吸血鬼スタニスワフは日本人の少女の姿を借りて今夜も三人に牙を立てた。本来は相手を食すことに生き甲斐を感じる性分だけに相当ストレスがたまってもいる。
だが、狙いをつけた魔術師を捕えるにしても手駒が無いことにはこの身体では満足に動けない。それを解決するためには一人でも多くの屍鬼を作り出さなければならない……のだが、すでに六体が吸血鬼狩りに殺され遅々として集まっていない。
追跡者は王冠のサーシャ。
自分を追うには少々強過ぎる……そうぼやいてみたくもなる相手。古い話だが、悪魔に憑かれた人間――顕現した邪神にも匹敵するそれを滅ぼしたとも言うのだから尋常ではない。
特に使い魔のドラゴンに至ってはヒドラみたいなもので、一個小隊にも勝るのだとか。あの男の祖先に当たる錬金術師とはそう悪い関係でもなかったことを思えば因果な関係だ。
今動員できる手駒はせいぜい十二体――これでは少な過ぎるし、自分の知識を多少とも受け継いでいるとはいえつい先日まで人間だったインスタント吸血鬼は満足に自分の食事さえ確保できていない。
不満だ。こんなはずではなかった。
インスタント如きが自分への手がかりになっては困る。だから、接触は控えた。遠隔地の下僕に意思を伝えるのはあまり得意ではなく、簡単な命令しか伝えられないことも作戦を難しくしていた。
また、夜の間はいいが昼の間は妙に少女の意識が自分に抗うようになってきたことも不快だ……恐らくストレスで精神支配が崩れ始めているのかもしれない。
あくまで彼女の存在を殺せない以上は昼の間の行動について彼女を支配して操作するしかないのだが、これでは時間が削られてしまって効率が悪くなる。
飢えも酷い、このような飢餓を感じたことは少ない……腹が減れば喰う。そんな生活を続けてきたからだろう、我慢はすぐに精神を冒す。
これは冒涜だ、芸術的な料理人に対する冒涜だ――そう思いながらも結局、誰の肉も腹には収めていない。
『飢餓は酷い、飢餓は苦痛、飢餓は呪い……冬が怖い、冬が怖い、白が怖い…殺される、白に殺される……』
月夜の晩である。完全に支配され虚ろな眼差しの少女の頭の中でいつも口調の荒い吸血鬼は震えるような声で延々と呟いていた。
虚ろな意識の中で彼女にはわかった――吸血鬼は今夜もばれることなく血を吸って眷族を増やした。だが、支配から解き放った上で東欧に残してきた連中は皆殺しにされたようだ。
吸血鬼は恐れている。自分も殺されるのではないか、と。
誰に? 人間に殺されるのではないか、と恐れている。
月夜をふらふら歩いていた少女――黛千尋はゆっくりと自分の家の門を通り抜け、静かに扉を開けようとした。家族には手をつけていない。殺せば近所に怪しまれるかもしれないし、会社や学校の同僚が連絡を取ろうとするかもしれない。
例えわずかであろうとも敵に察知される可能性がある以上危険は冒せなかったし、千尋の精神が壊れてしまうと昼間の活動に支障を来たす。
今はまだ彼女をコントロールできているが箍が外れてしまえば、どうなるかわからないのだ。
その上、無関係な人間も料理していない……使い魔がそこら中を徘徊しているこの街でゆっくり料理などしていてはすぐに補足されるだろうし、千尋のスケジュールも思ったより詰まっていた。
何より、ちょうど良い厨房が見つからないのも癪に障る。万事がうまくいかない。このままでは飢餓でおかしくなりそうだというのに、最悪だ。
「あ……あ、あの……吸血鬼さん?」
独り言のように呟く。事実それは独り言だ、周囲には誰もいないのだから。
だが、心の中の何かは吐き出し続けていた呪詛を中断した。
『……五百年間で初めてのケースだ……アンタはオレの精神力に打ち勝った、のか? いや、この精神の苛立ちの原因はアンタなのか?』
「わからない。でも、貴方を知っても驚いていないっていうことは違うと思う」
呟きが誰にも聞こえないようにもう一度門を出て近くの橋の上に移動する。
『それはどうも参考になる回答をありがとう。どうやら月夜の晩でさえも飢えを抑えるために衰えた精神力ではここまでということだろうよ。いや、もしやアンタのポテンシャルがそれを許すのか……まあ、今更遅いか……喰ったわけだし』
笑いを含んだ声。心の中で響き渡ったそれは、すぐ耳元で聞こえたような気さえした。
「私は、死んだの?」
『いや。現に生きてる、そして話して呼吸もしてる。普通考えてそんな死人はいない』
「でも、今『喰った』って」
