『テランの銀狼』――その他にも数多の名で呼ばれる存在、一部の者たちが語る預言者がいる。
――曰く、彼の者は真祖に死を告げる。曰く、歴史を紡ぐ――
銀色の髪を靡かせ、どれほど堅固な要塞にでも、どれほど強力な祖の元にでも訪れる『死』の代名詞のような存在。
そんな相手がまるで何もない空間から現れた。
「こんにちは。そして――ご機嫌麗しゅう、偉大なるザグロス公マルドゥークさま」
人間社会で呼ばれる名ではなく、本来の所領を冠した爵位を告げた銀色の声。
街からだいぶ離れた郊外の洋館。その食堂で早朝から睡眠前の紅茶を一杯嗜もうとしていた貴族にとって、彼女の来訪は意外であったが驚嘆には値しなかった。
むしろ驚嘆していたのは彼に付き従っていた男爵であろう。剣の柄に手をかけ、腰が椅子からわずかに浮かんでいた。
「エンリル、剣から手を離しておき給え。遠方よりのお客人を丁重に御持て成ししなくては、私の沽券に関わる」
主に言われ、渋々ながら剣から手を離した男爵はなおも突然の来訪者に対する警戒を解くつもりはなかった。そんな彼を見てなお銀髪の女は涼しげな表情で、公爵の領地、しかも工房でもある館の中を歩く。
「何の用かな、シュペルニスク公」
本来シュペルニスクに公を自称する吸血鬼などいない。内親王領シュペルニスクを領地とするのは魔術を必要としない、人とは別の何か。それは序列五位にも当たる超越者のはずだ。
だが、それでも彼女は公と呼ばれるにふさわしい存在であり、そう呼ばれるべき相手である事に変わりはなかった。それは矛盾だ――存在しないのに目の前に存在する女性、これが矛盾でなくてなんだというのか。
「私の願いをいくつか叶えてくださったようなので、お礼に伺ったのですが」
食堂のテーブルまで遣ってきた彼女はティーカップを手に取ると、それに勝手に紅茶を注ぎ始めた。苦々しげに睨む男爵とは別に、彼の主人はそれを咎めるでもない。
「礼の言葉だけで結構だよ、レナ・マクリール」
マリアと名乗った彼女、レナと呼ばれた彼女はカップに注がれた紅茶を一口してから、微かな愛想笑いを浮かべた。
「なるほど、こちらの世界の私にお会いになられたようですね」
「ああ、私を殴りつけてきた元気なお嬢さん――彼女だろう?」
「なっ、公爵さまに危害を加えようとした不逞の輩がいると!?」
公爵の言葉に焦ったのはレナでなく、エンリルの方だった。
「なに、別に気にするほどのことでもない。それより、レナ。アーデルハイトの願いを聞いて来日、彼女を殺し、執行官も動けなくする……こんなことで君の宿願というのは叶うものなのか?」
椅子に座った公爵の前、テーブルに腰掛けて紅茶を飲んでいたレナはカップをテーブルに置く。
「ええ、十分ですわ。私などの願いをお聞き届けくださり、とても感謝しています。宿願まであと一息、それで私の長い長い旅も漸く終わるでしょう」
「私としてはどちらでも構わん……約束の一部までは果たした、そちらも相応の対価を払ってもらいたいのだが?」
テーブルから腰を上げたレナは公爵に背を向けて、数歩歩いた。
「私は……古い時代、新しい時代、色々な時代を歩いてきました。可能性、それがあると聞けばどれほど遠くにも行きました。しかし残念ながら、知り得た知識の中で貴方に対価として支払うに足るものなどありません」
「……約束を違える心算か? 笑えん冗談だ」
微かに殺気のようなものが部屋を包んだ。口調は変わっていないが、今までと感じが違うのがわかる。
「事実を申し上げたのですが? 払うべき代償を計算し直して、私に払える対価を超えてしまっているようなので」
「ふむ。だが……私にはわかる、君は隠し事をしているね」
椅子に座ったままの公爵が空いた手で何かを掴む。そこは何もない虚空のはずだ。だが、彼の手は確実に何かを掴んでいた。
「――死ね」
