『なぁ、ブラザー。今回のレース、脚の調子はどうだ、勝てそうか?』
人間には聞き取れない声が、それでもかなり離れた相手の元に届く。競馬場の中で行われるパドックの直前、太鼓腹の中年外国人が馬の中の一頭に向けてはなったと誰が気がつくだろう?
あれでも使い魔としては相当高いレベルなのだ、その特殊能力の発露に誰一人として気がつくわけがない。
葦毛の馬も鼻息荒く騎手にも聞き取れない声で相手に返した。距離にして十メートルを越えるほどだというのに二人の会話が成立してしまう、まさに魔法としかいえない現象だ。
『へへっ、旦那。連中とは話がついてますぜ、ニンジンと飼い葉を一頭あたま20キロほど用意して下せえ。勝利は間違いなしでさ』
一瞬、馬がウインクしたのがわかる。彼らが結託したのがつい先月であることを考えれば、馬の態度はやや馴れ馴れしくもあったが男は気にしない。
それが何であれ動物相手では常に兄貴風を吹かせる彼だ、むしろ『旦那』などと呼ばれることで気分がよかった。何より、これから行われる予定の八百長試合の相棒なのだから気分を損ねるわけにもいかなかったのだ。
『ようし、よくやった……だが、本番でトチるな。お前さんも、良い思いが出来て、こっちも懐が暖まる……へへっ、この世はよく出来てら』
厭らしい笑みを浮かべる男、馬を見ながら笑うその姿は会話を知らない人間達には少々奇異に移ったが、ラジオでも聞いているのだろうと勝手に決め付けていた。
地方競馬場でのレースとはいえ週末はいつもかなりの盛り上がりを見せるこの場所――ちょっとした常連の間では万馬券が出やすい場所として知られているのだ、回りの客の考えはむしろどの馬に賭けるかに集中していたといって良いだろう。
そのとき、予期せぬ声が男の後ろから発せられた。
「ちょっと、そこ。アドルフ……貴方、何やってるの?」
聞き覚えのある声――彼が最も苦手とする主人一族の、我が侭極まりない令嬢。出来ればこんな場所で出会いたくはなかった、どんな無茶を言われるのかが容易に想像できたからだ。
だが、その声が聞こえてしまった以上は振り返らざるを得ないのは勤め人として仕方のないことだった。
「へ? あぃう、え……お嬢様!? なんでここに?」
やはり嫌な予感は当たっていた。
彼の主人と共にいたのは、見たこともない白人少女と主人の喧嘩友達、ついでに主人を引き止めてくれると期待をかけていたメル友だった。
使えない野郎――思わず舌打ちしそうになったが、そんなそぶりを見せるわけには行くまい。
「なんで、じゃなくて……何してたのよ?」
何かを察している様子の主人に問い詰められて一瞬返答に窮した。悪巧みの内容はいくら主人といえど聞き取れるはずもないが、それでも彼女は犬の言葉までなら解する――兎に角、この場だけでも何とかしなければ……
「へ、へへっ、いや……あの4番が少し脚が悪いそうなんで相談に乗ろうかと……それより、お嬢様はその他の面子と一体何を?」
適当なことを言って、近くにいた馬を指差す。どうせばれることはないだろうが、それでも用心だけは欠かせない。
案の定、指差された馬を見つめた主人は訝しそうな様子、その疑問をストレートにぶつけてくる。
「……脚が悪い? そうは見えないわね、実際にはどうなるって言うの?」
八百長をやる予定です、などとは口が裂けてもいえない。
そんなことをすればこの主人のことだ、止めない代わりに自分も混ぜるようにいうだろう……それでは自然と取り分が減ってしまうし、取り分の配分が絶対にバランス悪くなるに決まっている。
玉のような汗を額に浮かべながら、何とかこの場だけは逃れようと必死の良いわけにはいる。
「へ……いや、別に。見た目にわからないだけで、実際には痛い痛いと言ってやして……本当に気の毒だ」
迫真の演技――少なくとも自分だけはそう思った、コレで騙せないなら主人には血も涙もないだろうというほどに同情してみせた。
「ふーん。一応、信用してあげるわ。それより、貴方は賭けに来てるの?」
表情が緩む、何とか言い逃れが成功したようなので肩の荷が下りた気分だ。
「そりゃ、ま。見学に来てるとお思いで?」
確かに女性客や子供連れの客もいるが、レースがよく見える最前席の周辺には中年の男性達が朝から陣取っていた。彼らを見ればどう考えても賭けているのがわかった。
「まさか、そんなおじさんがこの世にいると思う?」
主人も流石にここに来ている以上全てを了承しているようだが、どういう意図のある言葉だろうか?