『オレは特別でね、魔法使い様がご主人の貴族様と一緒に作ってくれたのさ。ヴァンパイアを色白の紳士だと思っているこの国の人間は知らないだろうが、故国では二つの命をもつ怪物だといわれてた。それを実現するのがこの身体、いうなればオレは今アンタの一部でしかない。同時に、アンタも俺の一部でしかない。悪いが、死ぬときはアンタだけがこの世から消える』
「……」
『おっと、怖いだろう? オレは人食いでね、アンタが死ぬまでの間に色々と喰おうかと思うんだがそれはもっと怖くておぞましいだろう?』
「いいえ」
『へぇ、それはまたどうして? 既に何人も怪物に変えたからか、それとも別な理由が?』
「わからないけど、貴方と一体になったからだと思う……それとも頭がおかしくなったのかも。こんな危ない会話が耳から聞こえてくるんですもの、発狂したのかもしれないわ。いいえ、そもそも異常って言うのは正常な状態の定義がないと判断できないわ。私には、そもそも何が正常なのかの判断力が希薄だったから、異常を異常と思えないのかもしれない」
『なるほど、確かに影響はあるかもしれない。始めてのケースだし、アンタは落ち着きすぎてる。元々心根に闇があったからかもな、いつか人間を殺しかねない黒さがあったか』
「そうなんだ……あはは、狂っていたのなら私は幸せね。狂人は正常に振舞えないのに、それを正常と思い込んでいるのだもの。きっと、私は正常を異常と思っている。ということは、やっぱり私は異常を正常と認識する反社会的な思想の持ち主なのよ。それはきっと……」
『狂っているのはそう悪いことじゃない。そういう人間はうまいから。オレはね、欲望を抑えて生きてる連中を解放してやろうとしてるだけなのさ。いうなれば天使みたいなものだな』
「勝手な言い分。ねぇ、吸血鬼さんがいっていた『魔法使い様』って……何かの隠語?」
『いや――イフィリル様という本物の魔法使い。というより、神さまといえばわかるだろう?』
「……あは…魔法ってあったんだ。それに、神様まで」
『ほう。アンタは最初から何処か壊れてた口みたいだな。嫌いじゃないぜ』
眺める光景は綺麗な夜景。実に気持ちのいい風が吹きぬけ、空には月が輝いている。
「ねぇ、吸血鬼さんは男の人……だよね? 声は女の人だけど、わかるの」
『へぇ。オレは男、だったのか。そう断言されるのは初めてだ。普通の奴は女というが、こういう場合はそれが真実なのだろうか。あるいは歪めているのか』
「見た目は女の人だと思うけど、やっぱり私には男の人だとしか思えない……だけだから、結局のところ根拠はないの。違ってたらごめんなさい」
『いや、それが多分正解。実際、オレもよくわからん。親父は物心ついたときには男だと言っていたんだが……で、十二の誕生日を迎えるころにはやっぱり女だと言いやがった。だがまあ、それはいい。そうだな結局のところ、今は両性具有とかいう言葉があるが、それなわけだ。当時はバフォメットなんてものがにわかに信じられてて、それの呪いとも言われたが何のことはない、ただそういう形をしていただけだ』
「そうなんだ。私はボゴミール派、だったかしら? それの考え方が真理なんじゃないかと思ってるから、人の形にはあまり意味がないと思うの。だから、男の人だってわかったと思う」
『変わってる。というより、その考え方は向こうじゃ異端だ。何しろ、悪魔が人間の体を作ったなんてまともに言ったら狂人としか思われない。専門じゃないから詳しくは言えないが、それは嘘であり、本当。悪魔は神の蔑称だぜ、オレたちは都合の悪いやつは全部悪魔呼ばわり。都合のいいやつだけが神なんだ。だから神は素晴らしい、となるわけだ』
「そっちこそおかしいわ。キリスト教なら神は一人しか……」
『あんたはクリスチャンかい? 生憎だが、オレはそういうのは信じない。話は脱線したが、結局オレは男だと思ってるわけだから見た目がどんなでも男で正解なんだろう』
「……ねぇ、吸血鬼さんはあの人を殺したいの? 殺して食べてしまいたいの?」
『そうだな。特殊な体質のせいかもしれないが、オレは他の連中よりも多くの魔力が必要なんだ。生きるため、というよりもまともでいるためって言えばいいのか。アンタにはわからないだろうが、吸血鬼の中じゃオレは異端なのさ……なに?』
そのとき、千尋も気がついた。
いつの間には橋の上に立ってこちらを見つめていた白い影に。
『クスクス……人の目は気にしないで。あたしがここを封鎖したから』
