『それでは、みなさま楽しい一日をありがとうございました』
プリメラ嬢はそんなことを言い残して、兄貴である男爵と共にイギリスに帰った。
うーん、あの日は今思い出すだけで忙しい一日だったな……
そう、あれは見ていたDVDが終わってから始まったのだろうか?
何でもその映画の配給会社と製作会社、日本でのDVD販売元、全国チェーンのレンタル店、それらは全て彼女の主である『公爵様』の資本で経営されているらしい。
彼女は俺たちにそんな羨ましい話を聞かせてくれたのだった。
「嘘だ、いくらなんでもそこまでの金持ちなんて居るわけが……」
思わず将来職に就く意欲さえ失いそうになっていた俺はロリコンの変態吸血鬼が世界を支配しているという最低の現実から逃避しようとしていた。
そうだ、考えろ……全てということは無いはずだ。
特に販売元やレンタル店などは、絶対に日本人が経営していたはず。
だが、それも人形だと?
「私も、それだけは認めたくありませんがキャッスルゲート卿は間違いなくこの星一番の大富豪でしょう。そもそも、あの大公爵と関りの無い企業は存在しません。いいえ、企業はおろか国家元首の何人かも彼の公爵の文字通り『人形』です。先進国のいくつかもその人形に操られているとか」
綾音は気にさえしていない様子で、淡々と最低の事実を告げていく。
彼女にとって世界一の大富豪の人間性など関係ないというのだろうか?
俺は流石にそこまでの悟りの境地に辿り着くことは出来ない。
「嘘だ、嘘だって言ってくれ。だったら、だったらどうして……いや、もう俺働く気力も無くなりそうだ」
将来、就職するのもアホらしくなる。
当たり前だ、次元違いの金持ちが吸血鬼で、錬金術師で、アリス・コンプレックスだなどという事実は受け入れがたい。
「そうなりましたら、野垂れ死にますよ。数世紀も昔から世界の金融を牛耳ってきた最古の吸血鬼の一人です。世界経済を考えて、魔術師たちもアレを滅ぼすことが出来ないと判断するや否やその対象から除外するほどなのですから、個人で嫌がっても無駄でしょうね。気にしないことです」
きっと、公爵退治を諦めてしまった魔術師の一人が綾音の家族なのだろう……まぁ、確かに世界トップ100くらいの金持ち全員が一夜にして消えてしまえば世界は大混乱になるだろうからな。
綾音の言葉に同意するのはその公爵の人形であるプリメラ嬢――自分を人形といいながら、オレンジジュースを飲んでいるのはどうなんだろう?
壊れないのは流石に希代の錬金術師が作り上げ、月の魔力が生命を宿した神秘の自動人形ゆえなのだろうか?
どちらにしろ、俺にはプリメラ嬢が人間にしか見えないし、人形として扱うことなど出来ないだろう。
「そういうことですわ。ですが、ご安心を。公爵様は本当にすばらしいお方で、宇宙へ移民するためにお金を集めていらっしゃいますのよ。ふふっ、優しくて、夢を追い続けておられる立派なお方で、あたくしは大好きですわ」
プリメラ嬢が誇らしげに讃える『立派な公爵様』、その言葉には一理あるかもしれない。
キャッスルゲート財閥の当主イリヤ四世の名声は世界中に語り継がれている――先進国の国家予算にも匹敵する常識はずれの額を貧困の撲滅に寄付し、戦争中の国家間に平和条約を締結させ、幾多の科学的発見によりノーベル賞を含めた栄誉を総なめにし、所有する世界最大の製薬会社が持つ特許の全てを病の蔓延に喘ぐ国を救うために開放さえした、まさしく『聖人』と呼ぶにふさわしい人物。
彼の顔を知る人間などほとんど存在しないというのに、第三世界では誰よりも高い支持率を誇り、彼のためになら死んでも良いという人間が数え切れないほど存在する……そんな金持ちは地上に彼だけだろう。
だが、まさかその性格にここまで難があるなど誰も知らないだろう……俺も知ってショックである。
しかも、その理由が悲しい……
「――そりゃ、お前……小さな女の子に優しいってだけで絶対に下心が……絶対にだまされてる。いや、不都合なことは記憶できないように仕組まれてるぞ」
「でしょうね。数千年の間改善しなかった性癖(病気)がよくなるとは思えませんから」
自分の主人を悪く言われたのが気に入らないのか、頬を膨らませたプリメラ嬢はやや顔を紅潮させながら俺たちに噛み付いた。
「公爵様を悪く言わないでくださいまし。あたくしの父のようなお方ですのよ、あの方をこの世界の誰より深く愛しておりますの!」
