コトッ――紅茶のカップがテーブルの上に置かれた。すっと立ち上がったイリヤはそのまま帽子を被り、アデットに告げる。
「君の送迎は終わったようなので私は失礼するよ、『ウロボロス』のお嬢ちゃん」
イリヤに蛇扱いされて眉を顰めたのは、ちょうど三人が知っていることを聞き終えたアデット。
俺たちの話を聞いて大抵のことは理解できたらしいが、それでもこの変態を招いてしまったことを納得できていない様子だ。
だというのに、彼女が頭を痛める原因はティータイムの終わりと共に席を立ち、そのまま何処かへ帰ろうとしている。俺としては、勿論イリヤが帰ってくれるならそれに越したことはない。
ただ、仮にも序列二位の祖――何万もの兵力を有し、最大領土を誇る大物をこんなに簡単に見過ごしてもいいものだろうか? まあ確かにこれを殺すとか封印するとか云う技術も武器も、知識も何もないのだから、実際に彼をどうしようというわけでもないのだが。
「どうぞご勝手に。祖である貴方にこれ以上恥を晒されては私の立つ瀬がありませんから」
椅子に座ったままケーキをパクつく少女の口調が前に比べれば相当冷たく感じるのは、思春期の復活か、あるいは声色が違うからか。
古い魔術師の織姫がイリヤの依頼で紡ぎあげたという『とても短いが絶対に見えない』スカート――そんな下らないものを依頼された織姫の気持ちはどんなだったか想像も出来ない代物――を無理やり穿かされた彼女はとても不満そうに言った。
ストレートの髪に軽いパーマをかけたのも無理やりだったらしいが、人形っぽくて結構似合っていると思う。それに、あの青いリボンが金の髪にとてもよくマッチしている。
思わず彼女の変化した容姿に気をとられてつい忘れかけていたが、何とかイリヤの話を思い出した。
「なあ、お礼って言ってたのは結局どうなったんだ?」
プリメラの相手をしたお礼――別に金が目当てだとかいうつもりはないが、もう既に品物を買っていたとすれば、この爺さんが後で戻ってくるかもしれないからな。
だが、そんな口にも出せないことを何も聞かずに分かれというのも無理な話。言った端から綾音に睨まれた。
「貴方までそんな浅ましいことを言うの? 一から躾ける必要があるのかしら」
「……ははは、そんなに睨まなくても。特別もの欲しそうにしてたか、俺? 勝手におかしなものを置いてかれたら、俺も迷惑だから確認取っただけだろ。邪推するなって」
そうそう、まさか本音など本人の前では言えないだろう。まあ……多分この爺さんなら言っても怒らないとは思うが、それでもアデットを食い殺すような相手に舐めた口は利けない。
俺の質問を受け、イリヤは少し考えてから口を開いた。
「……そうだな、確かに私も忘れていたよ。ほら、これをあげよう」
立ち上がっていた貴族はマントの中から剣を取り出した。黒い鞘に金で美しい薔薇の彫刻が施されたサーベル――刃の部分だけで一メートル近くある、実に高級そうな品だ。
こんなものを持って歩けば即銃刀法違反でパクられる事請け合い。そうかと言って、この家に飾るには剣が少々立派過ぎる。傘立てに入れておくのも、気が引ける。
「ある流れ者の魔術師から私が買い取った品だ。私は使わないから、君たちに差し上げよう」
差し出された剣を掴むと、ずっしりとした重みが伝わってくると身構えた。予想した重みはまるで感じない。羽根のように軽く、とても剣とは思えなかった。
「売るわけにも……いかなさそうね、この剣。どこの武器作りの品よ?」
俺が手に持った剣を横目に眺め、適当な鑑定をしていた浅海がイリヤに聞いた。本人の目の前で貰ったものを売るかどうか考えるなんて、流石に彼女は肝が据わっている。
『月食のウラディミル』とか云うサーシャの使い魔を素手で秒殺し、『燃える水』や『アルカエスト』といったアデットの危険な霊薬でも歯が立たなかったというお貴族様なのに。魔術世界における超名門の権威はそんな相手にもこんな口の利き方を許すのか、イリヤは浅海の質問にも腹を立てずにポツリと答えた。
「アシュール」
「アシュール? 誰だっけ、それ?」
その名前に聞き覚えすらないのか、浅海が首を傾げる。当然、彼女が知らない名前を俺が知っているわけもないから、俺も首を傾げた。
すると、『さっさと帰れよ』っぽい感じの視線をイリヤに送っていたアデットが代わりに教えてくれた。