彼女は白くさえ見える、緩く波打つ艶やかなプラチナブロンドの髪を背の半ばまでふんわりと広げ、黒いリボンをつけていた。美しい西洋人形がそのまま歩いているような、美しく整いすぎた美貌。
街で見かければ思わず振り向いてみたくなる可憐な美少女。その肌は病的なまでに白く、白い長袖のゴシックロリータ風のドレスで、履いていたブーツも白かった。
ドレスには黒いフリルがいくつもついていて、彼女の容姿をますます人形じみて見せていた。首からは真っ赤な宝石が輝くペンダントがぶら下がっていた。
だが異質な部分もある。黒くて頑丈そうな拘束具が両目を覆い隠し、短い鎖が繋がった鋼色の首輪が細い首を覆い隠していたのだ。
でも、それでもなお彼女の美貌は損なわれていない。信じられないことだが、それは事実。そして千尋にもそれがわかった。
『フフッ……いい夜ね、そちらは散歩の途中だった?』
「……」
少女が自分の口で話したのではない。彼女の首輪、それが合成音声を流したのだ。だとすれば、彼女は口が不自由ということだろう。
『クスクス。ご挨拶も無いのかしら、スタニスワフ。わざわざ街に『聞いて』貴方を見つけたのよ、会いたくて』
「……」
『はじめまして。あたしはアンジェリカ、アンジェリカ・ブリュンヒルド・フォン・ハイゼンベルク侯爵。お父さまに頂いた名前、可愛らしいでしょう?』
世間の人間がそれを聞けば思わず漏らしたであろう――鉱山王ハイゼンベルク、と。
世界の鉱物価格を支配する大財閥を受け継いだうら若き令嬢がちょうどそんな名前だったと知る者はほとんどいないかもしれないが、その家名は広く世界中に知られる。
だが、スタニスワフが漏らしたのは別な感想。
『ハイゼンベルク……白機士だと?』
それは千尋にもかすかにしか聞こえないような呟きだった。故に思わず口にしていた。
「白騎士?」
それを聞いた少女は口に手を当てて上品に微笑する。それは可憐な、実に洗練されたしぐさだった。
『あら品性のない人と聞いていたけど、人の噂は当てにならないものね。意外に物知りな貴方に敬意を表すわ』
『千尋。あれはあのお方の娘、皇女ハイゼンベルク。魔術史にそう何人もいない達人クラスの、次元違いの魔術師』
「あのお方?」
『あのお方だ、公爵以外に誰がいる? オレの言葉を伝えろ……いや、それも面倒か。アンタはしばらく眠れ』
その瞬間に少女の瞳が朱に染まる。闇の眷族にふさわしい光が灯る。
「……本来ハイゼンベルク卿と呼ばれて然りの貴女が何故こんな国に?」
『お姉ちゃん? いえスタニスワフのようね、まぁ実際はどちらかわからないけど。わかるでしょう? お父さまはお怒りなの、狩人をこの国に招いた貴方に対してとても怒っていらっしゃるの』
彼女は公爵の思い人の性格を反映させた結果だと云う話を聞いたことがある。今、会って分かったことだがどうやらそれは確からしい。
彼女は傲慢、とても自尊心が高い。しばらく前にあった神代の時代の姫も同じような高慢な態度と侮蔑するような視線をこちらに向けていた気がする。
同時に、彼女とは別のものもある。公爵に対する狂信じみた愛情がひしひしと伝わってきたのだ。
直感が告げる――この少女、ハイゼンベルク侯は今まであった魔術師の中で最も危うい。彼女は吸血鬼の自分にとってもあまりに危険だ、恐らくとても強い。
「何を言う。あのお方がこの国に何故やってこられるというのか。それほど暇でもあるまい、それにあのお方は六協会の魔術師やサンタクルスの殺し屋どもと友誼を交わして……」
そう、公爵が自分を殺しに来るわけがない。同胞を手にかけるのは禁忌、理由もなくそんなことをするのは仮の王位に座る彼女くらいのもの。公爵は彼女とは違う、いや彼女が異常なだけだ。
仮に公爵が誰かを殺しに来るとすれば、理由は一つ……ベルジュラック卿に手を出した者を殺すときだけ。
かつて知る――彼女に手を出した者の末路を。
老貴族はそれを知っても怒っている風ではなかった。むしろ、面白いことだと笑っていた。
だが、そいつと出会ってしまったとき殺戮は始まる。
絶望的なまでの強さに蹂躙される幾百の人間達、体が紙のように散っていく光景。それは無残という言葉さえ浮かばないほどの圧倒的な力の行使。
自分では例え一万年生きても勝てない相手だと畏怖した。
あれは人がどうこうできる相手ではない。『第三の試練』に打ち勝った錬金術師とはそれほどの怪物なのだ。
あの公爵を知っていて、尚且つあの姫君のような希代の大魔術師に手を出せる人間などいるのだろうか?