公爵の手が何かを掴むと同時に、レナは信じがたい速度で身を逸らした。同時に、先ほどまで彼女が背を向けて立っていた空間が消し飛んだ。
――The time is on my side(時こそは我が友)
――Follow me and run fast(汝我に続き、廻れ)
――Our steps transcend space and time(我らが歩みは時を駆け)
粉雪のように飛び散る木材。そんな中で謳うようなレナの声が微かに聞こえたようだった。
――Our hands trample on all things(我らが手は全てを蹂躙する)
屋敷を取り囲む結界がなければ十件隣の家にいても聞こえるほどの轟音と共に、壁が、階段が、果ては壁をぶち抜いた先の庭の樹木さえ消失して行く。公爵が手をわずかに動かしただけで、まるで機関車がそのままこの場所を通り抜けたかのような大穴が開いていく。
幅七メートル四方、その距離実に五十メートルの空間に存在する全てがわずか二三秒程度で粉砕された。そんな中であっても、破壊の後に立ち尽くしたレナにはかすり傷一つない。
「なるほど、なんて……見事っ……」
紅茶のカップを持った公爵の左手が震えた。カップが二つに割れ、彼の喉笛から血が噴水のように噴出す。
数千年に渡ってこの世で最も邪悪な人間達の業深き血液を飲み干してきた公爵から噴出した鮮血は、触れただけでただの人間を殺すほどの呪詛を宿している。その呪わしき血液が一瞬で霧に姿を変え、部屋を覆い尽くしかけた。
「消えなさい、邪魔よ!」
銀髪が靡く。今にも部屋を覆い尽くそうとしていた死の霧――凄腕の魔術師であっても触れただけで発狂してしまいそうな数百万という呪い、さらにその業深き者どもを呪った何億という人々の怨嗟・怨念・その他のありとあらゆる負の感情がレナの魔眼に敗れて霧散した。
それを見た者なら彼女がした何気ない行動の異常さに気がつく。確かに公爵は呪いを扱う魔術師ではない、だがその場に現れた質量を持つ最悪の呪いは触れた床さえ溶かしていたのだ。それほどまでに異常な霧をただ魔眼の力だけで退けるなど、呪詛破りの専門家でなくとも、どれほど出鱈目かが判る。
そう、赤き光を放つのは世で最も強力な魔眼の一つ。一度漏れれば周囲の命を残らず喰らいつくすほどの呪いさえ、その力に十秒も抗し切れなかった。
神が人と交流したほどの昔、そんな時代であってもそれほどの力を持った魔眼などどれほど存在したことだろうか。遠き故郷の神の名を冠するソレはただの魔術師が持つには大き過ぎた力かもしれない。
霧が完全に消えたその場所に公爵は未だ鎮座し、喉元を抑えたままで剣を持って襲い掛かろうとしていた男爵を制していた。
「ひぅ、ひぅ……あっ、あ、クククク……何百年もの間、誰も触れることが出来なかった我が本体への攻撃とは驚かされる。イフィリルにさえ気付かれていない秘密だというのに、何故君の攻撃が届いた?」
「どうしてでしょうね? たまたまじゃないかしら」
肩を竦め受け流すように答えたレナ。その殺気は既に消えている。
「何を莫迦な。境界に立つ私に触れようと思えば、一部の例外はあるとはいえ、この世の武装では適うべくもない。とても特殊な、わずかに辺境の魔術師の間だけに現存する魔術でもなければ不可能なはず……それも使わず私を傷つけるとは、君は私にさえ死をもたらすことが出来るのだな?」
喉の傷が徐々に塞がっていくにつれ、最初の風が通り抜けるような音ははっきりとした声になっていった。だが公爵の目に殺意はなく、むしろ好奇心だけが残っていた。
「なるほど――そのネタを教えれば、対価と認めてくださる?」
十月の冷たい風が通り抜ける大穴の前に立つレナは肩に降りかかっていたゴミを振り払いながら聞いた。
「ついでに、神葬の霊杖を難なく避けたトリックも聞こうか。王冠を戴く双子の片割れ――彼のシュシテファルナスカ嬢を別世界で滅ぼしたという君だ。私と相討つくらいはできるのではないかな?」
