伝染する吸血鬼――始まりはポーランドの小さな寒村での出来事
赤い雪が降る厳冬の年、村人が一人ずつ消えるという怪奇現象が起こったという
領主に取り立てられ、皆が貧しかったとはいえ其処はごくごく静かな村で人口は千人にも満たなかった
そんな閉鎖的な空間で七人もの人間が忽然と姿を消してしまえば大事件だ
案の定、村を統治する代官が忽然と消えた村人達を捜し始めるまでにそれほどの時間はかからなかった
南欧では何度目かの黒死病の蔓延、西欧では大きな戦争が行われていた時代なのだから逃げる場所は限られる
村の農奴に逃げられたとすればエルベより東の地にあって代官の責任は重い、逃げ出した村人の家族もただでは済まないだろう
消えた村人を探した代官は消えた村人の家族による必死の訴えもあって、彼らを処罰する前に少し前から奇妙な悪臭を放っていたある家を捜索することになった
ごく普通の真面目な農夫だった青年の家――しばらく前から彼の家族の姿を見なくなり、同時に彼の家族が消えた辺りから村人が消え始めたのだ
扉が開けられたとき、青年は食事中だった
代官の命を受けた兵士はその食材が肉であったことから、裕福でもないはずの彼が何処からそれを持ってきたのかと問い質す
部屋の中には動物の骨や皮で作られたような家具が散見され、台所では物が腐ったような酷い悪臭が立ち込めていた
兵士はその悪臭に耐えながら、青年に回答を急がせた――家畜を盗んだのなら大罪だ
彼の家に家畜はいなかったのだからその可能性以外には考えられない、本来ならその場で捕まえても悪くはないだろう
だが、それでも回答を待ってやった兵士たちは青年から肉をご馳走されて上機嫌だったのだ
すると、青年は満面の笑みを浮かべて答える
兵士達が食べたのが行方不明になった人間達だ、と
食料が欠乏していた時代にあってはそのようなこともある――最近では20世紀、旧ソ連で起こった大飢饉の折には人が人の肉を食べて生き延びた例もあった
戦時には、例えば戦乱に覆われた時代の大陸などでは籠城戦の折、食料の尽きた状況でそんなことが行われたという
だがこれは大陸特有のことではなく、日本でも籠城戦などでそんな記述が散見される
また、戦時に限らずとも20世紀後半に南米で山中に墜落した飛行機の乗客たちがそうやって生き延びたこともあった
これらのことから極限状態では人も人を食べる、とわかることだろう
また呪術的な意味合いでそういった行為を行う民族もある――南太平洋のある島では、優れた祖先の勇気や知識を受け継ぐためにその肉を食べるという風習が政府によって禁じられる20世紀まで存在したし、南米のある文明にあっては10万人もの生贄が神に捧げられ、儀式の後その肉を食べたという記録もある
生贄に捧げられた多くが戦争捕虜や奴隷であったとはいえ、10万人とは即ち当時の人口1000万の1%にも匹敵する膨大な数であったという
食人行為が禁忌とされるのは18世紀末からの啓蒙主義の流行以降のことだという説さえあり、人々の間に心理的な状況の変化が起こったから、と考えることも出来る
ただ、そうは言っても挙げられた例はあくまで特殊な事例であり、それを好んで食すのはやはりごく一部の疾患を抱えた者達――異端者だけであろう
