アンジェリカから聞いた情報――彼女の言葉が確かならば捜索対象に挙がっていた住宅地こそ、祖の一人であるスタニスワフの根城。
流石に名前などは教えてくれなかったが、捜索範囲がそれだけ限定されれば儲けものだろう。ここまで捜せたのなら、あとは詳しく回るだけではあるがいきなり戦闘に突入するような事態になった場合、住宅地のど真ん中というのは拙い。
火曜までに小夜さんが詳しい捜索をしておき、その後に実際に現地に向かう。アデットたちがうろついて警戒されては駄目だから、細心の注意が必要だろう。
アンジェリカの言葉は信用できるのか、という問題は当然ある。だが、彼女がそれを教えてくれたときの瞳は真実を語る者のソレだった。
嘘が上手なのかもしれない。
それでも、広大な二箇所を探すことに比べればマシだろう。
その結果、日曜の夜は十分な睡眠が取れた。そのはずだったが、運の悪いことに月曜の朝は熱っぽかった。
動けないほど大袈裟なものではない。アデットたちが先週の捜索は冷える夜中が多くて大変だったのだから、今日くらいは休めと勧めなければそれでも行ったかもしれない。
だが、実際のところ寝不足もあったことだし……何かの用事で出かけたアデットや学校に行く綾音と浅海には悪いが、ベッドの中で眠らせてもらうとしよう。
10月23日、晴れ。
酷く忙しい日々に埋没し、記憶の中から忘れ去られてもおかしくなかった文化祭の予算会議――ここではクラスの店やクラブ活動の出し物の予算見積もり精査、提出された店が実際に可能かどうかを最終的に検討する。
クラスごとに詳しく伝達していても、本来不許可となるモノを考え付くクラスはあるものだ。こういう会議はやはりサボるわけには行かない。
金髪の生徒会長に扮した自動人形が堂々と生徒会室に入ってくる。
周りを見渡せば、すでに彼女と二三人のメンバー以外は部屋に集まっていたようだ。
時計を見れば、予定の時刻までまだ五分ある。気だるい秋の陽気に誘われて欠伸をする生徒もいる。中には欠伸を通り越して既に寝てしまっている生徒もいる。
まったく困った季節。
少々早いとは思いながら、今回の議事録を取るためノートを開いた。
万年筆を取り出したが運悪く、インク切れの様子。
だが、議事録の記録を改竄する事を防止するためシャーペンなどは使えない。ただの高校の生徒会で議事録の改竄など気にする教師はどうかと思う。
あまりにも信用されていないのではないか?
あるいは教師ではなく、あの錬金術師が考え出したルールなのだろうか?
なるほど。もしそうだとすれば、実に彼女らしい。
「お姉さま、これをお使いください」
ペンを差し出しながら、背後から声をかけてきたのは一年生の同じ書記の女生徒――ここは共学なのにどうしてこういう輩が紛れ込むことになるのか、と思わずにはいられない。
「ありがとう、如月さん」
仕方が無いので差し出されたペンを手に取った。
「もぉ、よそよそしいじゃないですよ。沙月って呼び捨てにしてください、お姉さま」
その満面の笑顔に背筋が冷たくなる。こういう異端分子とよくよく縁があるのは生まれた星のせいだ、と幼い日に出会った東洋の占星術師が言っていた。
『嫌なら、狼を避けろ』、その言葉を忠実に守るべきだった。『日本に狼はいないわ、馬鹿ね』などと答えた自分があまりにも愚かだった。
「……あ、ありがとう、沙月。でも、私も貴女の姉ではないでしょう?」
「アレ? 年上の女(ひと)をそう呼ぶじゃないですか。だから、お姉さまで間違ってません」
この娘、どうして玲菜の方を狙わないのだろう。あちらの方が好まれそうなものだけど。
「……わかったわ。でも、あまり私に近寄らないでもらえる? 貴女、さっきから顔が近過ぎよ」
「だって、近づかないと議事録の中身が見えないじゃないですか。あっ、香水替えました?」
「……沙月」
「いえ、待ってください。香水じゃなくてリンスの方ですよね、これ?」
その答えは正解だけど、どう反応すればいいのだろう。
「……ええ。それより、そろそろ始まるから、肘を退けてもらえるかしら?」
欠けていたメンバーも揃い、漸く始まってくれる。それに安堵した。
どうにかして欲しくもなる後輩は渋々といった表情で自分の席に帰っていくが、その視線はどこか甘ったるい。
玲菜、クウォーターじゃなければ絶対に彼女の餌食になっているのは貴女だったのに。
『綺麗な黒髪ですね。私、先輩みたいな髪の毛、本当に憧れです』――初対面にしては変なことを言う相手だと気がついて避けるべきだったと遅すぎた後悔をする。
女子校でもあるまいし、どうして私が二月のような屈辱に怯えなければならないのだろう。
あの時は彼女ではなかったが、あの先輩も『皐月』という名前だったか。
彼女も如月沙月……旧暦とはいえ二月。たまたまとはいえ語呂が良過ぎる。
憂鬱なイベントを想像しながら、私は筆を走らせた。
まず、担当の委員が締め切りまでに提出された出店やイベントについて長々と紹介した。
この学園の学園祭は初日が内輪、その後の二日は生徒に配られる知人や家族用の入場券を持った人たちに開放したもの、と大きくは二つに分かれている。
学園祭中に計上された売り上げのうち、原価や諸経費を差し引いた純利益は80%が慈善事業に寄付される。そして、残りの利益を使ってクラスの打ち上げが行われるのが通例だ。
これではほとんど打ち上げ費用など残らないのではないか、赤字になった場合の保障はどうするのか……そういった意見も聞かれる。
それは確かにそうなのだが、赤字になったときは打ち上げが中止されるだけ。クラブなどの場合はそもそも原資が部費なので深刻で、これを気にしてイベントを行わないところもある。
また、打ち上げ費用が残らない、という危惧は必ずしも正しくない。昨年、学園史上最高の売り上げを計上したあるクラスなどは10万円で豪遊したと言う。
裏で画策していた黒幕が何やら反則まがいの手段を用いたのだろう、とは風の噂だが、それもある意味では全体の利益には貢献しているので文句は言わなかった。
今回、紹介する委員の口から聞かれるのは『ホラー・マンション』、『コスプレ喫茶』、『カラオケ』、『焼きそば屋』、『たこ焼き屋』、『お化け屋敷』などだった……と言うか、『ホラー・マンション』と『お化け屋敷』に違いなどあるのだろうか?
