凄まじい音を立て大理石のテーブルに亀裂が走った。
高級なイタリア製家具とセンスの良いインテリアで飾られた宮殿のような部屋の中に響き渡った鋭い破壊音――部屋の主は眉を顰め、読んでいた本からテーブルを台無しにした相手に視線を移す。
すると、神話の時代から彼女以上の美しさが顕現したことは無いであろう、絶世の美少女が氷よりなお冷たい眼差しで射貫いているのがわかる。
夜に愛された赤い瞳――其処に込められた呪詛は一般人にはそれだけでも十分な呪い、その瞳は心を奪う彼女の美貌と相まって邪眼じみてさえいた。
かつて英雄も、聖職者も、独裁者も、庶民も、王侯貴族も全てが等しく彼女を愛した――いや、その美に支配された。
そのような少女が老人を興味の対象として睨んでいることはすでに彼の勲章といっても構わないだろう。
だからこそ、世界の魔術師の最果てにあるその相手に睨まれても彼は恐れない、それが至上の喜びであるのだから恐怖などするはずが無いのだ。
少女が破損した長テーブルの上に肘を置くと、老人は軽く背伸びをしながら少女に語りかけた。
「やれやれ、お気に入りのテーブルが酷い有様だ。イフィリル、今宵はいつにも増して不機嫌の様だが一体何だというのかね?」
椅子に腰掛けた大柄の老人は、物分りの悪い生徒を根気よく諭す教師のようにゆっくりと優しい口調で語り掛けた。
彼の知的な印象と相俟ってまるで孫をあやす祖父のようにさえ見える。
尤も少女と血縁のある人間がその存在を許されることはあるまい、彼女と老人の間でさえ超越者と人間の間に広がる埋めようの無い差は絶望的でさえあったのだから。
それ故だろうか、少女は老人の態度を自らに対する侮辱と取った。
「その態度は気に入らぬな、マルドゥーク。其方とは既知の間柄であるが今妾は客じゃ、饗応するならば弁えねばならぬ礼儀もあろう」
とても偉そうな物言いだが彼女だけはそんなことも許される――そんな雰囲気を纏った黒髪の魔術師の言葉に老人は姿勢を正して恭しくお辞儀した。
「失敬。高貴なる御客人よ、私に如何様な御用ですかな? お困りの点がありますれば侍従に何なりとお申し付けあれ、と申し上げたはずですが」
丁寧ではあったがどこか相手を子供扱いしていて、まるでワガママなお姫様の相手をしてやっている執事のような言葉だった。
「貴様……その態度が気に入らぬという。妾を子供扱いする貴様のその物言いは真に不快、愚弄するにも程があろう」
老人の正面の椅子に腰掛けた少女は鋭い視線のままに一度ため息をついた。
彼女のその仕草を写真にとっただけで世紀の名画にも勝る気がした。
「まあよい、今はそのような瑣末不問に付す。代わりに答えよ……アレは一体何のつもりか?」
椅子に腰掛けた2メートル以上もの偉丈夫に語りかける少女の口調はあくまで尊大、相手に敬意を払うつもりなど欠片も感じさせない。
しかし、それでも老人に気にする様子は見られない――ゆっくりとした動作で机の上に本を置くと、彼女の方にしっかりと向き直る。
テーブルの上に肘をつき、目の前の少女に一瞬目を奪われながらも先程と同じ調子で彼女に対応した。
「君ね……私とて君レベルの相手に対しての読心術など心得ていないのだよ。だから、『アレ』ではわからないな」
その言葉を受けてテーブルがもう一度叩かれる、亀裂は少女の前面に蜘蛛の巣のように広がったがそれでも表面が欠けただけでテーブルが完全に破壊されることは無かった。
さらに鋭くなった視線がもう一度老人を射抜く。
「この期に及んでなおも惚けるつもりか? 其方が霧海を滅ぼすためにアーデルハイトに援軍を派遣しようとしておること……知らぬ妾ではないぞ」
少女の反論を許さぬ言葉に老人は一瞬黙り込んだが、小さくため息をついて再び口を開く。
「別に隠し立てしていたわけでもないのだがね……ヨセフのような小物、君が気にするようなことではなかろう。それに彼女は私の系譜に連なる家系の出身、彼と比べればまだ縁がある」
語られる者への憐憫も同情も、何も感じさせない淡々とした回答に少女はますます不機嫌顔になる。
老人は彼女の反応を楽しむように実に皮肉な笑みを浮かべ始めていた。
「妄言を弄するか……あの男が小物かどうかは問題ではあるまい。妾が申しておるのは『何故人間如きに協力するのか』ということじゃ。恥を知れ」
「やれやれ、君もわからない人だな……彼らと手を組んでいれば五月蝿い吸血鬼狩り、特にサンタクルスの執行者が追って来ないだろう? 君と私、王族の連中は仲良くマルクト級の獲物――まぁ相手が死ぬまで血を吸って何千年も暮らしていれば、いい加減駆除されて当然ではあるがね」
「捕食者に食われたくなければ己を鍛えれば足りよう……妾も弱き者が悪いとは言わぬ。されど自らの牙を磨かず、抵抗さえしようとせぬ者が死ぬのは摂理であろう。彼奴(きやつ)らがそれを妾らの罪とするはただの当て擦り、そもそも多くは自らの弱さを解せぬ者ばかり……己が終わりある命であるが故、己が弱き故にそれを克服した妾らを憎む。さりとて、これは実に心地よき卑小な嫉妬とは思わぬか? 嫉妬は憧憬の裏返しという、似ているが故に妾は彼奴らを、彼奴らは妾を許さぬのであろうな……」