涙さえ溜めている彼女には悪いが、本当の父親なら絶対娘に下心は抱かなんじゃないか。
大体モデルが居るだろ……確実にあの吸血鬼に惚れた上で作ってる。
というか、落とせなかった女の人形を作って適度に洗脳してるってのはすでに変態であることは確定、ただの性質の悪いストーカーと変わらないじゃないか。
違いがあるとすれば、付きまとわれている相手が尋常ではないことだろう……最も美しい至高の存在、神の血を引く少女を追いかけるなど俺には出来ない。
「それよか映画も終わったし、どこか行かないか?」
映画を見ながら適度に食い物をつまんだことだし、天気も良いわけだから観光の続きということにしようと思ったわけだ。
だが、その言葉を聞いた綾音は呆れ顔。
「貴方という人は……こんな子供を連れてどこへ行くと? 外国人の女の子、これを『妹』とでも言い訳するつもり?」
外国人の少女の連れが親でもない日本人の少年少女ならどう考えても問題だろう、誘拐とか何とか考える人も居るかもしれない。
いくらこの街に外国の人が多いといっても俺とプリメラ嬢が家族という言い訳は苦しいだろう。
「いや。海外の親戚ってことにすればいいだろ」
実際に血がつながっていなくても、親戚ということにすれば許容範囲じゃないかと思う。
例えば、(俺には居ないけど)叔父さんの嫁さんの妹の娘とか、そういった紹介なら問題ないだろう。
「そんな言い訳が通ると本気で考えているのね?」
しかし、綾音はそれでも納得していない様子。
当然か、苦しい言い訳であることに変わりは無いからな。
「細かいことは気にするな。口裏さえあっていれば問題ない」
「まぁ、そうかもしれませんけど…….学校の知り合いにあっても知りませんよ」
俺に外国人の親戚が居ないことくらい知り合いならたいていの奴が知っているだろう、確かにそういう連中に今考えている言い訳は効果がないかもしれないな。
だが、そのときの俺は冴えていた――綾音の言葉で問題に気がついた瞬間には解決方法が頭に浮かんでいたのだから。
本当に、こういう状態がいつも続いてくれれば良いのに。
「そうか……じゃあ、予防線を張ろう」
予防線つまり対策をいきなり俺が考え出したことに驚いたのか、一瞬眼が点になっていた二人。
「?」
俺が考えた対策がどんなものか想像も出来ないのか、不思議そうな二人をよそに俺は携帯電話を取り出して番号を押していく。
「ふふん、ちょっと電話するぞ」
○○○○○
「……」
墓石の前に佇む、茶色いセミロング髪の少女――手には花束を持ち、外国人墓地の中にいてもその景色に溶け込んでしまう容姿だ。
不可能とは知りつつ、仮に彼女が黙っていれば多くの人が好意を抱くであろうと思わずには居られない。
仮に手が出なければもう少しお近づきになれそうな、その彼女が俺を見つめて呆れ顔。
「――で、その女の子を私の親戚だってことにしたいわけ?」
俺が考えた言い訳、そもそも浅海の親戚ということにすれば完璧な予防線ではないだろうか。
片親が外国人なら外国人の親戚が居ても全然おかしくないし、たまたま訪ねてきていても言い訳はいくらでも出来る。
「ああ、悪いか? アデットは教会だし、外人の知り合いで暇そうなのはお前だけだから」
暇だと言われたことが癪だったのか、少し面倒そうな顔をしていた浅海だったが花束を置くと、罰当たりにもその墓の上に腰掛けて俺の話に乗ってもよさそうなそぶりを見せた。
「まぁ悪い考えじゃないけど。それにしてもこんなところまでよく来たわね、アドルフに聞いたの?」
アドルフか……最近、不本意ながらあの使い魔とはメル友だ。
アイツはコウモリの癖に、いや人間としての品性に欠けている癖に、アレでなかなかの博識――浅海の婆さんの元使い魔で、百年と少し生きているだけのことはある。
まぁ実際、それほど生きて頭が空っぽなら同情しか抱かなかったかもしれないが。
「ああ。それより、誰の墓参りだ? お前の実家は確かヨーロッパじゃなかったか?」
「ついでに、両親も存命中。ここは曽祖父母の墓よ……尤も、骨も何も無いけどね」
墓石をペシペシと軽く叩き、この罰当たりな子孫は墓石の上に腰掛けているわけだから……俺なら祟るぞ。
いかに文化が違うとはいえ、流石にこれは何処の国でも喜ばれない格好だと思う。
だが彼女はここに骨が無い、つまり誰も埋まっていないといったわけだ。
その答えに俺も一瞬何を言っているのかわからなかった、遺体を埋めないのなら墓の意味がないんじゃないか?