いや公爵一人であるにしても、それを相手に喧嘩するものがいるとすればクラリッサ・ヴァン・ヘイデンかオルジェ兄妹のような連中、そのほか幾人かの馬鹿な正義感くらいのものだろう。
ましてや、姫君を傷つけなどしたら助かるわけがない。
そんな公爵が自分を殺しに来るなどまさにお笑い話。自分は姫君を傷つけるほど馬鹿ではないし、そもそも彼女に戦いを挑むほど愚かではない。
そう言いかけたとき、大気が鳴動するほどの殺気を孕んだ風が橋の上を疾駆した。
『黙りな、クソ蟲! 調子に乗って適当なこと口走れば、その減らず口引き裂くよ』
それが本性か。少女とは思えない凶暴な物言い、呪いを込めたような合成音声だった。
『……あら、失礼。でも、何て畏れ多くて穢らわしいことをいうのかしら。お父さまをクラリッサ・ヴァン・ヘイデンみたいなメス豚と一緒に論じるなんて度し難いわ』
滅多に表に出てこない公爵の四人の護衛の一人ハイゼンベルク侯。彼女は機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)とまで呼ばれた、人を超える自動人形の魔術師。
例えミサイルを持ってしても傷をつけることが出来ないといわれる公爵の錬金術の結晶である骨子、魔術さえ大半のものを弾く外皮、弾丸の軌道を見切る動体視力、どれをとっても今のスタニスワフがどうにかできる次元を超えている気がした。
「あのお方の玩具に過ぎない分際で、オレにそのような口を利くか。いや第一、この行動とて貴女の独断だろう? あのお方はオレなどに目はくれないはずだ。オレはリリエンタール閣下をお救い申し上げるためにベルジュラック卿の宝剣を……」
『無学な猿風情がお父さまを知っているような口を利く。ああ、お父さまの真意を解するのは世界であたしだけ、お父さまに愛される資格があるのも、犯される資格があるのも私だけ。それなのにベルジュラックですって、お父さまを惑わす驕慢で礼儀知らずの牝犬……あれはいつかあたしが嬲り殺してやるの、そう留め置きなさい。そして、聞きなさい、あたしは貴方に対して殺意にも似た怒りを抱いているの。お父さまに寸毫でも危害が加われば、誰であれ許しはしない。有象無象関係なく、殺すわ』
その言葉は狂信者のそれ。
公爵本人には数得るほどしか会ったことのないスタニスワフは思う、この少女は絶対に欠陥品だと。恐らく、いや絶対といってもいいだろうがこの行動は彼女の独断。
公爵が如何に常識を忘れていても、彼はここまで馬鹿ではない。
彼女が人ならざる身で語る言葉は狂気さえ迸らせていた。異論などその存在も認めはしないだろう。それを思えば気が滅入る。
「落ち着いて話を聞けハイゼンベルク、そして少し待て。いや……如何に貴女とはいえオレを殺せるか? 貴女の兄上なら兎も角、貴女にオレが殺せるとは思えない」
『貴方を殺せるか? フフッ、今更そんなことを聞くなんてやっぱり低能な猿ね。あたしは四色が一、白のアンジェリカ――四人の中で、いえこの世で最もお父さまを敬愛するもの。可能不可能は二の次、その穢らわしい血の一滴とてこの世に残しはしないわ。お父さまのご到着までにこの街から狩人を引き離しなさい、それが貴方の命の期限よ。仮に狩人がお父さまに手を出して御覧なさい、ソイツもお前もバラバラにして豚の餌よ』
「……黙って聞いていればいつかもわからないあのお方の到着を期限だと。ふざけるなよ、サンタクルスの派遣執行官は封印専門の連中を連れていないのだ、それならあのお方に誰が傷を与えられる? それに、もしオレが約束を守れないといえば、どうする? 例え約したといえど、確実に果たせるというものでもないだろう。あのお方がここを訪れるとすればオレも見過ごせない。何より、閣下の復活がオレにとっての最優先課題だ。それは譲れん」
『あたしと同じで忠義に厚いのね、意外だわ。でも残念、運命って皮肉。後腐れのない様に今ここでブチ殺すことにするわ』
「ほう――面白い、やるというわけか。だが、そちらの売った殺し合いだ。協定違反でもなければ、オレとあのお方の争いではないと明言させてもらう。気の進まない同胞殺しをさせるんだ、それくらいは当然だ」
『黙りな、白痴。このあたしを下品で低俗なエテ公の同胞呼ばわりするなど万死に値する』
千尋の姿を借りたスタニスワフが自らの影に手を翳した瞬間、その手には古めかしい魔導書が握られていた。
それを見たアンジェリカは一瞬で20メートルもの距離を後方に飛びのく。まるで飛翔したかのような超人的な跳躍、少女の筋力のなせる業とは思えないものだった。
『盾の魔導書……ルギエレ教典ですって!? そう、兵葬宝典を持ち出すなんてね……生意気よ!』
その言葉と共に喉を締め付けていた首輪に手が伸び、すぐにそれが取り外された。取り外した首輪を首の代わりに手に嵌めると、彼女はまるで天使のような声で、星にさえ忘れ去られた言葉を紡ぐ。