それぞれに予定される予算案も出揃った。それらのほぼ全てが精査の必要もないだろう。
全ての意見を聞き終えたメンバー達は『すぐに決定だろう』と、帰り支度でも始めそうな雰囲気だった。
そんな中で、ただ一人意見を出す者がいた。最悪の意見を出す者――クロエという愉快犯。
「残念ですが――それらの予算計画は全て却下です。面白くない企画も破棄しましょう」
いつもの会長ならば絶対にそんなことは言わない。思わず部屋にいた全ての人間が『え?』と漏らすのが聞こえた。
「ちょっと待ってください、今になって全部やり直しなんて」
「そうですよ。これでも二週間近く考えた末にですね……」
抗議する意見が次々に発せられる中、それを黙って聞いていた彼女はそれらが止むまでただ黙って聞いた後、部屋に漸く静寂が戻ったことを確認してから雄弁に語った。
「皆さん、喜んでください――」
今までの苦労を全否定された彼らに何を喜べというつもりか、私もかすかながら反発を覚える言葉で彼女の演説が始まった。
「実は今回の学園祭には何社か大企業のスポンサーがつきました。彼らの善意を受け、我々の学園祭がより良いものになることは喜ばしいことです」
彼女がスポンサーとしてあげるのは、国際的にも知名度の高い国内の企業39社――証券、自動車、石油化学、鉄鋼、運輸、造船……彼女が語らなくても、これらの企業がこんな地方都市の学園祭のスポンサーになるなど誰が信じるだろう?
常識で考え、そんなことはそもそも起こり得ない。ここが大学でもこれほどの面子が揃ってスポンサーになるなど在り得るわけが無い。
少なくとも、彼女の正体を知る私以外は最初、事態を把握するだけで頭が混乱していたようだ。
「実は、私の実家は結構な資産家でしてね……立菱グループってあるじゃないですか。あそこの会長さんとこの前食事したとき、私たちの学園祭の話をしたのですが、数得てみれば私の誕生日に近いということがわかりまして。プレゼントの意味を込めて、豪華なお祭り騒ぎを楽しみたいとお願いしたのです」
先ほど彼女があげたのは企業群を抱える財閥じみた資産家。その名を挙げて彼女は彼の出資の経緯を説明した。
部屋にいた人々も最初はまったく信じられない様子だったが、誰かが『会長ならありえるかも……』と漏らしたのを契機にその信用が徐々に広まっていき、最終的には全ての人間が一応は納得した。
「そういうことなので、もっと豪華に、お祭りじみた学園祭を楽しめるように……学園祭用の衣装も用意してコスプレ学園祭にでもしましょう。予算を十倍かけても構わないので、チャチな出し物は考えないでください。先程あげた企業が色々と技術提供もしてくれるそうですから、ソレを伝えて再検討し、今週末までに最終計画書を提出するように。それに伴って、学園祭の予定日を一週間ずらす措置をして、都合をあわせましょう。なお、学園祭の開催時間については現在教職員と午後十時までの延長を話し合っているところですから、期待していてください」
私さえもが唖然とさせられる内容――本人でもここまで無茶苦茶な事はしなかっただろう。
だが、そんな無茶を部屋にいたほとんどの生徒が半信半疑ながら絶賛した。この会長なら、あるいはやるかもしれない……そんな考えが手伝ってこの日の会議は幕を閉じた。
会議が終わった後、夕闇があっという間にやってくる秋の学園。
その屋上で私はクロエと向き合っていた。
「どういうつもりです?」
金髪の少女は薄く笑いを浮かべ、事故防止用のネットに手をかけた。
その視線の先には下校する生徒達の姿があるようだ。
「――どういうつもり? 僕はただ君たちが楽しめるようにしてあげただけだけど」
「楽しむ、ですって」
「立菱大和、つまりあそこの会長はさぁ……ブランヴィリエ閨閥の自動人形でね。まぁ、僕の子供みたいなものなのさ。だから、予算について気にかけることはないよ」
「私が言いたいのはそういうことではなく『どうしてあんなことをしたのか』ということです!」
「不満かい? 僕としては娯楽を提供したつもりなのだけど、心外だなぁ」
振り向く金髪が秋風に靡いた。ソレを手で押さえながら、彼女は挑発するような視線を送ってくる。
「先日のお礼参りというわけですか」
見れば、髪を押さえる彼女の指には包帯が巻かれている。そう、昨日喪失した指にだけ包帯が巻かれていた。
「ははっ、お礼参りとは失敬な。強制起動刻印が人の目に付くと、何事かと思われるだろう? その防止策だよ。まさか指をなくしたくらいで、僕が激怒するとでも?」
「青機士――サンジェルマン、スペルマスター……そんな悪名高い貴女だからこそ、そう思うのですが」
その言葉を受け、彼女は少し真面目な顔になった。殺気が放たれたわけではなく、ただ真面目な表情になっただけだが、それだけでも受けるプレッシャーに変化が起こる。
「知っているかい? 赤は一対一の決戦で相手を殺すからその血に掛けて『赤』、黒はあまりに大勢を殺し過ぎて流血さえ真っ黒になるから『黒』、白は血を流さずとも相手を殺しうるから『白』、青は相手が蒼白になるから『青』なんだよ」
