そのとき、獣が迫る音と同時に場違いな拍手が聞こえてきた。
――パチパチ――
聞き間違いではない、確かにそれは戦場に響く拍手の音だった。
その拍手の主を探した獣と俺の視線は同時に、同じ場所を捉えた。
――森の中――
月の明かりが降り注ぐ――優しい光の下、拍手を送った相手の顔が見える。
それははっと息を呑むほどの光景、獣さえもすぐには動けなかった。
その場所には金髪に制服を纏った少女、そのブロンドのストレートヘアが月の光で輝き、白い肌はより白く見え、眼鏡の下の碧眼と俺の眼があった。
彼女は間違いなく、クラスメイトの生徒会長。
静寂が復権を果たした森の中、彼女は優しい声で語り始め、今まで背を押し当てていた木から体を離すとこちらに歩み始めた。
「素晴らしい頑張りでしたね、公明さん」
冷静にあの優しげな声で彼女が口にするのは俺の名前、俺を賞賛するために拍手する彼女はまったくこの空間の空気がわからないようだった。
これが夢でもなければ、こんな光景は在り得ない……俺はもう死んだのだろうか?
「■■■■■■!」
彼女の登場に呆気に取られていた獣は威嚇の姿勢を整え、低い唸り声を上げ始める。
それは犬が喧嘩するときに上げる威嚇の声に似ていたが、迫力はまったく違う。
目の前の巨大すぎる肉食獣が上げる唸り声はとても恐ろしい。
灰色狼フェンリル、北欧神話にあって忌み嫌われる獣、この狼はまるでそれのようでさえあったのだ。
「綾音さんも自分で豪語するだけあって、素晴らしい達人ぶりでした。ですが、これから先は私にお任せを……」
戦場を駆るヴァルキリー、死者を選別する死神にして侍女たる伝説の美女は彼女のような姿か? 獣の威嚇さえ風のように受け流し、道上に歩み出たときに口にしたのは自らが獣を討つという非常識な回答。
膝が震え、肩が震え、背中の傷が痛む、俺は倒れた体で何とか立ち上がり、彼女に避難を促そうとしていたのに……咳きをするだけで、痛めた内臓から血が噴出し、口から声も満足に出せない。
それに、体を起こすことは出来ても、立つことは無理そうだ。
「このアーデルハイトが、玲菜さんのお相手を務めさせて頂きます」
獣には本能でわかったのだろう、俺の相手をしていれば後ろの騎士に一撃で殺されると。
獣は俺など決して振り返らず、クラスメイトの少女に全力を尽くす姿勢を示した。
「公明さん、その怪我、とても痛いことでしょうね。後で治して差し上げますから、今しばらく我慢してください」
余裕――風に向かう柳の木のように緩やかに少女は構える。
モデルのように長身とはいえ獣から見ればその身長の半分を少し超えるかどうかという大きさの少女は、恐ろしく自然に獣を迎え撃つ姿勢をとった。
そう、彼女の靭やかな筋肉がわずかに緊張し、目の前の怪物を迎え撃つ準備を整えたのだ。
それはボディービルダーのような筋肉の塊ではなく、体操選手のような必要最小限に絞られた筋肉であると制服の上からでもわかった。
芸術的な肉体美、離れていても月の明かりがそれを照らし出す。
色香も感じられるが、それは欲情の対象になどなりえない彫刻に見るような純粋な美しさ。
「■■■■!」
突然、爆発したような獣の襲撃。
大気を奮わせるものすごい咆哮と共に大地を蹴り上げ、そのアスファルトの道路さえ削って全力で少女に突っ込む筋肉の戦車。
当たれば彼女の体はバラバラにでもなりそうな、そんな狂気の暴走。
しかし、それは少女の手でまるで魔法のように受け流され……驚くことに獣は自身の攻撃で腕をへし折られた。
一瞬の動き、まるでそれは一呼吸のもとに行われた演舞であるかのように綺麗だった。
鮮やかで美しい――一瞬のうちに獣の懐に入った彼女がその体をどうしたのかもよくわからないうちに見事に投げ飛ばし、その際にガラスの割れるような音を立てて獣の腕がへし折られたのだ。
そう、それはまるで魔法のような光景で、巨体が少女の腕で面白いように軽々と投げられ、その拍子に腕がへし折れたのだ。
綾音の早すぎる舞いとは違う、目で見ることが可能な優雅な舞いというべきだろう。
サルサとワルツと例えられる両者の違いは明らかだった。
少女のそれは合気道に似た動き。
別に極端に早かったわけでもないのだが、そもそも荒削りな獣に対しては綾音が取った戦い方――速さと力に勝る相手に速さと力で挑むよりも、今の彼女の戦い方の方が向いているのかもしれない。
「もう終わりですか、玲菜さん……こう言ってもわからないかもしれませんが、無闇に命を殺めることは懸命な魔術師の道ではありませんよ。ですから、理性でその呪いを鎮められませんか?」