「フェジナ・イア・ル・ゼリューテ……」
言葉こそは理の全て。彼女の言葉は即ち言霊。
並ぶ者なき至高の才を持つ言霊使いハイゼンベルク、それはその分野における頂。世界の法則さえ書き換えてしまう言葉、遥かな昔に彼女が公爵から与えられたのがそれ。
空から金属の水滴が落ちてくる。
「――っ!? ちぃ、血の盟友たちよ、我がよるべに従い……銀月の円卓に集え」
落ちてくる金属の水滴は地上に到達するときには丸い金属球となってアスファルトに転がっていく。それを見上げたスタニスワフは叫んだ。
なんとその金属水滴の出所は橋そのもの。橋を補強するはずのアーチ状の鉄骨が金属光沢を放つ汗をかき、零れ落ちた汗が金属球となっているのだ。
拳よりやや小ぶりな金属の雨が降り注ぐ中、嫣然と相手を見据えたアンジェリカとそれに対峙するスタニスワフ――両者の間の殺気だけでアスファルトやコンクリートには亀裂さえ走った。
同時に手を翳したスタニスワフの足元に三重円の魔法陣といくつもの数字や文字が光と共に出現した。そして一層光が激しくなった後それが晴れたとき、スタニスワフの周りには四人の屍鬼が立っていた。それぞれが日本人の若者たちだ。
だが、それを見てなおアンジェリカは余裕だ。
「驚いた? あたしこそ星の言葉を紡ぐ吸血姫。森羅万象遍く全て、あたしの声に抗えるものはないわ。ふふっ、そう、それでも逆らうの……鉄壁といわれる魔導書だけあって、丈夫な結界ね。わかる? それがなければ、その薄汚い肉の塊は今すぐにでも内側から蒸発してるのよ。あの牝犬に地獄で感謝するのね、お陰で余計に苦しむことが出来ましたって」
世界の理さえ覆す美声で哄笑する白の吸血姫……いや吸血機というべき代物。四色の中で二番目に強いといわれたものの正体がまさか同胞とは思いもよらなかった。
そして、彼女の気性はやはりあの女吸血鬼を思わせる。複雑な出生ではあれど、その身が貴族連中と同じ高位の吸血鬼であることに変わりは無い。いや、ある意味においてはそれより始末が悪いといえた。
「煩い、道化人形が!」
「ふん……狗の分際でよくも吠える。雑兵など千いても、万いても同じだと識りなさい。死にながら識ればいいのよ、自分というものの分際をね。じっくり噛み締めればいいわ、ボロ雑巾みたいにズタズタになった体を抱えながらあの世へ行けばいいんだわ!」
白い影が揺れた。
両者を避けるように自らの身体を梳った鉄骨は既にギロチン刃のように姿を変えている。降り続けた金属の雨もやみ、両者を隔てる邪魔者は消えたといっていいだろう。
スタニスワフの下僕達が相手に対して身構える。だが、戦闘に関しては受け継いだ知識以外ないに等しい彼らの足は即座には動かなかった。
いや違う、経験不足のみならず彼ら自身が身に着けている衣装が彼らの身体を拘束してしまっているのだ。服はまるで鋼鉄のように身体を固定していた。
「玩具如きがよくもこう世迷言を並べる……梳る風、吹き荒ぶ流れよ、荒々しく大地穿つその御手を我に……」
スタニスワフが本を相手に向けて翳して、異国の言葉によって紡いだ呪文は周囲の風の流れにさえ干渉していく。
それを黙ってみているアンジェリカでもない、現存する一部の真祖を除けば音を拾うことさえ難しいだろう速度で一気に魔術を完成させていこうとした。彼女の魔術は周囲に干渉する類のものだったのだ。
「ル・ジェレリテス・ヴァルテ・イア……」
その魔術式は高度にして難解、しかしその奇蹟は代償に比べて高すぎはしないだろうか。
零れ落ちていた球がまるで意識を持っているかのように、ただ獲物を目掛けて獲物に狙いをつけた捕食者のように中を浮遊して襲い掛かったのだ。その速度は音速さえ超える――地上で最も速く空を飛ぶ蝿さえ追いつけないかもしれない。
わざわざ空間転移ほどの高等魔術を駆使して呼び集めた僕はその瞬間に肉の塊に変わり、塵と化してしまう。いや、そこまでの攻撃を誰が予想できただろうか。
弾丸の雨はまさしく縦横無尽に橋の上を飛び回り、アスファルトを削り取り、欄干をへし折り、コンクリートさえ抉ってしまう。
「くっ、理によりて……」
数百もの弾丸が一度にスタニスワフを貫いたかと思った瞬間――信じられないことに弾丸が触れる寸前に砕け散り、あるいは軌道を完全に逸らされた。スタニスワフの身体を完全に守りきる強固な結界がそれを成したのだ。
逸らされた弾丸はすぐに軌道を修正し、再び攻撃を仕掛けては次々に砂塵と化していった。かすかな欠片が頬や脚にかすり傷を与えながらも、魔術を完成させようとした姿勢は崩れることが無かった。
それを見つめながら思う。
公爵を相手にしていたならば、この結界を持ってしても拳の一振りで即死していてもおかしくない。対して、アンジェリカにならこの本を持ってすれば拮抗までなら叶いそうだ。そういう意味で安堵した。