事件に戻ると、この年は近年稀に見る豊作であり、青年の家も決して食べられないわけではなかった
また、この土地に食人の風習は存在しない
戦乱はフランスやドイツで起こっていることであり、この土地まで戦火は及んでいない
以上のことから最早弁解の余地はなかった、人肉を食わされた兵士たちもその行為への嫌悪感からその場で剣を抜いて彼を処刑してしまう
首を落とされた男の体は八つ裂きにされて、その首はしばらく村の入り口に晒された
その後の捜索の結果、彼の家には墓場から掘り出された死体から取り出した皮や肉で作られた家具まであったことがわかり、消えた村人も全て彼の家で食材か家具に作り変えられていたことが判明する
殺人鬼は殺され、村人達は事件を解決してくれた兵士達への感謝を惜しまなかったし、漸く訪れた平穏を心から喜んだ
だが、本当の恐怖はその後始まった
捜索が終了した後、わずか一ヵ月後に再び人が消え始めたのだ
死の恐怖が村を覆い尽くす
再び訪れた兵士達が捜索すると、今度の犯人は村のはずれに住む老人だった
彼は縛り首にされ、その遺体は焼き尽くされた上に灰を川に流したという
だが、それからまたすぐに人が消え始めたのだ
その犯人も捕まえて処刑したが、また次の犯人が登場した
最後に兵士が村を訪れたとき、何かが起こる
一人も村人がいなくなった村は地図から消され、虐殺はただ一人村から逃れた兵士の町に飛び火していく
兵士は住人を食い殺した時点で処刑され、その死体は焼かれた上に川に捨てられた
だが、その町でも次々に起こっていく殺人事件
後に、その連鎖する悪夢の正体に挑んだ魔術師がいた
若く聡明なルーン魔術師シュテファン・シグルドリーファ――後の世で語られるルーン魔術の巨星、20代半ばに過ぎない当時にあってさえその名声はすでに北欧全域に知れ渡っていた歴史上稀に見る天才の一人である
その正体にあと一歩まで迫った彼の活躍から、現象の正体が吸血鬼スタニスワフと呼ばれる怪物の仕業だとわかった
文献にある限り、魔術師は食人鬼であった人間を日光の下で消滅させたという
捕えたスタニスワフ本人の額に刻んだ焔のルーンが吸血鬼の身体を灰に変えた、と
如何に修行中であったとはいえ最高を謳われることになるルーン魔術師の渾身――それを受けてなお滅びないのは、歴史上数百も存在したという吸血鬼の中でもオルジェの王族くらいのものだ
本来、その状況なら最古参の貴族達さえこの世に痕跡も残さず消滅することだろう
だが彼がその地を去って後、再開する殺人事件
その後も何人もの人間や魔術師が犯人を殺し、あるいは処刑し、あるいは自決させているにもかかわらず、スタニスワフは滅ぼせなかった
故に云う――彼の者は伝染する狂気である、と
彼の者が限りなく不死であることはすでに説明したが、未だに判明しない疑問もある
兵隊種の吸血鬼は貴族種に比べれば不死でもなんでもない――如何に数千年を生きようとも彼らを滅ぼす方法はいくつも考えられているのだ
本来、日光の下でなら単純な物理攻撃で滅ぼし得るはずの兵隊種――彼の者が不死であるのは如何なる原理によるものなのか?