「ご高説はご尤もだと思うよ、イフィリル……兎に角、彼らは日々私たちを殺す理由を探している訳だ。それにも拘らず君は気にしないのかね?」
「当然であろう! 妾こそは全ての魔道の頂、裾野に転がる石程度を気にかけねばならぬ道理はあるまい」
「元来が人にあらざる君とこの私では考え方が違うのだろうね、恐らく。君は彼女たちに恩を売るのもまた一興だと考えられないかな? 彼女はあれで相当に義理堅いと思うのだが」
「何処に目をつけておる、彼奴が他人に恩義を感じ入るような女か?」
「君が他人を悪くいえる人かな? 一応、何十年か振りに出会った旧知の友を快く迎え入れた私に対してこうも冷たい君にそんな資格は無いと思うがね」
「黙れ……そもそも自分がどんな書物を手に物を言っておるか、其方は理解できておるのか?」
「ん?」
老人は自分が持っていたグラビア雑誌を相手にも見せながら不思議そうな顔。
其処には日本人の少女の写真が載っているのがわかった。
しかも、その内容はどう見ても幼女趣味専門のポルノ雑誌だ。
「ああ、これかね? 今度日本に行くのだから現地の情報を集めようと考えていたのだよ。まったく下心などない、健全な情報収集活動だ」
老人の厚顔無恥な言い訳に呆れた様子の少女は大きくため息をついた。
「……信じると思うか? この色狂い。よりにもよって、昼間は妾の棺の上に腰掛けてそのような穢らわしいものに目を通しておったくせに……あまつさえあのようにおぞましい……いや、なおもそれを妾の前に晒すか!」
昼間の光景が頭の中に思い出されるに連れて彼女の言葉には激しい非難の色が込められていく。
相手が怒っていることが理解できても、老人は意に介さない。
それどころか彼の回答は徐々にあらぬ方向に向かい、その口調も饒舌になっていった。
「ふむ。申し訳ないがああした方が私自身興奮する……大体ベッドを用意していたのにあんな品の無いものに潜り込んでいた君が悪い。一体何処の小説に影響されたのかね?」
「貴様は煩いという。忌々しい陽の光を厭うことの何が悪いというのじゃ!」
「意外に臆病者だな。しかし君もずるい、千里眼など反則だろう? だが……まぁ正直に言えば、最初から君が赦してくれるとは思ってはおらんよ。ただ、もし君がこんな愛らしい服を着てみたいのなら謝罪を兼ねて10分で用意できるが?」
ゴスロリ衣装の小学生くらいの少女が写ったページを相手に見せながら、老人は真剣な表情で語った。
恥という言葉を知らないのではないか、少女が感じたのはそれだけ。
「マルドゥーク――冥府とは真実美しきところと聞く、見聞して参るか?」
「脅しはよくないよ、イフィリル。君のその美しい顔が台無しだ」
『美しい』――彼女にとっては何千回と投げかけられた言葉だが、同じ相手から何百回と聞くことは少なかった。
そして、そんな相手から久しぶりに投げかけられた、時と場合を考えない賞賛に苦笑しながらその怒りの矛を研ぎ澄ましていく。
「フッ、アハハハ……冗談なら笑わせる。さりとて、貴様の妄想に付き合ってやる義理は無い。好色爺も大概にせぬと……」
「……わかった、私が先生で君が生徒、君は宿題を忘れて私に居残りを命じられたというシチュエーションだ。厳しい先生に叱られた君は思わずお漏らしをして、その耐え難い恥辱から涙を溜める、そこで慌てた私が君を慰め……」
「マルドゥーク! 貴様いい加減にせぬと、殺すぞ。その腐乱した妄想、口にするだけでも害悪。もはや許容の範囲外じゃ!」
一気に燃え上がった怒りが老人に対して叫ばせる。
それは魔術師としてでも、吸血鬼としてでもない怒り――本当に古い知り合いだからこその、感情をむき出しにした怒りだった。
「安心したまえ、私の頭の中で君をすでに一万回以上ありとあらゆる変態的体位で犯している。色々なシチュエーションで君は啼いたり、私に懇願したり……私の頭の中の君はとても従順で可愛らしい女の子だ。『パパ、パパ、許して。ごめんなさい』と泣く姿はとても愛らしい。是非君にも見せてあげたい、今も妄想中だ……妄想の中の君が私に懇願しているぞ、その顔で、その口で、その身体を差し出して」
次々と老人の口から発せられる妄想は許容の範囲などすでに逸脱している。
テーブルを叩く三度目の衝撃が走った。
「貴様、それ以上の穢らわしい妄想は許さぬ!」
だが、それでもなお終わらない妄想劇。
「ああ。さっき言ったシチュエーションで一時間プレイに付き合ってくれるのなら、一時間後に首を飛ばしてくれても良い。だから君を……きっと考えを改めて私の従順な所有物になる気になるだろうね。私は少女を悦ばせる方法はいくらでも心得ているから。いくらでも媚薬は用意する、どんな器具が好みかね? もしや君は言葉責めの方が好みかな? 100以上の言語は習得している私だ、君はどの言葉で責めて欲しい?」
その瞬間、自らが砕いたテーブルの上に降り立った魔術師が何かを構えるポーズを取った。
その瞬間――老人の小さな苦悶の声が漏れる。