「アシュール卿というのは通称で、本名をベルヴァザール・アシュフゥール。同じ半神のイフィリルの美しさと対比した皮肉で『ヘパイトス』と仇名された男です。歴史上、最後に滅びた貴族でしたね」
アデットの言葉を受け、イリヤは『よく知っていたね、お嬢ちゃん。偉い、偉い』と彼女の頭を大きな手で撫で回した。当然、アデットはとても嫌そうだったが、どんな馬鹿力で握られているのか殴っても蹴ってもイリヤの身体はびくともしない。
「これは特殊で、元来道具作りの彼が創った唯一の剣。特典を挙げるなら、力のある精霊が宿っている……ほら、お嬢ちゃん、気持ちよくしてあげようか?」
「離しなさいっ、こんな場所で……あっ、本当に……」
頭を掴んでいた手から漸く開放されたアデットだが、イリヤの手が今度は胸に伸びて撫で回すものだから……自称その手の技術の宇宙的権威という彼に何度も喘がされ、本気で悶えている。
この爺さんの横暴を何時までも許していれば、この部屋がアダルトな世界に侵食されてしまいそうだ。しかも、ただアダルトなだけじゃなくて相当アブノーマルな方面に。
「はぁん、はっ、あぁ、うぅ……もういや、いや、あんっ、もう本当に止めてください!」
「なに、もっと刺激が欲しいだと? 君も随分とすきものだなぁ」
「いい加減にしろ、この変態がぁ!」
イリヤの目に余る行動に激怒したのはアデット本人ではなく、彼の行動を苛々しながら眺めていた浅海。
相手が殺しても直らない真性だからだろうか? その一撃に手加減など微塵もなかった……家の壁にそんなものをまともに叩き込まれたら大穴が開くこと請け合いの攻撃だった。
拳は間違いなく、完璧なタイミングでイリヤの脇腹を抉った。どうせこれくらいでは殺しえない、それがわかっているからといって油断している相手にそんなことをするなんて……コイツは鬼か?
「ん? 何だね、お嬢さん」
拳の先端が時速百キロ近い嘘みたいな一撃を受けて、イリヤの身体にダメージはない。それどころか、浅海は拳を抱えて倒れこんでいた。
「痛っ、痛い、痛い……何で出来てるのよ、貴方!」
「何で、とは失礼な。私が自分を自動人形に変えたとでも言う心算かね?」
腕の中に抱えあげたアデットを弄りながら悠然と浅海を見下ろしたイリヤは、さも不思議そうに聞いた。
障壁だとか、復元だとかそういった類の現象じゃない。純粋に効果がない……って、マジで?
「ふむ、一体何をする心算だったのか……お転婆なお嬢さんにも困ったものだ」
「くっ、イリヤさん!」
「ん?」
「その剣、噂が間違いでなければ悪名高い雷鳴剣では?」
何とか変態を引き離したアデットが心配そうに口にしたのは、どこかのロープレでありがちな名前――勇者さま専用アイテムか?
アデットの言葉をニコニコしながら肯定するのはイリヤ。彼女の体を弄ったときに自分の手袋についた匂いをかぎながら、実に楽しそう。
周りの女性陣の氷点下などとっくに過ぎ去って絶対零度に到達しそうな視線などものともしないあたりは、真性の証だろう。
この人は、本当……青年時代に脳に致命的障害でも負ったのか?
「では、その精霊とは『センナケリブの雷撃』ですか?」
難しい顔のアデットがイリヤに確認する。
神の鉄槌――そんな異名を馳せる『センナケリブの雷撃』。嘘か真実か、剣の一振りで千の軍隊を灰にするという魔剣の精霊の名がそれと同じ。
「あまり関係ないのだが、確かにその通りだ。ただ、雷鳴剣は蔑称を『世界一使えない剣』。私はチャレンジしたこともないが――」
取り敢えず剣を渡された俺は、横で何やら話しているイリヤを無視して取り敢えずそれを抜いてみた。
錆付いているわけではないらしい、容易に刀身を現したそれはまるで鏡みたいに綺麗だった。
「――主以外には抜けないとか」
「いや、それってガセじゃないか? 簡単に抜けたけど?」
「……………なに?」
みんなの視線がそれに集まった。俺の手の中で白銀の光を放つサーベルに部屋中の視線が集中した。
「ほら、抜けただろ?」
『何をする、戯けが! この身に下郎が手を触れるなぞ、万死に値する! 離せ、離さぬか!』
俺には聞こえない声でも聞こえるのだろうか? アデットたちは剣を見つめながら、とても気まずい雰囲気。
聞こえない声が聞こえるって言うのは、何時の時代でもあまりいい状況じゃないよな?
この微妙な空気は……アーサー王みたいに一種の選定で素人の俺が選ばれたわけだから……名門魔術師のプライドを潰されて、それで言葉にならないってことなのか?
