が使えないこと、さらに素手の攻撃ではあるためある程度強固な結界を張る魔術師ならば防げるということ、術者自身の身体に掛かる負荷が大きいということなどだ。
だが、玲菜とレナには最初の一つ以外は当てはまらない。呪いの代償とはいえ、彼女の身体能力はすでに人の及ぶところではなく、その一撃を加速させれば尋常でない破壊をもたらす。
考えただけでも目眩がしそうな事実にアーデルハイトは汗をかいた。すでに先程の告白で揺らいだ精神の動揺は収まっていたが、現在の圧倒的に不利な状況によって引き起こされた動揺は収まりそうにない。
唇を思わずかみ締める――二三の例外はあれど、人間相手でこれほど性質の悪い魔術師もそうはいない。
世界中にいくつもの名家がある中で彼女達が他全てより一段上、マクリールの一族が自ら筆頭貴族を名乗る理由の一つ、他の連中が束になっても敵わないという驕りとも取れる自信――玲菜の振る舞いには表れないそれを目の前の女性は如実に表していた。
力の差とは別に、それも彼女達二人を分ける点だろうか。
「――舐められたものですね。黙って殺せば、この場の私は楽に退けられたのに」
相手の問いかけを無視して、アーデルハイトは何とか勝機を見出そうとした。
『ふぅん。あまり焦らないのね、いいえ言葉を逸らしたのは焦っているからかしら?』
いつでも殺せる自信ゆえか、レナは低く哂った。
「……最強の盾? それは伝説にいわれるアテネの盾のことでしょう」
『いいえ、違うわ。最強の盾とは世界を隔てる盾――私の魔術結界よ』
どういうつもりか、自身の切り札を自ら語る相手。
この自信過剰が過ぎる行動にアーデルハイトも奇妙なものを感じた。
『さぁて、ここまで差のある今の貴女に、私を傷つけられる武器はいくつある?』
鋼も通さないほどの身体、恐らくは魔術も大半のものが通じない身体。これを殺しえるほどの武器は少ない。
夜の真祖――アーデルハイトは知らないが異世界における序列五位の吸血鬼レナ・マクリール――彼女を滅ぼせるだけの用意はしてきていないのが実情だ……勝てないどころか傷つけることさえ出来るかどうか。
レナが動く前にアーデルハイトは駆けた。
小さな身体はビルの壁を駆け上るかのように走り抜け、途中で手にした階段の手摺りを銀の剣と変えた。
そして、更なる加速を持って、自身の何倍もある狼の巨躯に上空から杭を打ち下ろしたのだ。
体重が軽くなった分、以前ほどの威力は望めない。それを見越して、ビルの壁を蹴って加速をつけた一撃だった。
『遅いわ――速さこそ、全てに勝る力なのよ』
とてつもなく長い腕が上空から襲い掛かったアーデルハイトの身体を打ち落とそうと伸びた。
アーデルハイトの何倍もの速度を持って放たれた鋭い爪の一撃は、純銀の杭など物ともせず一瞬で粉砕して、それでも速度を緩めることなく少女の身体に迫った。
レナの腕がアーデルハイトを貫く寸前、少女の手が怪物の手首を掴み、そのまま身体を反転させて銀色の腕の上に着地する。
「……Gott segen dich――Flammenmeer(……貴女に祝福を――焔よ、海の如く)」
すでに着地する前から狙っていたはずの攻撃、本命であったそれを放つためアーデルハイトの手元から小さな試験管が抛られていた。
『――!!』
獣の顔が歪んだとき、すでにアーデルハイトは右腕の上から飛び去っていくところだった。
試験管の中身が彼女の唱えた魔術によって一瞬で反応する――錬金術によって作り出された、この世にありえぬはずの灼熱がその場で完成を見せる。
大気を振動させるように、レナの咆哮が通りに響き渡った。
そのとき、退避するアーデルハイトは奇妙な違和感を覚えたのだが、そんなことを気にしている時間など無かった。耐火用術式が編み込まれたコートで肌を覆い隠してなお、路地裏に出現した太陽は彼女の肌を焼くようで、油断などすれば彼女も灰になっていたのだから。