その言葉は遥か遠い時代に語られたもの――ああ見えて最も危険なのが『黒』であることを証明する言葉。
勘違いしていたわけではないが、赤機士が最強であるというのは『彼らの中で殺し合いが起こったとしたら』という条件の下のことであり、人間相手で一番危険なのは黒機士――他の人間が何と言っているかは知らない、ただ私の知る文献にはそうある。
「……やるというのなら、今度はその本体を貫きます」
「殺るとは言っていない。僕はエンリルのような決戦型でも、プリメラのような殲滅型でもないんだ。正面から君のような相手に挑まれると正直人間相手でも怖い。それに――君はもう僕に手を出せない」
「えっ?」
髪を押さえていた右手を軽く翳した彼女の指の先、微かに光るものが見えた。思わず防御を固めたが、その光るものの正体は『糸』だった。
糸を辿った先には見覚えのある少女の姿があった。
「沙月?」
糸は今まで階段にでも隠れていたらしい彼女の首の後ろに続いていた。気配の消し方が素人のものではない、まるで生き物でもないかのように完璧なものだった。
「動かないで欲しいな。動くと、彼女の脊髄から脳まで全部まとめて吹っ飛ばすよ?」
「くっ……彼女に何をしたの?」
あの糸は魔術で編まれたものではなく、実際に存在するもの。原理はわからないが、ソレで操られた沙月はクロエの横まで亡羊とした瞳で歩いていった。
「ヘルメス分院の科学の結晶といえばいいのかな。人の意識を乗っ取る、なぁんて素晴らしい糸……でも勘違いしないで欲しいな」
「勘違いですって?」
「ああ。僕は別に彼女を人質にどうこうしたいって訳じゃない。君のような生粋の魔術師相手に人質なんて無意味だろう。彼女が死んでも、僕を殺すくらいするのが君のはずだ……でも、僕は君のような人間が近くにいるのは怖い」
「ソレを人質というのでしょう! この下衆が」
「そう、怖いから彼女を盾にする。でも君を脅迫するわけじゃない。善人だろう、僕は?」
「……」
そうだ、確かに彼女を人質にする意味はない。
私はクロエがおかしなことをすれば、何時でも彼女ごとクロエを殺す。
「わかってくれた。自分を殺しうる人間が側にいることは怖い、君にかすり傷を付けられただけでアレだ……直撃なんてすればどうなることやら。しばらく学校にいるわけだし、彼女みたいにいつでも盾になってくれる人間がいた方が僕としては安心できる。いうなれば、彼女のような人間を手元に置くのは君を脅迫するためじゃなく、僕自身の精神の安定を保つための措置……生存本能の表れというヤツだよ」
「――詭弁を弄するのですね、人形の分際で」
「人間は自分が死ぬのが怖いから武器を持つ、僕は武器を持たないが盾を持つ……ほら、良心的な選択だと思うよ。君たち野蛮な人間に比べれば、ねぇ?」
そう言いながら、クロエがこちらに同意を求めたとき、校舎の壁をよじ登って13体もの小さな人形が現れた。
木で作られたことがよくわかる、身体のあちこちが角ばった無様なピノキオ。手に手に銃や剣を持つ無表情な紅い瞳の怪物たちはそのままクロエの周りを固めた。
彼らの身長は六十センチくらいか、人間らしくないがあれこそ多くの錬金術師が作り上げる自動人形の最もポピュラーな姿。
「素晴らしい文化を築き上げる反面、人間にはあまりに野蛮な側面がある。例えばギリシアでは、素晴らしい文化を発展させた代償は奴隷だった……これは僕達に言わせれば合理的じゃない。後になされた合理的解釈ではあるけど、実際にそこまで考えて創ったシステムじゃないからね」
「……」
「君たちは莫迦なんだろうか? 僕はそう自問する。だって、等価交換を最善と考えるなんてどうかしているよ、最小限の犠牲で最大の成果を挙げることこそが僕達人形の考え。十の魔力で千の成果を挙げる、物理法則さえ超越するのが魔術ならばそれが出来なくてなんだって言うのか」
語るクロエを睨みつつ、私は隙を探した。わずかでも隙があれば、あの人形を黙らせることが出来るのに。
「君たちの選択とは、結果だけ見れば全ては無意識のうちになされたものなんだ……無意識ながら発展に正当な対価を求める辺り、否定しているが君たち人間は骨の髄まで魔術師らしい生き物だ。ふふっ、喜ばしいと思わない? 僕は格好いいと思うよ、君たちのそういうところ。合理的に考える僕達よりさらに卑劣な手段を持って、僕達の導き出す答え以上のものを得られる生き物……これを魔術師的生命といわずして何と形容する?」
「……一体何を言いたいの?」
「根源的に魔術師らしい君たちと、そうではない僕の対比さ。考えてみて欲しい、僕の立場にある人間の魔術師なら君をこのまま排除しているだろう……でも、僕はそんな野蛮なことはしない。君に殺される可能性は高いが、それでも僕に分がある事実は揺るがないからね」
「そんな兵隊を連れてきながら、何を今更っ!」
今手元にあるのは護身用のナイフ程度、あの数を相手ではそれでもきつい。その上、クロエまでいては絶対に勝てない。
そう思っていると、特に小さな人形のうちの一体がクロエの肩に飛び乗り口を開けた。口の中から顔を覗かせたのは、醜い蟲。