老人は自分の胸を見下ろした――すると其処に、金属光沢を放つ一本の槍が突き刺さっていて、それが自分の身体のみならず椅子さえ貫通していたのがわかった。
その初撃は彼自身にも見えなかった、何故ならそれは老人の身体を貫いたのではなく……『其処に最初から存在した』のだから。
溢れ出す血液が口から零れる。
だが、血液が次から次へと流れ出るその口元は歓喜に歪んでいた。
「ごほっ……ごふ、あ……はぁ、はあぁ……初めて見た……オリハルコンさえ容易には通さぬ私の体を、あはっ……何の苦も無く貫くとは……この槍は?」
苦しそうな言葉だが、彼の喜びは隠すことが出来なかった。
老人の胸から延びた槍の柄を掴む少女は冷笑しながら、それをさらに捻った。
「くっ―――イフィリル!」
一撃で心臓を破壊していた上、回転が加わったことで更なる苦痛が身体を苛んだ。
「騒ぐな、これは北欧にて神槍などとも呼ばれるか……その正体は我が神術『グングニル』――其方の身体が如何に頑強でも、無敵の盾を何千と構えたとしても意味はなかろう。これは最初から全てを貫いて其処に存在しておる……故に不敗、誰にも防げぬ。さぁ、己が罪の代償は払ってもらうぞ」
その瞬間、もう一本の槍を構えようとした魔術師に向かって老人が信じがたい速度で突進した。
テーブルに老人の足が掛かった瞬間にその部分は完全に粉砕され、魔術師から見ればそれは正面から衝突しようとするダンプカーにさえ見えたころだろう。
止めることなど叶わないだろう暴力の壁が彼女の前に一瞬で広がり、それに対する攻撃より相手はなお速かった。
槍はさらに深く食い込み、もう一本の槍がその腎臓を貫いたがそれも彼の動きを止めるには及ばない。
「くっ……が、ふぁ……きさま……マルドゥーク!」
魔術師がゆっくり見下ろすと、老人の腕が彼女の体から生え……背骨まで砕いた先では老人の手に自分の心臓が握られているのがわかった。
小さな身体はすでに砕け散ったテーブルの上には無く、彼女の体を貫いた老人の腕によって宙に浮かんでいた。
憤怒の表情で睨みつける魔術師の視線を受けながら、老人は小さな戦いにおける自身の勝利に酔った。
「クク、ハハッ、ハハハ、いや面白い……お互い簡単に死ねないというのは実に面白い。そら、君の硝子細工のように脆い心臓が私の手の中で脈打っているぞ。そしてその愛らしい首が私の食指を……」
その細い魔術師の首筋を噛み千切らんばかりに広がる老人の口、獲物を噛み砕く肉食動物のような牙がその柔肌に触れようとしたとき彼の腕に貫かれた魔術師の身体が瞬時に消えてしまう。
小さく舌打ちをした老人が相手を探すと、部屋の隅に置かれていたソファーの上で脚を組んだままこちらを睨みつけている相手が見つかった。
自分の身体に突き刺さっていた槍を抜くとすぐに彼の体は復元されていく。
「君との殺し愛は私にとっては実に刺激的なのだが、こう早く終ってしまっては残念だな」
自分の身体を貫いていた槍を簡単にへし折ってしまった老人はゆっくりとソファーに腰掛けている少女の方に歩み寄って行った。
少女が二度目の攻撃を仕掛ける気が無いことを見透かしたような行動に彼女は面白くなさそうだ。
老人はそのまま彼女の横に腰を下ろし、その艶やかな髪に手をかけようとしたが、流石にそれは撥ねつけられた。
「何だね、私に心を開いてくれたから攻撃を止めたのではないのか?」
「煩い、其方が調子に乗ってここを破壊してしまえば妾も雨に打たれよう。それでは、其方は良くとも妾が困る故に止めたのじゃ。マルドゥーク……話は変わるが、先程の槍に貫けぬものがあると聞いて信じるか?」
「? 星辰の奇跡は人の関与できるレベルで無い、あれが効果を成さないということは考えられないな。君や星辰と同格にある存在でもなければ、あれを無効化するなど在り得ないだろうし。何より、あれは『貫いていた』のではなく、『元々其処に存在していた』のだろう?」
「左様じゃ、左様……あれは決して防げぬはず。現に……いや、彼奴はあれを……」
「おや、随分と真剣な顔だな。君は最近日本に行っていたようだが……アーデルハイトに一本取られたのかね?」
「はっ、愚問を。アーデルハイトと出会っていればどちらかが死ぬまで殺しあっていよう」
どこか楽しそうな魔術師の言葉に老人はより疑問が深まった気がした。
「ますます疑問は大きくなった気もするが、君は誰かに魔術戦で負けたのか? 星辰の奇蹟まで持ち出して? ハハ、格好悪い上に滑稽だ……是非私もその場に立ち会い、涙を溜める君を胸の中でたっぷりと慰めてあげたかったよ」
「盆暗め――貴様はいちいち煩い。妾の用はほとんど済んでおるのじゃ、真面目に対応せぬなら帰るぞ」
「おいおい、さっきから外は雨だといっているのに……いやぁ、君にはもう少しいて欲しいのだが。君(の身体)だけを心から愛しているからね」
「……恥ずかしげも無くよく口にする……貴様だけは救えぬ。穢らわしい手で妾の身体に触れてみよ、その首飛ばしても貴様を許さぬ」
彼女の肩に自分の手を置こうとしていた老人は渋々その動きを止めることになる。