「いや、だが……それはな、何というか……抜けたといっていいのか、アーデルハイト?」
イリヤでさえ微妙な顔。彼に話を振られたアデットも右に同じ。
『ええい、消えるがいい下郎が! ……なに、何故死なぬ?』
「……微妙ですね。あの状態で、力など貸してくれるのでしょうか……玲菜さん?」
『この、燃え尽きるが良いわっ! ぬぅ……化け物か、貴様は!』
「って言うか、滅茶苦茶怒ってるじゃない。焼き殺すだの、物騒な事言っているし……綾音、あれってやばくない?」
『貴様らも何を眺めておる! 今すぐ私を助けぬと、この戯けと合わせて我が雷撃の下に駆逐するぞ!』
「……振られても困ります。でも、確かにこれは危険なのでは? キャッスルゲート卿?」
『おのれ、貴公という奴は……私を売り渡すなど、許さぬぞ!』
「それはそうなのだろうが……彼は平然としているじゃないか。何故だ?」
『許さぬぞ、貴様らまとめて……くぅ、何故じゃ? 何故、我が雷撃がこんな小物一匹殺せぬ?』
こいつ等、どうしてこんな微妙な視線を俺に送ってくるんだろう?
嫉妬とは違うみたいな、違わないみたいな……あまりいい感じのしない視線だ。剣に選ばれた俺に対しての羨望か?
「よくわからないけど、要するにあれだろ? よくあるロープレみたいなパターン――剣が主と認めた奴は簡単にそれを抜ける、とか。現に、さっきこの剣を抜けるのは主だけとか何とか言ってたし」
『下郎、その頭は飾りか? その耳は何を聞いておる! 誰が貴様如き愚物を主と認めるものか! 汚らわしい手を離せ、小物! ええい、貴様など今すぐ自害するがよいわっ!』
「……何というか、それは相当激しい勘違いだと思うが?」
「でもな、ちゃんと抜けてるじゃないか? さっきの話から考えれば、俺がふさわしいから抜けたってことじゃないか」
「……何故、『センナケリブの雷撃』を無視する? 聞こえないわけではないのだろう? もしや、彼は我が同志か?」
「それは違います。絶対に。それと、私もこれを放っておいていいのか悩みますが……取り敢えず、害はなさそうですね」
「どう見ても危険じゃない! 危機感欠如してるわよ、貴方たちは!」
そのとき、微妙な顔をしていたイリヤが急に破顔して大爆笑。腹を抱えて大笑い。
「あはははっ、いや……いいじゃないか、マクリール嬢。剣も主が決まって喜んでいるようだぞ、公明君」
「やっぱり、俺が主ってコトでいいんだよな?」
『戯けが! 貴公は妄言を弄して……私を侮辱してからに。まとめて焼き殺すぞ!』
俺の言葉に頷いたイリヤは剣に視線を移して、何やら別な国の言葉で語りかけた。
『あはははっ、出来るものならすればいい。さっきから騒ぎながらも君が何も出来ていないのは、実際には何も出来ないからだろう?』
『くぅ、私を侮辱するな』
『真の主との契約がなければ、刃より他には力を発現できない……聞いていた通りだ。しかし、情けないな、センナケリブの雷撃』
『愚物、その嘲笑は止めよ!』
『しかしな、雷撃。君は主以外には身を任せてはいけない制約があるのだろう? ということは、どうなのだろうね……逆説的だが、身を任せてしまった彼は君の主ということになるんじゃないか?』
『――そんな莫迦な話、誰が……』
『誇り高き雷の精、センナケリブの雷撃。千余の時を駆ける君ともあろうものが……自身の制約を破るなど、あまり失望させるなよ』
『――か、片腹痛い、わっ……私は、貴公などに言われずとも、そんな無様を晒すわけが……』
『では、決定だな。彼が主だ』
『……コロシテヤル、いつか殺してやるからな』
『出来るものなら、いつでも』
『くぅ……この恥辱、いつか必ず雪いで』
剣に向けてイリヤが呟いていたのは呪文の類なのだろうか。しばらくすると彼は唱えるのをやめて、俺に視線を戻した。
「ふむ、では公明君。君も剣を大事にしてやってくれ」
「ん、ああ。わかった、絶対に売ったりはしないから安心してくれ」
ドアを開けて帰ろうとしたイリヤは最後に少し振り向いて、アデットにすごい提案をする。
「それから、霧海の発生には応援に来るよ。我が愛しのアーデルハイト嬢、いつか君の胎に……」
そこまで言ったとき、イリヤの身体がアデットに部屋の外まで押し出された。
「…………ぐすっ」
イリヤが完全にいなくなったことを確認したとき、アデットの小さな肩が震えた。ちょっと涙ぐんで、マジで泣いている。