彼の者の不死身の秘密は今をもっても知られぬ謎である
唯一の手がかりは、彼の者に不死の力を与えたリリエンタール卿とベルラック卿のみ――リリエンタール卿が滅び去った今、スタニスワフを滅ぼす方法を識るのは最も不老不死に固執する神、彼女から情報を得るのなら世界と引き換えでもなければ望めはしないだろう
…………
……
「――以上があの後詳しく文献を探ってみてわかったこと……執行官は何か情報を知っていて日本まで追いかけてきたのだと思うけど、私たちがアレを探すのなら実際の事件を地道に捜査していくしかなさそうよ」
放課後、クラスと研究会の文化祭の手伝いをサボって綾音と一緒に訪れた喫茶店でスタニスワフ捜索の算段を立てているところだ。
アデットは案の定、吸血鬼のことを教えてくれたがこちらが探そうとしていることは伏せておいた。
彼女も放っておけば方がつくという態度だったのは少し残念だが、裏では自分も探すつもりなのかもしれないし簡単に判断していいことではないと思う。
浅海も研究会の方はサボったみたいだし、アデットも忙しそうだったのでどの道サボらなくても関係なかったかもしれない。
外はすでに六時過ぎ、喫茶店の一番奥の席に座っていた俺たち――店内に流れているクラシック音楽が会話を隠してくれているだろうし、ここで作戦会議をしても問題はなさそうだった。
「兵隊っていうのは、ベルラックとかとは違うんだろ。実際に敵を見つければ、お前でも勝てる?」
そうだ、実に簡単なことだが『見つける』と言い出した俺自身相手を倒す手段など持ち合わせていない……格好悪いが、見つければアデットたちに通報するか綾音に頼るほかないだろう。
当然、本で何とかできる相手ならば問題はないのだが、今まで俺よりずっとすごい連中が殺しても殺せなかった怪物相手なのだから誰にも頼るなといわれても正直困る。
「わかりません。兵隊というのは元々使い魔をしていたので吸血鬼になった主人の影響が色濃くて、強弱は様々。存在はしないけど、ベルラック卿の使い魔なら最強に近いかもしれないし、新参者の使い魔なら弱いかもしれない……でも、文献にある情報から『殺すだけなら』ただの人間にさえ可能だった……これが事実なら、貴方でも勝てるということになるわ」
「俺でも?」
「ええ。文献にある限り最初に吸血鬼を殺したのはエドワルドという兵士で、何の特殊能力もないただの人間だったの。仮に貴方が本を使えば確実に倒せるでしょうね……相手を倒す覚悟はある?」
真剣な顔だ――仮に吸血鬼を見つけるまではいい……だが、見つけてしまえば人間の姿をしている吸血鬼を殺さなければならないのだ。
出来るか、と綾音は問うているのだろう……出来ればそんなことはしたくない。
当然だ、一般人の姿をしている相手を殺すなんて……だが、探している途中に急に戦闘が開始されてしまえば殺す覚悟もない俺は相手に殺される。
綾音はそれを心配して、最後の確認をしているのだろう。
「出来れば、殺したくはない。でも、スタニスワフを探しているときに戦闘に巻き込まれるかもしれない。そんなとき、覚悟ができていなければ俺は多分死ぬ……そんな状態の俺なら巻き込ませないんだろ?」
「ええ。殺す覚悟もなく踏み込んでいい話ではないもの」
「……なら、俺はそのときちゃんと戦う。出来れば捕縛で済ませたいけど、無理かもしれない……最悪の事態を考えて計画を作らなきゃ駄目だからな。俺は仮にお前一人に責任を押し付けるわけにはいかない、だから俺は自分でも戦う」
「いい覚悟ね……承知しました――これより先、私たちは共通の目的を持つ盟友。契約の印を」
そう言うと、彼女は店内の客から見えないところでナイフを使って少し指先を切った。
指先の切り口からわずかに赤い血液が垂れる……それはそのままグラスの水の中に落ちていった。
俺と自分のグラスにそれを施すと、俺の手元にグラスを戻して指先の傷を絆創膏で止める。