「どうしてそう連れないのか……君はそういう点が矛盾しているよ。アーデルハイトやクラリッサのようなパラノイアの倒錯者は考え物だが、君は逆に潔癖過ぎやしないか? 正直、悪い女は淫乱なくらいがちょうど良いと思うのだがね」
「躻(うつけ)、連中のような変人奇人どもと妾を同列に扱うな!」
「もしや今でも男を知らないのか? 仮にそうだとすればきっと君は知れば狂うぞ、特に処女を失う快感を何度でも得られるその身体ならどれほど甘美だろうな。何千、何万回も君は私のものになる快感に酔いしれることが出来るのだよ、これは素晴らしいことだ。ああ、本当に素晴らしい」
「――」
「言い忘れていたが私は君に罵倒されるのも嫌いではない。いや、むしろこの上ない快感だ。怒ったのなら怒鳴りつけてくれても構わんよ。殴ってくれても良い。相手が汗臭い男なら秒も待たずに殺すが、君なら大歓迎だ。むしろ罵倒してくれ」
汚物を見るような視線で老人を睨んだ魔術師は今までで一番軽蔑した口調で彼に告げた。
「……死ね、低俗な変質者」
「そうだ、そう……流石はイフィリル。私の望みの通りの言葉を投げかけてくれる。さらに私の前に膝を着いて、生涯の絶対服従など誓ってくれれば最高なのだが? 君の庇護者として絶対の加護と至上の贅沢を保障するよ。君のパパとしてね」
いい加減、この相手には付き合いきれない……彼女にそう思わせたのはこの男が初めてではないか?
彼女自身の記憶にもこの男ほどに自分を呆れさせ、自身の興味の対象となった相手はいなかった。
それは彼女の矜持が口にすることを許さないが、真実であることは確かだ。
「もう良い……貴様の様な罹患者を相手にするのは止めじゃ。例の薬はくれてやる、代わりに貴様も妾の遊戯に付き合え。『戦争ゴッコ』にな……仮定の話をするは好むところではないが、仮に貴様が勝利すれば、この身をくれてやっても良いぞ」
「……さて、どうしたものか。サンタクルスの老人達を怒らせても得にはならないのだが、君も欲しい……どうしてそんなに難しい二択を迫るのだろうね?」
「妾を怒らせてもためにはならぬぞ……次はピサールがその身体を抜く」
一瞬、老人も相手の正気を疑ったがその真剣な眼差しを信じないわけには行かなかった。
もし、彼女が本気でないと判断してくだらないことを言えば自信の命は消えてしまう可能性もあるし、また反撃で彼女を殺してしまうかもしれなかった……どちらにしても老人は彼女との別れなど望んではいなかった。
「ピサールをここで……? わかった、君の言葉を呑もう」
「そう来なくてはな。最後の参加者、我が三千年の盟友よ」
少しほっとした様子の少女、それを見透かしてか老人の皮肉じみた言動が再び姿を現す。
「イフィリル、果たして私たちが盟友らしい関係に会ったことがあるだろうか? 記憶にある限り、君は私を袖にし続け今もそうだ。私の情婦になれば何でも与えてあげるというのに……君は本当に気難しい人だよ」
「勘違いするな。盟友とは対等である証、宇宙へ行くだの理解の範囲外にあるふざけたことを申しておるが貴様の錬金術師としての側面は多少とも評価しておる。妾に欲情するより先にそれを誇るがよい」
実に満足そうな表情で告げられた言葉に老人は一瞬言葉が無くなった。
彼女が何と言ったのかを何度も自問しなければならなかったからだ。
「……聞き間違いでなければそれは私を褒めてくれているのかね?」
老人の問いかけに少女が先程の表情を見せることは無い、其処には相手を見下すいつもの彼女しかいなかった。
「―――知らぬ。同じ言葉は繰り返さぬ、聞き逃したのなら己の未熟を呪え」
「ふむ、では……グロリア? 今の映像と音声はしっかり保存してくれていたかね?」
問いただすのが不可能と判断した老人が誰かに話しかけたとき、天井の辺りから聞こえた声。
『イエス、マスター。ファイル№AD2006S242317はデータバンクに保存されました』
「よかった……ついでに彼女のスカートの中など盗撮……」
○○○○○
外の陽光が差し込み、明るい部屋――洋風のインテリアで飾られた空間だが、家具の上には少々埃が積もっている。
そして、如何にも魔術師が纏うようなローブを着た少年が其処に立っていた。
身長は170センチ後半、見た目以上に筋肉質な身体をしているのがわかる。
二の腕に力を込めれば力瘤が出来るほどには鍛えられ、全体としてなかなかバランスは良い。
少年の顔はフードで隠れているが、その瞳がこちらを覗きこんでいるのがわかる。
俺が手を上げると、少年も反対側の手を上げる……
「……」
無言で見詰め合う二人、其処にはただ沈黙だけがあった。
こちらが手を下ろすと、少年も手を下ろす。
くるりと回ると、少年も反対側に回転する。
「……はぁ」
ため息をついたとき、俺の横に急に現れたのは修道女姿をした金髪碧眼の美少女。
俺がさっきまで見ていた姿見の中に彼女の姿も現れた。
目の前で立ち止まった彼女は俺を一瞥すると、納得した様子で感想を漏らす。
「ふむ。その衣装はなかなか似合っていますね。本番はそれで行きましょう」
俺の家に場所を移しての衣装合わせ、しかしどうして演劇部でもないのにこんな衣装を着なければならないのだろう?