因みに、彼女がらしくもないくらい異常に恥ずかしがっていた原因の大部分が、『人前に出して恥ずかしい錬金術の祖』が現実に人前に出てきて散々恥をかかせてくれたからだそうだ。
今、彼女が泣いているのはあまりにもアレな貴族が錬金術の祖であることが、悔しいやら恥ずかしいやら言葉では表現できないような感情から涙が零れてきたらしい。
後日送ってくる彼女の服にしても、デパートに強制的に連れて行ったかと思うと、その場で『彼女が一番妖艶に見える服装と、色っぽく見える化粧品を用意し給え』という具合に大勢に聞こえる大声で注文したらしいし、本当にろくな人間じゃない。
「ふぅ、アデット。私も同情するわ」
アデットの横に座った浅海が肩に手をやって彼女を慰める。
「いや、俺も本当に同情するよ。流石にあんなのがきたらな」
「私も今回は玲菜と同じ気持ちです。流石にアレでは……同情しないわけには行きませんもの」
綾音も寄り添って慰めているが、ある意味そういうのは余計に悲しくなる気がするのだが。
「いえ、別に……思っておられるような悲しさはありませんから、同情されるに値しません。ただ、虚しさが胸を抉る様な感じがして、ちょっと精神的に参っているだけですから」
「まぁ、あれだな。元気出せよ、わざとふざけてるだけ……ってオチはなさそうだけど、一応技術だけは天才なんだろうし」
「そういう事実が余計に悲しいんでしょう、馬鹿」
浅海、お前もそう思うなら口に出すなよ。
「技術だけ天才……虚しい言葉ですね。ただ、剣の説得だけはしてくれたようですからまだましですけど」
ちょっと嘘っぽい涙をハンカチで拭いているアデットが告げた。
「剣の説得? なんだ、それ?」
「滅茶苦茶嫌われてたのよ、貴方」
浅海の言葉に手の中の剣を見る。別に言葉など発していないし、鞘にしっかり納まっている。
「お前……頭大丈夫か? 剣が喋るわけないだろ」
そうそう、剣が喋るわけがない。聞こえたとしたら、何処かの電波だろ?
「……まあ、いいわよ。関係ないみたいだし」
「そうね……それより、シュリンゲル卿。その身体、元には?」
綾音の質問に漸く真面目な顔になったアデットが軽くため息をついた。
「新しい体の完成まで二年くらい待つか、これは個人的に気が進まないのですが……血と若い精液を摂取すれば、わずかな間だけ元に戻れます。他にも、研究中の薬が完成すれば可能性はあるでしょうね」
「学園祭、それに生徒会の方はどうするつもりです!」
「……微妙にずれたことを聞きますね、綾音さんも。一応、貴女のご先祖が原因で……」
「それは過ぎたことです。目の前に迫っていることの方が大事に決まっているでしょう?」
「はいはい、その点はイリヤさんが肖像権を無視したアーデルハイト人形で誤魔化してくれるそうなので、ご心配なく……何ですか、玲菜さん?」
浅海の視線を感じて、アデットが彼女の方に向き直った。
「何て言うか、その瞳の赤はどういうこと? さっきのロリコンに噛まれて吸血鬼になったとか?」
「あまり思い出させないでください……ホムンクルスは元来、矮人になるものとされてきました。これは恐らく、イリヤさんが創っても同じことです」
大まかに説明すれば、まず人の精液を40日蒸留器で密閉し、精液が生きて動き始めるまで腐敗させる。次に人の形をした、ほとんど透明で非物質的なものの姿が現れる。これに毎日人の生血を与えながら、馬の胎内と同じ温度で40週間保存すれば、ホムンクルスが出来上がる。
省いたが、間に魔力を用いた工程がかなり入るらしい。完成したホムンクルスは普通の人間と変わらないのだが、身体がとても小さくなっているのだとか。
「それは知ってるわよ。錬金術師の中で自分と同じ体格で、同じ能力のホムンクルスを創れるのはアデットのとこと他少数だけなんでしょう」
何百年も前からドイツ、チェコ、オーストリアに散在している、アデットの家系の弟子にあたる錬金術師たちがそういうホムンクルスをつくるようになったのだとか。
「ええ。それが六百年に及ぶ技術的革新の成果として、『アーデルハイト』という千年少々前の祖先が築き上げた錬金術です」
「ちょっと待てよ。さっきまで、その初代アデットもアデットみたいなこと言ってたじゃないか?」
「それは語弊があります。私は二百年くらいしか生きていません、初代から受け継いでいるのは記憶と身体だけです。そうですね……今の瞳は、何代か前の私が後継者であるホムンクルスの製造中にちょっとしたアクシデントで死んでしまって、ホムンクルスが必要な工程を省いて生まれたためで……紅い瞳は不完全なホムンクルスの証、それは完全な身体を作り直した後の世代にも受け継がれる魔術的な後遺症みたいなものです」