「さぁ……せいぜいその腕一本を奪うのがやっとでしょうね」
「そうかな? 君をあの程度で殺せるとは思っていなかったが、無傷でかわすとも思っていなかった……興味深いぞ。さぁ、席に着いて説明してくれ」
差し出された椅子に腰掛けたレナはあっけらかんとした表情で告げる。
「ああ、アレ? 何て言うか、ただの勘よ。だってあの棒、どうやったって見えないじゃん。視ることが出来るのは大山猫だけだって、何処かの世界ではもっぱらの噂よ」
「……」
相手を見て、その答えが真実以外の何者でもないと知った公爵は流石に絶句した。常識破りの彼にとっても、ただの勘でかわされるなど想定の範囲外だったのだ。
「ふっふはははっ! 勘でアレを躱すとは、流石は随一の名門を継いだ娘だな」
しばらくの沈黙の後、漸く出たのは笑い。爆笑といってもいいほどの笑い、最も誉れ高い名門の娘が、何千も年の離れた自分にこれほど新鮮な驚きを与えてくれたことに感謝する笑いだった。
「笑っていただけたようで、私も恐悦至極ですわ」
「どうも、こちらこそ宜しく。クロエさん」
アデットが差し出されたクロエの手を握った。
俺の眼から見てもそれは実に奇妙な光景だった。時間を隔てた彼女同士による握手なのだから、本当にもう何が何だかわからなくなってきた。
「――ところで、アーデルハイト?」
「何ですか、クロエさん」
「あ、ああ……わかっているとは思うけど、君の服を用意してもらえるかい? 僕は別に構わないけど、公明は気にしているみたいだし」
「……へっ?」
こちらに視線を移したアデットの後ろでウインクしやがったクロエ。その楽しそうな笑顔には殺意さえ沸く。そして、それはまさに不意打ちだった。
裸の上にマントなんて変態的な格好をしている金髪の少女、そんなのを前にして確かに少々興奮してい……なくはなかったのだ。
「ああ、なるほど。公明さんもお人が悪い、私にそういう邪な感情を抱いておられたのなら……いっそのこと襲ってもよろしかったのに」
「ばっ、何言ってんだよ! 俺はそんなこと全然考えてなくて……」
金髪幼女はちょっと舌なめずりして、いきなり抱きついてきた。これこそ本当に不意打ち、心の準備も出来ないうちの出来事だった。
「ほら、やっぱり……どうです? この身体になじんでいない今なら、好きに弄べるかもしれませんよ」
「あのな……っんなことしたら俺は即犯罪者だろうが! やめろ、おい、放せって!」
「ああ、押し倒されるぅ……」
振り払おうとした彼女の体があっけなく床に崩れる。
本当に、コイツは……
「ふぅん、幼女趣味とはね。この変態……お父さまを侮辱しておきながら、自分自身が変態だなんて、どこまで低脳なのかしら。本当に動物、いいえ、いつも発情しているなんて猿以下だわ」
俺たちの行動を眺めていたアンジェリカの視線はそれだけで俺を凍死させるほどに冷たく、既に先ほどの敵意など欠片もなくなっていた。代わりに、軽蔑しきった眼差しで完全に見下している。
「いや、待て。お前なんかに理解してもらおうとは思わないけど、俺は別にそんな趣味はないし、そもそもお前の親ほどには……」
「キモイ、それにうざいわよ、変態。こんな馬鹿げた茶番には付き合っていられないわ。豚小屋みたいな家、変態、とてもあたしたちがいるような空間じゃないわ……本当にクロエが気の毒、豚や猿の相手をするなんて、気の毒でしかないわ。プリメラ、もう帰るわよ、コイツの馬鹿が感染(うつ)るから」
白い美少女の言葉は一言一言がまるで剣のように俺を突き刺していく。さらにアンジェリカに手を握られて、迷った子犬に哀れみをかけるような視線を投げかけるプリメラ嬢はアンジェリカ以上に俺を傷つけていった。
勘違いなのに、このアデット二人が俺を嵌めただけなのに……なんでわかってくれない?