「……なぁ、俺はなんでこんな格好をしてるんだ?」
可笑しそうに笑うアデットは小さく拍手しながら奇妙なことを口にした。
「はい。それは公明さんが凄腕の占星術師『KIMIAKI』として皆さんの前で、百発百中のすごい占いをして見せるからですよ」
「……はぁ? 俺にそんな技能は無い……てか、魔術なんて使えないだろ。お前もわかってるんじゃ……」
そんな回答を聞いてクスクスと笑う彼女、ピントを外したつもりは無かったのだが。
「公明さんは本当に面白い人ですね……オカルト研究会が本当に魔術を使ったら大変でしょう? そういうことをしていると、前に教えたように私が死刑になってしまいますよ」
世間の一般人に公に魔術を見せるのは良くないらしく、そういうことをすると死刑になることもあるって前にアデットが教えてくれたことが思い出された。
何でも一般人は魔術を理解して許容できるだけの魂の成長を成し遂げていないから……とか何とか、そんな理由だったと思う。
要は、魔術師には本来誰でもなれるのにその過程で脱落する人が多過ぎるため、事実を公にしてしまうとごく少数しかいない魔術師達に嫉妬が向けられ、排斥されることが予想されるからなのだそうだ。
しかし、個人的には死刑はやりすぎのような気もする。
「そりゃ、確かに。でも、お前は俺に占い師をやれって……矛盾してないか?」
「いいえ、まったく矛盾していませんよ。それと、私は錬金術師を演じますから」
「……いや、何言ってんだ? お前はそもそも錬金術師だろ」
「それは今忘れてください。私たちはただの学生です……趣旨を説明しましょう。玲菜さん達も着替えが終わっているでしょうから、部屋を移ります。説明はそれからということで」
「あ、ああ」
かくしていつも暇なときにゴロゴロしている居間に下りていくと、俺と同じようなローブを纏った浅海たちがソファーに腰掛けていた。
遅れてやってきた俺も席に着く。
「ちょっと、いい加減に説明しなさいよ。こんな小汚い衣装なんて着せて、仮装行列でもやる気なの?」
確かにローブは薄汚れている、いかにも不満そうな浅海の意見は尤もだ。
そんな彼女の言葉を受けて、アデットは椅子にも腰掛けず俺たちに向けて説明を始めた。
「いいえ。オカルト研究会ですから、一種の心霊現象などについての研究の成果を発表しなければならないと思われません?」
魔術師の台詞で無ければ、それは至極まっとうな意見だろう。
確かにみんなの前で魔術なんて使うのはやり過ぎだし、他にも色々と問題がありそうだからな。
「でも魔術は使わないんでしょう? それならどうやって心霊現象とやらを発表するの?」
「私も同感ですね。もしや、催眠術でも使われるのですか?」
綾音の言葉にゆっくりと首を振ったアデットは窓辺に向かうと、カーテンを閉めていった。
そして、カーテンを閉め終わると明かりをつけてこちらに向き直る。
「鋭いご意見です――確かに催眠術を見せるのはプログラムで考えていますが、今回は古くから伝えられる偽りの魔術について皆さんにご覧頂こうかと」
「? 趣旨が見えませんね」
それは俺も浅海も同じらしく、三人のうちの誰にも納得した様子は無い。
そんな俺たちの内情を見透かした様子のアデットはこうなることを予想していたかのように、微笑を浮かべ、自身が教会から持って来たトランクに手を伸ばす。
「説明するよりは実際に見ていただいた方が宜しいかもしれませんね。私について来てください」
アデットはトランクを手に持ったまま、先程俺が衣装合わせをしていた物置部屋に俺たちを誘導する。
少し埃が積もった床に数字や俺の知らない異国の文字を書き連ねた、円形の魔法陣をチョークで描き、その中心にトランクから取り出した小さなバケツを置いた。
魔法陣の半径はちょうどバケツの半径の二倍程度で、魔法陣の外からでも内部が覗けた。