「おいおい、それなら墓なんて作るなよ。それに、墓を作らないなんて信じられるか?」
「わかってないわね。私たちみたいに古い魔術師の遺体っていうのは他の魔術師にとって研究材料だったりするから、用心してこんな場所には埋めないのよ。それで、ここには盗まれても害にならない肖像画と思い出の写真が葬られているそうよ。父が向こうに渡ったとき、本物の墓はアイルランドに移したの」
「ふーん。てか、お前の親父さんってハーフだったのか?」
フェルゼン神父が管理する教会に隣接するものとは別の外国人墓地、区画整備や地形の問題で教会からは少々離れたところにあるがここもあの神父が管理している墓所で明治時代にやってきた外国人の多くがここに葬られている。
最初はここに教会があったそうだが、戦時中に火事になって焼けてしまったために、再建資金の問題から当時土地の安かった現在の位置に移したらしい。
そのため、ここには古い時代の人々が眠っていて、現在の教会の脇の墓地には割りと最近の人々が眠っているのだとか、そんな話を教会であの神父さんから聞いた記憶がある。
そんな場所に曽祖父母が眠っている、もとい墓を立てたということは父親がハーフという可能性も考えられた。
「いいえ、クウォーターよ。ほら、曾祖母の墓石に名前が書いてあるでしょう?」
浅海がそういって指差したのは、彼女の足元。
そこには掠れた文字で、それでもしっかりと『Augusta Marianne Schmidt=Asami』という異国の人のものらしい名前が刻まれていた。
『アサミ』の部分かかろうじて読めたが……オーガスタ・マリアンネ……もうわからん。
オーガスタって言えば、ゴルフしか思い浮かばないのだが。
「何て読むかもわからん……えーと、何処の国の人?」
「アウグスタ、オーストリアよ。何でも曾祖母の祖母はドイツの名家の出だったらしいけど後年身体を病んだらしくてね、当時優れた術者がいるって聞いてやってきたこの街で人形に魂を移し変えようとしたらしいけど、結局無理だったそうよ。その代わり、曾祖母は曽祖父に出会ったの。曾祖母の一族がやってきたのが明治時代らしいから……百年位前かな? ま、この街ならそれほど珍しいことでもないでしょう」
確かに、目当てが高名な魔術師などという外国人は浅海のご先祖を除いていなかったと思うが、それでも何かしら商売だとか亡命だとかでここに来た外国人は結構いるからな。
なんでも、この街の気候が向こうの街によく似ているから故郷を忘れがたい人々にとってはここが馴染んだらしい、そう神父から聞いた。
「へぇ。じゃあ、その人死んだんだろ? アデットじゃあるまいし、百年前に婆さんだった人が今生きてるわけは無いからな。その人の墓は?」
「それが曾祖母の祖父が遺体を始末してしまったとか何とか……きっとショックだったんでしょうね。ドイツの戦場で大怪我したところをその人に助けてもらって、身体を悪くしてからはずっと彼女の看護に努めていたそうだから」
一瞬、どこかに思いを馳せるように遠くに目をやった浅海は漸く墓石の上から腰をどけると、優雅に降り立った。
「ま、遠い時代の昔話よ。それより、楽しそうだから私も加えてもらうわ。ついでに、綾音の人形でも覗きに行きましょう」
墓の外で待っている綾音たちに聞こえないように、俺に小声でそういった彼女の顔にはなにやらよくないものを感じざるを得なかった。
まるで時代劇の悪役そのままだ。
「見に行くって……綾音の工房にどうやって忍び込むんだよ」
彼女は俺の方に手をやって、耳元でそっと悪魔の囁き。
シャンプーの匂いまでわかる距離で、実に楽しそうに無謀な作戦を語り始める浅海。
「堂々と正面突破すれば良いじゃない、貴方には罠なんてほとんど意味ないでしょうからね。そもそも、綾音だって要塞に立てこもってるわけでもないんだから。ほら、あそこでこっちの悪巧みを睨んでる……うまくやらないと失敗するわ。考えるのよ、良い方法を」