「で、では……ごめんなさい、公明さま」
いや、ごめんなさいって……
「じゃあ、もう来ないけど……今日だけは特別に、低俗で無能な庶民の変態くんに、高貴な貴族であるあたしを見送らせてあげるわ。あたしの姿が見えなくなるまでは叩頭して、賛美の文句でも唱えてなさい」
そんな格好で見送ればそれこそ変人だろうに……わからない少女だ。半端じゃない大富豪一族だけに、俺とは感性が違い過ぎる。
「この、クソガキが! お前なんかに誰がそんなことするかっ! 上等だ、もう絶対に敷居はまたがせないからな!」
門の向こうに二人の少女が消えていくまで、アンジェリカには散々文句や罵詈雑言を並べてやった。
当然だ、こちらの意見も聞かずに勝手に変態認定などするような悪ガキに、誰がやさしい別れの言葉などかけられるものか。
「あー、行ったね。アンジェリカを呆れさせるなんて、君素質あるなぁ」
暢気な声が聞こえた。
鬼の形相で振り向けば、アデットとクロエの二人――こいつらは悪魔か、あるいは疫病神か。
「お前らっ、俺の評判を木っ端微塵にぶち壊すつもりか!?」
「まあ、いいじゃないか。アンジェリカなんて今日知り合った相手だし、プリメラにしても君が付き合えるような家柄の生まれじゃないぞ?」
「あのな……怒りをこらえて言うが、プリメラの生まれ云々は関係ないだろうが。知り合いだったんだぞ、一応……ごめんなさいって何だよ? おい」
「よくわかりませんね……公明さんは彼女に好かれたかった? それでは疑惑は事実に。ああ、これは大変」
「お前もか、アデット」
「ええ。だって、私に興奮していたのは事実じゃないですか。サービスしてあげましょうか?」
「はうぁ……お前、そこを突くか?」
「はい、突きます。それこそ一突きです」
涼しげに言うアデットは別に俺を軽蔑している風ではなかったし、クロエもただおちょくっているだけのようだった。冷静になって、そのことに気がつけば徐々に怒りは解けていく。
我慢しろ、この手の連中はこっちが冷静になれば絶対に飽きる。だから、我慢するんだ。
「……よしっ、今回は収まった……」
「なに? ついに頭がいちゃったのかい、公明?」
クロエ。こいつも碌でもない奴ということが確定。
「よく聞けよ、クロエ。この家には、アデットの服なんて置いてない……アデットの服なら教会だ」
「ええ。私の服は教会の部屋に置いてあります、すみません」
アデットもクロエに軽く頭を下げた。クロエはそれを請けて顎に手を当て、少し考えているようだった。
「なんだ、ならこっちに来るんじゃなかったな……アーデルハイトへの挨拶と一緒に、そういう雑務は済ませておきたかったんだけど。でも、男物の服ならあるんだろう?」
「まあな。俺の家だし、あって当然だろ」
「了解。じゃあ、君にでも化けるかな」
「え……」
そう言うと、見る見るうちに俺の姿をとったクロエ。
唖然とするしかなかった――その姿はまさに俺そのもの、見ただけでここまで似せることができるとは……彼女の存在自体が驚嘆に値する。
だが、俺がさらに驚嘆――もとい脳細胞が負荷で全滅するんじゃないかと疑うほどに驚愕させられたのは、あのクソ女が羽織っていたマントを脱ぎ去って……素っ裸のまま家に上がりこんでしまったこと。
驕慢なアンジェリカの奴を見送った俺の足は、そのまま玄関に張り付いてしまっていたようだ。
クロエの最低の行動を止めるための一歩が踏み出せなかった。呆気に取られていたのがその原因だ。
「あらあら……公明さんのって、こういう……」
アデットが興味深げな表情で裸の俺を見送ったとき、漸く俺の理性が復帰した。
「お、おいっ、止めろ! その先には絶対に行くんじゃ……」
クロエが扉を開くのを止めようと、全力で駆け出していた。
クロエとしては自分の家で裸になったとして、何の不都合があるのか理解できなかったのかもしれない。あるいは、全裸であることに抵抗を覚えない人形だからかもしれない。
だが、その先に行っては……俺の命が……