「実験は少し臭いが出ます。これはその臭いを閉じ込める効果のある魔術で、本番では使いませんが……あっ、綾音さん、部屋の窓を全開にしておいていただけませんか?」
「? あ、はい」
頼まれた綾音が窓を全て開けると、秋のそよ風が部屋の中に吹き込んだ。
「では、今回オカルト研究会が提供する出し物の一つをご覧頂きましょうか」
彼女はそういうと、トランクからカセットコンロ、火箸、鉛と水銀、硫黄を取り出した。
何でもよく入るトランクだ……体積と容積の関係がおかしい気がするのは気のせいではないと思うのだが。
俺のそんな疑問をよそに、アデットは内部がだいぶ汚れたバケツの中に水銀を少量と硫黄を流し込み、それを新たに用意した器具でコンロの上に持ち上げて、バケツを火にかけた。
「何かの儀式? 錬金術の技法なの?」
魔術師の浅海でさえこの化学実験のような行動に何の意味があるのかわかっていない。
当然だが俺にもまるでわからないし、綾音も理解できていない様子。
そんな俺たちに説明してくれないまま、アデットは魔法陣の外から手を翳して何かの魔術を使うようなポーズをとった。
「黙っていてください……金を合成しますから。アブダカタブラ、アブダカタブラ……」
目を閉じたままアデットが口にした呪文を聞いて、綾音は首をかしげた。
「あの、シュリンゲル卿? それは魔除けの呪文ではありませんの?」
問いかけを無視したまま、アデットの儀式は続いていった。
俺たちも黙ったまま魔法陣の中のバケツを覗いていると、やがて煙が立ち昇り始め……なんと立ち上った端から魔法陣に吸収されていくのが見て取れた。
さらに数分が経過した辺り、中に入れた化学物質が蒸発したような音を立て、一部が赤く発色しているのがわかった。
と、そのときバケツを覗き込んでいた浅海が声を上げた。
「え? 嘘?」
彼女の言葉に俺もバケツの中を見れば、なんと底にわずかに金が析出していたのだ。
それは反応が進むに連れて量を増やしていき、完全に終了したときにはバケツの底がほとんど金で覆われてさえいた。
アデットが火箸を使ってバケツを魔法陣の外に出すと、俺たちはそれに集まって目の前で起こった奇蹟にただただ唖然とする。
「魔術もなく、赤い石も使わずに金を? これは一体どんな魔法です?」
俺にはわからなかったが、綾音が真っ先に口にしたように『魔術を使わずに』、アデットはあんな材料から金を作り出したのだ。
それはつまり、俺にも可能だし、何処の誰にだって出来る技術ということになる。
だが、どう考えても俺の常識では鉛や水銀、硫黄を混ぜたくらいでは金が出来ることは考えられない。
魔術師から見ても完全に異常な事態が展開されたのだ、これはすでに理解の範疇を超えているとしか思えない。
だが、驚く俺たちを一瞥した錬金術師は満足そうな顔でこの不可思議な現象を何の軌跡でもないと切って捨てる。
「いいえ。実はこれはただのトリックです、近代の似非錬金術師たちが欧州で詐欺を働いたときに用いた技法の一つで……実は最初から金はバケツの中に入っていました」
そんなはずは無い。
どう考えてもバケツの中身は空だったし、加えた物質の中にも金は無かった。
「?」
ネタを明かされたというのにそれを理解できていない俺たちがよほど面白かったのか、アデットは苦笑しながらよりわかりやすい説明を試みる。
「フフッ、実は金の上に蝋を被せ、その上から着色して隠していたのですよ。熱することで蝋が溶けて金が現れる、と。加えた物質はただのフェイク、皆さんが勘違いするようなものを入れておけばそれが金になったと勘違いなさるでしょう?」
一瞬、そのあまりにも単純なトリックに思考が停止した。
よく考えれば子供にもわかるトリック、こんなことに騙されたのか?