黒くて、触手がいくつも生え、ねっとりとした粘液に覆われた醜い蟲。見るだけで吐き気を催すような怪物だった。
そんな蟲を手に取ったクロエは自分に逆らうことが出来ない少女の口を開けさせた。
「止めなさい! 止めなければ……」
「おっと、動くなよ。さもなければ、殺すぞぉ? あははっ、本当に動かないでよ、プリメラほどの腕じゃなくてもこの距離なら外さないから」
クロエの言葉に、人形達が銃を向ける。
ただの銃でも十分危険だが、それでもただの魔術師のものなら咄嗟の障壁で弾けるかもしれない。だが、あの人形達の主人はクロエ――何一つ極められない反面、全てに通じるという万能の天才。迂闊な行動は死を招きかねなかった。
「何、保険のために寄生させるだけだよ。黙っていれば、半年で身体に吸収される……むしろ彼女にとっては幸運だ。体調は前より良くなるし、吸収された後の蟲の働きでガンや成人病・更年期障害にも悩まされなくて済むからね……まぁそれは君が余計なことをしなければ、だけど?」
口から少女の体内に入っていく怪物――それを見ているしか出来なかった。
蟲の身体が完全に消えたとき、力が抜けたように少女の体が崩れ落ちた。
「これで、僕に何かあれば彼女は死ぬ。僕が命じればどんなことでもするだろう、もう逆らえないからね。こんな生徒をこの先何人か作る、君が僕達に何もしなければ僕達も何もしない。これは制約だ……決して破らない、命と名誉にかけて誓う。仮に兄妹の勝手があれば、僕は命に代えて君を守ろう」
「一つだけ教えなさい……今、私を殺せばそんな制約も必要がないでしょう? 何故?」
「僕は君を買っている……気に入ったといえばわかる? 僕に易々と傷を与えた相手、男の子以外で初めて愛しいと思える気がする」
「へっ? いえ、それはとても正しくない感情……」
「そう、短く言うと恋なのかもしれない。どうしてなのだろうね、人形が人形殺しを愛するなんて。嗚呼、これから楽しくなりそうだ。本当はどんな風にでも君を奪えるが、僕はそれほど野蛮じゃない。考え付く方法はあるけれど、それらは野暮だから、もっとエレガントな方法を考えるようにするよ」
……どうして、こんな連中が湧いてくるのだろう。
「それと今度から僕を無視すれば、君に化けた後で街中を全裸のまま名前を連呼しながら回るから。覚えて置くように、ね? そういう意味では、僕に脅迫できない人間なんてこの地上に公爵さまだけだから、あはは……結構真面目な話だと、君に化けて、とても人前ではいえない単語や行為を行っている最中の映像をネタに脅したりも出来るんだよ? あ、これはやらないけどさ」
……もう駄目だ、と思わずにはいられない相手に好かれてしまったことがよくわかった。
私の不運――これが呪いなら心から願う……何とかして欲しい。
「ははっ、そう嫌そうな顔をするなよ。これでも僕はある国では伝説的な英雄、偉大な王、残酷な処刑人だったりした者……光栄にこそ思って欲しいのだけど」
幾つもの王朝にて悪逆非道の振る舞いを働いた王妃、意味もなく人を殺め続けた王、あるときは救国の英雄、貧民のために尽力した資本家、絶え間ない賞賛を受ける芸術家……何人もの姿を演じてきた存在が行う脅し。
私が話しているのは常しえの都に君臨した皇帝、あるいは伝説的な聖人、有名な学者……歴史を一人で書き換えることさえ出来る永遠の存在。
その巧みな語り口に逆らう気さえうせかけた。
「今日、それとも明日かな……スタニスワフを殺すんだろう? 僕達は応援しないけど、勝てればいいねぇ」
「貴女などに――くっ、言われずとも勝ちます。必ず」
「へぇ、怖ければ帰って来なよ。僕が助けてあげるからさ、ははっ……だけど、一言だけ愛する君へのアドバイスだ」
「?」
「狼に気をつけるんだね、テランの銀狼が何やら画策しているから」
「何? テランの……銀狼?」
聞き覚えのない単語だった。古い文献にも登場しないような名前。
一体何のことかもよくわからない。
「そこまでは、教えられないな。じゃあ、バイバイ」
自動人形たちと共に屋上から飛び降りたクロエの姿はそのまま夜に消えた。
謎の単語を残したまま。
10月24日、火曜。
その夜、俺たちは息を潜めたまま車で待っていた。
黛千尋、という名前の少女の家の近くで。
浅海は彼女を偶然知っていたらしく、最初小夜さんの調査で条件に合う人間の中に彼女の名前が挙げられたときに酷く反発したが、彼女は違うということを証明するためについてきていた。
手元にあるのは雷鳴剣、さらに魔導書――どんな怪物が出るのかもわからないが、これで流石に行き過ぎではないだろうかと思わないでもなかった。
息を潜め、車の中で少女の登場を待つ――小夜さん、アデット、綾音、浅海、俺の5人。
ポップソングが流れる車内、これから現れるかもしれない相手に意識を集中させた。
千尋という少女だけを呼び出したとしても駄目だ、スタニスワフは人間に化けるという意味では群を抜く。現行犯以外で彼女が吸血鬼であることを証明する方法はない。
やりにくいことこの上ない相手だ。俺は浅海のことを思うと、最悪彼女の父親が犯人であったという終わり方を望んでいた。