「それなら、これで……向こうに席がありやして」
何はともあれ無事に逃げることが出来そうなので、馬券を買いに行くついでに主人の目の届かないところに逃げようとした。
だが、緊張を解いた瞬間に彼女は意味ありげな笑みを浮かべて呼び止める。
「ちょっと、待ちなさいよ……私のお金を出すから『勝つ馬』に全額賭けなさい。いいわね、『勝つ馬』よ。外したら……死ぬと思いなさい」
無茶をいう――仮に八百長でなければ、こんな無理難題を突きつけられたら海外に高飛びするしかないのではなかろうか。
「へへへっ……どこぞの占星術師じゃあるまいし、一介の使い魔にそんなマネは……」
先に起こることはどんなことでもわかってしまう魔導師がいると聞く、占星術師として並ぶものがなき天才が。あの協会の現会長にして百年位前の六協会抗争を解決し、吸血鬼どもを追い散らした聡明な術者。
そんな人物でもなければこのレースを何の情報もなく当てるのは不可能だと思える。主人はそれほどの不可能を何の躊躇もなく要求しているのだ、コレは完全に八百長に気がついていると考えて間違いあるまい。
「賭けなさい、早く」
強く促されると従わないわけには行かない。うなだれてため息混じりに返答する。
「……へい。ですが、賄賂の分担は……」
レースに出る馬達は12頭、本命連中に渡す賄賂などを考えれば相当稼がなければならないのだ。
だが、彼女は大袈裟な声を上げた。
「えっ!? 何? 確か、何も無かったのよね……嘘ついたの、この私に?」
腸が煮えくり返りそうだった、わかっていて追い詰められたことに腹が立つ。
「い、いえ……くぅ……わかりやしたよ。お嬢様……いつか、地獄に落ちやすぜ」
そういわれても彼女は軽くいなしてしまう、そもそも宗教など信じてもいない輩には何を言っても無駄か。
「生憎と存在しない地獄には落ちないわね。じゃ、頼んだわよ」
財布を渡すとさっさと観戦できる席を探しに行ってしまった彼女。その態度に思わず馬に向けて叫んでいた。
『あのメスガキいつかケツから犯ってやるからな…….お前、絶対に負けるんじゃねえぞ!』
主人は自分の連れも置いて行ったがこの連中に構うことはない、どうせ言葉はわからないのだから。
『旦那、明らかにあのお嬢さんに負けてやせんでしたか? 完全に負けてやしたよね?』
なんて目の良い馬だ、思わずそういう言葉が漏れる。
『うるせぇ! くっ……とにかく、絶対に負けるんじゃねえ。負けやがったら、その汚ねえ皮剥いで剥製にするぞ!』
『へいへい……ったく、旦那の上に大旦那がいたとは思いもよらなかった……ほんと、世の中はよく出来てら』
その捨て台詞に切れた。傍から見れば勝手に怒っているだけなのだが、その遣り取りには気付きようもない。
『ボケが! 手前は馬の分際で一々うるせえんだ!』
『……旦那も大旦那の子分の癖にうるせえですぜ、へへっ』
悠々とパドックを開始する馬達、思わず叫びそうなほどにいらいらしたことは言うまでもあるまい。
○○○○○
「その、なんだ……気の毒だったな、オッサン」
俺は顔を真っ赤にしている目の前の中年使い魔に声をかけた。
浅海はさっさと席を探しに行ったが、すでにレースに勝ったような顔だったので買い物の予定でも考えているのかもしれない。プリメラ嬢が主役だったのではないのだろうか、彼女がそれを覚えているとは考えづらい。
正直、本当に困ったヤツだ。
「公明、お前がマスターを引き止めていなかったのが原因だろうが! 打ち殺すぞ、この阿呆が」
悪態をつくアドルフは元気そうだが、茹蛸みたいに真っ赤になっている。
「悪事を働くつもりなら許しませんよ、使い魔」
アドルフを睨みつける綾音の言葉。
キラリと光るナイフの輝きがアドルフの目にも眩しかったのか、浅海のときとは別の汗をかき始めているのがわかった。
「煩え、餓鬼にあのマスターに扱き使われる苦労がわかんのか?」
「では、死にますか? 馬券を買うなど犯罪です、今すぐに財布を返してきなさい」
「返せば返したで死んじまうだろが、ボケ。そもそも、百年も生きてんだぜ……なんで犯罪になんだ、あン?」
二人も知り合いなのか、実ににこやかな会話に花を咲かせている微笑ましい光景に……100メートルくらい離れた場所からなら見えるかもしれない。
「それよか、綾音。お前の脇の、その餓鬼は? 誰かとヤッちまって出来たのか、へへへ……」
「ひぃっ!」
品のないオッサンの視線に見つめられたプリメラ嬢は綾音の後ろに隠れて、彼女の服を掴んだまま震えている。
……いや、確かに周りには貴族やら大金持ちやらの上品な連中しかいない場所で暮らしてたのはわかるが……本当に二千年も生きてるのか?