「ん? 服ってここじゃないの?」
クロエの阿呆が手をかけたのは地下室への扉で、そこの先には十中八九綾音がいる。
振り向いたクロエは俺の声に手を止めていたので、何とかその先には行かずに済んだ……と思った矢先、扉が勝手に開いた。
身体は反対側にむこうとしている。
「――ふぅ、いい汗をかいたわ。あら、今目が覚め……」
朝っぱらから鍛錬を怠らないのが綾音さん……このとき既に自宅に帰っていた天才型の浅海とは一味違う、努力家さん。
そんな彼女は目の前のクロエを見て、表情がこわばっていた。これから起こることを予期した俺は、先には歩みを進められなかった。
綾音の視線がクロエの顔から徐々に下に向かって……
「うん、おはよう。身体はあったまったみたいだね、どう、これからすぐに犯る? あっ、汗で上着が透けてる、そそるな。いい運動になりそうだよ」
終わった……クロエの対応は最悪。わざとだ、悪意がある。絶対に俺を破滅させようとしている。そうかコイツ、そもそもイリヤの刺客なんだ。俺を社会的に抹殺するつもりか。やられたなぁ、すごいよ……経験値の高い吸血鬼の復讐って言うのは、マジで怖い。
「わっ、わたし、私は……そっ、にょ……いいえ、何を言っているのっ!」
左手で胸を、右手で顔を隠した綾音が真っ赤になりながら抗議しようとした。
すると、彼女の細い腰に手を当てたクロエが彼女に顔を近づけ、甘い声で囁いた。
「怖いな、そんな目で見つめるなよ。俺、君のことが好きなんだぜ? 嫌われると、ショックだ」
「――」
そのまま突然の出来事と目の前のショッキング(?)な光景に震えていた綾音に唇を重ねようとしたクロエ……いや、俺もここまで大胆な男だったら、と思えるような華麗な手際だった。
台詞のわりにその身のこなしは女遊びを何度もしてきた人間のように洗練されていて、とても高校生の俺がやるような動きではない。
「――え?」
顔を近づけたとき、急にクロエの動きが止まった。
「――人形風情があまり調子に乗らないで、と言ったのよ」
どこから取り出したものか、手に握られていたペーパーナイフが煌く。そこそこな業物なのかもしれないが、所詮ペーパーナイフだ。殺傷能力は皆無と言ってもいいのではないか。
さっと身をかわしたはずのクロエの左手には深い切り傷が刻まれていた。
「へぇ。公明の情婦か、あるいは愛玩動物(ペット)かと思えば、ボディ・ガードってわけ……」
涼しげなクロエは薄く微笑していた。
そう、左手の傷がその身体を侵食するまでは。
手の平が傷を受けた箇所だったのだが、そこを中心にどす黒く変色し、急に風船のように膨れ上がった。まるでグローブをつけたようになると、クロエも流石に笑ってはいられなくなっていた。
必死に破綻していく自身の左腕を抑えながら、クロエが呪詛のように呟いた。
「くぅ……これは、嘘……真正のプッペン・ツェアシュテーラー!? あっ、痛、痛い……つぅ……痛、い」
何と驚くべきことに、クロエは黒ずんだ自身の腕の肉を全て引き千切った。解体する光景は狂気としか言いようがない。
黒ずんだ肉は地面に落ちるたびに灰のように消えていき、肉を引き千切られた腕には人体模型の腕のようにか細い機械の腕だけが残っていた。
左腕上腕までが機械だけになり、肉の部分はその先にはない。爛々と輝くクロエの瞳、自分の姿をしている彼女があんな表情をとるのを見るだけで、吐きそうだ。
「はぁ、はぁ、残念だねぇ。僕の身体……本体のうちで破壊できたのは指二本までだったようだよ」
漸く余裕を取り戻したクロエは見せ付けるように機械の腕を晒した。人差し指と中指が消失した白いヒトガタの腕だった。
「だが、驚嘆させられるなぁ……オリハルコンの千倍も丈夫な僕の身体を、魔術も何もないただのナイフで傷つけるなんてね。ある意味で最強の魔術師さえ凌駕するよ、君……まぁどちらにしろ、次はないけど」
「試してみますか?」
ナイフをもう一度構えた綾音と向き合ったクロエは、肩を竦めて見せた。