「テランの銀狼――何のことだと思います?」
唐突に綾音から漏れた言葉。車内の誰もその単語の意味がわからなかった。
「クロエがこの前教えてくれた名前……恐らくそのようなものです」
「さぁ、聞いたことがありませんね。綾音さんに判るように言った何かの暗号かもしれませんよ」
アデットも聞き覚えのない単語だったらしく、当然他のメンバーにもわからない。
「テランっていうのは、吸血鬼だけど真祖じゃない連中のことじゃなかったっけ? ああ、勿論今増えて困ってるヴァディルだったか屍鬼だったかとは別のヤツのことよ」
「地名かもしれないでしょう……貴女はいつも短絡的過ぎるわね」
「地名でテランといえば、首都ではアフリカに一つありましたね……王を自称する吸血鬼の根城ですが」
王を自称する、いや僭称する吸血鬼は実際に何人かいる。その中でも、ベルラックを除いて最も性質の悪い一人の根城がそんな名前だと語るアデット。
それはヴァーテルベルクの悪魔――本物の悪魔でもないのに悪魔と呼ばれて然るべき男。
彼の国の人口三千万人を全て人質にし、現在最も多くの屍鬼を輩出している悪の中の悪。ファンタジー小説にもでてきそうな典型的な魔王。
アフリカ血清学会、ナンダ国立エイズ研究所、西アフリカ血液バンク……そういった機関を隠れ蓑にし、国民の健康を促進する目的を掲げ、国民のほぼ全てから提供させた血液サンプルを用いてその全てをいつでも呪い殺すことが出来る最高の呪術師シュニッツェラー卿。
そう。一般人に限ったことではあるが、彼は血の一滴でもあれば人を殺すことが出来る。
また、殺す以外に人の心を思うがままに支配する。
魔術に通じた者の中にさえ、彼の呪いにかかって人でない姿に変えられた人がいる。
何百人という札付きの不良魔術師を同志として自領に招きいれ、国民からの搾取で彼らを養うことを何十年も行ってきた討伐不能な祖の一人。現在、最も討伐が望まれる男。
過去十三度の戦役において、それでも彼を討伐できなかったのは彼があまりにも人間的な吸血鬼であるからだそうだ。大規模な軍隊を作り、多くの兵士を配下に置く、そういった手段に最もよく通じた政治家としての側面が強い。
王を自称する吸血鬼、ソレを支持する吸血鬼……その関係はそれだけで既に派閥であるが、彼の場合はソレを人間にまで広げ、兵力ならば最大のものにも匹敵する。故に王を自称しても当然、反論さえ許さない。
人が行いうる罪の中でやっていないことは何一つ無いとまで公言する序列六位の強大な真祖。そんな配下にあるいはクロエが語ったテランがいるのかもしれない。
「でも、アデット。そんな遠くからこんな国までソイツは何しに来たんだ? スタニスワフと友達とか?」
「いいえ、派閥が全然違います。そう、そこが私の意見の穴ですね……実際にそんなことをする意味が見出せません。まぁ、端から関係がないのならソレこそ勘違いですけど」
「見当違いの線が濃いですね、アフリカからここまで来る根拠が薄過ぎますから。やはり、クロエの妄言だったのかしら……っ、どうやらこちらの予想は当たっていたみたいね」
家の中から出てきた少女が話しに聞いた千尋なのだろう。浅海の視線が一瞬細まった。
「――嫌な夜になりそうね」
「近くを捜索したことはありませんが、相手も警戒しているでしょう……気配は絶ってください。でも、あまりうまく隠し過ぎないように。逆に怪しまれますから」
「……難し過ぎるぞ、その注文。大体どうやって気配を隠すんだよ?」
「公明さんは……まあいつも通りでいいでしょう。特に何もしないでください」
アデットは短く答えた。
俺はもしかして馬鹿にされてるのか? 何もするな、といわれては何も出来ないじゃないか。
そんな間に千尋は通りを進んでいった。既に背中くらいしか見えない。
「では、そろそろ追いかけましょう。まずは私が適当に追跡しますから、途中で綾音さん、距離をとって玲菜さんが……いえ、顔が割れていては拙いですから公明さんが。距離を置いて玲菜さんが公明さんを追うという形でお願いします、連絡には携帯をバイブで」
素人臭い俺がアデットか綾音と組んで、わざと相手に気づかせた上で相棒に追跡を任せる……という作戦の方がいいと思ったのだが、気付かれた時点で相手が行動しない場合もあることから今回のようになったらしい。
アデットが今の見た目だと相当目立つのではないかと危惧したが、それでもこれだけ人通りがなくなる時間ならば姿さえ見られなければ同じかもしれない。
追跡はうまく続いていった。
今はアデットが途中で綾音に変わり、そして、彼女からメールを受けた俺が途中で追跡を交代していた。
もう歩いている人間なんてほとんどいない時間、深夜の十二時を少し回ったところだ。
勿論のことだが、『ほとんどいない』のは『少ないが、確かにいる』ということ――自転車に乗ってすれ違う大学生風の青年や帰宅が遅れたらしい酔っ払い……そんな連中とすれ違いながら歩き続ける千尋。
獲物を物色しているのか、きょろきょろと辺りに視線を走らせながら歩いている。
十分に距離はとっているが、俺の下手な追跡に気付いたのだろうか?