そして、全ての弾丸が消失したのと同時にスタニスワフの術も完成を見る。
「――叩き潰せ!」
完成と同時に指揮者のように腕を振ったスタニスワフ。
その動きを見た瞬間、未だに塵が舞って視界さえまともに確保できない橋の上で一気に蹉跌の霧が切り裂かれる。
「あはっ、やるぅ! ヴル・レ・ヴュラ……」
霧を裂いた真空の刃が白い魔術師の身体を切り裂かんと一気に襲い掛かってきたのをアンジェリカは華麗な身のこなしで一撃、二撃、三撃とかわしていく。
一撃が地面を叩くたびにアスファルトが消し飛び、コンクリートにさえ鮮やかな切り口の傷が生じた。それは見えない悪魔の手といって過言ではなかろう、スタニスワフが腕を動かすたびに風の剣が敵を求めて橋の上を蹂躙しつくすのだから。
「――ヴュラ・ベステム!」
何十という攻撃をかわし続けたアンジェリカの身体を風が捉えたのと、橋を支えるワイヤーが蛇のようにスタニスワフに襲い掛かったのは同時だった。
凄まじい衝撃と共に砂塵が舞い上がる。アンジェリカの身体を完全に粉砕したとしか思えない一撃が橋全体を揺るがした。スタニスワフに襲い掛かったワイヤーの蛇たちは彼に触れる寸前で結界に細切れにされて全てが塵となる。
凄まじい閃光が結界を駆け巡り、眼前が完全に白色で覆われた。スタニスワフは思わず腕で目を保護する。土埃が今にも壊れそうな橋の上に立ち込めている。
車道は既にズタズタ。アーチ状の鉄骨は無残に痩せ細っている。ガードレールも風の刃にあるいは粉砕されあるいはアンジェリカの弾丸に蜂の巣のように破壊されている。
膝を突いていたスタニスワフが立ち上がり、右手を一振りした瞬間に砂塵は消失し、アンジェリカが叩きつけられた爆心地までの障害は無くなった。
「んっ、ふふふっ……流石は盾の兵葬法典ルギエレ、ヤズルカヤ公の魔術の結晶ね。まさかあたしの声が貴方まで届かないとは思いもよらなかった。低脳女もやるときはやるということね」
瓦礫が動く、白いドレスを纏った魔術師が爆弾でも炸裂したかのような瓦礫の中からそれらを掻き分けて立ち上がったのだ。
彼女の姿はまさしく満身創痍――直撃を防ぐために咄嗟に顔を覆った両腕は骨まで覗くほどに抉られて真っ赤な肉の塊に過ぎないものに変わっていたし、白い髪も風の刃に切り裂かれて短くなっていた。
魔術による障壁さえ容易に打ち抜いた強力な一撃を受けたのだ、むしろ生きていることの方が奇跡的でさえある。彼女の右太腿にはアスファルトの破片が深々と突き刺さり、とても動けるようには見えない。
彼女のような可憐な少女のこんな無残な姿を見れば多くの人間は同情を禁じえなかっただろうし、卒倒したかもしれない。
だが、スタニスワフは違った。この圧倒的に有利な状況下においてなおその顔に余裕も感じられない。その証左としてすぐに次なる魔術の詠唱に入っていたのだ。
「御手に輝く高貴なる星の輝きを……その剣と化して……」
自分の足に突き刺さった破片を何の躊躇も無く引き抜いたアンジェリカもなにやら口走った。
「ふん。醜い豚ぁ、目障りだから消えなさい――ヴュラ・ヴァルテ・イア・ベステム!」
「!? なっ!」
アンジェリカの詠唱は一瞬だった。
だが、その言葉が熾したのは悪夢のような魔術。スタニスワフが詠唱の途中にあってさえ見上げた上空、ダイエットでギロチンの刃と化していた橋のアーチが物理の法則を無視した動きで自分をめがけて振ってきたのだ。
思わず標的を変えて自らに襲い掛かる鉄の刃に向けて手を翳した。
「――我を導くそなたの御名において彼の者を消却せよ」
襲い来るギロチンの表面の鉄が熱したナイフを当てたバターのように溶解、いやスタニスワフの手から放たれた灼熱は鉄さえ燃やした。
だが、大質量の前でその行為は無意味。既に焼け石に水である。咄嗟の判断で右に避けたが少し間に合わない。
盾の魔導書の結界さえ力任せに粉砕したギロチンが風に靡いた髪に触れた瞬間、その部分が一瞬で頭から離れていく。まさには抜き身の真剣のような切れ味だった。
だが、それだけではない。ギロチンが橋を叩いた瞬間の衝撃は凄まじく、寸前でかわしたスタニスワフの身体は他の瓦礫と共に宙に舞ってしまう。
橋が受けたダメージは既に深刻であった上、そんな大魔術が炸裂してしまったためにほとんど全体に渡って大きな亀裂が走った。
橋の構造をもってしても衝撃を抑えることは叶わなかったのだ。一部の決壊さえ始まる。
「はぁ、はぁ……」
再び舞い上がった砂塵――地面に叩きつけられたスタニスワフは結界の効力でほとんど怪我も無く着地できたが、気配が消失した敵の攻撃に注意を払わねばならない。
再び砂塵を吹き飛ばそうとした瞬間、自分の背後に凄まじい閃光が走ったことに気がつく。
だが、それに気がつくのが遅すぎた――結界を抜ける際の衝撃で既に炭化さえしていたアンジェリカの腕が振り向いたスタニスワフの胸に触れようとする。