要するに、失敗した事があるという証明みたいなものだ。ホムンクルスに関して第一を自負する家の当主が自分を創る最中に失敗したということは彼女のプライドを酷く傷つけているらしい。
だから、コンタクトや眼鏡に青く見える細工をして隠していないと、恥ずかしくて相手と眼を合わせるのも難しいそうだ。
今もちょくちょく視線を逸らし、誰の顔もまともには見ていない。
ここで悔しいのは、俺の眼を見て恥ずかしがっていたことについて『俺にほれた?』などと勘違いしてしまっていた俺自身だな。
「イリヤに殺されたって言ってたけど、それと記憶が関係してるのか?」
「ええ。私の場合は仕掛けたときまでの記憶しか基本は受け継がれないので……これは、いつか研究資格を得て大図書館にでも行けばわかりますが、私は後継者であるホムンクルスを創る際に自分の胎内で育てます」
「妊娠ってそのままの意味、だったのか?」
だが、アデットはその言葉に首を振る。
「人の妊娠の場合と同様に論じることは出来ません。胎内での育成期間が80週間、その代わり腹が膨らむことはない……他にも違いはいくつもあります。それで当主以外のホムンクルスは、予備みたいなものですが、それらも一応私の工房の装置に入っていますから、私の輪廻が終われば彼女が目覚めることでしょう」
「要するに、死なないってこと?」
浅海は少々生々しい話を聞いて、ジュースでお口直し中。綾音は、その程度のこと知らないなんてそれでも本当に名門の出なの、とでも言いたげな視線を彼女に送っていた。
「死にましたよ。私の母の代までは」
「母親って言うのも俺にはよくわからないんだけど、その人もアデットなんじゃないのか?」
「いいえ。私とは違う魂が宿っていた私ですから、そうですね……いつもずっと一緒に過ごしてきた双子、みたいな関係でしょうか。妹、というより私以外の後継者になれないホムンクルスもいましたが、基本的に彼女たちは研究素体です。自分に試す上で、自分ほど人体実験の被験者にふさわしい身体はありませんから」
「怖い事いうなよ」
「そうでもありませんよ。先ほどの妊娠の話ですが……母は私の先代、無限の輪廻を回り続ける技術を完成させた人ですよ? 面白いことも考えましてね、ホムンクルスを育てる器官を身体から摘出した上で育てる……なんてことが可能になったのも自分を材料に研究したからだ、と教えてもくれました。お陰で、吸血鬼の王に五回殺されても私は彼の弱点をゆっくりと考えながら色々と用意できました」
「……先程から見ていましたけど、シュリンゲル卿の身体は私が『壊し得る』人形とは違うようですね?」
「綾音さん、貴女に怨まれるようなことをした覚えはないのですけど」
「仮定の話です。何故ですか?」
「それはこの身体が不完全な代物だとしても、あくまで人に含まれる程度の誤差しかないからですよ。人の魂も宿っていますしね。系統が違うので断言はしませんが、綾音さんがうまく創れないのは魂というものを創る段階で決定的な失敗をしているからでしょう。イリヤさんはその点がうまいですから、きっとあの人の人形に対して強力な打撃を与えることは出来ても、壊せないでしょうね」
「でも、やはりわかりませんね。シュリンゲル卿ともあろう人が、わざわざ自分の胎内で育てる必要がありますか?」
「それについては、大図書館にいけるようにパスをとってから調べてくださればいいのでは? 尤も、その資料はヘルメス本院の方ですから二重のパスが必要ですけど」
「……余計な心配とは思いますが、分院との統一をキャッスルゲート卿に提案しておけばよかったのでは?」
「無理です。向こうはイリヤさんの個人的な協会ですが、私には代表権がありません。それに、錬金術師が一人もいない分院との統一など誰が望むでしょう?」
ちなみに、ヘルメス本院というのは錬金術協会のことで、分院というのはイリヤが大昔にただの人間が魔術を用いずに奇蹟をなす技術を開発する部署として発足させた、ヘルメス院の機関だったらしい。
尤も、『美少女ロボットを作りたい』と願うそっちの趣味の人々が集まっているだけの変態集団だという噂が数世紀も語り継がれているらしいので、なんとも言えないのだが。
イリヤが立場上六協会と対立するようになってからは、彼を支持した分院が独立して両者の交流は千年以上途絶えたままなのだとか。ヘルメス分院は通称『プロメテウスの裔』。