急に立ち止まった千尋の視線の先、俺も魔力を集中させた目を凝らす――すると、コンパか何かの帰りらしい大学生くらいの青年が気持ち悪そうに胸を抑え、やがて路地裏に駆け込んだところを見つけたのだ。
飲み過ぎで吐いたのかもしれないが、ソレを見つけたらしい千尋の歩みは心なしか速くなっていた。
すぐにアデットたちにこの場所を伝えるメールを送り、俺も気付かれない程度で急いだ。恐らく意識が獲物に向かっているだろう彼女に気付かれることはなかったのかもしれないが、それでも細心の注意を払うことは忘れなかった。
アデットたちが追いつくまでどれくらいか、ソレを待つ間に襲われたかもしれない彼は大丈夫だろうか……そんなことをつい考えてしまった。そして、考え出せば心配は止まらなくなる。
一体何を悠長なことを言っているんだ、俺は。彼女が相手を襲っていればアデットたちの到着が間に合うわけがないじゃないか。
そう思えば、アデット達の到着を待たずに路地裏を覗かずにはいられなかった……
はぁ、はぁ、はぁ……息遣いの荒い犬のような声が漏れた。
真っ暗い路地裏だが、辛うじて点滅を繰り返していた非常灯が青年の肩に牙を突きたてようとしていた少女の姿を映し出していた。
既に泥酔状態だった青年の呻き声はきっと酒臭かったのだろう、思わず顔を逸らした千尋とのぞき見た俺の視線が交錯する。
「――」
驚愕した表情の千尋。その双眸は赤い光を放ち、生が既に人間のものではないことがわかった。
「――っ、止め……止めろ、スタニスワフ!」
恐怖あるいは経験値が少ないからか、俺の声は蚊の鳴くようなものだった。
伝わったかどうかもよくわからない、そんな弱気な声に千尋の姿を借りた吸血鬼スタニスワフは哂う。
「――くくっ、久々にブルッたぜ……おい焦らせるなよ、餓鬼が」
少女らしからぬ低い声でそう言ったスタニスワフは掴んでいた青年の肩から手を離し、こちらに向き直った。
この場所は路地を少々入っている、少しくらいなら暴れても問題ないだろう。
片手に取り出したのは魔導書――あの剣は目立ち過ぎるから車の中に置いていた。運がよければアデットたちが持ってきてくれることだろう。
値踏みするように俺を見つめたスタニスワフが少し表情をこわばらせた。
「魔導書――小僧、魔術師か?」
「その見習いだ……その人から離れろ、さもなければ……」
「さもなければ、お前が死ぬだけだろう?」
手を翳したスタニスワフの手にも魔導書――アデットたちが言うには、スタニスワフたち下等な真祖は魔術が使えないハンデを補うためにこういうものを持つのだと言っていた。
「サンタクルスの狩人でもないな、小僧? 土着の三流魔術師風情が正義感に酔った挙句、オレにたった一人で挑むとは……あまり舐めるな。理の風よ、混沌を引き裂く神風よ、我が前に立ち込める全ての闇を晴らせ!」
あまりに自然に動く相手に対して、こちらはまともに動けなかった。指は震えていたし、そもそも俺にあの少女を攻撃できるのかどうかこの場にあっても踏ん切りがついていなかったのだ。
あまりに情けないことに、先制攻撃はあっという間になされていた。
逃げ場のない路地、本来ならその突風は俺の上半身をそのまま吹き飛ばすはずの攻撃――ソレが俺の身体に触れる前に霧散した。
衝撃だけで両脇のビルの壁が巨大な爪で抉り取られたように砕け散ったほどの魔術さえ、この体の前にはそよ風でしかなかった。
ビルの壁から降り注いだコンクリート片から顔を保護し、埃が立ちこめた路地の中で俺が睨みつけた相手はその光景に狼狽していた。
「なっ、防御魔術か? いや護符、タリスマンの一種?」
「――このっ、ヤロウ!」
相手が完全にこちらを殺す気だとわかったことが原因か、あるいは先ほどの攻撃で恐怖という感情が麻痺したのか、今まで硬直していた身体が漸く動いた。
本来先制するはずだったこちらの魔術、本を指でなぞるだけのそれは一時的に混乱した相手の追加攻撃よりは先んじた。
呪文を詠唱しかけたスタニスワフの眼前に強烈な熱が集まる。
だが、こちらの攻撃も彼を捉えるには及ばない。
凄まじい光がスタニスワフの周囲で輝く――障壁だ。それもレベル違いに強力な障壁。
顔を手で隠したスタニスワフの脇で轟音が響き渡った。本来その身体を捉えるべき俺の攻撃が完全に目標を逸らされてビルの壁に車が衝突したような穴を開けていたのだ。
「――ほう、舐めていたのはオレも同じか。残念だったな、オレの盾を抜くには三流の魔術じゃ足りないぜ……」
「なら、一流の魔術で殺してあげましょうか」
スタニスワフがこちらに語りかけてきたとき、路地裏に別の声が響いた。
それは俺の後ろからのものだ。スタニスワフの視線もそちらを捉えていた。
「……貴様は、浅海玲菜か……」
「ええ、千尋……どうして?」
俺の横まで歩いてきた浅海の表情は暗い。その瞳には相手を射殺すほどの何かが宿っていた。
「千尋じゃない、オレだ。スタニスワフ・ポニャトフスキー……真祖が一、死ぬことのない吸血鬼様だ」
「黙れ、屑。どうして千尋を殺したのか、と聞いているのよ」
その迫力に圧倒されたのか、スタニスワフがわずかに後退した。
しかも、その怖がり方は尋常ではない。
「あ、あ、あああ、嘘だ……その瞳……見覚えが。あ、ああ……彼の国で死を謳った、あの……止めろ、その目は止めろ! 何故、貴様がこんな場所にいる?」
「?」
その怖がり方に殺気を込めて睨みつけていた浅海さえ呆気に取られていた。
「ああ、バ……邪神の分際でオレを……化け物、誰がお前などに殺されるものか! 我血の盟約において命ず、夜の兄弟達――」