「別に魔術ではないけれど、一種の誓い。私だけでなく、古い魔術師の伝統的な誓いの儀式……諸事情で少し簡略化していますけど、問題はないはずよ」
「飲めばいいのか?」
「ええ。古来より血液を飲む行為は他者を支配する、と云われていて魔術師が互いに相手を信用する意味があるの」
「なるほど」
そう言うと、血液がわずか数滴ほど混じったグラスの水を全て飲み干す。
グラスの底に残っていた氷の冷たさが歯に沁みた。
「これで私たちは目的達成まで互いの剣となり、楯となり、常に誠実な盟友として協力する義務が生じます。これは命を賭けて守らねばならない制約だと思って。少なくとも私はそう思いますから」
「わかった。俺も、てかそれは最初から覚悟の上だから念を押す必要なんてなかったのに……で、どうやって探すんだ? 新聞を見たけど、今のとこ事件も起こってないし……」
今朝の新聞を見たのだが、殺人事件はおろか行方不明事件さえ起こっていなかったのだ。
「いいえ、それは違います。行方不明事件というのは案外新聞には載らないし、殺人事件も発覚さえしなければ載らないわ」
「そりゃ……確かにそうだけど、だからって新聞を捜す以外にどうしようもないだろ?」
「安心しなさい、個人的な伝があります」
「伝って?」
「以前に縁のあった探偵で……なかなかの腕よ」
「おいおい、何でそんな人と縁があるんだ?」
「昔、父の言いつけで悪魔憑きを祓った縁で、その人は勤めていた警察を辞めて今は探偵をしているの」
「じゃあ、魔術を?」
「いいえ。あんな偏った才能を魔術師とは言わない……超能力者、と言った方がしっくり来ると思います。所謂、サイコメトラー……」
○○○○○
それから、七つも先の駅で電車を降りた俺たちはすでに七時半を回っているにもかかわらず、その廃ビルと見間違えそうな年代物の建築物に入っていった。
5階建てのレンガ造り、こんなレトロな建物が文化財にもならずに残っていることに驚きだ。
他に人が住んでいるのかどうかはよくわからなかったが、階段を上った4階……柊探偵事務所の看板が見える。
明かりの付いていた事務所にノックもなく入ると、所長の机に両足を乗せてふんぞり返りながら煙を吹かす30代後半の女性に気がつく。
ショートヘアで耳にはいくつかピアスをしている、水商売みたいに派手な服の女性――彼女もこちらに気がついてちょっと驚いた様子だった。
それにしても化粧の濃い人だ……綾音の知り合いとは思えない。
「お久しぶりですわね、小夜さん」
「――綾音? 電話で話したけど、本当に久しぶりだねぇ……一瞬誰だかわからなかったよ。そちらが、話の孔明かい?」
喋り方が年寄り臭い、魔術関係の人なら中身は六十代とかいうオチだろうか?
「あの、篠崎公明です」
「ああ……悪かったね。確か綾音がそういっていたと思ったんだけど、聞き間違えたようだね。それで、確か電話では人探しだとか……一体何処の誰だい?」
机に乗せていた足を床に下ろして、組みなおす小夜さん。
「あ、すまなかったね。座って構わないよ、そこ。汚れてたら適当に払ってくれておくれ」
示されたソファーの上の競馬新聞を払いのけると、俺たちは漸く腰を下ろすことが出来た。
「小夜さん。『誰』ではなく『誰が』行方不明になっているのか、ですわ。私たちはそれを知りたいの。この辺りで一番当てにされている人探しといえばここでしょう……何か情報はありまして?」
煙草をもう一度くわえ、少し考えるように黙り込んだ小夜さん。
「ふぅ……そうだねぇ。実際に依頼は受けていないけど、昔の職場関係からそういう情報は聞いているよ。と言っても、人数は五人程度……勿論これは一月の行方不明者じゃなくて、ここ一週間での家出する理由もわからない人の数だけど。これについては警察が理由もわからないっていうくらいだから、本当に理由が思い当たらないと思って構わないだろうね。少なくとも表面上は」