何とか着地したその場所はコンクリートがわずかに溶け、思わず滑りそうになる。いや、これに類似した状況を想定していなければ、その靴はあっという間に融け、彼女自身が脚から焼却されていたことだろう。
ただ、基本的には設計した通り対象に熱が集中し、周辺まで漏れた灼熱は一部であった。
直視すれば水晶体が焼け、失明することも覚悟せねばならない灼熱はしかし、一瞬でその光を消失させる。
「えっ?」
思わず漏らしたのは驚嘆。本来なら五分近くは発光し続けるはずのそれが、わずかに数秒で寿命を終えるなどありえない。
『――ふふっ、流石に錬金術師。あまり直接的な戦闘は得意じゃないようね』
発光の終了を確認してから、顔を覆い隠す腕を下ろした。
真っ赤に熱せられた壁や、すでに溶け出している地面、まるで原始の世界のような光景――そんな中に立つ銀色の狼の周辺だけはまるで世界が違うように、先程と同じ姿をとどめていた。
「……」
ありえない――そう口の中で呟く。
どんな吸血鬼であっても、それが生命である以上はあれほどの熱量に晒されれば無事ではすまない。
そう、何かしらの手段で防いでいない限りは。
銀の狼の周りにわずかに光る時計のような文様の魔法陣、宙を舞ういくつものそれはまるで太陽を回る惑星のようにレナを中心にして円を描くように規則正しく回っていた。
『私の魔術結界は最強の盾――これに触れるモノは全て時の最果てまで吹き飛ばすの』
本来なら広域、もっと広い範囲に展開されるべきそれは、時の魔術という最上の魔術式を効率よく展開するためにごく小規模な範囲で限定的に発動されていて、時を刻む幾多の魔法陣に触れたものを残らず、宇宙さえその寿命を終えた時の最果てまで吹き飛ばす。
『世界の最果てにある真理、それに触れてみる?』
時間を隔てる絶対の壁――それがゆっくりと姿を消した瞬間、銀の狼は凄まじい加速を持って迫る。
対処策を喪失したといっていい状況のアーデルハイトに向けて、猛スピードの車のような速度で迫った獣。当たれば、その身体に触れただけでも重傷は免れない。
レナを前にしてアーデルハイトを守る障壁など無いに等しい……それでも彼女はただ殺されるほど往生際がいいわけでもなかった。
――Sine afflatus divino nemo――
目の前に迫る攻撃をわずかに横によけて躱す。
同時に、まるで自分の工房にいるときのように自分を陶酔させ始めた。
ただ、新たに取り出した二本の試験管を握り締め、それが完成するための術式を紡ぎだす。
自身の目の前を通り過ぎた攻撃はそれだけで彼女の服を裂いた。あと数センチずれていれば死んでいてもおかしくない威力のままに、レナの拳が地面に突き刺さる。
――Sapientia late tatum sucedet aliquando――
『小さいと、狙い難いわね……』
その一言と同時に魔眼が光った。
赤い光を燈したレナの視界に入った瞬間、心臓を鷲掴みにされたような圧迫感が襲い掛かり、アーデルハイトの膝が落ちた。
彼女と視線が合っていれば、それだけで死んでいたかもしれないほど強力な魔眼。すでに玲菜のものとは次元違いにまで昇華したそれは、アイルランドの伝説にあるが如く命を奪いつくす。
だが、魔眼で死ぬことは無かった。
強烈な衝撃がアーデルハイトの身体を吹き飛ばしたからだ。
何メートルも宙を舞った末、激しく壁に叩きつけられる。それでも試験管からは手を離していなかったのは流石だっただろう。
だが、壁に皹が入るほどの速度で叩きつけられたため、骨が何本か折れていて、内臓にも突き刺さったかもしれない。
「あっ、う、うぅ……なんて、馬鹿力を……」
何とか身体を起こした視線の先には、大穴が開いていたビルから取り出した机を抱えた獣。片手で軽々と掴んだ机をこちらに投げつけようと狙いを定めていた。
『馬鹿ぁ? 私の一番嫌いな言葉よ、それ』
時速二百キロ近い速度で投げ出された机。速度こそ拳銃には劣るが、その威力は比べるべくも無い。
咄嗟に壁を蹴って、三階の窓からビルの中に逃げ込んだ。
同時に、今までいた場所に机が衝突した大きな音が聞こえた気がする。