仕方が無いので、暴れだしそうな綾音の側から彼女を引き離して助けてやる。
「……」
品のない冗談ゆえか、綾音の顔は無表情だった……怖い。
「?」
無言のまま突き出された綾音の腕、きょとんとした顔で見つめたアドルフ。
「なんだ? ここでサービスでも……がっ!」
一瞬、下半身の方に手が伸びたときはどういうつもりかと思ったが……綾音の袖の下から金ではなく、スタンガンが現れたときには俺自身顔が青くなりそうだった。プリメラ嬢の目を手で隠してやらなければ、彼女は叫びだしていたかもしれない。
「40万ボルト……だそうですわよ。お釣りはいりませんから、これからは言葉に気をつけなさいね、おじ様。コーメイ、行きますよ……みなさん、おじ様は異国のパントマイマーで、毒を飲まされた男の演技をなさっていますからお気になさらないでくださいね」
ぶっ倒れて泡を吹いている中年男を見下ろしながら、上品な黒髪の令嬢は周囲の人々に騙った。誰も信じてはいないだろうが、先ほどの遣り取りが少しでも聞けた人はこの令嬢が男にとってとんでもないことを平然と行う殺人姫であるとわかったようだ。
下半身を意識しながら震えているオッサンが周囲に何人もいたし、俺も恐怖していた。
怖すぎる……プリメラ嬢にはわかっていたのか、あるいはわかっていなかったのか、震えながらも綾音に手をつかまれ、そのまま連れて行かれた。連れて行かれる彼女がとても怖がっているのはわかったが、目の前のオッサンを放っておいては流石に気が引ける……感電とか、しないよな?
「あー、アドルフ? 大丈夫か?」
何度も身体を振ってやると、アドルフも漸く意識を取り戻した。
ガタガタと震えながら立ち上がると、俺が肩を貸してやり何とか椅子に腰掛けることが出来た。周囲のオッサン達さえアドルフのためなら色々してくれたあたり、一種共感していたのかもしれない。
「痛ぇ……あのクソ餓鬼、メスの分際で…….」
「おいおい……言葉遣いだろ、言葉遣い。いい加減に学習しないと、次はナイフで切られるぞ」
冗談のつもりだったが、アドルフの顔は真っ青。会話を聞いた周囲のオッサン達も真っ青。
「ちぃ、こっちが悪かった……ということにしておいてやらぁ!」
悪態をつこうとしていても、恐怖ゆえに喋り方が弱気だった。
「なぁ、それより俺の馬券も買ってくれないか?」
「あ? お前の馬券だと? 言っとくが、賄賂の分担に協力しないのなら……」
やっぱり浅海の言った通りか……あのマスターは使い魔のことを実際によくわかってるな。
「いや、そうじゃなくて……7番だ。7番を買ってくれ」
「? 7……7か?」
「ああ、良いだろ?」
財布の中にあったな貶しの3万円を渡し、千円を依頼料として渡した。
それを受け取ったアドルフは口笛など吹きながらだんだんといつもの調子を取り戻してきた様子だ。
「へへっ、いいのか? 本命を聞かなくても?」
「ああ、別に構わない。それより、ちゃんと買ってくれよ」
「ま、気を落とすなよ公明」
「お前もな」
「?」
そのまま、俺は浅海たちが陣取っていた席に向かったのであった。
席に着いたときには近くに男は誰も座っていないという異常事態、綾音の事件はそれだけでこの競馬場を恐怖に包んでいるらしい。
「ん? プリメラ、それ……まさか、お前も買ったのか?」
馬券を手に持って、それを色々と見回している少女に聞いた。
「ええ、優しいおじ様に頼んで10万円分ほど買って頂きましたの」
うれしそうに語る彼女――なんでも今までのデータと今日の天候、芝の状況などで計算された結果として8番の馬に賭けたらしい。
しかし、彼女が買った?
「なぁ、綾音? いいのか、プリメラが買っても?」
ジュースを飲んでいた彼女はその令嬢然とした涼しげな表情で理路整然と語る。
「彼女の存在年数は2000年と少々、それに人ではありません。法律から考えても違反にはならないでしょう? 先程は代理で購入しようとしたことが悪いといったのです」
見た目とか、どうでも良い訳か。
ルールブックに実直すぎる気もするが、アデットも免許を偽造してるわけだし、長年生きてる連中っていうのはそういう方法でもなければ生活が難しいだろうから当然か?