「適当に調書を取っている可能性は? 小夜さんの元の職場を悪く言って申し訳ありませんけど、どうも最近は不祥事ばかりが目に付きますもの」
「それは一部の事実を大きく伝えるからで、全体の質の低下とは云い難いだろうさね。悪行は善行の千倍伝わるのが早い、少なくとも私はそう信じるね。それに、情報元は私の元同僚だよ。彼は仕事を誤魔化すような人間じゃないから、信用なさいな」
「なるほど、それは失礼しました。こちらの浅慮をお詫びしますわ」
「どうも、相変わらず聞き分けのいい子だよ……さて、それで今回はこの行方不明者がどんな大事に関係してるって?」
「……その人たちの名前と住所、詳しい情報を教えてくださらない」
「理由は……聞かない方がよさそうだねぇ」
「ええ、命に関わりますわ。何時ぞやの悪魔の比ではありませんもの」
「本当に、魔法使いなんてのは因果なものだよ……綾音に紹介された私の師匠、半年の付き合いだったけどあの婆さんも忙しい人だったし……なんだかね。綾音のが仕事人の私より忙しくないかい?」
「普段はそんなことはありませんが、今は学園祭などで切迫しているだけですわ。それより、住所と名前を」
「……わかったよ、言うわさ……綾音の住んでる街に関係のある人間だけ言うからね。それと、このことは私の情報元の守秘義務に関わることだから口外しないこと、いいね? 女に二言はないだろうね?」
「はい、それで構いませんわ」
「じゃ、メモの準備をして」
「小夜さん」
「ん?」
「ついでに、その行方不明者の捜索について協力して頂けませんこと?」
「――最初からそのつもりだったね? 私も大概性質の悪い命の恩人に助けられたものだよ……まぁ、世間のためだから構わないけど。一応私も生活があるし、多少の給金は要求しても差し支えないだろうね?」
「ええ、無償で協力しろというほど私は傲慢ではありませんから」
「綾音……命の恩人だから多少は負けるにしても、高校生がポンッと払える額じゃないんだよ。即答なんかして、あとでどうなるかわかってるのかね? 本当に世間知らずのお嬢さんはこれだから駄目だっていうのさ……」
「料金については通常レートで構いませんわ。少し先に一キロほどの金塊が入る予定になっていますから。小夜さんこそお釣りを用意できまして?」
「一キロの金塊って……貴方たち、二人して銀行強盗でも考えてるのかい? 私の学生時代とはえらい違いだよ」
「小夜さんの突飛な想像力こそ、私は見習いたいですわね。それに、その時代というのは戦時中ですか?」
「嫌味で言っているのなら、綾音もいい加減嫌なお嬢様だね――何でも話せる友達、いないだろう? 猫被ってるみたいだし、いるわけないわさ」
「どうして貴女にそんなことが?」
「魔術の修行は半年で挫折した半端者だけどね、一応超能力者の名探偵だよ。懇ろになった相手といるときだけ口調がフランクになるだろう? それでも堅苦しいのは相変わらずみたいだけど」
そういえば、浅海たちといるときとは完全に口調が違う。
猫を被っていた?
それとも、こっちが地だろうか?
まぁ、あの家なら案外こっちの方が多くなるのも仕方ないかもしれない。
「堅苦しいなどと……失礼な。それに、私にも友人なら少しいます。兎に角、事は急を要しますから今夜からでも構いませんわね?」
「ふぅ……何のために事務所に所長が残ってると思ってたね? うちは基本的に夕方6時までしか仕事しない主義なんだよ、腕がいいからそれで食べていける訳だね。近所に車を停めてるから、取り敢えず街まで行ってみようかねぇ」
「小夜さん、自分だけの事務所で所長もないんじゃありませんこと? 見栄を張るならもう少し上手になさらないと意味がありませんわよ……それに、ゴミ箱に入っているインスタント食品のゴミの山、景気がいいようには見えませんわ。健康には気をつけないと、更年期障害になりましてよ」