金髪の少女はすでに狼男の腕を放し、十分に距離を保っていた。
見つめる先では首を振りながら、へし折られた自分の腕を見つめる怪物。
腕は見事に折られ、そのままありえない方向に曲がっている。
人間なら全治一ヶ月以上は確実な大怪我だと誰もが思うだろう。
だが、獣はその程度ではどうにも出来ない。
折られた腕は一瞬でほとんど折れた瞬間に再生され、まったく動じることなく、獣は再度攻撃を仕掛けた。
涼しげな少女はその余裕を失わず、再び獣との間に有利な距離を保つ。
「わかりませんか? こちらには殺意がない、そちらは殺意だけ……これではその攻撃があまりにも読みやすくなります。賢明なら心を落ち着けてください……無理ですか、やはり」
歌うように呟く少女は円を描くような流麗な体捌きで獣と戯れるように、獣の腕や足をへし折った。
全て獣自身の力で折れるように計算された技、流れる流水に触れることが出来ない獣はまるで遊ばれているかのように無様な醜態を晒した。
とんでもない達人、あれが人の力の極点の一つだということは明らか、そう、彼女は少なくともその超人的な動体視力以外に何等特殊な能力を発揮せず、人ならざる獣を圧倒しているのだ。
舞うように、踊るように、歌うように彼女は獣と戯れる。
理性なき怪物ゆえにその動きは彼女にはとても読みやすかったのだろう、その体に触れられることもなく獣は投げられた。
だが、それを何度か繰り返すと、獣の動きは次第に洗練されていく。
それはわずかな時間のうちに少女の制服の端がナイフの爪に切り裂かれるほどになった。
それは学習などではなく、研ぎ澄まされる本能の力といった方がいいだろう。
まるで本能のままの予想も出来ないほどの動きで少女に襲い掛かる獣、それを相手にすれば、どれほどの武術の達人でも先ほどの綾音のように敗れ去ることは必定だ。
ダメージを与えられるのか、それともそうでないのか? 瞬時の回復が戦うものから気力を奪い去る事実はどうにも否めなかった。
「やれやれ……制服はあとで弁償してくださいね」
あとコンマ数秒躱すのが遅れれば、首を吹き飛ばされたであろう巨大な拳の通過を見送って少女は涼しげに呟いた。
まるで他人事、小さくため息の音さえ聞こえたのだから彼女の神経を疑いたくもなる。
体重はどう見ても最低600キロくらいはありそうな筋肉の塊が暴れ狂うその中で、冷静な表情を崩さない命知らずな少女は攻撃をかわした直後にこちらを向いて叫んだ。
「公明さん、眼を瞑っていた方がいいですよ」
涼しげな少女はそういった。
「これを相手では魔術があまり効果ありませんので、私の剣『サルヴェッツァ』を抜きます――」
獣の攻撃が一段と激しさを増す中、それでも攻撃の合間を縫うような少女の動きに敵も苛立ちを強めていた。
「――あれは、あまり眼によくありませんから、お願いしますね」
俺は少女の言葉に本当に目を瞑った……夢ならば覚めるようにと祈りながら。
眼を閉じる瞬間、垣間見た彼女の口元には笑みさえ浮かんでいたのだから、これは夢ではないのだろうか?
「どうも、そのままあと15秒ほど閉じていてください。大丈夫ですよ、玲菜さん。戦闘不能にするだけですから、死ぬことはないでしょう」
こんな状況でも彼女の余裕は失われない、恐ろしいほど平然と、冷静に彼女はそういった。
そして、彼女が何か言った瞬間――すさまじい光が生じたのがわかった。
太陽のような激しい明かりではなく、地上の月とでも形容しようかという怪しげな明かり。
青白く、優しい、それでいてとても明るい明かりが空間を覆い尽くしたようだった。
それと同時に、目の前に何かが落ちる音が聞こえた……それは大きな音だった。
重いものが落ちる音が、血飛沫と共に獣の叫び声が俺にも届いた。
「……血が気にならないのでしたら、目を開けてもよろしいですよ――っと、ちょっと、どうして?」
俺が目を開けようとしたとき、獣のうめき声は次第に女のうめき声に変わっていった。
「ちょっと……公明さん。待ってください! ああ、代えの服は?」
慌てる少女の声、だが……俺は瞳を完全に開けていた。
目の前に展開されていたのはさっきまでとは完全に変わってしまっていた世界――剣といったが、一体どんな剣を抜けば世界がここまで破壊されるのだろう?
道の真ん中には血が泉を作り出し、その真ん中には血だらけになって倒れている少女が一人と、それに服をかぶせる金髪の少女……倒れていた茶髪の少女の足が俺のすぐ目の前に転がっている。
あまりにもショッキングなその光景に……俺は気絶した。