恐怖に駆られたスタニスワフが叫ぶように唱える。攻撃することさえ忘れていたおれたちの後ろから、漸く駆けつけたアデットたちの姿が現れた。
「――銀月の円卓に集え!」
ソレと同時に通りに出現する幾多の魔法陣。光り輝くソレの中にどこからともなく現れる人々の影、一度に使える駒の全てを集めたらしいスタニスワフの僕たちだった。
俺たちとスタニスワフを隔てるように十人あまりの人間が通りを覆いつくす。
「公明さん、剣を!」
アデットが投げて渡したサーベルを掴み、鞘から抜いた――精神を集中し、雷撃の声に心を傾ける。
昨日ずっとこればかりを練習していて、漸くコツがつかめてきた剣とのコミュニケーション回線を開く。
正式な契約はなっていないが、それでも剣の声が聞こえるだけ戦闘が有利に運ぶのだとか。
「――殺れッ! 残さず打ち殺せ! テランの……銀狼を殺せ!」
まるで時代劇の悪代官のように俺たちを指差しながら叫ぶ少女、その顔は恐怖に歪んでいた。そして、ソレを証明するかのように彼女の足は既にこの場から離脱しようとさえしていた。
「拙い、今逃げられたらもう一度見つけるのが困難になります」
アデットはそう叫ぶと、小さな身体であるにも関わらず先陣を切って駆け出していた。
「Alles fließt panta rhei. Der Glanz der Sonne scheine den Tote. Ihr haben eubeb sanften Tod(全ては流転せよ、遍く光は汝らを照らし、安らかなる旅へと誘わん)……Meer von Licht(光、流水の如く駆け巡らん)」
一瞬でなされた詠唱と共に暗い路地が光に満たされた。死者を安息の地へと運ぶ光の波が優しく空間を撫でたような気がする、それに触れた瞬間死者をこの世に留め置いた法則が断ち切られて、彼らの体が一瞬で灰になっていく。
魔術での攻撃だ、魔術で対処できる魔術師出身の屍鬼でも紛れていない限りそれから逃れることは出来なかっただろう。
何より、狭い路地を覆い流すような光の波から逃れるなど、不可能に思えた。
「即席の太陽光です……伝承を擬えただけあって効果抜群ですね。さ、スタニスワフを追いかけますよ」
颯爽と掛けていく幼女にわずかに遅れて俺たちも駆け出す。怪物たちの灰を蹴散らしながら、ただ路地を走った。
この路地はどこまで続いているのか、そう思えるほどに長く曲がりくねった道を駆けていく。
だが、そのうち……とんでもない事態に気がつく、俺の周りを走っていたはずの彼女達が誰一人残っていなかったのだ。
「――なっ、アデット? 綾音? 浅海?」
叫んでみても返ってくる返事はない。だが、俺は逃げるスタニスワフを追いかけて、何処かの廃工場前までやって来ていたのだ……目的地を間違えているはずがない、彼女達が俺より方向感覚に劣ることもないだろう、ならば彼女達は先に入ったのか?
『……がう……』
「がう? ……あっ、お前か?」
どこからか聞こえた微かな声を拾うため、走ったせいで乱れた呼吸を整え、再び意識を集中させた。
『……違う、女達は先に着いたのではなく「メビウスの環」を廻っている……むしろ先着は貴様であろうな』
「メビウスの環? 紙で作ったりするアレか?」
自分が握った剣に問いかける俺。傍から見ればヤバイ人だが、センナケリブの雷撃の言葉は気になった。
『人語しか解さぬ無知なる主よ、私は今宵だけでも十分な不快感に耐えてきたのだ……今更言葉に耳を傾けられても、教えるつもりなどない』
「寝惚けた事言うと、捨ててくぞ?」
『……私の価値もわからぬ無礼者が、二度と捨てるなどと口にするな……不服ではあっても答えてはくれる。先ほどの長い路地に刻印がなされていたのだ』
「刻印? そんなのあったか?」
『巧妙に細工されていた分気がつきにくかっただろう、しかも相手を追いかけていたのではな……気付かなかったことを落ち度といってはやはり酷であろうよ。されど、ソレこそが女達をあの場に釘付けにしている結界の基』
「壊せるか?」
『壊すのは私の役目ではあるまい。よいのか、吸血鬼が逃げては困るのであろう? 私の助けあれば、あの程度ものの数ではない。動ける者が追わずして何と言い訳するつもりか?』
「……なんだ、お前って結構好戦的なヤツだったんだな」
『貴様が暢気なだけであろうに……追うぞ』
「……わかった、アデットたちがすぐに来てくれることを祈ろう……よし、行くぞ」
『ふんっ、他者を頼るなど未熟な魔術師もいたもの……敵は未だあの場から逃れてはおらん、貴様の運に今宵ばかりは便乗させてもらうぞ』
「――気がついた?」
走りながら、玲菜が聞いた。
「何時からでしょう?」
アーデルハイトも景色が同じことに漸く気がついた。
「ちっ、こんな魔術にも通じていたんですか、あの男は!」
舌打ちしながら綾音が毒づいた。
無限に続く路地裏回廊――基点になる刻印を破壊せぬ限り終わりに至れぬ無限、ソレを今彼女たちは走っているのだ。
気付かないように細工されていたのだろう、その場に迷い込んだことさえ気付かせずに彼女達は廻らされていた。
「基点の位置は? 前、それとも後ろの方が近い?」
基点は大まかに四箇所程度、路地であることを考えれば破壊しやすいのは二箇所と思っていいだろう。
前にある基点か、あるいは後ろにある基点か……取り敢えず直進しながら、玲菜が二人に聞いた。
既に公明の姿はない、こんなときばかりはあの体質も気の毒にさえなる。
「前の方が手っ取り早いでしょう、この場合……」