「アドルフは2番を買ってたぞ、浅海」
「へぇ、そうなの。じゃ、私の奢りでこの後何処行く?」
「あの使い魔……もう一撃決めてきます」
「おい、レースも始まるから止めとけよ。あっという間だから良いとこ見逃すぞ」
立ち上がろうとした綾音を何とかその場にとどめて、俺たちもレースの始まりを待った。
2番――浅海・アドルフ組
7番――俺
8番――プリメラ嬢
綾音は賭けていないが、どの馬が勝つかといわれれば『4番』が毛並みなどが一番優れているといっていた。誰が勝つのか、それも神のみぞ知る……か。
運命のレースは2000m、要するに2kmほどだが馬にとってこの距離は短い。
アラブ馬と欧州の馬を掛け合わせて生まれたサラブレッド、彼らはそれだけの距離を一瞬で駆ける。レースは序盤から2番の逃げ切りで進み、最後の直線になるまで浅海は自分の馬の勝利を疑っていなかった。
綾音はすでに血統から考えて一番先頭にいなければおかしい4番が本気を出していないと騒ぎ始めていた。
プリメラ嬢はデータから考えて2番が逃げ切ってしまうことはないと断言している。
俺は……
そのとき、レースが動いた。
最後の直線に入ってすぐ、なんと2番が転倒――それに巻き込まれた8番も騎手が落馬。後方に控えていた4番と7番は無事だったが、4番は何故かあたふたした感じで外側にコースがずれてしまった。
残った馬たちがほとんどそういう状態で、俺が賭けていた7番だけがレースの勝利のためだけに直線を全力で賭けたのだ。
勝利の瞬間――馬券が宙を舞い、浅海はアドルフを殺そうと探し始め、プリメラ嬢はデータから予測された結果と現実の矛盾を再計算して、綾音は浅海を嘲笑していた。
俺は、ただ掲示板に表示された万馬券の額に驚愕している。
俺の3万円が……およそ100万円に化けていたのだ。
○○○○○
アドルフは俺に金を渡した後、浅海にどこかに連れて行かれてこの日は戻ってこなかった。何でも、金を持って逃げようとしていたのがばれたことが原因らしいが……気の毒だ。
俺たちはその後、競馬場近くの喫茶店に入って興奮が冷めるまでゆっくりとコーヒーなど飲んでいる。
「俺……勝ったんだよな?」
思わず言葉が漏れた。実際に勝つかどうか不安だっただけに、今でも現実が受け入れられていない。
当然だ、手持ちの3万円が100万に姿を変えたのだから驚かないわけがない。
「ええ、勝ったわよ。でも、それって私のお陰らしいわね……どうして黙っていたのかなぁ? 不思議よねぇ? ねぇ、どうして教えてくれなかったのぉ?」
うっかり興奮していた俺が漏らした言葉を聞き逃していなかった浅海はずっとそればかり言って俺を虐める。
だが、考えて欲しい……仮に喋ったとして負けていたらこの程度で済んだかどうか。きっと、彼女の不機嫌はこんなものではなかっただろう。どの道不機嫌になるのならまだ救いがある方がましだと思う。
「命懸けで阻止? ハッ、あの台詞は偽りですか? 首は洗っていますね。どうかお覚悟を」
最早、俺は綾音の信用を失ってしまったか……テーブルの下に輝くナイフがいつ襲ってくるのかが怖くて仕方が無い。
何より、テーブルの下からスタンガン、などということになったら俺は死ぬかもしれない。
「まぁ待ちなさいよ。馬券を買ったのはアドルフで、公明じゃないから法律は犯してないわ」
俺の弁護をすることで金の使い道に干渉するつもりらしい浅海はぬけぬけとそういい始めた。
「他人に買ってもらうのも違法です。レディ・プリメラ?」
「データベースにはそう記録されておりますわ」
「それならアレはアドルフがくれたお年玉よ、時期はずれのね」
身内でもないのに、俺はいつの間にかそういう身分になっていたらしい。あのオッサンが他人に何かくれる玉とは思えないが、綾音の怒りを静められるのならそれで良い。
「それならばこの国の文化風習を鑑みても可能だと思いますわ」
プリメラの判断はルールと合致しているかどうか程度のものなので倫理観やらが入り込む余地はない。
当然、その点などは突っ込みどころが満載だ。
「不可能です! 他人の使い魔からお小遣いを貰う魔術師が何処の世界にいるのですか!」
「ここよ、ここ。それに、公明は見習いだからそういうルールは関係ないでしょう」
そう、俺を指しながら言っているが……それでは完全に俺が主犯じゃないか?
「使い魔も、その主人もですか……純粋な人を堕落させる外道許すまじ。やはり貴女とは決着をつけねばなりませんね」
「おいおい、こんな場所で喧嘩なんて止めろよ。喫茶店だぞ」
「綾音さま、一体何の決着ですの?」
わかっているのか、いないのか……プリメラ嬢はわくわくしながら訊いてくる。
「これがスポーツや遊びの決着に見えまして?」
冷たい声で返され、ちょっと弱気になるプリメラ嬢。流石に冗談やらを受けてくれる状態ではないだけに、愉快な回答など期待すべきではなかったかもしれない。
「あたくしには経験が無いので……皆目検討が……」
「経験ならいくらでもあるでしょう……私に恨みでも?」
「滅相もありませんわ……ごめんなさい。ですから、どうか壊さないでくださいましね」
「じゃあ、このお金で遊びに行きましょう……そうね、メイド喫茶にでも行きましょうか♪」
空気が読めていない人がもう一名、流石に俺もこけそうになるような提案だ。