「あはっ、いや止めておくよ。僕は直接的なぶつかり合いは嫌いだし、アーデルハイトの代わりをする任務は放棄できない、仮に君が僕の本体を直接傷つけたとすれば死ぬかもしれない。君は僕らにとって最悪の死神、いや『死』そのものと言ってもいい……自分の死を眺めさせてくれるなんて、君の祖先は相当有名な人なんだろう? 壊し屋としての君の力は、ここ何千年かの中でも最高だからね」
どこかイリヤにも似た笑みを浮かべるクロエは実に楽しそうに語る。自身を傷つけ、殺し得るかもしれない相手を前にしてもその余裕に些かの油断も感じさせないのは流石だ。
「待ってください、貴女がシュリンゲル卿の代わり?」
「ええ。すみません、止めようとしたのですけど……先ほどまでの悪ふざけの延長でちょっとタイミングを逃しまして、青のクロエさんだそうです」
アデットの言葉を聞いて漸くナイフを収めた綾音はそのまま地下室からの扉から廊下に出た。
「では、昨日の話に出た代わりとは……」
「そうそう、僕のこと。着る服がなかったんで、ちょうど探していたら君とであったと言うわけ。でもその実、間抜けな話でね。アーデルハイトがいる場所には彼女の服くらいあると思っていたから、調子に乗って服を脱いじゃったんだな、これが」
悪びれる風もなく、全裸の俺が言う……あっ
「おいっ! お前も服を着るか、さもなければ隠せ! いや、俺以外の顔に変えてくれ」
その言葉と共に再び綾音が真っ赤になった。当然、例のブツからは視線を逸らした。
「あっ、貴方も貴方よ、こんなっ……人形に易々と侵入を許すなんて、しゅ、修行が全然足りていないわ!」
「そうは言うけど、僕さぁ……男の子に化けるのが好きなんだよねぇ、わかる? 男物の服で君が用意できるのは君の服だけだろう? 君の格好をするのは当然じゃないかなぁ」
「お前、そんな猥褻物を晒しながら家を歩かせると思うなよ。すぐに何とかしろ、いや、ごめん。お願いですから、マジで勘弁して下さい。これ以上その格好を見てると、明日にでも自殺しそうです」
「じゃあ、仕方がないな……でも人間って本当に馬鹿だよね。どうでもいいことであたふたするんだから。まぁ、僕は人間のそんなところがたまらなく愛しいんだけど……じゃ、男物の服でも足りる人にするか。口調、変わるよ」
そう言ったクロエは次の瞬間、機械の義手をしたブルネットの髪の少女に姿を変えていた。
俺と同じ年くらい、アデットよりも身長が高く俺と同じくらい、セミロングの髪なのにその雰囲気は中性的だった。端正な顔立ちで、可愛い感じではなく綺麗だった。
「これで満足か」
「……うっ」
クロエの姿を眺めていた俺の目に指が迫った――綾音の目潰しだ。かなり速いし、威力ありそうだから当たれば……本当にやばいよ、コレ。
咄嗟に自分の手で先に目を隠したので彼女の指は途中で止まったが、実に危ないタイミングだった。
「危なっ、アイツが勝手に女になったんだろうが」
「先程の視線、本当に下心のないものだったかどうか胸に手を当てて考えなさい」
「……ほんの一ピコグラムくらいだろ、見逃せよな……」
「では、話も片付いたようなので早急に君の服を用意して欲しい。体格はわりと近い、問題は解消したはずだ」
さっきまでの不真面目な態度はどこへやら。凛とした少女の催促に答え、何とか少女が着ても違和感がなさそうな服をチョイスして渡してやった。
下着はまぁ……最近はそういうの男物でも気にしない人もいるから目を瞑って欲しい。
それらを着た彼女は晒されたままになっている機械の腕を隠す皮膚が再生するまで少々の時間を家で潰して、その後で教会に行くとの事。
居間で俺たちと時間を潰すことにしたようだった。
「先程の行為は謝罪しよう……ああ、すまないが、君の名を聞いていなかった」
「綾音といいます」
「では綾音、君には改めて謝罪する。それから私はクロエ、公爵さまの名誉を汚さぬよう貴女に私の非礼をご容赦いただければ幸いだ」
まるで人が変わったような変化、口調だけでなく性格もこの少女のものを真似しているのだろうか?