――偽りなき真実にして、唯一真正なるものの奇蹟の成就にあたり、下なるものは上なるものが如く、上なるものは下なるものが如く――
壁が吹き飛び、獣の身体が飛び込んでくる。背後から狙われたため、紙一重でよけたはずのアーデルハイトの背中さえ裂けた。
もんどりうって倒れこんだアーデルハイトをよそに、デパートらしきビルの天井にも頭をぶつけそうな獣は悠々と少女の前にやってくる。
『あははっ、どうしたの? 鬼ごっこは始まったばかりよ』
――太陽はその父にして、月はその母、風が其を孕み、大地が乳母となる。其は万象の王であり、その力は最上にして、完全なり――
狼を前にしてなお小さな少女の瞳は閉じられたまま、試験管を握り締めたまま静かに詠唱した。
『馬鹿ね、何をしても無駄よ――Getal luis』
狼の爪が伸び、それが音速を超えて振られた。
アーデルハイトが咄嗟に横に飛ばなければ、その場で死体になっていたかもしれないほどの衝撃が床を打ちつけた。
三階から地下一階までの全階層の床を抜いた、深々と刻まれた五条の爪跡は未だ紅く燃えていた。
『傷つける焔』、古の言葉によりなされる今は滅びた太古の魔術がその正体であった。
ダメージを与える箇所を最小限に留めることで、戦車の装甲さえ容易に引き裂くそれは人間相手に使うような攻撃ではなかった。
――其は全ての英知をもって、大地より天に至り、優れるものと劣れるもの、二つを一繋がりの力と変え、暗きものは全て汝より飛び去らん――
『あははっは、無駄無駄無駄無駄無駄! どんなことをしても無駄なのよ!』
幾条もの炎がビルの内部を覆いつくす。躱すことなど最早不可能な攻撃が階層のありとあらゆる場所を抉り、隠れる場所すら奪い去った。
弾丸さえ弾くはずの障壁をやすやすと突き破り、少女の肩を骨まで抉った炎の爪。痛みをコントロール出来ていなければ途端に集中力など消失していたことだろう。
さらに追撃、衝撃で飛び散ったガラス片を躱すことが出来ずに太腿の肉が引き裂かれた。
思わずその場に膝を着き、真っ赤に染まった脚を抱える。
すでにこの階層は焼け野原……爆撃の跡でもこれよりはましと思える惨状だ。
あと少し暴れれば、このビルは間違いなく倒壊することだろう。三階の床は狼の体重を支えるだけで悲鳴を上げ、直に崩れるとさえ思えた。
絶対の防壁と最強の攻撃――二つを一人で持ちえる存在は破壊の跡で体を小さくしていた少女を漸く見つけると、自らが開けた穴を飛び越えるようにして少女の前にやってきた。
――其は万物の中で最強のものなり。なんとなれば、あらゆる強大なるものをも圧倒し、あらゆる固体を侵蝕せんからである。我らが父なる真理、ヘルメス・トリスメギストスの名において、二つなるものを一つに――
『お祈りは終わったぁ?』
振り上げられた腕は、すでに避けることが出来ないとわかっている相手に対しても一切の哀れみを掛けることなく、神速をもって振り下ろされ……
が、そのときアーデルハイトは微かに笑った。
血を吐きながらも、彼女は笑ったのだ。
レナが何事かと少女が伸ばした右手を見ると、そこには小さなデリンジャーが握られていた。
振られるはずの腕を止め、咄嗟に張り巡らした時の大結界。触れる万物を時の彼方まで弾き飛ばす完全無欠の壁。仮にアーデルハイトの本来の奥の手を使ったとしても、これに弾かれていたことだろう。
だが、今回使ったのは拳銃。ただし、細工のなされたそれは通常の弾丸よりもなお早く打ち出された。
火薬も、銃身も通常のものとは違う……レナの視力をもってしても、それを捉えることは困難だった。
それこそが彼女の賭け――だが、そんなものは結界を前にすれば何の意味も持たない。ただの豆鉄砲に過ぎないはずだ。
しかし、時の結界に触れてもなお弾丸は止まらない。
『なっ……んっ、ぐぅ!』
結界を抜けたそれを弾こうとしたのだがすでに遅過ぎた、弾丸は獣の脇腹を突き刺し、さらにその中で破裂した。