「おい、なんでメイド?」
「死になさい、貴女は。どれだけ言ってもわからない大馬鹿……刀の錆にして……」
「綾音さま、メイド喫茶というのは……下女にサービスを受ける施設というだけのことではありませんの? でしたら、特に問題は無いと存じますわ」
その説明に異論はないが、実際には少し違うと思う。確かに給仕を受けるという点は同じかもしれないが、あれはそういう点が重要なのではないと思うのだが……プリメラ嬢に理解しろというのも無理な話か。
「生徒会規約第47条『学生は冥土喫茶に入ることを禁じる』……これは半年以上前にルールで決まっています。当然、文句があるならシュリンゲル卿か、あるいはあの人を当選させた生徒全員に言いなさい!」
「なぁ、一応喫茶店だからもう少し静かに」
他に客はいないわけだから迷惑にはならないと思うが、店員さんは眉をひそめている。
「文句はないけど、一回行ってみたいのよ。それに、外国人に紹介するには良い施設だと、外国人の私が思うのよね……ほら、日本人の貴女にその判断が出来る? 出来ないわよね? それとも問答無用の綾音ルール?」
「自分ルールを展開しているのは浅海で、私は生徒会ルールを言っているだけです……まったく、話のわからない人ですね」
いい加減に呆れた様子の綾音、確かに二人の話は永遠に終着点が見えない夜間飛行のようなものだ。
それを見ていて俺も呆れていた。プリメラ嬢はこの二人の会話が面白かったのか、微笑してさえいる。
「……クスクス、本当に面白い方々ですわ。みなさん、とても気に入りましてよ」
「おい、それくらいにしとけよ。ギャラリーが集まるような喧嘩をされても困るから」
流石に店員さんを困らせるのは本意ではなかったのか、二人は互いに退くことにした様子だ。
簡単に収まれば最初から問題になどしないのだが……
「分かったわよ、からかうのは止めたわ」
「バカの相手をするのもこれまでです……野蛮人を教化するのは実に難しいですわ」
「それ、立ち位置が違わない?」
「……今だけ我慢しますが、あとで殺しますから」
「短気ね。カルシウム足りてないの?」
「脳の足りていない貴女に比べればそれでもまだましです。哀れんで差し上げるわ、可哀想な玲菜」
「……ふふっ、写真なら取ってるのよね、競馬場の貴女を。確か、綾音ルールなら罰則もあるとか何とか」
「はぅ、なんて卑劣な真似を……と怯えるとお思い? 私も貴女方の写真はとってあります、一応報告義務がありますから」
「あー、ごめん。ばらさないでくれると助かるんだが、お二人さん」
「貴方の態度次第じゃないかなぁ? 『私のお陰で』儲けられたのに、感謝を示さないとどうなるかわかっているわね?」
「脅迫は刑事罰の対象です。それはそうと……約束を違えましたよね、貴方は。どうして? 私との約束など守るに値しませんか?」
「その……ごめん……勝った金はみんなで楽しむために使ってくれて良いから、今日のところはご勘弁を」
「当然よねぇ、それくらいは」
結局こうなるのなら、アドルフに逃げるように言って置けばよかった。
「じゃ、今日はキミアキの奢りでゲーセンにでも行きましょうか……格ゲーで決着をつけるわよ、綾音」
「いいえ、射撃で勝負です!」
なんとか平和的な決着の付け方を考えてくれたようだが……ゲーセンで100万も使うのは無理だと思う、というか数万円くらいは手元に残してくれるよな?
○○○○○
そのとき、俺は神を見た。
それはただの射撃ゲーム、登場するゾンビを全滅させるという単純なものだった。だが、そこに居たのはまさしく神域に踏み込んだ使い手。
二丁拳銃を構えたプリメラ嬢のあまりに鮮やかで、いつ撃ったのかもわからないほどに速く、正確。コンマ数ミリの誤差もない射撃はすでに人間の域にはない。
古の時代にあって『黒機士』と仇名された魔術殲姫、公爵を守る四人のうちの一人、その本領を発揮したプリメラ嬢は長距離・中距離戦闘のエキスパートだった。
事実、公爵が抱える十万余りの自動人形群にあって彼女の上を行く射撃手は存在しない。それはすでにプログラムの問題だけではない、生命としての彼女の才能だ。
あの武器造りが製作したという魔導銃を使い、古の戦場を駆けた至高の射撃手の芸術を目の当たりにしている俺たちは開いた口が塞がらなかった。
数撃ちゃ当たる、ではない……百発百中、いや魔弾じみたその弾丸は何千発撃っても決して外れないのだ。まるで敵が全滅するようにプログラムされていたのではないかと疑いたくなる、凄まじい勢いでゾンビが全滅していく……ポイントはすでに綾音や浅海、俺の遥かに上で彼女と俺たちを比べることさえ恥ずかしくなる差だ。
周りにいたギャラリーからも声さえ漏れない、目の前の奇蹟を一瞬たりとも見逃すまいと必死でそれを見つめていた。
最後の一匹が瞬時に7もの弾丸を受けて跡形もなく吹き飛ばされたとき、画面には永久に誰も超えることが出来ないと思われるスコアが記録されていた。事実、そのスコアは地上の誰も超えることが出来ないだろう……それ以上がないのだから。
静まり返った群集からは拍手さえ漏れた。その場に立っている可憐な少女の神業に全ての人間が賞賛を惜しまなかった。
プリメラ嬢はギャラリーの拍手に喜び跳ね回って俺に飛びついてきたが、その瞬間に周囲から俺に向けられた殺意は何だったのか?