「あー、何て言うか……その人誰だ? その、お前が今化けてる相手」
「ハーシュラング公クラリッサ。終身執行官、あるいは『女ヴァン・ヘルシング』といえば、わかるだろう?」
「ヘルシング? どんな皮肉だ、それは。クラリッサって吸血鬼だろ」
「小説好きの姫君が命名したあまり本人に好まれない綽名だ、本人の前で言えば殺されるとか」
アデットも本人と会ったことはなかったのか、意外な容姿の相手に驚いているようだった。
「ふむ、だが姿など気にすることでもない。話は変わるが、君たちはスタニスワフを追いかけているのだとか?」
「ああ、そうだけど。そこまで手伝ってくれるのか?」
「いや、その任務は請け負っていない……ただ口止めはされていないので、可愛い男の子のためにアドバイスをしておく――アンジェリカは正体を知っているようだ」
この変態が可愛い男の子と言ったのは俺のこと……背筋が冷たくなった。何しろ、男装が趣味の人形なのだから正体が女でも全然そそらない。
だが、彼女のアドバイスには思わず耳を疑った。
「……ん?」
「アンジェリカは正体を知っているようだ、と言った」
「アンジェリカって……あの白くてクソ生意気なガキか?」
「ああ。私の可愛い妹、そのアンジェリカだ。彼女は私などとは比べ物にならない魔術師、知っていても不思議はない」
「……教えてくれると思うか、アデット?」
「あの調子なら絶対に無理でしょうね」
「……だよな」
「滞在地は教える。説得したいなら頑張れ。指は公爵さまに直接お願いするか、時間をかけなければならないが、皮膚の傷はほぼ癒えたので行く。アーデルハイト……制服のクリーニングはしておく。それから、その身体が早く元に戻るといいな、少なくとも私はそう祈っている」
「どうも、お心遣い感謝します」
「理由はどうであれ公爵さまの行ったことだ……許せ。それから、公爵さまは君を賞賛しておられた。いつか第三に至ることが出来る相手にはじめて会った、と」
颯爽としたクラリッサの格好をしたクロエは、そのまま教会に行った。学校で出会うときは最初のふざけた態度に戻っているのだろうが、堅い性格のときの方はまともなだけに……残念だ。
「うーん」
「……はぁ、困りましたね。公明さんがアンジェリカさんを怒らせるから……」
「まったく、仮にも公爵の大所領の一つハイゼンベルクの管理人を怒らせるなんて……」
「はぁ? 何だ、その言い方は! 俺が悪いのか? だって、あの態度だぞ?」
「どうしてと言われても、原因がそうなのですから他に言いようがないと思いますけど?」
「くっ……わかったよ、わかりました。そんな非難する目で見るなよな……死ぬほど謝って、ご機嫌とって、絶対に聞きだしてくるから……ああ、クソ! 今日は厄日だ」
勇んで出て行った俺だったが、その実、アンジェリカの攻略は恐ろしく簡単だった。
ひたすらイリヤを褒めればいい――何でもいいから兎に角褒めまくる。こんな単純な方法が通じるとは思っていなかったが、やばいくらいの効果があった。主人が関わらない相手、若しくは主人を褒め称える相手ならとても善人になる、その話は事実だった。
料理から何まで用意して、さっきまでとは人が変わったように明るくおもてなし……二重人格だ。
仕舞いには、菓子折りさえ持たせてくれ、今しがた公爵に口止めされたスタニスワフの正体は教えてくれなかったものの、化けている人間が住んでいる場所のヒントとか色々と……こんなに簡単でいいのかな?
最初敵意むき出しの上、訳のわからない破壊の跡が残っていた屋敷に足踏みしたものだが、案外御しやすい性格だ。
アイツ……実はものすごく馬鹿、なのだろうか?
だが、何だかんだ言って一日を費やすほどに一人の変態を褒めちぎるのはマジで疲れた。精神的に相当な負荷で、あの趣味の高尚さをほとんど死ぬ気で褒めてやったのはつらかった。
なんだかよくわからないが、アンジェリカ以外は修理の業者を呼ぶ関係だとかで留守にしていたのが幸いしたのかもしれない。何しろ、本人の前であの行為を褒めれば間違いなく同志認定されてしまうから。