凄まじい激痛に叫び声を揚げた狼は目の前にいた少女を階層の端まで弾き飛ばした。
最早まともに立つこともままならない彼女は、まるでピンポン玉のように壁にぶつかり、先程まで持っていた拳銃を床に転がした。頭からは出血し、右腕もへし折れた。
だが、それでもアーデルハイトは笑う。
荒れ狂う狼を見つめ、どこからその余裕が出てくるというのだろう。
『んっ、ああああああああああああ!! 謀ったわね、この、私を……謀って……』
のた打ち回っていた狼の身体が徐々に人間のそれへと変わる。
レナは裸のまま苦しそうに脇腹を押さえて立ち上がった。
傷を比較すればアーデルハイトの方が遥かに深刻であるはずなのに、その表情はまるで逆だった。
「貴女に薬を提供した人間をお忘れのようですね……弾丸の銘は『Spell Breaker』……終わりです、レナさん――Gebosowulo(灼熱の手向け)!」
渾身の力を持って、わずかに動く左腕から放たれた試験管。術式はすでになった、地上で最も危険なそれが音速を持って飛翔する。
「や、止めなさっ……」
見開かれたレナの瞳は一瞬で恐怖に染まる。
だが、試験管を防ぐはずの結界は作用しない。変化するはずの身体が変化しない。
焦ったときにはすでに遅い……驚愕した表情で固まったとき、試験管が刃のように彼女の胸を抉ったのだった。
「ああああああああ、このっ、クソガキが……なんてことを……」
割れた試験管が傷口から引き抜かれた。
だが、その傷口はすでに蒸気を発していた。
内臓が溶ける。骨が焼ける。脚が、腰が、全てが溶けていく。
生きながら溶鉱炉に落とされたような激痛が、レナの身体を溶かした。
叫び声は獣の咆哮であるかのように階層中に反響し、魔術師の断末魔となった。
それこそは二種類の液体の混合物がなした奇蹟――この世に溶かせぬモノがないという最高の溶解液『アルカエスト』、望めばそれは地球の中心までの穴さえ開けるだろう。
一度混合されたアルカエストが地面に沁み込むのを阻める容器は存在しない――否、それは沁み込むなどという生易しいものではない。
レナの血管を回り、確実に全てを消失させるだろう。
レナの半身を溶かしきったアルカエストは、ビルの床を、地下のコンクリートを、この土地の岩盤を溶かしきってさらに地下に垂れていくのだ。
「ああああ、殺して、殺してやる……私を、こんな目に合わせて……」
上半身、しかも胸から下がなくなったレナが呪詛を込めたような視線を投げかける。だが、本来なら必殺の魔眼が作用しない。
「お、わりです……レナさん。私も満身創痍ですが、今、サルヴェッツァで射抜けば、貴女も……」
立ち上がろうとしたアーデルハイトの脚は笑っていた。動くことを身体が拒否しようとさえしていたのだ。
それでも何とか身体を起こしたとき、半身だけになったレナが突然狂ったように哂った。
「アハハッハ、アハハハッハ――馬鹿ね」
「命乞いなら無駄ですよ。せめて……妹のひ孫でもある貴女だけは安らかに送りましょう」
アーデルハイトの手元に光が灯った。
吸血鬼を殺すための光がレナの顔を照らす。血を吐きながらのたうつ彼女は、まるでこの世のものとは思えない笑みを浮かべながら、アーデルハイトを見つめていた。
「出来るものなら、殺しなさい。出来るものならね……」
「言われずとも――ア……レ?」
レナを殺そうとした瞬間、アーデルハイトの身体が微かに揺れた。
彼女自身、自分の腹から生えた誰かの腕を見るまでは何が起こったのかさえわからなかった。
腹を貫いた腕はそのまま乱暴に振るわれ、アーデルハイトの身体はゴミのように地面を転がった。
「……ゴホッ、ア、アァ……何故、貴女が?」
霞んでいくアーデルハイトの視線の先――もう一人のレナが彼女に対して微笑んでいた。
「あらあら、アルカエストなんて反則を使って、そのうえ魔力で水増しするなんて……岩盤まで抜くと、二次災害が大変よ?」
レナが突き抜けた穴に液体を垂らす、すでに何キロもの岩盤を溶かしきっているはずのアルカエストがその命を終えるには十分な量の中和剤が注がれたのだ。