見れば綾音の視線は俺を殺そうとしているのではないか疑いたくなるほど鋭い。
それを見てしまうと、流石の俺も足が竦む。
「寝ぼけた事を……失敗したときに俺が殺される」
「私が綾音をひきつけるか、そのプリメラにひきつけてもらえば見られるわよ……あの魔界が」
「魔界?」
「ええ、魔界。私もアレを見てトラウマになりそうだったんだから……貴方もきっと記憶を全部捨てたくなるわよ。魔術師の狂気、ここに至れりって感じね。アデット曰く『ここに望む世界の半分が広がっています』だそうよ」
「おいおい、望む世界っていうのは……あの人の趣味についてだと思って良いのか? なおさらだけど、よく見せてもらえたな」
あの人の趣味の世界を具現化するな、頼むからそんな危険なことだけは止めてくれ。
すでに具現化している狂気を滅ぼす方法があるのなら、綾音の黒歴史にならないうちに葬っておいてやった方が知り合いとして最善の処置なのだろう。
それなら、俺はやはりこの目で見る必要がある……のだろうか?
「最初はまぁ、このお墓のご先祖様関係の縁で近づけたんだけど。でも、アレを見てからはちょっときついわね」
浅海にさえ嫌がられる幻想とは、一体どんなものなのだろう?
気になる、気になって仕方が無い。
「……いいんだな? 首尾をお前に任せても」
「構わないわよ。この不可能作戦を実行する勇気があるのなら」
自分で不可能などといってくれた日には、どう反応すれば良いのか?
いや、こいつは自分でいって意味がわかっているのか?
「舐めるなよ。アレだけ隠されてみたくないという人間がいるか?」
「ふふっ、貴方もワルね。見直したわ」
「おいおい、そういう人聞きの悪いことを言うな。お前の方がもっとワルだろ?」
「違いないわね、ふふっ。今日みたいな貴方、私は結構好きよ」
「俺も、今日みたいに話のわかるお前は好きだよ」
「――ふふっ、まるで両思いの恋人みたいじゃない? いいわ……きっと作戦が成功する僥倖ってヤツよ。じゃあ、私が綾音に喋りかけて注意を逸らすから、プリメラと一緒に駆けなさい。いい? 殺意の波動に目覚めた状態の綾音はそれでも五十メートルを3,4秒で駆けるけど、絶対に追いつかれないようにしなさいよ」
一瞬、背後から綾音の刀で切られる夢を見た。
夢が現実になるのならそれは正夢だろう……やっぱり人の嫌がることはしない方が無難かもしれない。
「素で俺より速いんだけど……あー、ごめん。やっぱ止めて良いか?」
「無理ね。楽しそうだから、結末を見たいの。失望させないでね……悪いことする貴方って結構面白いから。工房の場所を教えておくわ……あと、いきなりあの家に近づけば感づかれるから適当に場所を回りながら誘導するのよ」
すでに乗り気の浅海に無理やり了承させられた俺は渋々彼女に同意する。
「ああ、わかった」
「楽しそうに、みんなで仲良しごっこして注意を逸らす作戦よ……敵には気付かれては駄目。もし、このことを密告したら殺すからね♡」
考えてみれば正気じゃないよな、お前も俺も……自分から死にに行こうっていうのだから、本当に正気じゃない。
だが、これは一種の吊り橋効果ってヤツなんだろうか……彼女に奇妙な連帯感を感じた。
恋? いや、むしろ故意。
「じゃあ、行きましょうか」
そう言って綾音たちの方に歩いていく浅海、俺もすぐに彼女を追いかけた。
『霧の中で死なないように気をつけなさい、シノザキくん。特に錬金術師には気をつけて』
「え?」
早歩きの浅海の後を追いかけて、その女性の前通り過ぎるとき、そう聞こえた。
一瞬、立ち止まった俺は俺たちに背を向けて歩いていく髪の長い外国人女性の姿を捉えた。
すでに浅海は行ってしまったか、墓場には俺とその人だけだ。
「あの、俺に何か言いましたか?」
日本語で話しかけてきた相手だ、日本語で話しかけても問題ないだろう。
俺の問いに女性は立ち止まり、ゆっくり振り向く。