イリヤ本人と彼の自動人形以外に魔術を知るものは誰もいないのだが、科学の力で似た現象を起こす、いわゆる『錬金術師』の集まり。現在、分院はイリヤが住んでいる馬鹿でかい城の庭にあるらしい。
俺が行くなら、むしろこっちのような気がするのだが。ヘルメス分院の知識は外の世界とは次元違いらしいから、やっぱり無理か。
宇宙船や数百年も生きる人間、強化人間だとか……分院の知識を用いれば、一晩で世界秩序が崩れるほどのオーバーテクノロジーというのだから、変態集団も流石にやるものだ。
その後も色々と質疑応答が行われ、漸くアデットが開放されたのは既に十時を回ってから。
「まったく、土曜の夜はついてないですね」
携帯電話も、眼鏡も、自分の身体に合う服も全て失ってしまったアデットは学校に行く必要もなくなった自分が明日からどうすごそうか考え始めていた。
「それより、二人はスタニスワフを捜す時間じゃないの?」
浅海に言われて気がつく。確かにそんな時間になっている。
「公明さん、私がしばらくここで寝起きして困ることはありますか?」
「アデット、悪いがそれは犯罪だと思う。どっかの国なら言い訳無用で逮捕じゃないのか?」
「そうかもしれませんが、いきなりこんな姿で教会に行けばフェルゼン神父が慌てるでしょうし、向こうには着る服もありません」
「それくらいは奢ってやるよ」
「吸血鬼を探すにしても、ミルチャさんが動けない今は公明さんたちと行動を共にした方が効率はいいでしょうし、ここで同盟も悪くはないかと」
小さな女の子がこちらに哀願するような視線を送ってくる。確かに、こんな体格になってしまった彼女を一人でうろつかせるのも拙いか。
「わかったけど、綾音は?」
「どうして私が?」
「どうしてって、お前……俺たち一緒に探してるんだぞ?」
「私は別に……貴方がいいと思うのなら、反対する立場にないもの。勝手にすれば」
「まぁ、そう怖い顔しないでくれよ」
「では、身体の復旧に必要な体液の採集にもご協りょ……いたっ」
綾音の一撃がアデットの後頭部を打った。悪ふざけのつもりの一言だろうが、その手の悪ふざけはこの面子にはやめておけばいいのに。
「あまり調子に乗らないでください。いくら見た目が若くなったといっても、こちらは元を知っているんですからっ!」
まぁ……二人きりで言われたら、ちょっとやばかったかもしれないが。ロリコンとかという意味じゃないが、嫌だけど元に戻るために必死になるというシチュエーションが……エロイ。
「叩かなくてもいいじゃないですか。ホムンクルスの完成前に生まれた以上、本来与えられるはずだった魔力豊富な血液や体液を取り込む必要が、ですね……」
「でもねぇ、アデット。公明のどこにそんな魔力があるのよ? 大体、血液なんて飲んでたら吸血鬼と変わらないじゃない」
「ああ。生体構成要素の補給という意味合いが濃いので、精液とかなら別にそこまでの蓄えは要求しな……痛っ! ちょっと、綾音さん。ここはまだ叩くところじゃありませんよ!」
「駄目です。そんな姿で、そんなことをして許されると思っていらっしゃるんですか」
「わかりましたよ……妥協しましょう。玲菜さん、綾音さんどちらでも構いませんから口付けして唾液の交換でも……あ、痛っ」
「どうせ舌入れ込みなんでしょう? 嫌よ、気持ち悪い。想像するだけでも吐きそう」
「むぅ、簡単に頭を叩かないで貰いたいですね。大体、それをやったとして一時的にしか戻れないというのに、いつまでも初心な事を……お二人は小学生ですかっ!」
「……千尋、今朝からご飯も食べてないけど本当に大丈夫なの?」
部屋の外から母親の声が聞こえた。
昨日の激闘の果て――スタニスワフは何とか家まで辿り着いてくれたらしいが、千尋の髪はショートヘアになっていたし、体中にいくつも傷があった。こんな状態ではとても誤魔化せそうになかったので、土曜でも休みにならない学園を仮病で休んでいた。
そして、時は既に夕暮れ。
スタニスワフは消費が激しかったのか、今朝からずっとまともに会話もしていない。千尋はただ布団に包まって、呼びかける母に頭が痛くてもうしばらく寝かせて欲しいと返した。
なかなか納得しなかった母だが、日頃から素直な彼女のわがままをたまには聞いてやろうとあきらめてくれた。
部屋の中がすぐに沈黙した。
体中の傷も一応は包帯や傷薬で手当てしたが、すぐに治るものだろうか?