触れたかと思った瞬間、いやその直前でアンジェリカの腕が悲鳴を上げてあらぬ方向にへし曲がってしまった。
しかし、彼女の進撃は止まらない。
悲痛だ、だが止まらない。
へし折れた腕はスタニスワフに触れる前にそのまま腕からはなれ、結界に焼かれて消失した。スタニスワフの身体に触れたのはむき出しの白い骨の剣、関節を前にわずかに残っていた骨が刃となってかわしそびれたスタニスワフの腕をえぐったのだ。
本来は心臓さえ抉り出す攻撃だったのを咄嗟に出した腕が防いでくれたのだ。
「あ……」
対処魔術を発動させる暇など無かった。それを確信してのアンジェリカの行動だったのだ。自らの腕を失いながらも彼女の口元に浮かんだ笑みはとても人間がするようなものではなかった……鬼気迫るほどに美しく、凄絶であった。
「あはっ、捕まえた。死になさい、クソ豚!」
ダメージを受けただけではない、凄まじいスピードで走りこんできたアンジェリカに触れられたことによる衝撃が頭頂から爪先に抜けていったのだ。スタニスワフの身体が橋の上を転がり、滅茶苦茶に破壊された道路の上に倒れこむ。
「っ…あっ、ああ……痛っ」
立ち上がろうとする脚は既に動くことを拒否しているようだ。立ち上がらせてくれただけでも感謝せねばなるまい。血が噴出す腕を押さえながら、何とか立ち上がらせてくれたのだ。
だが、逃げることが出来なければこの身体は死ぬしかないだろう。満身創痍の視線の先、スタニスワフを弾き飛ばした小さな魔術師が笑みを浮かべている。
すでに黒い塊と骨に過ぎない右腕と血の塊になっている左腕、彼女とて余裕など無いはずなのに苦痛さえ感じていないのか。
「梳る風よ……ごほっ……」
「小達人レベルの呪術師だっただけのことはあるわね。対術式加工された皮膚に加えて、ザグロシア製の骨子まで砕くなんて驚きだわ。でも残念……復元機構発動――認証暗号『ヴォルーメン・パラミールム』」
黒い塊が動く。その中から白い骨がより露になっていく。本来なら苦痛だろう、痛くないはずが無い。
だが、アンジェリカの傷だらけの身体を見ればその異変に気がつく。体中の傷に銀色の鱗のようなものが張り付き始めているのだ。
「不思議かしら? そう、貴方も知っているように貴族であってもルギエレ教典に記された魔術をまともに受ければ、命だって危ないわ。でも残念、例外であるあたしにはそんなの効かないのよ。アハハッ、だってお父さまは最強の吸血鬼、第三に至った至高の錬金術師、あたしを所有できる唯一のご主人様、他の無能どもとは段違いのお方ですもの。これくらい当然だわ」
骨だけになっていた右腕も鱗に覆われ、それが厚みを増していく。だんだんと腕の形を取り始め、それは即座に本来の彼女の身体を復活させた。
「ふうん。一時的とはいえ加護が失われた今流石に骨子は再構成できないようね。でも、それが何の意味もないとわかるわね?」
アンジェリカはそういうと、骨がないのでぶらついていた腕に復元途上の左腕を当ててなにやら呟いた。
それがどういう意味をなしたのか、右腕の皮膚に幾多の赤い文様が刺青のように浮かび上がって骨のない腕をまるで問題なく動かしてしまったのだ。
それを予期していたのか、スタニスワフは唱えていた魔術を完成させる。
「――切り裂け!」
目に見えない三連の刃、鋼鉄さえ切り裂く魔術の風が今宵最強の威力を持ってアンジェリカを襲う。アンジェリカはその強烈な風の中でもそれが見えたのか、全て華麗にかわしていった。
だが、最後の一撃をかわす寸前橋の上にスタニスワフが放った強烈な炎によって視界が狂う。同時に風の刃も熱波によって軌道を変え、それがアンジェリカの胸を深々と切り裂く結果となる。
胸のペンダントが衝撃で砕け散り、白いドレスも滅茶苦茶に引き裂かれ、彼女の体は決壊寸前の橋の上から下の川まで吹き飛ばされてしまった。
同時に、アンジェリカが最後に放った言葉が橋自体を一瞬波打たせ、一気に自壊へと追い込んだ。
それにより、橋は消失。
それから少しして橋の周りが騒がしくなってきたとき、川辺のブロックに這い上がる白い布切れを身に着けた少女の姿があった。
体中は水に濡れ、大半の魔力が失われた。戦闘継続は魔力の回復まで不可、回復までにかかる時間は推定で73時間。
夜の加護を持ってしても、この水というものだけは未だに克服できない。
だが、公爵は克服している。特殊な方法を持ってだが、それだけでも新しい発見。そう思えば、誇らしくて笑いが漏れる。
「くはっ、あはっはは、殺し損ねちゃった。お父さまには何て言い訳しましょう――!?」
そのとき、誰も近くにいなかった気がしたのに彼女の両腕が第二関節から斬り離された。苦痛はないが、驚愕した。