「う、うるさい娘だよ、まったく。兎に角、急ぐんだろう……来ないなら置いてくからね」
その後、名簿にある行方不明者の自宅周辺を回り、彼らが日常利用していたと考えられる通路を調査した。
この夜は会社員のもの――通路で何かがあれば小夜さんが感じることが出来るらしい。
綾音にもよくわからないらしいが、小夜さんたち霊媒師特有の技術だそうだ。
詳しい原理は師匠から隠匿するように言われているとかで、小夜さんは話してくれなかったし俺たちも追及しなかった。
車が入れない場所も都市部にはかなり多い、路地裏を通る方が近道になる場合や市内電車なんかがあればそれだけであとを追いかけられなくなる。
そういう場合は案外すぐに訪れ、車が入れない狭い路地の近道を調査するために一度車から降りることになった。
「これだけ人通りがないと、元の同僚に切符を切られることも取り敢えずは大丈夫だろうね……さて、それじゃここからは名探偵様の腕の見せ所だよ」
ポーチの中から取り出した変な粉を小さじに一杯分程度紙の上に取った小夜さんは、それに他の粉も少量加えてタバコを作るときみたいに紙を丸めた。
「どうでもいいけど、小夜さんが今使ってるのは何だ? 傍から見れば、その……麻薬とかにしか見えないんだけど」
「公明、今は黙ってな。集中が大事なんだからね、集中が……」
しっかりとタバコ状にロールした紙を口にくわえ、もごもごしながらも小夜さんが怒鳴った。
「あー……すみません」
小夜さんは何度か指を鳴らし、そのタバコ状の紙にライターで火をつける……本物のタバコと同様に煙を一杯に吸い込んだ小夜さんは一度息を止めた後、吸い込んだ煙を一気に路地に向けて吐き出した。
そのときに何があったのか、小夜さんの額には汗が玉のようになっている。
「はー、はぁ……後は結果が出るのを待てばいいだろうね」
「いい結果が出そうですか?」
「あのねぇ、綾音。こんなに疲れる芸当をやたらめったらやるもんじゃないだろう? なにやら私の勘が臭いって言ってたんだよ」
「なるほど、確かにこの場所はあまりいい気配がしませんわね。空気が澱んで……幽霊が多い……」
「ふむ、そろそろいいだろう……じゃあ、ちょっと調べてみようかね。そこで待っておいでよ」
すると、両手を広げたまま小夜さんは路地を歩き始めた。
「――私はあまり詳しくは在りませんが、先程の煙は小夜さんの師匠直伝の薬で、捜索する相手の顔などを念じながら術者が煙を吐き出すことで、その周辺に存在する対象の記憶を活性化して必要な情報を見つけやすくするのだとか……気になっていたのでしょう?」
こちらを見ながら言う綾音。
「まぁ、確かに気にはなってたけどいいのか? ネタを教えても」
「真似が出来ることと原理を知っていることはまた別でしょう……あら?」
路地を真っ直ぐ進んでいた小夜さんが急に足を止めた。
よく見れば彼女が曲がろうとした路地の先に何か良くないものがいて、それに小夜さん自身が怯えている様子だ。
「――綾音……助けて」
震える微かな声が十メートル程度先にいる小夜さんから聞こえた。
その声が聞こえたときにはすでに彼女と俺は駆けていて、角を曲がった先にいる敵を見つける直前。
「……」
綾音よりわずかに先に小夜さんの前に立った俺は、野良犬の腸を食い散らかす三羽の巨大な黒い鷲を目にする。
同時に、鳥達の横で同じく視線をこちらに向けた紅い魔術師と俺の目が合った。
「……あ、あ、こんばんは。白川、それに……名前、気の毒な人。偶然、貴方たちも、探す、してる? あ、探してる、スタニスワフ?」
たどたどしい日本語で喋りながら軽く会釈した魔術師――既に頭の中は真っ赤だ、コイツを殴ろうとしていた決意が蘇ってきていたのだ。
「この野郎おぉぉ!」
綾音が止めようとするよりなお早く、この身体は走っていた。
この前の公園での出来事を忘れたのか、恐怖は何処へ行ってしまったのか?