だが、他の二人は無気力だった。
つい先ほど自慢の格ゲーで数十連コンボを叩き込まれ、開始数秒で敗北を喫していた浅海は席に座ったまま魂が抜けていて、シューティングで足元にも及ばなかった綾音も呆けた顔で立ち尽くしている。
俺も1万円分挑んでもプリメラ嬢にダメージを与えることさえ出来ず、レーシングゲームでは何周回差をつけられたことかもわからない……俺の身体に抱きついているコイツは、正直強すぎる。
とても人間が勝てる相手じゃない、仮にあれが本物の拳銃なら世界一の拳銃使いは彼女だと思って間違いないと思う。何しろ、『ゲームは所詮ゲーム、軌道計算や風の抵抗を考えなくてもよろしいから本当に簡単ですわ』というのだから、間違いあるまい。
その上、彼女に掛かればただの拳銃がマシンガン、いや下手をすればそれ以上の兵器に姿を変える……流石に最強の自動人形の一人といったところだろう。
「公明さま、次はあのUFOキャッチャーというものをやってみたいですわ」
その言葉に店員などは『勘弁してください』というメッセージを送ってきている。仮に彼女にプレイを許してしまえば、空になるのは目に見えているのだから当然だろう。
「ひ、みあき……もう、こんな面白くない場所は止めましょう。今迄で一番つまらないわ」
死にそうな顔の浅海は無気力な声でそう伝えた。何度敗北を喫したのかわからないほどボコボコに負けて、リトライする精神まで折れたのだからその窮状は目に余るものがある。
いつもの自信など欠片も感じられないのだから同情もしよう。
「そうです……バッティングセンター、身体を動かす場所で勝負です。レディ・プリメラ、構いませんね? 其処で勝負を……」
綾音も自信が砕け散ったためにやや投げ槍気味。せっかくのっているところで水を差されたプリメラ嬢は
「えー、綾音さまもレナさまもまだ全然遊んでいらっしゃらないではありませんの」
不満たらたらのプリメラ嬢は頬を膨らませて俺にしがみつき、なおもこの場で暴れようとしているらしい。
店員さんがぬいぐるみを束にして持ってきて、コレで今日のところは勘弁してくれないか、と頼んできた辺りは流石に俺も引き際だと思う。
「なぁ、そろそろ暗くなってきたし……バッティングセンターに行かないか? まだ見てないだろ、プリメラは?」
「え、ええ。ですが、あたくしもう少し遊びたいですわ。其処は遊戯施設ですの?」
「まぁ、遊ぶ場所……だと思う。人によっては遊びとは違うって言う人もいるけど、大部分の人は遊ぶところだと思ってるだろうな」
結局その場所でも奇蹟を演出してしまったのはわざとなのだろうか?
あんな体格のプリメラ嬢がまるで遠慮なく、150kmの変化球をホームランにしたときには……魔法でも見せられたのかと錯覚した。
プリメラ嬢曰く、あれでは遅すぎるらしい。当然だが俺には速すぎだった。
かろうじてバットに当てたときには自分に才能があるのではないかと錯覚さえしたのだから……彼女と俺では次元が違いすぎるな。
「そろそろ……やるわよ」
10歳程度の外見の少女に徹底的に敗北を喫したため、死んだ魚みたいな目になっていた浅海は意味ありげな言葉を漏らした。
すでにバッティングセンターから出発して、辺りを見れば綾音の家の近く……彼女の工房に侵入するという作戦か。
見れば綾音も完全に目が死んでいる……彼女も負けず嫌いの性格が災いしてプリメラ嬢には今日だけで100に届くかどうかという回数の敗北を味合わされていたから、とても俺を追いかける元気などないだろう。
今なら確かに何とかできるかもしれない。
「お前、本当に綾音を引き止めてくれるんだろうな?」
「ええ、プリメラはどうする?」
急に振られて何のことかも分からない彼女は首をかしげた。
「? 何のことですの?」
「綾音の人形、見たいわよね?」
「ええ、それは見たいですわ。ですが、綾音さまはお嫌だと……」
「見たいのなら協力しなさい、私が綾音の注意をひきつけておくから貴女がキミアキを抱えて走って工房に行くのよ」
「ですが、場所は?」
「早口で言うから記憶しなさい。場所は……よ。わかったわね?」
「はい。公明さまもよろしいのですか?」
「ああ、準備はいつでも大丈夫だ。それより……あの角を曲がれば綾音の家だけど……」
「じゃ、健闘を祈るわ」
その言葉を聴いたとき、止めておけば良かった……
だが、もう遅い。作戦開始の合図はすぐに聞こえたのだ。
「ねぇ、綾音。ちょっと話があるんだけど」
「? 藪から棒に一体何ですか?」
その瞬間、二人より少し先に角を曲がっていた俺は体中の魔力を集中させて駆けた。尋常な速さでは追いつかれる、綾音が角を曲がりきるまでに門に入るために全力疾走だった。
そんな俺を軽く抜いていくのはプリメラ嬢――まるで風のように、まるで地面を滑るように、まるで華麗な舞を見せられたかのような動きだった。
その気になれば目の前で放たれた弾丸さえ躱すというのだから、これでも俺に合わせているのだろうが……それでも速すぎる。
「公明さま、お早く。急がねば間に合いませんわ」
「そういうけどな、人間ってのは元々大して速く走れないように出来てんだぞ!」
後は止まることがない、敷地に侵入してからはすれ違う顔見知りのお手伝いさんや綾音のお袋さんに頭を下げて軽く挨拶をしながらただ駆けた。
そして、昔の蔵を改造したらしい彼女の工房に追いつかれることなく駆け込んでいた。
白い壁の蔵、その扉を開けると……そこは……
「待ちなさい! 其処を開けては駄目!」
後ろから聞こえた声、すぐに気がついた綾音が駆けて来ているのがわかる――今止まってしまえば死ぬんじゃないだろうか?