「……汚っ、何だよソレ! 完全に嘘じゃないか」
俺が上げた非難の声にもアデットは動揺さえ見せない。
「ええ。この研究会の目的は古今東西の似非魔術をただのトリックと証明することですから。オカルトはただの手品であり、魔術師とはそれを魔術と呼ぶ手品師である……考えてみればわかることですが、当たり前のことを証明するのがこの研究会ということですね」
「……アデット、まさか貴女はこんな手段で詐欺とかやってないわよね?」
「さぁ……兎に角、こういう魔術で無い魔術の正体を学園祭の中でいくつか紹介しようと思うのですが、どうです?」
「シュリンゲル卿にしては悪くないアイディアだと思います。ですが、このトリックを使う場合本番では臭いの発生しないものを用いた方が他のイベントの邪魔にならなくて良いと思います、食事を出すクラスなどは特に害を受けやすいですから」
「ふむふむ、綾音さんの仰ることはご尤も。その意見は採用しましょう、それと……トリックを確実に成功させるために本番では人間の思考を鈍らせる香を使います。その点につきましては、そのローブの袖を鼻や口に当てて呼吸をするようにしてくだされば害は受けませんのでご留意ください」
駄目だ……コイツ、大昔は詐欺なんて当たり前のようにやっていた口だろう。
その後も次々と詐欺の手口を教えてくれて、奇妙なラップ音を立てる方法やポルターガイスト現象を起こす方法まで……果ては予言さえただのトリックで成し遂げるのだから、昔はさぞ悪名の高い詐欺師だったのだろうな。
「……と、今回は手口を色々披露しましたから次回までに自分がやってみたい手口を決めて置いてください。クラスでの活動を考慮して順番を決めますから。あと、トリックの解説は最終日に行いますからそのつもりで」
全てを語り終えたアデットが俺たちの前で諸注意をしながら、使った器具などを片付けている。
時間はすでに7時前、門限の無い彼女もそろそろ帰るつもりになったらしい。
全ての機材をトランクに詰め込んだアデットは荷物をまとめると、玄関に向かった。
綾音たちもそろそろ帰ることにしたらしい。
「では、御機嫌よう。ああ、そういえば夜は外には出ないようにしてくださいね……どんな不幸で落命されるか、わかりませんから。フフッ」
性格の悪い言葉を残し、アデットは他の二人と共に帰っていった。
その後俺は夕飯を食べ、メモ帳に目を通しながらトリックを考えていた……実に長々と考えたものだと思った。
トリックを実証していた物置部屋に足を運び、そこで自分のトリックが実際にできるものかどうか練習をしてみたりもする。
そのとき、部屋の隅にさっきのトリックの一つで使った器具が落ちていることに気がつく。
いや……手に取ってみればあれとは少し違った。
小さなビンに入った透明な液体でアデットが色々出しているときに彼女自身が片付け忘れたものだろう。
実験には使っていなかったが、もしかすると大切なものかもしれない……あるいは、爆発物や劇物だとすればここにおいておくことさえ危険だ。
「爆発物……かなぁ? 在り得なくない所が、またアイツらしいけど……一応届けてやるか」
時計を見ればすでに11時、明日でも間に合うことだ。
だが、もしも必要なものだったらあるいは困っていることがあるかもしれない。
少し迷ったが、自転車に乗っていけば大した距離ではないし、あの錬金術師がこの時間に熟睡しているなど、それこそ天地が逆転しても在り得ない。
そう決断するが早いか、俺は自転車にまたがると教会に向けて出発していた。
秋の夜長――そういう言葉もあるように通り過ぎる家々には未だ煌々と明かりが灯っており、もしかするとみんな読書でもしているのかもしれない。
教会に向かう途中にある公園――その前を通り過ぎようとしたとき、一瞬何かが壁にぶつかったような鈍い音が聞こえた。
俺が自転車を止めたとき、すでにその音は止んでいて辺りからは虫の声しか聞こえない。
気にしないで通り過ぎるべきなのだろうが、浅海やらと知り合ってしまうと、やはり彼女達が何かしたのではないかという予感がする。
暴走した浅海などと顔をあわせればそれはそれで大変だが、それでも見過ごすことは出来ない。
「はぁ……大概俺もお人よしだよな」
呟くと、自転車を公園の入り口に止めてその内部に足を踏み入れる。
昼間とは違って流石に夜の公園は気味が悪い、不良がたむろしていても困るがまだそれなら救いはある……言葉が通じるから。
だが、暴走した浅海がいたら実際どうしよう?
何とかしなければ、と思い足を踏み入れたのだがやはり最初のように都合よく止まってくれるとは思えない。
そんな後悔も頭をよぎったころ、本来なら灯っているべき明かりがまったく無いことに気がついた。
壊れたのなら仕方ないが、公園には十近い街灯があるはずだ……その全てが壊れるなどありえないのではないか?