注意力の欠片もない行動だ、これは蛮勇だ――全て最初は理解していた、でも相手を見つけてしまうと自分を抑えることは不可能だった。
「――?」
何をするつもりか理解できないのか、魔術師はただ自分に向けて走ってくる俺を見つめているだけだ。
「――めなさい! 止めなさい!」
遠くで綾音の声がした気がする、助けを呼ぶ悲鳴にさえ聞こえた甲高い叫び。
だが、既に構えた拳は止めることが出来ないほど加速して……ポカンとしていた魔術師の顔面を捉えていた。
相当量の魔力をこの一撃に込めた――借りは返すぜ、サーシャ・イオレスク。
拳に感じる相手の顔の感触、柔らかな皮膚を挟んで相手の骨を砕く位の一撃が助走をつけた俺の身体と共に前進する。
久しぶりに本気で人を殴った――魔術師の使い魔らしき鳥達も、魔術師自身もまさかこの命知らずの馬鹿者がこんな暴挙に出るとは思っていなかったのだろう、即座に襲い掛かるはずの爪や脚は止まったままだ。
一瞬、たじろいだ魔術師は口の中を切ったらしく、殴られた箇所を触りながら地面に血の混じった唾を吐き出した。
そのとき、紅い魔術師が俺を睨んだだけで、追撃の拳が止まる……ヤバイ。
「なかなか、いいパンチ。でも、人殺す覚悟が足、りない」
殺されると一瞬でわかるほどの殺気が込められた瞳――如何にそんなものに睨まれたからといって、本気になったらしい相手の目の前で止まったのは拙かった。
後悔先に立たず――止まらずに連打を浴びせていれば、結果はどう転んでいただろう?
紅い魔術師の身体が俺の視界から消えたかと思った瞬間――肝臓を抉り取るつもりなんじゃないかと疑いたくなる一撃が深々と腹に極まっていた。
さらに、こちらが防御体勢をとる前に続け様に放たれる拳の連打……迅い、それにすごく重い雨のようにガードをすり抜けてくる拳。
あっという間に俺の足は動きを止めて、迫り来る嵐にほとんど無防備なまま晒されることになった。
素人の防御などでは間に合わない、コイツ……ボクシングの経験が?
サウスポーのインファイター――テレビで見てても気がつかなかった、左右が違うだけでここまでやり辛いなんて……そして、ただの素人と経験者の差がこれほどに大きいなんて。
だが、考えてみれば当然だった――吸血鬼を殺そうって云う魔術師が俺より弱い訳がなかったのだ。
インパクトの瞬間の踏み込み、足の運び方、どれをとっても俺の遥かに上にある技量だ……魔力を溜めてガードすれば、後数発なら耐えられる……そんな誤算を打ち砕くようなアッパーが俺の体を宙に舞わせるまでに十秒もかからなかったかもしれない。
あるいは一分も立っていられたのだろうか?
どちらにしろ、最後のそれは冗談みたいな一撃――同じ人間が放った一発なのに、今までとはダメージが違う……それだけで俺の意識を刈り取るには十分だった。
身体が堅い地面に打ちつけられる前に、完全に意識は飛んでしまっていたのだから。
軽やかなステップから織り成される強力な拳はまさにボクシングの王道を行くかのような戦い方――そして、ここまで基本に忠実なボクサー相手ではヘビー級の世界チャンピオンでも一ラウンド以内にノックアウトされるだろう……魔力で強化された身体、そしてその風のような拳は既にただの人間がどうにかできるものじゃなかった。
一撃一撃はまるでバールで殴られたみたいに痛かったし、拳を一つ出す前に十倍もの拳が襲い掛かってきたのだから……格闘技を本格的に練習したこともない俺がコイツに対処するのは不可能だ。
そう……自分から殴りかかっておきながら格好の悪い俺。
相手が強過ぎた、つまりそういうことだ。
それにしても、グローブ無しだとやっぱり死ぬほど痛い……気を失う寸前に見た月はビルの谷間からこちらを哂っているみたいだった。
嗚呼、だが満足だ……ボロ負けした俺を哂いたいなら、好きなだけ哂え。
だが、これだけは覚えておけよ満月……俺はあんな化け物をたった一発とはいえ全力で殴ってやったんだから……少なくとも綾音の分の借りは返してやったんだから、これは殴った時点で俺の勝ちだったのだ。