『……ふぁあ、よく寝た』
耳元から聞こえたのは吸血鬼にはらしくない間抜けな欠伸。
だが、千尋は少しほっとした。自分を喰ったという怪物の生存がどこかうれしかったような気がする。それは彼が取り付いた人間に植え付ける潜在意識下での刷り込みの結果なのかもしれないが、不快ではなかった。
『千尋、こんな時間なのに何してる……いつもなら、勉強の最中じゃないのか?』
「いいえ、今日は学校を休んだの。こんな傷だらけの身体ですもの、学校へ行ったらすぐに怪しまれてしまうわ」
『ふぅん。何て言うか、別に怪しまれても構わないんだがな……親が不良行為を犯した娘の噂を広めたがると思うか?』
そう言われて考えてみた。確かにあの両親は世間体が気になるらしい、日頃からそんな噂ばかりしていた。
「吸血鬼さんって、よく見ているのね。確かに、二人ともそんな人間だったわ……でも、それにしても行動が制限されるんじゃない?」
『構うかよ。アンタもそんなこと気にする性質なのか?』
「あはっ、どうだろう……そういうこと、あんまり深く追求したことないから」
『はぁ、しかしヤバイな。魔力のストックがほとんど空だぜ? わざわざ魔力溜めようと思ってたのに、まるで逆……おまけに腹は減るし、踏んだり蹴ったりだ』
布団から這い出た千尋は、パジャマ姿のまま窓の前に立った。カーテンの隙間から見える六時の景色は既に薄暗く、肌寒ささえ感じた。
十月二十一日、既にそんな時期になっていたのだと改めて思う。
「ねぇ、吸血鬼さん」
『ん?』
「昨日の白い女の子、公爵の娘って言ってたけど」
『吸血鬼の世界にも貴族はいる。連中は魔術師の世界で高位の貴族をしていたのがほとんどだから、吸血鬼になってもそのときの名残で爵位を名乗るのさ』
「へぇ……いつの世界でも、どこの世界でもそういうことする人はいるのね」
『まあな。それで、連中の爵位は半ば自称だ。元々、吸血鬼の世界には貴族なんて存在しないからな、当然自称するしかないわけ』
「じゃあ、実際に偉いわけじゃないの?」
『おいおい、オレのご主人もその一人なんだぜ? それをあんまり馬鹿には出来ないだろ』
「ふふっ、確かにそうかもね。あっ、雨だ……天気予報だと月曜からだったのに」
外を見ていると、青い屋根に水滴がポツリ。それが徐々に数を増していって、すぐに強い雨に変わる。
『でも実際、連中は爵位に関係なく強い。元々アデプトでも上位の連中だから……オレじゃどうにもならん。特に、公爵は別格だ。あのお方は実際も公爵だし、吸血鬼の世界でも公爵……公爵って言えば一番上だろ?』
「イギリス、それに日本でも昔はそうね。それって、偉いってことでしょう?」
『他の爵位は違うが、吸血鬼の世界で公爵を名乗っていいのは三人だけ。今じゃ、事情があって実質は公爵イコールあのお方となる。イフィリル様とあのお方は最低でも大達人……わからんだろうが、化け物だ』
それは真実その存在を畏怖する声。相手がどれほどの存在かわかった気がする。
「……私もお腹が減ったわ。吸血鬼さんは私の食事だけじゃあ、魔力回復しないの?」
『オレ自身の回復もあるからその点は気にするほどのことじゃない。ただ、魔術は精神的なものが大きく作用する。精神の飢餓を満たす意味でもそういう食事が必要なんだ』
「私は……別に心の底から両親を愛してるわけじゃないけど、食べられるのは嫌かも。殺されるのも多分つらいわ」
『……別に、嫌なら別の奴でも替えがきく。無理してアンタを壊しても、オレが困るだけだ。体の移動は結構な大事だからな』
「ありがとう」
『勘違いするな、オレは別に殺さないといってるわけじゃない。壊れる確率が高い相手を狙う必要はないって言ってるだけだ。アンタも、今までに何人も下僕に変えてるんだぞ……ちっ、だから人間なんて好かないんだ』
「……ごめんなさい」
『あ? まったく煩い女だな、アンタは! 何謝ってんだ、オレは……ふん、まあいいさ』
「だから、ごめんなさい」
『……本当に……はぁ、ちょっと手を借りるぜ?』
耳元の声がそう囁くと、右腕が勝手に上がった。そしてそこに握られていたのは昨日の本。
『口も、少々借りるとするか……』
「あ……よし、じゃあ取り敢えず傷の再生だけはしとくぜ? 行動を制限されれば、オレも損だからな」
そう言うと、千尋の口が本に描かれた呪文を唱えた。自分が意識していない言葉が次々と紡がれていく感覚はどこか不思議な感じがした。
呪文が完成すると同時に、窓ガラスに映った千尋の髪や顔の傷が一瞬で復元したのがわかる。時間を巻き戻したような魔術の発現に、思わず感嘆の声を漏らしかけた。