「双子? ……いいえ、そんなはずは……ホムンクルス?」
地に伏しているレナではない、五体満足のレナが笑顔を浮かべたまま陽気に言った。
「ご名答。よくわかりましたぁ、パチパチ……それに比べてだらしのない『私』ね、貴女。人形に多くを求めすぎるのも考え物かしらね」
レナは自分を見下ろしながら、彼女に冷たい視線を投げかけた。
そして、そのまま目に見えないほどの速度で彼女の頭を蹴飛ばす。
首が転がることがないほどの速度だった――倒れていたレナの頭が消し飛んでいたのだから、もはや尋常のものではなかろう。
「私にはシュリンゲル一門の血も流れている、と最初に言ったでしょう? 貴女には及ばなくても、それに近いレベルのホムンクルスなら創れるのよ」
ロングコートをはためかせ、レナがゆっくりと歩いてくる。
「ゴフッ、ううっ、では……私がビルに入ってから……」
「ええ。平行世界にまで付きまとう我が永遠の悪友、最底辺人形師の綾音を前にして人形なんて使えないでしょう? それに、貴女がどう動くか、アレだけの戦力差があれば予想できなくはないのよ」
倒れているアーデルハイトの目の前まで歩いてきたレナは綺麗な顔のまま、血反吐を吐いている少女を侮蔑するような目で見つめた。
「先入観というのは貴女でもあるのね、アデット。いいえ、情けない判断だったわよ、アデット」
「……くぅ……あっ、うぅ……止めを刺すのなら、どうぞ」
「じゃあ、遠慮無く……バイバイ」
レナの脚がアーデルハイトの頭を蹴り飛ばそうと、軽く後ろに助走を取った。
と、その瞬間にレナの身体が何かに蹴り飛ばされた。
「ばっ――!」
まともに受身も取れずに壁に突っ込んだレナ。
それを霞む視線で見つめたアーデルハイト。
二人の間に立った玲菜。
同時にレナに向けて神速の矢を打ち込んだ綾音。
「っあ、コ、……コ、ノ私ヲ、足蹴にし……たわね……」
壁に氷の矢で打ち付けられたレナは、自身の喉を貫いた矢を掴んだまま蒼白な顔で三人を睨み付けた。
矢を握る手に力が込められ、それが引き抜かれた。
同時に、氷の矢は破壊され、周囲に漏れ出した魔力が更なる氷の刃を形作った。まるでレナの右手から突き出た槍のようにして何十もの氷の刃が発生した。
その脅威に対して、時の結界が広がる――全ての事象は時の最果てに消え去る……いや、結界の内側で起こった事象は全てそれが発生する前の時間まで逆行される。
指を何本か落とし、手のひらに穴を開けた氷の刃が今度は小さくなり、レナの傷も全て塞がっていった。
「――なっ……何よ、あれ?」
呆然とした玲菜がアーデルハイトを抱えたまま、目の前のレナが引き起こした不可解な現象に眼を奪われた。
「綾音ぇ、最底辺人形師の分際でよくもやってくれたわね!」
爛々と光る紅い瞳が復讐の炎にさえ思えた。
「えっと、んんぅ、紛らわしい……何ですって、レナ? 今の言葉、訂正なさい。最底辺呼ばわりは絶対に許さなくてよ」
「何よ? 馬鹿にしたのは私じゃなくて、あっちでしょうが!」
「貴女ではなく、あちら! ……面倒なので以後は貴女が『浅海』、彼女がレナよ」
怒りに燃えていたはずのレナは二人のやり取りを聞いて苦笑した。
「人間の根本というのは、世界を隔てたくらいでは変わらないものね。相対時間にすれば何年も前、私を殺すと言った友達ともそんな会話をしたような気がするわ」
「ちょっと、私! どうして、こんな真似をしたの? ちゃんと説明しなさい!」
綾音の言葉を遮って、玲菜はレナの前に歩み出た。
「あ、危ないわ。浅海、下がりなさい!」
「大丈夫よ、私が私を殺すわけが無いもの――そうでしょう?」
何を根拠にした自信だろうか。玲菜はレナがまるで攻撃しないことを読んでいたようだった。
「……流石に私は騙せないようね」
観念したようにレナが表情を緩めた。
「ええ。私は千回生まれ変わっても、自分が可愛いの。自分を殺すわけが無いでしょう?」