プラチナブロンド、いやすでに銀髪といって良い輝きの艶やかな髪の、20代半ばの美人……欧州人のようだったが、この街の人間ならあるいはハーフなのかもしれない。
振り返った女性の赤い瞳が一瞬見えた、だが目をこすってみれば碧であったことに気がつく。
気のせいかもしれないが、親しい人の墓に参った様子の彼女の瞳にはわずかに涙さえ見えた。
「私はマリア。シノザキくん、あなたと会うのはこれで何度目かしらね」
見知らぬ女性は実に上品な口調でそう告げた。
だが、俺の記憶にある限り彼女にあったことなど無いはずだ。
「いや、俺たちは初対面じゃないのか?」
「いいえ。10年位前にも、4年前にも、私はあなたに会っているはずよ。あなたが死にそうになったときは、いつも助けてあげたでしょう」
そういわれて、記憶を探るがそんなはずは無い。
彼女とそんな昔に会ったことはないし、助けられたことも記憶には無い。
「誰かと勘違いしてないか?」
「勘違いはしていないのよ。あなたが気付いていないだけ。この世界のあなたは本当に無茶な人、人生で何度か死んでいるのよ。でも、そうならない可能世界に私が導いてあげているの」
「可能世界? アンタ、ひょっとして魔術師?」
「数学的にはね、人生っていうのは二択で成り立っているのよ。朝コーヒーを飲むか、紅茶を飲むか? 靴下を左足から履くか、右足からはくか? そんな些細な選択が無限の世界を作り出しているの。私はそういった世界の旅人、そういうことをする人なの」
小さくため息をついて、彼女は首を振った。
「シノザキくん、あなたは彼女達に相談した方が良いわね。そうでなければ、きっと『霧海』の中で死ぬわ。助かりたければ、偽りの月を撃ちなさい……あれがあの男の魂、夢の世界はそれで晴れるから」
静かな声でそういった彼女――胸には赤い宝石のネックレス、真っ黒いドレススーツを着ていて、その雰囲気から彼女の色は銀だと直感する。
「月を撃つって、一体何? それに死ぬって、俺が?」
相手は冗談など言っている顔ではない。
彼女は狂っているわけでもなく、正気で俺が死ぬといっているのだ。
「ええ。危ないと思ったときにこれを使いなさい、あなたを助けてくれるから。でも、今開けては駄目……適当に言い訳を考えて彼女達に合流して今日を楽しみなさい」
女性が投げて渡したのはただのナップザック、中には堅いものが入っているらしく鈍い音が聞こえた。
「ちょっ、一体誰なんだ? なんで俺が死ぬなんてことが? そもそもあそこは遊園地……」
「いいえ、あれは魔導師の呪い。担がれたのよ、あなた。いいえ、あなたの介入があの世界をより悪くする……でも、そうならないとあれは壊せないの。気をつけるのは食べ物、容易に殺せぬあなたのために毒が入っているわ。錬金術師は偽りよ、あれはあの男の作り出した幻想……水や食べ物を渡される、あるいは二人きりになったときには容赦なく殺しなさい。男爵から離れてはだめよ、彼はほとんどの攻撃からあなたを助けてくれるから」
「え? いや、ちょっと待ってくれ。男爵って誰のことをいってるんだ?」
「矢は男爵の『魂喰らい』を、弓は魔術か適当なものを使いなさい。届くはずが無くてもきっと届くから、ただ思い込みなさい。魔術使えぬ魔術師見習い、あなたのご武運を祈っているわ……それと、こんな天気の良い日には競馬場がお勧め。あなたが間に合う唯一のレース、7番に財布のお金を全部かければきっと豪遊できるわ。さもなければあのお嬢さんに八つ当たりで殴られることは請け合いよ」
「は? 競馬場って……俺はまだ未成年だし、おい待ってくれ! マリア、さん?」
「さようなら、シノザキくん。でも私はあなたを待っているわ、いつまでも永遠に。だから、絶対に死なないで……」
彼女の姿は俺が駆け寄る前に、空気に溶けてしまったかのようにその場で消失した。
まるで風のように、魔法使いの姿は消えていた。
俺はその場で呆然としていたが、俺を呼びにきた浅海の声に漸く気がついて彼女達に合流したのだった。