そんな恐怖ゆえに俺とプリメラは一気に蔵の中に駆け込んだ。
その場所は真っ暗で、何とか手探りに電灯のスイッチを探した。
弱い明かりが灯った瞬間――その空間を多い尽くした色に気がつく。その特性から蔵に入った瞬間から気がついていたプリメラ嬢が横で震えているのがわかる。
朱、赤、紅、アカ、あか……
残酷な黄昏世界――全ては■の色、床に転がるのはバラバラになった■■■■のようなモノ……
………………
…………
……
――俺の目の前に泣いている少女がいる。
プリメラ嬢は自分のデータバンクを修正して今の光景をなかったことにしているが、俺にはそんな芸当は出来ない。
俺が未熟な人形の山を見てしまったことがショックだったのか、駆けつけた綾音はいきなり駆け出してどこかに姿を消してしまった。
プリメラ嬢を浅海に任せた俺は逃げ出してしまった綾音を追いかけ、夕暮れの街を駆け回った……色々な場所を探し、途中からは浅海たちも探し始めたが見つからない。自分がどれだけ浅はかなことをしてしまったのか、後悔が心を苛む。
走って探し、探し……俺は漸く見つけた。
昔、同じ場所で泣いていた彼女を見つけたのと同じ場所で漸く彼女の姿を見つけた。小学校の頃……たしか、一年生の頃だっただろうか?
図工の時間に下手糞な自画像を書いた彼女がみんなに哂われて消えてしまったとき、泣きながらこの場所に隠れていた――小学校の裏にある大きな橋の下、そこは今でも小学生が秘密基地にしそうなポイントだった。
「……悪かった、ごめん」
見つけてすぐに言葉をかけたが、彼女は無言だった。
「悪乗りした俺が悪かった。こんなことになるとは思わなかったんだ……ごめん」
近づいても別に逃げようとしなかったので、彼女の脇に座る。
「……いいえ、貴方たちは誰も悪くないの。悪いのは未熟な私だけ……本当に、駄目ですね。それに引き換え、貴方はやっぱり来てくれた……」
顔を隠したままだが、声から泣いているのはわかる。
「いや……人間誰でも向き、不向きっていうのがあるから綾音に才能があるとかないとかいう問題じゃ……」
「……昔もそんなことを言って慰めてくれましたね、貴方は。覚えている?」
「綾音がヤバイくらいに人間を描くのが下手糞で、みんなに哂われたときだろ」
「……腹の立つ話ですけど、その通りよ。あれは貴方が慰めてくれた後、何時間もずっと練習したから少しは改善したのよ」
知っている、今の綾音の絵は浅海とは違って水彩画が多いが浅海よりもさらに上手い。
美術の時間には生きているような絵を描いていたのが記憶に新しい、美術部でもないのにすごく上手いと美術教師に褒められていた。
美大を進められたともいうが、あの上手さはただ趣味が高じていたものとばかり思っていた。
「え? あれって……俺が慰めたのが上手くなった原因だったのか?」
「……黙っていましたけど、そうです。自分も哂っていたくせに、自分も大して上手くなかったくせに……わざわざ探しに来て『向いてないんだから仕方ないだろ』って無邪気な顔で言いました、貴方は……」
「あは、いやそんな事言ったか? 女の子にいきなり適当な事言うガキだな、才能がある奴に無い、って言うなんて見る目がなかったのは俺だ」
「いいえ。きっと無かったのよ、絵の才能なんて……例え適当でも、何もかも上手く出来るわけが無いっていう貴方の言葉を聞いて肩の荷が下りたような気がしたわ」
「? なんで?」
「……魔術師には長く、本当に長く続く一族がいくつもあることは知っていて?」
それは浅海や綾音の家は確かに長く続いている、俺たち一般人の家系と比べてどれほど古くまで遡れるのかもわからないくらいに長く続いている。
「お前の家とか、浅海の家だろ? 確かに長いよな、何十代も遡るんだろ?」
「ええ……白川の家の始祖は平安時代まで遡った白河という陰陽師――今で言えば方術師の括りに入るけど、この時代はその括り自体もはっきりしていなかったの。西行という僧侶を知っている?」
「確か、大昔の坊さんで人形を作ったとか云う……」
「博学……いいえ、貴方は昔から人に言われたことだけは勉強熱心でしたね」
「いや、別にそんなことは」
「謙遜は止めなさい。浅海のようなのは考え物だけど、多少の傲慢さを身に着けなければ駄目よ……それで、彼の怪僧に人形作りを教えたある中納言の縁者に斎木という術者がいたの」
「斎木? お前と関係あるのか、その人」
「彼は白河という術者の師であり、同時に義父でした……その正体は堕ちた魔導師、吸血鬼よ。斎木(サイキ)という名前は当て字で、祭儀(サイギ)が本姓。神代でも最高位の神官、その末裔です。斎木卿は私の先祖にして、生きた人間を作り出す魔術師……私の家はただその奇蹟を再現するためだけに千年も研究を繰り返してきたの」