ふと、そう考えたとき……雲から月が再び顔を覗かせる。
その明かりによって、10メートルくらい前に立っていた人影に気がついた。
同時に、街灯の明かりが復活する。
一瞬で広がった明かりに目が眩み、思わず目を閉じる。
そして、ゆっくり目を開けると……其処に立っていたのは浅海でも、綾音でも、アデットでもない人物――真紅の外套を纏い、紅い髪をした異国の青年。
俺より10程度は年上で、身長もかなり高い……悔しいが、ほんの少し、ほんのわずかだけ俺より美形。
相手もすぐに俺に気がつく。
「? Guten Abend……Entschuldigen Sie, sind Sie nicht Stanislaw?」
静かな公園に響く、殺意を孕んだ青年の声。
理由はわからないが、こちらに対して良い感情を持っていないのだけは恐ろしいほどよくわかった。
怒りの理由がまったくわからないのに怨まれるのはいい気がしない。
おまけに、アイツのいっている言葉もこちらには分からないのは何とかならないものか。
「あー、悪いけど俺には何て言ってるのか……Can you speak Japanese?」
「……Ich weiss keine Entschuldigung vorzubringen. Ich irre sich in der Person」
一体どうしたのかもわからないが、相手はその一言を口走ると急に殺気が無くなって俺に背を向けて歩き出してしまった。
意味もわからないまま立ち尽くしている俺。
ゆっくりと去ろうとしていた相手はふと立ち止まってこちらを向くと無表情のまま、外套から血でべっとりと汚れた腕を差し出す。
「え?」
よく見れば、青年がさっきまで立っていた場所には何か大きなゴミのようなものが……いや、ゴミなどではなくまるで死んだように倒れている女性がいるのがわかる。
その白い服は血で汚れ、彼女の喉の辺りを噛み切られていた。
同時に、青年の口元から血がわずかに流れて……
「Auf Wiedersehen, Stanislaw」
青年の血まみれの手から数滴の血液が地面に零れた瞬間、血液が触れた地面が急速に隆起して形を持った怪物となる。
それは俺と同じくらいの体長を誇る巨大な狩猟犬だー―体の表面は岩石のようで、土色一色の体の中でただ眼だけが赤い怪物。
凄まじい遠吠えをあげる怪物は自分の身体にまとわりついた砂利を散らしながら、俺に向かって一気に駆け出してきた。
それはまるで俺に高速で向かってくるトラック、触れればそれだけで俺の体が壊れてしまうのではないかと思うほどの暴力の風だ。
「くっ!」
荷物から本を取り出そうとするが間に合わない、それでも何とか敵の攻撃だけは身をかがめてかわすことが出来た。
俺の頭を一撃で噛み砕こうとした怪物の攻撃は最初からそれだけを狙っていた分躱しやすかったのだが、それでもすれ違う瞬間に掠めた敵の後ろ足で脇腹を服ごと裂かれる。
「止めろ、何でこんなことするんだお前は!」
激痛が走り、顔が歪む……だが、怪物が再び助走をつけようとしている間に何とか本を取り出すことに成功した。
傷口を押さえながら立ち上がる俺――十メートル近く手前には再び俺の頭を砕こうとしてる土の怪物。
攻撃方法を考える時間などほとんど無い、手加減している余裕など無い……紅い青年が俺の意図を察して自分が生み出した怪物に止めを刺すように叫ぶのが聞こえた。
疾駆する怪物。
俺はただ相手に狙いをつける―――外せばもう一度攻撃をかわすことなど出来ないかもしれない、ただ相手に当てることだけを考えて狙った。
それはわずかに一秒、いやそれにさえ満たない一瞬。
刹那、本を開いた俺の指が相手を葬り去るべく呪を紡ぎ上げる……わずかに数行をなぞる指と、十メートル程度の距離を疾走する脚――それでも勝負は五分五分。
だが、この勝負の勝者は俺だった。
土の怪物が俺の3メートルくらい手前に来た瞬間、その前足の先が赤く変色したのが俺にも、怪物の主にも見えたことだろう。
それはまさしく一瞬の焔、小太陽と喩えることさえ出来ようほどの灼熱が怪物の身体を紅蓮の炎で巻いた。
感覚など無いはずの怪物でさえ一瞬目の前が真っ赤に染まったその攻撃には動揺したか、方向を見失って俺とはまったく違った方向に突き進み、公園の遊具――ジャングルジムにぶつかってその遊具の半分近くを破壊して止まる。
「くぅ……やばっ」
流石にこんな大技は覚悟も無く使うものではない、一瞬で奪い去られた魔力が俺の頭をぐらつかせる。
膝を突いて、吐きそうな気分をなんとこらえ……俺を殺意の眼差しで睨みつける真紅の魔術師を睨み返した。
敵が作り出した怪物はすでに表面がガラス状にさえなり、動くたびに体がはじけ飛んでいる……大丈夫、あちらはもう問題ない。
自分の使い魔が晒す醜態に目をやった直後、魔術師は再び血まみれの手を差し出して怪物を作り出そうする。
もう一度あんな怪物を出されたら俺には反撃の手立ては無い、そんな攻撃を許す余裕なんて無かった。
手元の本のページはすでに開いている。
相手がそうであったように、俺もその魔術で相手を攻撃しようとしていたのだ。
先程の炎に比べれば威力などほとんど無い、だがガスバーナー程度の火力がある一撃が魔術師の攻撃より早く相手に届く。
しかし、瞬間――炎は魔術師の身体ではなく、彼のわずかに右の地面を焼いてしまう。
魔術師の身体を守る魔術に対する障壁が俺の目論見を崩壊させたのだ……すでに気がついたときには遅い、敵は怪物を作り上げその顔には勝利者の余裕さえうかがえた。
対してすでに倒れこみそうな俺には意識を保つことさえ難しい。
勝負はすでについていた、敵はただ俺を襲わせればそれで良いのだから。
だが、そのときパトカーのサイレンが聞こえるのがわかった。
「!?」
俺も相手もその音に驚き、それがこちらに向かっていたことに気がつく。
同時に、相手は突然登場した誰かに向けて叫んでいた。
だが、すでに地面に倒れていた俺にはそれが誰に向かって放たれたものかも想像できない。
ただ、敵はいつまでたっても俺を襲っては来なかった……俺が気を失った後も。