彼女の目の前に気配を消して現れ、容易には斬れないこの身体を簡単に切断した者。ステッキ状の仕込み杖を持った異国の老紳士の姿がそこにある。
「随分と勝手な真似をしたな、アンジェリカ。公爵さまを放ったらかしにした上、協定に反する戦闘を行うとは……卿は一体どういうつもりなのだ」
彼を見て、アンジェリカは身が竦んだ。剣がこちらを向いていたからだろうか。
「貴方、エンリル・キャッスルレー……あ、いえ、兄上。ひっ……あの、あっ、あたしはお父さまのためを思ってやったのです。ええ、そうよ。そうだわ、お父さまの手を煩わせるなんて、あんな豚はさっさと殺さないといけないから……あたしはお父さまを愛しているのよ、わからないの?」
恐怖する。彼女より確実に強い自動人形に、自動人形であるはずの彼女が恐怖する。
赤機士エンリル――ルーン魔術師でありながら、魔術よりも鍛えた剣を持って最強となった、アンジェリカの兄に当たる存在。魔術など必要としない最強を実現した意味では公爵に最も似ている。
四千年近い年月を延々と修行し続けてきた騎士で、魔術師としてのレベルが達人の域にすら至っていないというのに強い。
特殊な技能などないに等しい。魔術のレベルもごく標準的。それでいて強さはアンジェリカさえ越える、これは彼女にしてみれば反則だ。
機械が自分を鍛えるなど愚かなことだと思うかもしれないが、魂を持つ彼ら四体は違う。魔術さえ使うのだ、それは生きている人間と変わらない。そう創られたが故に、彼は絶対の忠誠と向上心を持って四体の中の最強となった。
次にはアンジェリカの両脚が切断された。吸血鬼の復元力を持っても回復できない聖剣ソウルイーター、その傷は彼女の復元機構を使ってもこれを繋げることは叶わない。
剣はベルジュラック卿自慢の傑作五本の中の一振り、その使い手ゆえに最強の剣にも勝るといわれる彼の愛剣。使い手の強さからエクスカリバーなどと揶揄される切れ味を誇る。
「なにをなさるのっ! あたしは貴方たちがお父さまを軽んじるから、こうして殺しにやってきたのよ。それを……この恩知らずがっ、お父さまこそはあたしたちの創造主なのよ。それを守ろうとして何が悪いの? あたしがどうして罰せられなければならないのよっ!」
鞘に納まった剣は紳士が持っていてもおかしくないステッキにしか見えない。彼はステッキの先を足元でわめく少女の背中に力強くたたきつけた。
「あぐぅ……があっ、いたたた痛い、やめて。止めなさい、痛いわよ。離して、さっさとそれを離せ!」
鞘である杖の部分に仕込まれた魔術の発現。北欧にあって語られるガンド魔術がその正体。アンジェリカであっても魔術が効果をなさないわけではない、その例がこれであった。
「口を慎め、発声器を潰すぞ……卿はそれで公爵さまの意見を代弁したつもりか。実に勝手な言い分だな、公爵さまはこんな大事を起こしたことに困惑しておられる。サンタクルスの元老に圧力をかけた上での来日に水を差すとは、卿は一体何を勘違いしていた?」
それを聞いて、アンジェリカの表情は固まる。
ステッキは既に身体から離れていたが小刻みに身体が震え始め、天使の美声が満足に発音さえ出来ないでいる。
「う、うそ、うそよね? あたしがお父さまを困らせるなんて、それじゃあ逆よ。そうだわ、逆なのよ。あたしは、悪くない。あの……あたしは悪くない、悪くないのよ。アイツが、スタニスワフが悪いんだから。さっさと殺されないからこんなことに……いつもみたいに誤魔化せたのよ、帳尻は合うはずなんだから。それに、シュリンゲルがお父さまにあんなことを言うから、だからお父さまは一々苦労なされたんでしょう! アイツが悪いんじゃないの。貴方も馬鹿よ、アイツらが悪いのにどうしてあたしにお仕置きするの? こんな仕打ちをして、お父さまに訴えてやるんだから」
「……卿の言い分は了解した。公爵さまに対する忠誠心の顕れとして今回は私が便宜を図る」
内心苦々しく思いながら、それを表に出すことなく彼は少女を許した。アンジェリカはすでに何度独断で勝手なことをしただろう。
少女を何百人も手にかけた。公爵の近くにいる女は誰であれ殺してきた。公爵がそう設計していなければ妹さえ殺しかねないだろう。
考えるだけでため息が漏れる。
だが、彼女は公爵が愛する娘の一人。彼がどうにかできる相手ではない。
「……まったく、難儀なことだ」
「あっ、ありがとう。長兄エンリルに感謝を」
手足のない少女を抱え上げた紳士は彼女の体にコートをかけてその身体を隠してやる。
そして、片手に持った仕込み杖がきらめいたかと思うと凄まじい斬撃で少女の手足が完全に粉砕された。秒間何回斬られただろう、高速の剣の前にオリハルコンよりなお硬いといわれたそれは一瞬で消失してしまう。
「公爵さまの性癖にも苦労する。アンジェリカ、卿は公爵さまに愛されていることを感謝するべきだ。最初からあのお方は娘には手を出さないのだから」