「……その、綾音の家には吸血鬼の血が入っているのか?」
「いいえ、吸血鬼は遺伝しません……ただ、彼の時代から受け継いできた魔術があるだけよ。でも、本当に滑稽、とても可笑しい話ですよね?」
「?」
かすかに漏れる笑い声……すごく自嘲的で悲しい響きだった。
「明治時代には限りなくその再現に近づけたのに、父もそれに近い術者なのに……私は壊す魔術ばかりしか才能が無いの……だから、貴方の言葉が慰めになったのよ」
古い魔術師にはたいてい家伝の魔術がある――偉大な術者が協会や弟子には発表せず子孫だけに伝える魔術や浅海の魔術のように特殊な血統が必要とされる魔術などだ。
そういった魔術を受け継ぐ家系にも時々才能に恵まれず、それを受け継げない魔術師が生まれる。
数百年、あるいは数千年もの長い時間、祖先がその存在の全てをかけてきた事業を自分が破壊してしまうと知った無能な魔術師は普通精神的に破綻する。
その重すぎるプレッシャーを知ったときから精神の安定を欠くようになり、最後には発狂してしまう。続けてきたものが終わってしまったとき、どんな言い訳も許されずに全てから責められる恐怖に耐えられないのだ。
崩壊した中には浅海よりさらに傲慢な魔術師もいた、繊細な魔術師も、温厚な魔術師も……だが、その精神的重圧は一般人の想像の外にある。
聞いた俺さえ理解できないほどに重い重圧を感じる人生とはどういうものか?
「……ああ、やっぱり私は向いていないんだ……父や家族にあの言葉を言われていれば多分自決していたでしょうね。でも、何の関係もない人に言われたときは意外に素直に聞いてしまうものよ。『向いていないのなら成功しなくて当然、失敗して当たり前なのだから後悔なんて必要ないぞ。もっと傲慢になれば良いじゃないか』……ふふっ、今思い出すと本当に生意気な子供の言葉ですね。でも、あの時貴方は私の心を助けてくれましたよ……随分遅いけど、ありがとうございました」
そんなことを言った記憶さえすでに無かった俺は少々照れていた。
「いや、それより……今日はその、ごめん」
「いいえ、最初から悪いのは私の努力不足です。努力はいつか才能を凌駕する、魔術師の世界にも多少そんな例はありますから、いつか必ず私はそれを成します……ですから、今の私には慰めなど不要よ。第一、あれでも十年のうちにどれだけ成長したか……」
「それでも駄目だ。やっぱり俺も悪かったんだから……それに無茶な事したから泣いてるんだろ? なら……」
「いいえ、あれを見たのが浅海やレディ・プリメラ、シュリンゲル卿の類なら怒ることはあっても泣くことなんて無かったでしょう……貴方の言葉を聞いた後、努力だけで完成させた成果を、魔術を学ぶ機会を得た貴方に見せることが出来ると知って……どれだけうれしかったと思いまして?」
「え? いや……それじゃあ、まるで俺がサプライズ・パーティーのネタを知って……」
その瞬間、顔を上げた綾音。
涙が伝っていたのがわかる。
涙をぬぐった後、笑顔を作ってこちらに笑いかける彼女。
「フフッ、いつものことだけど貴方は優しいのね。でも同時に、殺したいくらいに、本当にまったく救いようが無いほどに、周りの空気が読めない人。ただ、だからこそ私はあなた……」
そのとき、何処からか声が聞こえてきた。
浅海たちが俺たちを探している声らしい――失敗を見つかった子供のような表情を作った綾音は苦笑しながら立ち上がった。
「宜しいこと? 私は泣いていなかったし、貴方には今見つかったところです。そして、貴方は今きつく説教されているのよ」
「は?」
「そういう設定、こういうときくらいは気を利かせなさい。それに、これは未来の私の楽しみを奪った罰です」
ああ、なるほど……というか、よくわからないがどうやらその方が都合が良いらしい。
よくわからないままに説教が始まり、到着した浅海たちもこっぴどくどつきまわされた。
俺たちがここでどんな話をしていたのか、そもそもどうして綾音が姿を消したのかも問えないほどに激しい叱責の嵐。
演技なんだよな……多分。
マシンガンのような言葉の連打の後、お詫びの印として焼肉屋『元祖梵々』で食い放題を振舞わされて、人形のはずのプリメラ嬢までその場の大騒ぎに盛り上がっていた。浅海がしばらく伝説になるような大食い大記録を打ちたて、散々に騒いだところで店を追い出されたりして……実に享楽的な仲直り会だった。
そして、すっかり遅くなった後プリメラ嬢を教会まで送り届けて、彼女を待っていた男爵たちに俺たちそろって平謝り。
気にすることは無い、らしいことを言っていた男爵だったが後ろの連中は……かなり睨んでいたのが記憶にある。少なくともその場では怒られず、プリメラ嬢と楽しい一日のお別れをした。
人形の記憶?
あれは忘れることにしたいと思う。