そうアーデルハイトが言いかけたとき、風に乗った笑い声が響いた。
「――!?」
思わず三人が足を止めた先、空間がゆがんだかと思った瞬間にこの世界にいてはならない女が姿を現す。
銀の髪が靡き、その紅い瞳が三人を一瞥した。
「ふふっ、こんばんは、みなさん」
微笑を浮かべる二十代くらいの女性は優美に会釈する。警戒する三人の視線など物ともしない、そんな優雅な振る舞いだった。
「誰、貴女?」
玲菜の問いかけに女性は笑う。
「私が誰か――ソレを貴女の口から聞けるとは実に光栄ですわ、レナ・マクリールさま」
「!? 私を知っているの?」
「ええ……私は一部の人間の間で『テランの銀狼』、別な人間の間では『死を運ぶ者』と呼ばれている存在です。貴女方におかれては、マリアと名乗った方がわかりやすいでしょうか?」
「――私? 貴女、私なの?」
「まさか、私と貴女は別人よ。仮に貴女が死んでも私は死にませんもの、この場合二人を同一人物とは言わないでしょう? ふふっ、それに、私に至るには貴女は少々弱過ぎてよ」
女性が指を鳴らしたとき、彼女が登場したときと同じように空間の一部が歪み、三メートル近い長身の、灰色の毛皮をした狼男が彼女の両隣に二人現れた。
「……どういうつもりですか、マクリール卿?」
冷たい視線のアーデルハイト、その問いに女性は笑って答える。
「はじめまして、アーデルハイトさま……心苦しいのですが、今宵はこれより先に行かせません。通行止めの間の暇つぶしに、私たちとワルツでも踊って頂けませんこと? ヨハン、リヒャルト……殺さない程度に、適当にお相手をして差し上げて」
その言葉に、筋肉隆々の狼男たちが凄まじい遠吠えをあげて動き始めた。
「……玲菜、貴女は本当にどの時代でも碌でもない人間ね」
「余計なお世話よ。大体、本人が人違いって言ってたじゃない……私に喧嘩を売る私なんて、生かしては置かないから」
「なるほど、わかったわ。玲菜、貴女はどの世界でも碌でもない人間なのだろうけど、この時代の貴女は一番ましな玲菜よ」
「……それ、どこが褒めてるの?」
「褒めてはいないわ、そう聞こえた? さ、来るわ」
時を統べる魔導師レナ・マクリールと彼女の僕である二体の狼男を前に、三人は身構えた。
壁を駆け、鋭い牙と爪で襲い掛かる灰色の獣。玲菜と綾音がそれぞれを迎えた。
「アーデルハイトさま……いえ、可愛らしいお嬢さん、貴女の相手はこの私が」
銀髪の女性、時を統べる魔術師は自身の僕たちの戦いを他所に落ち着き払った声で金髪の少女に語りかけた。
紅い瞳が月下に暗く輝いた。
女魔術師の右腕が振られただけで、コンクリートの壁が抉れた。
傷口は鋭い爪に切り裂かれたもの――あまりの速度に傷口は煙を立ち昇らせる。
「引いてはくれませんか?」
この空間――無限回廊を揺るがすほどのプレッシャーを感じながら、アーデルハイトに気負いはない。静かに目の前に立つ相手に問いかけた。
「引くと、信じておられる?」
ふざけているような、それでいてどこかに悲しさを感じさせる声が応える。
「……流石に玲菜さんが悪い方向に増長した人だけのことはありますね、頑固なのは筋金入りですか」
「おや、ご存知ないようで……私と貴女の縁も浅からぬものなのですけどね」
「そうですか、確かにマクリール家の人々とは多少交流が……」
「いいえ、この世界の玲菜は知らないのかもしれませんが……私の曾祖母、名をアウグスタ・マリアンネ・シュミットといいまして、旧姓はシュリンゲルともいうのですけどね。アウグスタ・マリアンネ・フォン・シュリンゲル……覚えておいででしょうか?」
一瞬、女性の言葉によってアーデルハイトの思考が真っ白になった。
思いもかけない相手の名前が登場したこと、知りもしなかった関係を知ったこと、それらが彼女を白昼夢へと誘った。
「――え?」
「ふふっ、時間とは旅してみるものですよ。ザクセンで、霧の夜出会った二人がいたとか……まあ、肝心の調整がうまく行かなくなってからはこの国一番の人形師を頼ったりもしたそうですが。人としての生を終えることが出来るホムンクルスを創られたのは流石ですわね。ふふっ、でも残念でしたね、もう一度出会えなくて。シュリンゲルの錬金術、私も多くを知っていると思われた方がいいでしょう、この身に眠る知識の復活は既になりました、貴女では私に勝てませんよ」
「……」
「おや、指が震えておられますが……大丈夫ですか?」
「私は……」
「あははっ……なんだ、ちょっとショック療法がきつ過ぎたかしら? ね、早くしないとその身体も殺すわよ、アデット。私の魔眼は知っているでしょう、これは私の大好きな神話に語られた遺産『バロル』……それも自覚できていない玲菜のものとは比べるべくもないわ。私は望むだけで人の命くらい容易に奪い去るの。さぁ、固まっていないで始めましょう、宴を! あの愛しき月に捧げる一夜限りの饗宴を! 地獄の鍋をひっくり返すような馬鹿騒ぎを! 時間の針を私たち三人で面白おかしく廻すのよ! 楽しく、陽気に、さあ、さあ始めましょう! この螺旋がやがて終局に至るそのときを願って、私と遊びましょうよ!」
高らかに言葉を謳い上げる女性の影が霞んだかと思えば、その場に現れたのは周りの狼男よりさらに巨大な怪物……銀色に輝く鋼より硬い体毛の、死の具現たる巨大な狼。
遠吠えを上げたかと思えば、それだけで周囲のビルのガラスが砕け散った。コンクリートの外壁さえひび割れるような、とても恐ろしい光景が展開された。
彼の者こそ異世界で語られた夜の支配者が一人――シュペルニスクに巣食う魔物の正体。