「……浅海。格好つけたつもりかもしれないけど、それを世間ではナルシストというのよ」
綾音の言葉など二人の間には聞こえていないのだろう。レナは首を振って肯定の意を示した。
「私が何をするか、貴女も気になる?」
「そうね、下らないことでない限りは」
「ふふっ、下らなくは無いわ。時間を遡ってまで下らないことをするほど、貴女は馬鹿?」
「――」
「まぁ、そういうことよ。私は殺されるわけにも、貴女たちを殺すわけにもいかないのよ」
「不利なゲームね」
「不利? 冗談はよしてよ、簡単すぎるゲームだわ。苦労したのはそれに気がつくまで……」
「――かもしれないわね……でも、私も貴女を見逃せない。アデットの敵は討たせてもらうわよ」
「あ、ああ……言っちゃ何だけど、彼女はまだ死んでないわよ。でも、流石に私ね。その気持ちはとても素晴らしいことよ」
「失ってはじめてわかる?」
「さぁ。でも、私……絶対の魔術師――永遠の筆頭貴族マクリールの当主に勝てると思う? 他の二流三流が全て魔術を忘れてしまっても、私たちだけは最後まで特別である……そんな家の長にただの人間が勝てる? 断言するわ、私こそは数いるレナ・マクリールの中でも最強のレナであると」
世間には何千年も生きる魔術師がいる。
だが、それらは個体としてそれほどの年月を生きているに過ぎない。彼らの家系が現在まで生き残っているかと問われたなら、答えは否。この世で最も古い一族の中にあるただ一つを除けば……数千年紀に渡って続く系譜は存在しない。
レナが一歩踏み出した。
「!?」
三人が目にしたのは驚愕すべき光景だった。
レナはただ歩いただけなのだが、今まで彼女がいた場所に別な彼女が、その彼女が歩き始めるとまた別の彼女が……次々とレナが現れたのだ。
「言っていなかったけど、この結界を張ったのは私よ。ここは私の領域――」
「――そう。ここは我が絶対不敗の領域なのよ」
次々に現れるレナが言葉を繋いでいく。
「ここに踏み込むことがわかっていたから、平行世界から集めた魔力を全て溜め込んで――」
「――私の領域は三ヶ月もの準備の末に完成していたの。驚いた? これは時の魔術を応用した多重存在よ――」
「――私だけ魔術を使うコストがとんでもなく少ないこの場所で――」
「――古の神の血が流れるこの私、絶対の魔術師であるこの私、人の生を千度は生きた存在をこの場で滅ぼすなんて神様にも無理よ。負けを認めなさい、三人とも」
六人のレナに睨まれ、流石に玲菜も足が動かなくなった。
「……殺すつもり?」
「まさか。世で最も高貴な一族の血を、こんな場所で流せると思う? お情けを掛けて三人とも……足腰立たなくなるまで、叩きのめすだけにしておくわ」
人にとっては悠久に近い時間を旅した存在が、一斉に構えた。
それを前にした三人が死さえ覚悟したとき、突然小さな地震のような揺れが足元を揺るがせた。
「――!? ちっ、もうこんな時間……予定通りには行かないものね」
レナが苦々しげに呟いた途端に、六人の身体が一人に変わる。
先程の揺れの正体が無限回廊『メビウスの輪』の消失を意味すると、三人にもわかった。
無限回廊に溜め込まれていた魔力の全てが結界の消失と共に、空間から消え去っていく。
「……運がいいわね。いいえ、結局殺すつもりでもなかったから、これでいいのかしら? あくまで私の目的は成就したわけだし……ご覧のように、今夜はもうネタが尽きたみたいだから、これくらいで終わりにしてあげる。さようなら」
レナがそう言うと、彼女の体が徐々に透け始めた。
「ちょっと、待ちなさいよ! このまま行く気なの?」
玲菜の呼びかけに、消え行くレナはわずかに笑った。
「ええ。そういう予定なのよ……うまく躱したつもりだったけど、世界の邪魔というのはなかなかに難しいものね。私なんかに構わず、早く行った方がいいんじゃない? 彼、死に掛けているかもしれないわよ」
「まさかあちらにも手を!? 急ぎましょう、浅海」
綾音に手を引かれ、歩き出す玲菜の視線の先でレナが完全に消えた。