「じゃあ、取り敢えずこれで食事にはいけるだろ。オレも身体の持ち主が栄養失調になっても困るからな……はっ、あれ……? 私、に戻ったの?」
『ああ、じゃオレは寝る。アンタが面倒な事させるから、魔力のたくわえなんて出来やしねえ……ああ、そうだ。この前ポリから分捕った拳銃があったな?』
耳元の声が告げるのは三日前に吸血した若い警察官が持っていた拳銃のことだろう。高位の魔術師相手では意味が無いといっていたが、ついでだからという理由で持って帰ってしまったもの。今は机の鍵付き引き出しにしまわれていた。
「ええ。鍵もちゃんとかけてるから、大丈夫よ」
『非常時だ、あんな玩具でも無いよりまし……月曜からの学校には持って行くぞ。ついでに明日は安息日ってことで、オレは完全に休業する。家からは絶対に出るなよ、絶対に。王冠に見つかれば処刑は間違いないし、公爵の件もあるからな』
「キャッスルゲート卿……マルドゥークさま?」
『はぁ……? おいおい……記憶まで融合だと? 何なんだ、アンタは!?』
「何って言われても……よくわからないわ。多分、頭のおかしい高校生なんじゃないかしら」
『……馬鹿? いや……そうか、なるほど。これがイフィリル様の言っておられた、悪魔……やられた。オレとした事が狙う相手を間違えたな』
「?」
『千尋は名門の出でもないくせに、才があった。要は、一点だけオレみたいな歴史のある一門のそれに匹敵するいい物を持ってた。レアケースだ……本当に運がない』
「よくわからないけど……私も魔術が使えるってこと?」
『厳密には違う。アンタが大した訓練も無く使えるのはごく一部のものだけで、他の一般的なのは何十年単位の修練の果てに使えるかどうか、ってとこ』
「魔術を使うのに、そんなに修行がいるの? 私も、勉強すれば使えたりするの?」
『あー、煩いな。何代も魔術に携わってる家系、つまり魔術世界の貴族に当たる家系の人間なら大した修練もなく魔術を使うさ。だがな、素人から入ればそれに至る道が長い。じゃ、今度こそ寝るぜ。絶対に詰まらないことでは起こすなよ』
「……おやすみなさい」
『ああ、案外ウザイ女だな! ガキじゃあるまいし、何が『お休みなさい』だ。馬鹿か……』
言葉のわりには大して悪意の感じられない言葉。千尋はもう一度『おやすみなさい』と小さな声で彼に告げていた。
「数得てみれば、スタニスワフも随分と増やしたじゃない」
誰もいなくなった会社ビルの屋上から街を眺めるアンジェリカが呟く。真っ白い傘を広げ、ビルの下を歩く人間達を見下ろしていた。
「へぇ、今どれくらいいるの?」
金髪の青年が彼女の横から聞いた。
「ふふっ、そういうのは秘密よ。ねぇ、どうせアイツに手が出せないなら……執行官たちが全滅すれば面白いと思わない?」
実に楽しそうに語るアンジェリカを見て、青年は肩を竦めた。顎で彼女の後ろを指す。
「そんな真似をすればもう一度斬る」
聞こえた声は冷たかった。かすかに剣の音も聞こえる。
「――ちぃ。でも、あたしはまだ魔力も回復していないもの。悪いことなんて、出来る訳ないでしょう?」
なおもビルの下に広がる人の海を眺める彼女は実に不機嫌そうに言った。そんな様子を心配して、プリメラが弱々しく呟く。
「そう邪険になさらなくても……きっと姉さまが活発でいらっしゃるから心配されたのですわ」
「煩いっ! あたしの腕を斬って、その後で心配? 笑わせるわ、本当に笑わせる……宜しいこと、あたしに今度あんな真似をすれば許さないから」
「……取り敢えず、静観だ。公爵さまもどちらに肩入れするつもりもないとの事、勝手に介入など許されない」
「くぅ……テランの銀狼、あの女がお父さまに適当なことを吹き込むから――その上、たかだか二百年しか生きていないシュリンゲル如きがお父さまに命令したのよ? 貴方たちはそれを見過ごしてさぞ満足でしょうね! 度し難い無能揃い……兄じゃなかったら殺してるわ」
「それは奇遇だな。私も妹でなければ、斬っている」
「……本当に下らない! もう飽きたから霧海の下見にでも行くわ、ついてこないで」
見物を取りやめ、階段に向かうアンジェリカに付き添おうとする影が二つ。
「――あたしはついて来るなと言ったのよ、逆らうなんて生意気だわ」
「でも、姉さまお一人では……公爵さまのお帰りもあと少しのはずですし」
「そうそう、僕が思うに今夜辺りはアンジェリカの歌が聞きたいと仰るんじゃないかな?」
その言葉にアンジェリカの足が止まる。そして、そのまま振り向かずに答えた。
「……ふん、お父さまに貴方たちの下手な歌なんて聞かせられないわ」